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隣のオアシス

作者: 樹杏サチ

 喉が渇けば水が欲しくなる。腹が減れば飯を食いたくなる。なら、荒れた大地に住んでいる俺は、いったい何が欲しいというのだろう。水だろうか。それとも盗られても困らないほどの食糧だろうか。いや、犯罪のない平和な日常だと答える者もいるだろう。けど、俺はそんなものよりも、ずっと欲しいものがある。

 ――違う。

 欲しいのではない。『必要』なんだ。



 正確な日にちなど覚えていない。

 そもそも、現在において、日にちというものが存在するのかも疑わしい。日が昇れば朝が来て、日が沈めば夜が来る。その繰り返しの日々。今日が何日で、何曜日かなんて意味がないのだ。

 何が起こって今の状況になってしまったのだと、正確に伝えられる者などきっといないだろう。俺の周りではいない。地震があったと言う者がいたと思えば、窓の外が光ったと顔を青白くして言う者もいる。一方で、隕石が衝突したのだと、家が激しい衝撃に襲われ炎に包まれたことを細かく説明した後、そっと息を吐く者だっている。俺に関して言えば、まったく覚えていない。目を覚ましたら、辺りは草ひとつ生えていない荒野になっていたとしか言いようがないのだ。もともと地震の揺れや、人の声で眠りから目覚めたことはない。一度眠りに落ちてしまえばなかなか目覚めないことがよかったのが悪かったのか、起きて一番に見た景色に俺は言葉を失った。

 生き延びた俺らは、あの日のことを『災厄』と呼んでいる。

 あの日以降、俺らの中に国内だとか、外国だとかいう概念も消えた。なんせ海が消えたのだ。踏めば墨のような臭いが立ちのぼる土も、もうない。乾ききって、ひび割れた黄土色の大地が目の前に広がるばかり。左右どこを見渡しても、延々と続く荒地を想像できるだろうか。実際目にしたときでさえ、俺は自分の目と頭を疑った。眠っている間にどこかに頭を強くぶつけ、錯覚でも見ているのかと思ったが、現実なのだ。病んで幻を見ているだけなら、どれほどよかったか。

 周りの話によれば、荒地になるまで数日の間があったという。

 その間目を覚まさなかった自分にも驚くが、その間は絵地獄そのものだったらしい。倒壊した家々からは炎が立ち上り、火の粉が舞う。海は荒れ、逃げ惑う人々をいとも簡単に飲み込んだ。それは子供の頃に砂場で蟻地獄に砂をかけて遊んだ残酷さにも似ている。自然とは、時にむごい仕打ちを俺らに与える。

 けれど、俺らは生きている。ならば、生きなくてはいけない。どんな状況であっても、生きようと努力しなくてはならない。こんな状況になるまで、生きていくことに「努力する」なんて考えたこともなかった。起きて食事を摂り、好きな時間に眠り好きな時間に用を足す。当たり前のようで、今はとても難しい。

「よお、アキラ。使えそうなものはあったか?」

 目から口元までをしっかりと覆う防塵マスクをつけたまま、俺は振り返らずに手振りを付けて肩をすくめてみせた。

 倒壊した家やビル、それらの破片があちらこちらに散らばり、俺らはその中から使えそうなものを探して生活している。今にも風に吹かれてしまいそうなテントの背後には、集めてきたガラクタが山のように積んであった。俺に声をかけた男は、山になったガラクタから使えそうなものを探しているのだろう。がちゃがちゃと忙しなく落ち着きのない音をたてている。

「相変わらずなにもない。ただ三番地のやつらが、池を見つけたらしい。話していたのを聞いた」

 防塵マスクの奥から、くぐもった声で言う。

 すると、俺の言葉を聞いた男が「マジか!」と興奮したように声を上げて、ガラクタの山からこちらに走り寄ってくる。自分と同じような防塵マスクを装着しているせいで、表情は窺えないが、目をきらきらさせて喜んでいる様子が手に取るように想像できた。

 遠く離れた場所ではわからないが、この辺りでは、テントごとに番号をつけて呼んでいる。ひとつのテントには、大人が二十人ほど生活できる広さがあり、俺も目の前の男――ガイも、二番地と呼ばれるテントで生活していた。

