初老の男は黒猫とともに働く
(1)
決して悪くない人生だった――
半世紀に渡る過去の記憶を振り返って、そう思う。
わたしの名前は山田儀一郎。年齢は五六歳。日本人男性の平均寿命まであと二〇年少々あるようだが、わたしの中ではすでに人生の大半が終わってしまったかのような、木枯しじみた寂寥感が漂っていた。
子供はいない。長年付き添ってくれた妻には昨年先立たれた。突然の脳卒中である。悲しむ余裕すらなく、通夜と葬儀は滞りなく終わった。
家のローンは少し残っているが、無理して貯蓄を切り崩さなくても退職金を充てれば返済できるだろう。還暦まであと四年。その後は慎ましい年金生活が始まり、やがてそれも終わる。
人生を映画に例える人は多い。わたしの場合、すでに本編が終わってエンドロールが流れている場面ではなかろうか。客席の人々はぽつりぽつりと立ち上がり、会場の余韻は冷めていく。そして小声で、不満そうに感想を囁き合うのだ。
――退屈な映画だったね。
会社の同僚の中には、退職後を第二の人生と位置づけて、新しい商売を計画したり悠々自適な生活を夢見たりする人もいる。とても前向きな考え方だと思う。だが、独りになってしまったわたしには、何も想像することができない。まるで大切な部品が抜け落ちてしまったロボットのように、肝心要の“情熱”というものがどこからも沸いてこなかった。
だから今、この瞬間に五十六年間の生を終えたとしても、何ら悔いは残らないだろう。幽霊になって自分の遺体を見下ろしながら、「おつかれさん」と、気軽に声をかけることができると思う。
「……中高年の自殺が多いというのも、頷けるなぁ」
思わず口に出してしまい、それからわたしは苦笑した。
自殺などしてしまったら会社に迷惑がかかってしまう。立つ鳥跡を濁さずではないが、最後の幕を破るような無作法は慎みたいところ。人は簡単に死んでしまうが、簡単には死ねないものだ。
日付は十二月一日。午後八時半。
このところ急激に気温が下がって、早くもインフルエンザが流行し始めているというニュースが流れていた。仕事を終えたわたしはいつもの電車を乗り継いで、徒歩十五分の帰路についていた。
千葉県北部の住宅地――からも離れた、静かな田舎道である。
右手には会社の鞄、左手にはスーパーのビニール物袋。一人暮らしのサラリーマンの哀愁漂う格好だ。スーパーの店内には気の早いクリスマスソングが流れていた。
家に帰って夕食をとり、風呂に入って眠れば、また今日とよく似た日常が繰り返される。明日も明後日も、クリスマスだって同じ日々だ。
こういう時は思考を滑らせるのがいい。馬鹿正直に悩んで傷つくのは、子供のすること。大人は悩まない。棘のある思考を心の表面に沿って滑らせる。誰もが身につけている防衛技術だ。
肌寒さに身を震わせながら夜道を歩いていると、街灯の下に小さな影があった。後ろ足をちょこんとたたんでこちらを見上げている、それは小さな黒猫だった。
住宅街から離れたこんな場所に、珍しい。
猫も犬も、人から離れては生きていけない動物になってしまった。それは進化なのか、あるいは退化なのか。地球に一番影響を与えている動物が人間ならば、その人間に依存することは、自然に依存するよりも確かなことなのかもしれない。
なるべく興味のないふりをして、わたしは歩を進めることにした。猫を可愛がろうとして逃げられると、とても悲しいからだ。
