チャイルド・プレイ
本宮愁様へのホワイトデーのお返し。
リクエスト:チェシャ猫の話。
・(アリスが出張っている)チェシャ猫の話。
・本編中のいつか。
・同名の映画は関係ありません。
Child play
不思議の国の昼下がり。空には雲ひとつなく、何もかもが黄金色に輝いている。
アリスはそのとき、チェシャ猫と一緒に川沿いの土手に座っていた。
不思議の国のあちこちでいろんなものを見聞きした二人は――というよりもアリスは少し疲れてしまっていた。そこでちょうどいい木陰を見つけたのを幸いに一休みを決め込んだのだ。
目の前をゆるやかに流れる川はいかにも涼しげで、舟遊びでもしたら気持ちが良さそうだった。
「退屈してない?」
しばらく草地に座ってぼんやりしていると、チェシャ猫が唐突に口を開いた。アリスは首を動かして木にもたれている青年に顔を向けた。相変わらず金色の瞳を細め、食えない笑みを浮かべている。
「別にしてないわ」
「俺は退屈してるよ」
そう言うとチェシャ猫はそこら中に咲いている雛菊の一本を摘みとり、その茎を指先でくるくると回し始めた。
「知ってる? 退屈は死よりもひどいんだってさ」
「じゃあこれ以上ひどいことになる前に昼寝でもしたら」
「あんたってつれない女の子だね」
チェシャ猫は肩をすくめて溜め息を吐く。そういう態度を取りたいのはこっちよ、とアリスは思った。
「どうしろって言うのよ」
「別に特別なことをしてほしいわけじゃないさ。ただ何かして遊ぼうよって話」
「何をして? 水切り遊びでもするの? それとも花を摘んで花輪を作る?」
「そういうのは、あまりはらはらしないよね」
もてあそぶのに飽きた花を、チェシャ猫は気怠げに川に投げ捨てた。鏡のような水面にかすかな波紋が広がり、黄色い雛菊は水の流れに従って下流に運ばれていった。
「そうだね、目隠し鬼をしようか。知ってるよね?」
「小さい頃に友達とやったわ」
その名の通り、目隠しをした鬼が捕まえた人の名前を当てる遊びだ。アリスは幼い頃――といってもほんの数年前のことを頭に思い浮かべた。ハンカチで目を隠した鬼。周りには同じ年頃の子供たち。手探りで追いかけてくる鬼から、アリスは手を叩き、笑いながら逃げたものだった。
「でも二人でやって面白いかしら」
「じゃあ、かくれんぼも一緒にしよう」
「何それ。目隠しをして探すってこと?」
「そうだよ。俺が鬼をするから、あんたが有利だ。やるよね?」
アリスは当惑しながらもうなずいた。
目隠しをする布には、チェシャ猫が持っていたまっさらな包帯を使った。怪我をしたときの残りらしい。
アリスが目隠しをしてやると、目に包帯を巻いた拘束衣の男が出来上がった。見た目は目病みの狂人といった感じで、いかにも逃げたくなる風体だった。
「百数えたらあんたを探しに行くからね。――それじゃあ、始め」
チェシャ猫はそれきり黙りこくった。その場でわずかにうつむき、大人しく、じっと立っている。目隠し鬼で鬼になった者がとる共通の態度で、視覚以外の感覚器官に頼って逃げる者の行く手を探っている。
アリスはそれを見届けてからそっと歩き出した。柔らかな草は音を立てずに歩くのに都合がいいし、途切れることのない川の流れも気配を消すのに役に立ってくれる。
何度か振り返ってチェシャ猫の様子を目に入れながら、土手を離れて木々の間に入った。
白昼の光が差し込む林の中を、なるべく足音を立てないように移動する。辺りを見回しているといい具合に人が一人隠れられる茂みを見つけた。絡み合う枝葉は外からの視界を遮り、隠れ場所にはぴったりだ。もぐり込んだときに小枝で頬を引っかいてしまったが、何とか体をおさめたアリスは可能な限り小さくなって膝を抱えた。