「それ、マジか! ここから十番地に行くの大変だったもんなー。バイクのガソリンも残りわずかだろ? 三番地なら歩いてすぐだし楽になるな!」

 ガイは終始興奮したまま、俺の肩を何度も叩いて喜びを表した。ガイの高く通る声がテントの中にまで響いていたのか、二番地に住むおばちゃんや子供が何事かと顔を覗かせた。ガイはようやく俺から離れると、「池が三番地に見つかった!」と嬉しそうに話しかけている。話を聞くおばちゃんらも、時おり嬉しそうに「まぁ」だとか「よかったねえ」などの声が俺の耳にも聞こえてきた。だが、その声を聞いて、俺は内心舌打ちをしていた。

 偶然見つけたバイクは、いい仕事をしてくれた。確かに十番地までは、バイクで走らせても三十分近くかかるほど遠い。それに、ガイの言うとおり、ガソリンも残り僅かだ。水すら満足に得られないこの辺りで、ガソリンが手に入るなんてことは不可能である。ガソリンがなくなれば、きっと今まで仏を見るような目でバイクを見ていた連中も、しれっとした顔で解体し、瓦礫の山に積むのだろう。そうなれば、足は自分らの持つ二本の足のみになる。そうして、あのバイクのことを、それは大切に、子供のように扱ってきたことなど忘れて過ごし始めるのだろう。

 もし、災厄が訪れていなければ、バイクが使えなくなったとしても、さほど真剣に考えはしなかっただろう。壊れたら次を求めればいい。彼らが喜んでいるのは、ガソリンがなくなり、いずれは解体されてしまうだろうバイクの寿命を縮めなくてすんだことに喜んでいるのではない。水場が近くなり、自分らの苦労が減ることに喜びの声をあげているのだ。なぜかはわからないが、俺はそのことに無性に苛々した。物を大切にするほうでも、進んで人助けをするような殊勝な人間でもない。そんな俺が、何に腹を立てているのか、自分自身でもよくわからず、わからないことが余計に俺を苛々させていた。

「でも三番地か……。素直にわけてくれればいいけどな」

 ガイが防塵マスクの奥で呟き、俺も「そうだな」と曖昧な返事をすると、そのまま三番地の方角へと視線を送る。

 災厄の日以降、土地以上に人々が荒れた。咎める法もなければそれを執行する人間もいない。盗みや殺人を犯したところで、裁く者がいなければ、こうも簡単に人間は堕ちてしまうのだ。もちろん、まっとうな人間がこの辺りでも多いのはよく知っている。けれど、三番地という場所は、荒れた者が多く集う場所でもあった。自分が生き延びるために、平気で盗みも人殺しも行えるのだ。

 実際、先ほど三番地には訪れたばかりだが、あまり長居したいと思える場所ではなかった。二番地は、女子供や老人、俺やガイのような二十代、三十代の若い男性といった、幅広い年代の人間が集まっている。だが、三番地は浮ついた若い男性が中心として生活しているためか、二番地のテント周りよりも雑然としていて、言葉を悪くすれば汚い。食事をするのも、用を足すのも、それぞれが自由にやりたい放題といった感じだ。自分らの区画以外の人間を見つけると、へらへらとした笑いを浮かべ、他人を小ばかにするような態度も好きではなかった。

「あいつらが規則なんて守るわけない。徒歩で十番地に行くのも無理があるしな……夜中にでも忍び込むさ」

「おいおい、見つかったらヤバいぞ」

「そもそも『水や食料は誰のものでもなく、足りない場所に率先して差し出しましょう』だろ?」

「そりゃあ、そうだけどさ……あいつらはそんなことお構いなしだろ」

「だから勝手に貰ってくんだよ」

 誰が最初に言い出したのかは知らない。お金もない現在、水が多ければなくて苦労している者たちへと手を差し伸べ、かわりに食糧や物資と交換する。そんな決まりが、いつの間にか伝播されていたのだ。