「ナー」
黒猫は逃げなかった。赤っぽく見える奇妙な色をした相貌で、真っ直ぐわたしを捉えていた。
まれに、こういう猫がいる。警戒心もなく人間に近づき、媚びたように鳴きながら頭を擦りつけ、餌をねだることができる賢い猫が。おそらくわたしの手にあるビニール袋の中身に期待しているのだろう。期待には応えたほうがいい。
わたしは腰を屈めると、ビニール袋の中からお惣菜のパックを取り出した。一〇種類以上もの食材が入った筑前煮である。鶏肉も入っている。
栄養バランスのとれた餌を前にしても、黒猫はぴくりとも動かなかった。
おかしい。餌が目当てでない猫などいるのだろうか。いるとするならば、ちょっとした奇跡だ。
「お腹は空いてないのかい?」
小さな頭を撫でようとしたところで、わたしの手は止まった。
血のような赤――
一般的な猫の瞳というのは、何色だろうか。黒か茶色といったところか。だが、この猫の瞳は見事なまでの赤色なのである。もう少し鮮烈に“真紅”と表現してもよい。おはじきを斜めから見たような流線型。
人気のない暗闇に、赤い目をした黒猫。
不吉な前兆か、それとも悪魔の使いか――そんな陳腐な言葉が頭に浮かんだが、その連想に伴う恐怖はやってこなかった。怪我をしている様子はない。おそらく突然変異の目を持った猫なのだろう。
わたしは黒猫の頭に出した手を下げて、その喉元をくすぐろうとした。こうすると猫は喜ぶ。数少ないこの世の真理だ。
黒猫は赤い目をわずかに細めて、
「――ッ!」
がぶりとわたしの指に噛みついた。
猫は雑食。野良猫ならば常に空腹。だが、筑前煮に入っている鶏肉を差し置いてわざわざわたしの指に噛みつくとは、いったいどういう了見なのだろうか。
この猫は、何を考えている?
予想外の出来事に痛みすら忘れて、わたしはこの黒猫の奇妙な行動をまじまじと観察してしまった。猫の歯は鋭い。指先から血が滴り落ちる。
「ナー」
やがて黒猫は私の指を解放すると、その血をぺろぺろと舐め出した。血はなかなか止まらない。猫の舌はざらざらしている。
「……」
何と表現すればいいのだろうか。そう――シュールな光景、だろうか。
昔、何かの本で読んだことがある。血液は非常に栄養価の高い飲み物らしい。ミネラルや鉄分も豊富だし、そもそも母乳だって血液から精製されるのだ。
では何故、血を飲まれるという光景に対して、生理的な嫌悪感を感じてしまうのだろう。吸血コウモリや吸血ヒルといった負のイメージが頭の中に刷り込まれているからか。それとも、生きながらにして身体の部品を食べられるという事実が、生に対する原始的な危機感を呼び起こすからだろうか。
とりとめのない思考に身を委ねているうちに、猫は血を舐める行為を終えた。おちょこ一杯分くらいは飲まれただろうか。
黒猫はわたしの顔をじっと見上げて、ひと声。
『奇妙な人間です、あなた』
小さな口から可愛らしい言葉が漏れた。
いや、頭の中に直接響いた、ような気がした。
……奇妙なのは、君だ。
そう言い返そうと思ったが、できなかった。頭の中に霞がかかり、同時に強烈な睡魔が襲いかかってきたのだ。
思考が途切れる前に考えたことは、身体の心配だった。
犬に噛まれると狂犬病になる場合があるらしいが、猫にはそういった病気があるのだろうか。
あるとすれば、狂猫病?