(そろそろ百数えた頃ね)
アリスは耳をそば立てて鬼の気配をうかがった。しかし聞こえてくるのは風に鳴る木々のざわめき、そして自分の息遣いと心臓の音だけ。向こうの動きは何もわからなかった。
アリスは膝小僧に顎を乗せて静かにひとつ息を吐いた。あとは見つかって負けるか、チェシャ猫が降参して勝つかだけだ。結局待つしかない身だった。
(でも、目隠しなんかして探せるのかしら。転ばないように歩くのもやっとなのに)
暖かな陽気の中、むせかえるような緑のにおいに包まれながらアリスは考えにふけった。いつの間にか吹いていた風は止んでいた。檻のような茂みには熱がこもる一方だった。
(見つけるのは相当難しいわよね。ううん、見つかっても、目隠し鬼でもあるんだから捕まる前に逃げちゃえばいいんだわ)
でも、そんなふうにしてずっと逃げていたら、鬼が降参しなかったら、遊びが永遠に続いたら――。
アリスはぎゅっと目をつぶって思考を断ち切った。暑さで頭がぼうっとした故の奇妙な考えだった。
おかしな空想を払いのけるようにして首を振ると、かすかな葉擦れの音が耳に入った。はっとして顔を上げたその時。
「みーつけた」
声が聞こえ、茂みの外から白い腕が伸びてきたかと思うとアリスの右手首を掴んだ。アリスは驚きのあまり悲鳴すら上げられなかった。その腕がチェシャ猫のものだとわかっていても、早鐘のように打つ心臓が体中に血を送り出すどくどくという音が耳に響いていた。
腕に引かれるようにしてアリスは茂みから這い出した。のろのろと立ち上がって見上げると、目隠しをしたチェシャ猫が口端を吊り上げている。眼は見えないが、きっと笑みの形をかたどっているだろう。
「つかまえた。名前、当てた方がいい?」
「――いえ、いいわ」
アリスは肩で息をつきながらようやくそれだけ言った。チェシャ猫はさらに笑みを深くすると、「じゃあ俺の勝ちだ」と言いながら自分の視界を戒めていた包帯をほどいた。金色の瞳が現れる。
「その包帯、本当は見えてたんじゃないの?」
動悸がおさまり冷静になってきたアリスは疑わしげにチェシャ猫の手の中の包帯を見た。しばらく凝視していたが、ぱっと取り上げてそれを眼の上に当ててみる。しかし適度な厚さがある木綿に隙間はなく、目を開けてみても視界は真っ白だった。
「見えないだろ?」
「そうみたい。――やっぱり音がしたから場所がわかったのね」
「音もだけど、一番の手がかりはにおいかな」
包帯を返しながら残念がるアリスに、チェシャ猫は小首を傾げた。
「俺は犬ほどはまともじゃないし感覚も優れてないけど、それでもあんたのにおいくらいはわかるよ」
「におい?」
「そう。服とか、肌とか、髪とか。――あと血のにおいとか」
そう言ってチェシャ猫はアリスの頬の引っかき傷を指でなぞった。薄い線のような、すぐに治ってしまう傷。それでも触れると血はにじみ、白い指先が薄赤く汚れた。
「怪我したんだね。かわいそうに――ただの遊びなのに――俺から逃げるために? かわいそうに。結局捕まっちゃったのにね」
うたうようなチェシャ猫の言葉に、アリスは何となく不安な気持ちになった。眉を寄せて指を払い、そのまま傷をぬぐう。
「そんなに気の毒がらなくてもいいわ。ただの遊びなんでしょう?」
「そうだね。子供の遊びだ」
にっこり微笑んだチェシャ猫は体をかがめると、体温が感じられるほど近くに顔を寄せ、囁いた。
「でもね、遊びで逃げられないようじゃ、この国からは出られないよ」
アリスはさらに顔をしかめ、チェシャ猫は喉の奥でくすくすと笑った。