「でもまあ、バイクがなくなれば十番地に行くのも厳しくなるしな……」

「そういうこと」

 ガイの心配そうな声が、防塵マスクの奥で震えるように響いた。俺はなんだか、やっぱり苛々した気持ちは治まらず、ガイの視線から逃げるようにテントの中に入っていった。



 底が抜けていないか確認して、俺はからの水筒を数本抱えた。とりあえず、二番地の者たちが一日過ごせれば文句はない。次の日のことは誰にもわからないのだ。その日を生き延びられたら、それで満足。欲を出してたくさん水を持っていたところで、突然の事故などで命を失くしてしまえば、水なんてなんの役にも立たなくなるのだから。それならば、たとえ素行が悪いといえども、三番地だろうが、はたまた違う番地の人間だろうと、生きている者の役に立てるのが一番なのだから。

 災厄が起こって以来、いつの頃からか、生きていくために努力をしている裏で、気持ちはいつ死んでも構わないと思っている。自ら命を絶たないのは、苦しんだり、痛みを伴う死に方しか思いつかないから。このことをガイに打ち明けたら、痛みなんて一瞬じゃないかと笑った。だが、一瞬だとしても想像するも難い苦痛を味わうのは御免だ。そう思う俺は、「本気」で死にたいとは思っていないのかもしれない。ただ現実から逃げたいという思いが働いているだけなのだろう。

 けど、今の状況がよくなることを想像すらできなければ、生き続けていきたいと思えるほうが不思議だ。親や家族も、生きているか確認することさえもできない。どこかで生きていればいいと思う反面、何度吐いたかわからないため息と一緒に、夢も希望も吐き捨ててしまったかのようだった。

 夏の盛りだというのに、夜は随分と冷え込む。

 砂埃や汚染物質から身を守るために、普段から肌は露出させない恰好をしているが、それでも夜の空気は冷たく感じた。

 空を見上げると、防塵マスクに遮られた狭い空が映る。皮肉なことに、災厄を体験したあとのほうが、景色を美しいと思えるから不思議だ。星ひとつ見たってそうだ。街の明かりの隅で、身を縮めていたあの星々と同じものとは思えないほど、今は輝いている。夜の主役は間違いなく星や月なのだろう。晴れて雲ひとつない夜空に浮かぶ月も、漆黒の天鵞絨に銀砂をぶちまけたような星空も、そうだそうだと頷かんばかりに輝いている。

 いくらか歩いて、三番地の者が見つけたという池の近くに差しかかった頃だ。

 風の音もなく、色即是空の世をふらふらと歩いていたような、おぼろげな感覚が、ふと消えた。

 微かにだが、何かが聞こえる。

 声だ。誰かがひそひそと秘密ごとを囁く声に似ている。だが、辺りを見渡しても、人の姿はなく、余計に不気味さが増した。

 仕方なしに足を進めると、ついに声は大きくなっていった。同時に、初め感じていた訝しい気配はすっかり消えた。

 女性の声だ。透き通る水を思い起こさせる声だ。それでいて力強さもある。なんて曲だろうか。初めて聞く曲で、外国の言葉で歌っていた。

 知らずうちに、足を進める速度が速くなる。ようやくして池に到着したとき、以前家族と一緒に行った天然温泉の湯船くらいの広さはある池が姿を現した。遠目からでも知れるほど、月の光を反射しながらも底が見えるほど透き通っていた。池の周りには草が生えている。草も水もぴったりと静止し、暗い空と月を切り取って水面に浮かべているようだった。ちょうど藻が生えているところに、女性は足を垂らして腰をかけていた。歌っていることを除けば、生きているのかどうかも疑わしいほど動かない。

 華奢なうなじに、細い手足。防塵マスクもしないで、長そでの白いワンピースをふんわりと着こなしている。女性らしく柔らかなその衣服とは反対に、短く切りそろえられた髪型が、彼女の力強さと媚のない心持ちを表しているようだった。

 目をつむったまま歌っているせいか、彼女は俺に気づかない。

 どうしたものだろうか。

 一抹の不安すら感じていないような彼女の表情を見ていると、声をかけるのも憚られる。とても気持ちよさそうな歌声だ。いい夢を見ながら眠っているときは、目覚めがどれほど邪魔なものか知っている。彼女は歌っているのだから、起きている。けれど、妨げられることを好しとしないのではと思った俺は、彼女から一番遠いところでゆっくり腰を折る。本音を言えば、自分がまだこの歌声を聴いていたい。それだけだった。