……非常に言いにくい。
アスファルトの冷たい感触を最後に、わたしは意識を手放した。
(2)
目が覚めると、そこは絨毯の上だった。
老いた身体を急に動かすと、どこかを痛める可能性がある。慎重に両手をついて立ち上がったわたしは、周囲が明るいことと暖かいことに驚いた。
いつの間にか朝になっていた。しかも屋内である。ということは、誰かが助けてくれたということか。いや、もしそうであるならば、救急車を呼ばれて今ごろ病院のベッドの上だろう。床の上に放置されていたことが解せない。身につけている服は昨夜と同じもの。くたびれたスーツに安物のコートである。
周囲を見渡すと、そこは立派な洋間だった。畳みに換算すると十帖くらいあるだろうか。床全面に暗茶色の絨毯が敷かれていて、ところどころに木の破片が散らばっている。古風な木枠の窓ガラスに、刺繍の施された厚手のカーテン。年季の入った仕事机とソファー。部屋の三方は本棚と窓と暖炉で囲まれており、もう一方は出入り口の扉だった。天井を見上げると、丈夫な梁が部屋を横断していた。蛍光灯はない。
どこか奇妙だと思ったのは、部屋を構成している素材のせいだろう。現代の住宅では木目が見えるような部分は少ない。窓枠はアルミサッシだし、壁紙が張られているはず。それなのに、この部屋には木と繊維とガラス以外の素材が見受けられなかった。
田舎の古民家――いや、調度品の豪華さからして、旧華族の屋敷と表現したほうが近いかもしれない。
「はぁ。とりあえず、座らせてもらおうか」
身体は強張り、疲れているようだ。吸い込まれるようにソファーに腰をかけると、驚くほど弾力が強くてびっくりしてしまう。かなり上等なソファーのようだ。何となく布地を撫でていると、黒い毛玉の塊にぶつかった。
それは黒猫だった。どうやら眠っていたらしく、小さな頭を不機嫌そうに持ち上げると、八重歯のように可愛らしい犬歯をむき出しにした。
『睡眠の邪魔を、しないでください』
瞳の色は、真紅――あの時の猫だ。
「ああ、申し訳ない」
反射的に謝ってしまってから、やれやれと首を振って再び眠りにつこうとする猫を、慌てて呼び止める。
「ちょっと待って。まだ寝ないでおくれ」
「ナー」
返事は返されたものの、黒猫はぴくりとも動かない。仕方がないので優しく抱きかかえて、膝の上に乗せた。
『……何ですか、人間』
黒猫は半眼になった。
「ええと――」
どうして猫がしゃべっているのかという疑問はあったが、まずは状況を確認しなくては落ち着かない。わたしは子供に物事を教え込むかのように、丁寧に説明した。
君と僕は昨夜会っているはずだ。僕の血を飲んだはず。そして僕はいつの間にか眠ってしまい、気がついたらここにいた。いったいここはどこだろう。家主はどこにいるのだろうか。
『ここは、“七星屋”の事務室です。家主は死にました』
猫の回答は端的で、こちらの理解が追いつかなかった。
「君は猫なのにしゃべれるんだね。どうしてだい?」
仕方がなく後回しにしていた質問をする。
『“血の契約”――使い魔であるからには、当然のことです』
黒猫は再び丸くなって、会話は途切れた。
魂が抜かれたように呆然としながら、わたしはしばらくの間、膝の上の黒猫を見つめていた。言葉の意味を理解することはできなかったが、どうやら猫との対話が成立しているらしい。
「――あ、会社」
腕時計を見ると、その針は十二時を少し過ぎている。
今日は平日。心底ぞっとした。
会社勤めをして三十年以上、無断欠席どころか遅刻さえしたことはない。それに会社に連絡を入れないと、上司から家に連絡が入り、それでも連絡がつかなかった場合、直接確認という流れになる。そんな迷惑をかけるわけにはいかない。
「ちょっとごめんよ」
抗議の鳴き声を上げる黒猫をそっとソファーに移して、立ち上がる。携帯電話が入っているはずの鞄を探したが、どこにも見当たらない。固定電話を探すために部屋を出ると、そこは広々としたダイニングキッチンだった。
おかしい。調度品は豪華なのに、電化製品が見当たらない。電源コンセントすらないではないか。
さらに先の扉を開き、廊下を真っ直ぐ進むと、怪しげな空間に出た。
木製のカウンターがひとつ。部屋の周囲は戸棚で囲まれており、奇妙な物体が所狭しと並べられている。雑貨屋か骨董屋といった感じか。しかし、購入意欲をそそるような商品はひとつもなかった。陶器製の人形のようなもの、ただの石ころ、金属が溶けてそのまま固まったような物体、何の飾り気もない箱……。
やはり、電話はない。
出入り口の扉の鍵を開けて外に出ると、
「――!」
そこには、予想外の風景が広がっていた。
今は十二月のはずだが、まったく寒さを感じない。体感的に二、三ヶ月ほど時間を撒き戻したかのような気温である。
最近老眼が進行しつつあるのだが、まだ遠くの方はよく見える。
視界に映ったのは、石畳の道、石造りの家、そして馬車――時代錯誤もいいところだ。
道ゆく人々の格好もどこかおかしい。ゆったりとした布をまとったような服を着ている。そして彼らの顔つきは、日本人とはかけ離れていた。北欧系とでもいえばいいのだろうか。金髪や茶髪が多く、鼻が高い。背も高く足も長い。
店の軒先で立ち尽くすスーツ姿の私に、通りがかりの人々がぶしつけな視線を送ってくる。どうにも居心地が悪くなり、わたしは店の中に引っ込んだ。
「少なくとも、日本ではないな」
緯度も経度も、ひょっとすると時間軸すらも狂っているかもしれない。
……自分は夢でも見ているのではないか。
夢の中でそのことに気付く可能性は低い。これまで一度も試したことはなかったが、自分の頬をつねってみる。
――痛い。
とぼとぼと元いた部屋に戻ると、わたしは黒猫に向かって懇願した。
「気持ちよく寝ているところ悪いけれど。昨日から今日にかけて何があったのか、教えてくれないかい?」
(3)
テント型の露天商が何十と立ち並ぶ街の市場には、埃っぽい空気が立ち込めていた。
日本の商店街では感じることのできない本物の活気が、ここにはある。飛び交う挨拶、喧嘩腰の値段交渉、周囲を気にすることなく大声で笑いあう客や店員たち。昔旅行で訪れた東南アジアの雰囲気に近いかもしれない。圧倒的な生活感にやや気圧されながらも、わたしは黒猫が希望する鶏肉の店で買い物をしていた。
「すいません。その鶏肉の胸の部分、ひとつください」
「あいよ、七ブルいただくよ」
頭と耳と口を覆う、まるで時代劇の悪徳大名が身につけるような怪しげな金頭巾――“翻訳フード”のおかげで、会話に支障はないようだ。わたしはやや大きめの四角い銅貨を二枚渡して、小さな丸い銅貨を三枚受け取った。
「ナー」
「……うん? 足りない? あまりいっぱい買っても腐ってしまうよ。また買いにくればいいじゃないか」
足元にいる黒猫にそう答えてしまってから、はっと気づく。視線を戻すと、怪訝そうな店の女主人の顔があった。
この頭巾の翻訳機能は、話す相手をしっかり意識しないと効果を発揮しないらしい。先ほどわたしが発した言葉は、おそらく日本語として女主人に届いたはずだ。慌てて笑顔で取り繕って「近くにパン屋はありませんか」と聞く。
「何だいあんた、へんてこな格好してると思ったら、よその国のひとかい?」
「……ええ、まあ」
「そんなにかしこまる必要はないさ。この街には色々な人間が集まってくる。異国人なんか珍しくもないからね」
「そうですか」
「パン屋ならあそこの角を曲がったところにあるよ。残念ながら、焼きたての時間はとっくに過ぎてるけどね」
頭巾の中でもごもごと礼を言って、わたしは肉屋を後にした。
この年になっても、異国の街での買い物は緊張するようだ。しかし、食材がなくては食事を作ることはできない。パン屋、卵屋、ミルク屋、チーズ屋と、小さな専門店をいくつか回って、わたしは“七星屋”へと帰宅した。
金色の“翻訳フード”と銀色の“幻惑マント”を脱いで、ほっとひと息つく。
『次は、食事の準備です』
裏庭にある井戸から水を汲んで、キッチンにある桶に入れる。納屋から木炭を運んで、かまどに入れる。日常生活がこれほどまでに腰を酷使するものだったとは知らなかった。
いつの間にか姿をくらまして、再び戻ってきた黒猫――ナナが咥えていたのは、小さな赤い石のついた指輪だった。
『“発火の指輪”です。これで火をつけてください」
「ぼ、僕がかい?」