 音を出さないよう慎重に水面に水筒を近づける。だが、空気と一緒に入ってきた水は、ごぽごぽと場違いな音で空気を震わせた。

 ひやりとして顔を上げると同時に、歌が止まる。

 彼女を見ると、閉じていた目を開け、じっとこちらを見つめていた。

 吸い取られそうな眼だ。

 一番に受けた印象がそれだった。瞬きの少ない大きな目は、いつも他人を疑って濁ってしまった俺の目とは違いとても純粋で、なぜかそんな自分の負の思いすらも吸い取ってくれるような気がした。疑いも憂いも恐れすらもない彼女の瞳は、ただ不思議がっていた。なぜ自分以外の人間がここにいるのか、言葉で尋ねられてはいないが、目が語っていた。

 水筒に水を汲み終えると、俺は彼女が腰かけている傍まで歩いていった。汲んだばかりの水が、たぷんと水筒の中で揺れる。

 その間も彼女は何も話さない。視線が、俺の歩みの後を追う。

「ごめん、邪魔しちゃったかな」

 彼女の隣に腰を下ろし、横目で尋ねると彼女は首を横に振り笑顔になった。

 印象的な笑顔だ。

 目を細めて、白い歯をこぼしながら笑う姿はどこか勝気な少年のよう。花のように可憐で儚い雰囲気をまとう女性を今まで好んできた自分が、なぜかこの女性の笑顔を見た瞬間に胸が高鳴った。動揺を隠そうと必死に次の言葉を探す。

「何してたんだ?」

 訊かずとも、歌を歌っていたとしか答えられないようなことを訊ねてしまうあたり、よほど狼狽えていたのだろう。

 しかし彼女は答えない。

 訝しげに思った俺に、彼女は自分の喉を指差し、何かしゃべるような仕草をとる。だが、声は出ていない。

 彼女は少し困ったように眉を下げて微笑した。やがて何か思いついたのか、陰った表情がぱっと明るくなる。彼女は自分の腰かけていた場所をずらし、俺との間の距離を広め、砂場を指差す。俺の視線が彼女の顔から指へと移ると、彼女は細い指をすべらせ何か文字を書きはじめた。

 ――ごめんなさい。私喋ることができないの。

 時おり池の水に指を湿らせ、書いた言葉がそれだった。

 けれど歌っていたじゃないか。

 そんな不躾な質問を問いかけるよりも早く、彼女は次の言葉を書きはじめた。

 ――歌しか歌えないの。喋ろうとすると、喉に何か詰まってしまう感じ。ラムネ瓶にビー玉がはまってしまったみたいに。わかる?

 書き終わると、俺の顔を見上げた。

 書いている内容に対してなのか、それとも文字が読めるか、と問われているのかはわからなかったが、頷く俺を見ながら嬉しそうに彼女も頷く。

 心因的なものだろうか。

 災厄後、彼女のように喋れなくなってしまった者も多く見る。災厄が起こした峻烈な光景だったり、人の死を目の当たりにしたり。親しくしていた者らと離れ、独りの環境に耐え兼ねてであったり人それぞれの原因で、みな壊れていく。もしかしたら彼女も、そんな彼らと同じように、心の一部をどこかに置いてきてしまったのかもしれない。

 ――名前は?

 見ると、彼女が再び砂に指を這わせていた。

「アキラ。あんたは?」

 自分も砂に文字を書くべきか逡巡したが、言葉は通じる。ならば問題ないだろう。そう思って訊ねると、彼女は声の出ない口で「アキラ」と呟いたのがわかった。俺の視線を感じたのか、彼女は慌てて砂場に文字を書いた。

 ――私はユリ。アキラは水汲みに来たの?

「ああ、俺らの住むところでは身体が不自由になったやつらが多くてな。まともに動ける男は俺くらいなんだ――」

 言いながら、俺は防塵マスクをしたままユリと接していたことにようやく気づく。

 災厄後、滅多に降らなくなった雨のせいで、空気は乾燥し常に砂埃が舞う。さらに、倒壊したビルや工場などから有害物質が空気中を漂っているせいで、鼻や口をさらしたまま過ごすことはできない。失明した者もいれば、最悪の場合命を失くしてしまった者すらいる。それでも身体の弱い老人や幼子なんかは、日々不調を訴える。そんな彼らに、俺は力仕事をすることで助けるしかできない。医者もいなければ、いたとしても医療がない。せいぜい傷を負ったら止血するくらいの処置しかできない現在、一度身体に不自由を覚えてしまえば、あとは自分がどれくらい生きていられるか想像するしかないのだという。