動揺したものの、とにかく言われたとおりに指輪を嵌めて、木炭に向ける。
『指輪に意識を集中させて、唱えるのです。ヒューリック』
「ヒューリック!」
その瞬間、指輪がブウゥンと振動して、赤い石の部分から光線が出た。
驚くと同時に奇妙な既思感を覚えた。プレゼンテーションの時に使われるレーザーポインタに似ている。気合を入れると光線の威力が強くなるようだ。木炭に映った赤い点から煙が立ち上り、やがてそれは炎となった。
「け、消すにはどうすれば?」
『バスラ。魔法を終わらせる共通用語です」
「バスラ!」
レーザーが消えて、指輪の振動が止まった。摩訶不思議な力で火を熾せた事に大いに感動していると、ナナがわたしの手をひっかいた。
「いたっ」
『早くご飯を作るのです』
ここ数日ろくな食事をしていないという彼女は、とても気が立っていた。
すでに太陽は傾き、夕方になろうとしている。腹が減っているのは私も同じだ。何しろ昨日の昼から何も食べていないのだから。
戸棚にある調理器具や調味料を調べながら、わたしは生まれて初めて猫の餌を作ることに挑戦しようとしていた。
◇
つい三時間ほど前も、黒猫は機嫌が悪かった。しかし、何度も頭を下げてお願いすると、昨夜から今日までの経緯を少しずつ説明してくれた。
この黒猫は人間並みに頭はよいのだが、こちらの知識レベルを推し量ってくれない。苦労して情報を整理したところ、以下のような事情であることが分かった。
この店――“七星屋”は、不思議な魔法が宿る道具、マジックアイテムを販売しているという。しかしその店主は三日前、突然胸をかきむしるようにして死んでしまった。
“使い魔”であった黒猫は主を失い、代わりの主人を探すことに決めた。そうしないとやがて普通の猫になり、寿命とともに死んでしまうからである。
“記憶の球”を割って生前の主人の知識を得た黒猫は、地下の倉庫に眠っていた“転送の杖”を入手した。これはいわゆる異次元への扉を開くアイテムであり、黒猫は全身の魔力を杖に注ぐことで、別の世界に旅立った。
そこで初めて出会った人間が、わたしこと山田儀一郎だったのである。
黒猫は主となる人間の血を飲むことで“使い魔”となる。この行為を“血の契約”という。つまり、血を飲まれたわたしは、この黒猫の主ということだ。事前の説明もなく、承諾した覚えもなかったわけだが、そんなことは関係ないらしい。主と“使い魔”は精神的な世界において繋がるため、言葉を交わさずとも意思の疎通が可能となる。
強力な眠気に襲われて、わたしが気を失ったのは、“血の契約”のために身体の中の魔力を一気に消費したからだという。微力ながらわたしにも魔力と呼ばれる力が備わっているようだ。
さて、“血の契約”を締結して新たな主を見つけた黒猫だったが、“転送の杖”へ注ぎ込んだ魔力が尽きると同時に、元いた世界へ強制的に引き戻されることになった。
そして、黒猫と接触していた――わたしの顔面に肉球を置いていたらしい――わたしも、一緒にこの世界へ飛ばされることになった。
……以上である。
ひと言で表現するならば、完全なるとばっちりであった。
「どうして、てんい……の杖? を使って、主人を探したんだい? この世界にだって人間はいっぱいいるだろうに」
『前の主人は、とても評判が悪かったのです』
三日前に亡くなった“七星屋”の主人は、ザンデという中年の男で、かなりあこぎな商売をしていたらしい。その悪評は客人だけに留まらず、住民たちにも知れ渡っていた。もしこの街の適当な住人を主にしても、“七星屋”を継いでくれない可能性が高い。
しかし、別の世界から強制的に連れてきた人間ならばどうだろうか。“七星屋”やザンデに恨みはないはずだし、他に生活するあてもないわけだから、ここで働くしかない。
……なるほど。わたしの立場を度外視すれば、利にかなっていると言えなくもない。
「もう一度“転移の杖”を使えば、元いた世界に帰れるのかい?」
『不可能です』
そう断言して、黒猫は床に散らばっていた木の破片を見つめた。“転移の杖”は壊れてしまったらしい。大変貴重な品で、次に入荷できるかどうかは分からないとのこと。