 しかし彼女――ユリは防塵マスクをしていないどころか、肌を露出している。

 首も腕も足も……。

「マスクはしないのか?」

 ――うん。別にそんなに長生きしたいと思わないし。

 すらすらと躊躇いなく書いていく文字を読み、アキラは苦笑した。

 自分もそうではないのか。むしろ早く死にたいと思ってはいなかったか。それだというのに、肌の露出を抑え、律儀に防塵マスクを手放さないあたりを見れば、自分がどれほど怖がりかわかる。

 自嘲的な笑みが唇に浮かぶ。そして、マスクに手を伸ばす。最初何をしているのかわからなかったのだろう。俺の動作を不思議そうに見守っていたユリが、急に慌ただしく立ち上がり手を伸ばして阻止しようとしてきた。目に困惑の色が濃く塗られている。

 防塵マスクを脱いだ俺は大きく息を吸い、そして吐いた。

 思っていたよりも、なんてことはない。汗を吸い込み、重みに耐えていた俺の髪はぺったりと額や頬に貼りつく。ぐしゃぐしゃと髪をかき乱し、冷たい空気をいっぱいに取り込むと、妙に頭がすっきりした。しかし、そんな俺の様子に、ユリは困ったように固まっている。

 大丈夫。そう呟き、俺は夜空を仰いで、しばらく動かなかった。

 

 

 次の日も。その明くる日も。

 俺は夜中、太陽が沈んでから三番地の近くにある池を訪れた。ユリも必ずいた。池が近づくと、彼女の歌声が遠くから聞こえてくる。その声を聞きながら、星を眺めつつ歩くのが楽しみだった。

 池に着くと、ユリは俺の姿を見つけて歌うことをやめる。「よく来たね」と言いそうに目が笑う。そんな一連の流れが、いつしか好きになっていた。

 なぜか、ユリの傍にいる心安らぐ自分に気づいたのだ。

 苛々していた気持ちが、すっと溶けるように消える。ユリと過ごす時間は少ない。その間、話すこともそんなにない。お互いそれぞれの思いを抱きながら、静寂の時間をただ二人で過ごすだけ。時おり俺が話しかけ、ユリが砂場に文字を書く。味気ない会話が二、三とあるだけなのに、不思議と息苦しさはない。

 彼女が自分と同じように感じているかはわからないが、時おり聞こえてくる彼女の鼻歌を聞けば、そんな考えも馬鹿らしいと思えるのだ。

 そんな日々が一週間近く続いたある晩だった。

「お前らか? 最近俺らの水を盗ってるって奴らは」

 数人の男がぞろぞろと池に近寄ってきた。そのうちの一人が、不快をあらわにした表情で睨みつけてきた。

 みな防塵マスクをつけていない。おそらく三番地の者らだろう。彼らは自分が何ものにも恐れないとでも言うように、防塵マスクをつけ全身を隠すような出で立ちの者を見ると嘲るのだ。いつも数人固まって行動し、ゲラゲラと大口を開けて他人を指差す。そんな彼らが、俺やユリの姿を見てさらに眉間に皺を寄せた。

「なんでマスクしてねえんだ?」

「いきがってんじゃねえよ」

「そんなに死にたいのか」

 口々に、自分のことを棚に上げて好き勝手言う。

 彼らの手にナイフが握られていることを見つけると、俺はそっとユリの傍まで移動し、視線は男らからそらさず、小声で「逃げろ」と囁いた。しかし、ユリは動く気配すら示さず、それどころか、つかつかと男らに向かって歩き出した。

「おい!」

 歩き出したユリの折れそうな腕を掴んだが、それよりも早く男らが動いた。

 空気を震わせる、銃声が辺りに響いた。

 思わず手を離し、両手で耳を塞ぐ。いっきに静寂が辺りをつつみ、静かに何かが倒れる音が聞こえ、そこで俺は慌てて目を開けた。少し前を行くユリが、地面に這うようにして倒れている。池のすぐ隣だった。白いワンピースが暗がりでもよく見えた。赤い染みがゆっくりと染める範囲を広げていく――。

 流れ出たユリの血が、地面を伝い池の中に流れ出る。まだら模様を描きながら、水面を揺らしていた。

「馬鹿か! 水場の近くで殺るな! 飲めなくなるだろう!」

 男の声が、遠くで聞こえるように感じた。

 俺は茫然と、ユリを見つめている。目は開いたまま、空を見つめている。彼女の指が何かを掴もうと伸びたまま、静止していた。きっと、男らに掴みかかろうとしたのかもしれない。どこか男勝りな彼女がいかにも考えそうなことだ。

 今、自分がすることは何か。

 全然わからなかった。ただ膝が震える。唇が震える。声が出なかった。逃げ出したい気持ちが強く、今にも疾走したがっている。けれど、逃げ出した瞬間、奴らの攻撃の的が俺に変わったら?

 情けないことにも、ユリを撃たれた怒りよりも、自分の命の心配しかしていない自分に泣きたくなった。あれほど死にたいと望んでいたのに、いざ恐怖を目の前にすれば、やはり命が惜しくなる。恐ろしかった。許しを請いたかった。

 けれど、そのどれも奴らは許してくれなかった。

 続けて銃声が聞こえたときには、俺の視界は反転した。

 倒れたのだ。どこを撃たれたのかわからないほど、全身に電流が走ったかのような痛みが貫いた。思わず呼吸を止める。息を吐くと、あちこちが悲鳴を上げるのだ。だが、自分の身体が地面に到着した瞬間、骨がばらばらになるかと思うほどの痛みを覚えた。

 喉から呻きともつかぬ声が漏れる。意識がぼやける。

 周りで何か話し声が聞こえたが、何を話しているのか全く聞き取れなかった。瞼がゆっくりと落ちていく。やがて足音が遠くなり、ぼんやりとした意識の中で、ほっと息を吐いた。

 今にも閉じてしまいそうな瞼をなんとかあげ、息を止めるようにして視線だけを横にずらす。すぐ真横でユリが眠るように横たわっていた。真っ白だったワンピースは、今では白い部分を探すほうが難しいほど、血に染まっている。手を伸ばせば血に濡れた地面に触れられそうだったが、そんな気力はもうなかった。

 唯一の救いは、俺の視界にユリの顔が映らないことだった。見えるのはユリの丸くなった背中だけ。もし動かないユリの顔を見ていたら、俺はどうなっていたことだろう。

 助けなくてはという気持ちは微塵もわかなかった自分は、どれほど非情な人間なのだろうか。動かなくなったユリの目が、俺を責めるかもしれない。もしかしたらその指が動いて俺を殺そうと首を絞めるかもしれない。しかし、何よりもユリの目が恐ろしかった。あの強い目力。吸い込まれそうな眼。開いたままのユリの目を見るには、今の自分には罪悪感が強すぎるのだ。

 ユリの傍は心地よかった。失いたくないと思っていた。

 それなのに――。

 知らず流していた涙が、頬を伝い赤く染まった地面にいくつも落ちた。



 悲鳴をあげることもできないほどの痛みに目を覚ました。身体が揺れるたびに、歯をくいしばり痛みに耐えた。

 俺が身じろぎをしたことで気づいたのだろう。俺を背負いゆっくりと歩くガイが、少しだけ視線を背後にやると言った。

「お、起きたか」

 すぐに前を向いてしまったガイの表情はよく見えなかったが、一瞬だけ映ったガイの目が、いつもより少し怒っているように見えた。

 声のトーンも、若干低く暗い。

「だから夜中に忍び込むのはよせって言っただろう」

 ガイが歩きながら言う。やはり声に棘が含まれている。

 よく見れば、簡単にではあるが手当が施されてあった。ガイの着ていた服だろうか。見覚えのあるシャツが、俺の肩を中心にぐるぐると巻きつき止血されている。そこでようやく、俺が撃たれた場所は肩なのだとわかった。

 少し意識を失ったせいか、それともガイの手当てのおかげか、気を失う前より随分と呼吸がしやすい。痛みはまだ引く気配はないが、喋ることもたぶんできるくらいには回復したのだろう。