「わたしはここで、何をすればいいのかな?」
『商売をして金を稼ぎ、私のご飯を作ってください』
あまりの身勝手さに、わたしは嘆息した。
怒りが沸いてこなかったのは、日本での生活にまったく未練がなかったからだろう。このまま死んでも構わないと考えていた人間が誘拐されたとして、一体どのような問題があるというのか。
できないことを嘆いても仕方がない。黒猫を叱り付けて関係を悪化させたところで、現状が改善されることはないのだから。食べていく手段はあるみたいだし、立派な屋敷もある。生きていくだけならばなんとかなるだろう。
「しかしまあ、魔法、とはねぇ」
子供の頃なら大喜びしたかもしれないが、五十六歳のおじさんの頭はすでにパンク寸前である。これ以上悩むと、また白髪が増えてしまう。
確かな現実は――腹が減ったこと。
「君の名前は?」
『ありません』
前の主人には、“ネコ”とか“使い魔”とか呼ばれていたらしい。
黒猫の性別を確認してから、わたしは少し考えて、ナナと呼ぶことにした。今から二十五年以上も前、子供ができた時に妻と相談し、女の子だったら付けようとしていた名前である。残念ながら流産してしまったので使われることはなかったが、頭の片隅に残っていたようだ。
黒猫はやや戸惑ったような仕草を見せたものの、了承してくれた。
「僕の名前は、山田儀一郎というんだ。“人間”だと他の人と区別がつかないからね。名前で呼んでくれると嬉しい」
『ヤマダがそういうのであれば』
「うーん。どうせなら、儀一がいいかな」
『……ギーチ』
発音が少し変だが、問題ない。それに“さん”付けは日本の文化だから、押し付けるのは身勝手というものだろう。こちらも了承することにした。
その後、腹が減ったので食事にしようかと提案すると、黒猫のナナは急に機嫌をよくして真紅の瞳を輝かせた。
料理はわたしの数少ない趣味のひとつだった。過去形を使ったのは、最近はほとんど調理場に立つことがなかったからである。料理は食べるものではなく食べてもらうものだと気付いたのは、妻が亡くなってから。この一年、包丁を握る気にもなれなかった。
ひとり分の材料を買って作る料理は、時間とエネルギーの無駄だと思う。美味くもまずくもないスーパーのお惣菜で充分だろう。
『市場で鶏肉を買いましょう』
まずはナナの指示で仕事机の引き出しから財布を入手した。これまで使っていた長方形のものでもなく、がま口でもない。袋の口に紐をつけた巾着形だ。
中には見たこともないコインが二十枚ほど入っていた。金貨と銀貨と銅貨。形は丸いものと四角いものの二種類。日本のコインと比べると、汚れが目立つし絵柄も細かくない。
しかし、金貨と銀貨には風格というものがあった。ずいぶん昔に日本でも発行されたことがあったはずだが、その時の値段は、確か一万円とか十万円だったと思う。物価が同じくらいと仮定するならば、この財布の中身は三十万円近くあることになる。
『金貨はギール、銀貨はソルマ、銅貨はブルといいます』
四角い小金貨は半ギール、四角い小銀貨は半ソルマ、そして四角い大銅貨は五ブルとのこと。百枚ブルで一ソルマ、十ソルマで一ギールだそうだ。
「あとは、そうだなぁ。前の主人の服はあるかな?」
先ほど外で見た街の住人は、現代人とは似ても似つかぬ服を着ていた。灰色のスーツ姿では目立ってしまうだろう。
『クローゼットがあります』
ごちゃごちゃした寝室に案内されて、観音開きのクローゼットを開けた瞬間、この家の主がとてつもなく悪趣味であることがわかった。
どの衣類も派手できらきらしている。色も赤や黄色や紫色といった目に痛い配色ばかりだ。まだしもまともと思えるものは、足まで届く黒ずんだ銀色のコートだけだった。いや、袖がないので、身体を包み込むようにして羽織るものらしい。
『この引き出しを開けてください』
言われたとおりにクローゼットの中にある引き出しを開けると、金糸で刺繍された派手な被り物があった。
銀のマントに、金頭巾?
どこの正義の味方――いや、悪代官だろうか。
わたしとしてはかなり強固に抵抗したのだが、ナナからこれらの衣類の有用性を教えられて、しぶしぶながら身につけることになったのである。