「悪い。……でもなんで来てくれたんだ?」

 俺の言葉に、一瞬ガイの足が止まる。そして再び歩き出す。

「馬鹿じゃねえの。みんなお前のこと心配してるってのに」

「みんな? は? なんのことだ――」

「気づいてなかっただろ。夜中にこそこそ抜け出すもんだから、みんな悪いことしてるんじゃないかって、お前が戻ってくるまで起きてたんだよ」

 言葉を失った俺に、ガイは続ける。

「今日はやたら帰りが遅いってみんな散々心配してたのにこれだしよ……。俺が探しにこなかったらお前あのまま死んでたかもしれないんだぜ?」

 ガイは一瞥をくれると、あからさまなため息をついて、また何事もなかったかのように歩き出した。それからはしばらくお互い無言だった。

「……あの女の子、アキラの知り合いか?」

 少し躊躇いの含んだ声に、俺は頷く。

「あそこで知り合ったんだ」

「そうか……。埋める場所をなんとか探してやろうぜ。あのままじゃあ、可愛そうだろう」

「ああ」

 明日になれば、彼女の目を正面から見られるだろうか。そして謝ることができるだろうか。まだ胸の奥に落ちた黒い塊は消えていない。ユリの笑った姿が瞼のすぐ裏にうつっているような気がする。目を閉じて、息を吐く。ユリがあそこで歌を歌っていた理由もしらないまま、もう二度と会えないのだ。そう思ったら、いまさらのように涙が滲んだ。

 けれど、俺が彼女と一緒に過ごしていて気づいたことがある。

 安心感。ほっとするひととき。あの安堵が、欲しかったのだ。

 生きていく中で、生きるために必要なのは、水でも食糧でも場所でもない。俺の場合は、ユリが与えてくれた安心感の中にあったのだ。

 家族と暮らしていたときは、当たり前のようにそれがあった。次の日も、家に帰ってこればこの笑顔があると信じて疑わなかった日々。母や父の顔を見るだけで、一日の疲れが吹き飛んだ気がした。明日の出来事を想像して、ため息がでる日もあった。しかし、帰る家がある安心、迎えてくれる家族がいる安心。それらが俺を生かしてくれていた。苦しいことよりもずっと大きな存在だったのだ。

 ユリの傍は、なぜかはわからないが、その安心感があった。

 それが災厄が起きてから、次の日が怖くて仕方なかったのだ。もしかしたら次の日自分はいないかもしれない。もっと最悪な状況になっているかもしれない。行方知れずになっている家族の死を知ってしまうかもしれない。そうして、知らず知らず死を望むようになっていった。自害する勇気もないのに、ただ生きたくないという思いだけが自分の中に沈んで、いつも不安の中に身を置いていた。ユリの傍らにいる自分は、それらの不安を全て忘れさせてくれたのだ。

「明日からはまた十番地の水を汲みに行くしかないな。アキラもこんなんだし、しばらくは俺が行くか」

 不満そうに舌打ちをし、振り返ったガイは意外にも清々しい笑顔を浮かべていた。白い歯を見せ、再び前を向いた。

「悪いな」

「悪いと思うならあまりみんなに心配かけさせるようなことするなよ。あいつらも俺も今はみんな家族みたいなもんだろう」

「そうだな……」

 傷が疼いた。その痛みは、俺への罰かもしれない。今まで彼らの中から安心感を探そうともしなかった。自分から歩み寄ろうとしなければ、そんなものが見つかるはずもないというのに。

 彼らが俺を心配してくれたように、俺もまた彼らを大切にしていきたいと、今なら素直に思えた。

 瞼が落ちそうに重い。気がつけば空がすでに白み始めている。もう夜明けだ。二番地のみんなは俺が帰るのを今も待っているのだろう。ガイの話によれば、ここ最近は俺が出かけてから戻ってくるまで、誰ひとり眠らないということだから。まずは謝ろう。そして彼らになにかしてやりたい。今の身体では何もできやしないが、治ったら、きっと。

 その前に、ユリにお礼を言いに、またあの池に行こう。

 今度は一人ではなくガイも連れて。

 ガイの背中で、俺は静かな睡魔に誘われて、ゆっくりと目を閉じ意識を手放した。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 自分のことで精一杯、色々麻痺してしまった人の感情がユリとの出会いと別れでまた感情が生まれる様子が秀逸なお話ですね。 とても丁寧に世界観を作り込まれていて、情景が見えるようでした。
2013/06/03 21:06 退会済み
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