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Rea『L』 Over

作者: 秘書検定

      プロローグ


 自分の感じる世界と、実際に流れる世界には、微小な「ずれ」が生じている。

 ある色彩心理学の有名な実験がある。

 ビジネスマンを被験者にして、別々の色を基調とした二つの会議室でそれぞれ会議をしてもらい、その部屋ごとで「感じた時間」を測定するというものだ。

 一つは赤や茶などの暖色。 もう一つは青や緑などの寒色を基調とした会議室である。

 数時間後、「今何時間経過したと思いますか?」という質問をすると、暖色の会議室で会議したビジネスマンは「6時間ぐらい」と答え、寒色の会議室で会議したビジネスマンは「3時間ぐらい」と答えた。

 つまり、暖色の部屋で過ごした人は、寒色の部屋で過ごした人と比べ、およそ二倍の時間を長く感じたと言う事だ。

 人間は、暖色をより視界に多く取り入れる事で、脳をより活発化させることができる。この理論を応用すれば、待ち時間の長い待合室などは寒色、より充実な会議がしたい部屋ならば暖色にした方がより良いだろう。

 色彩の与える影響というものは、私たちが思っているより大きいのである。

 しかし、今回触れたい事柄はそこではない。

 実際に行なわれた実験そのものについて考えてみる。

 この実験において、2種類の会議室を利用したの被験者が、それぞれ時間の「ずれ」に気づいたのは一体いつだろうか。

 答えは至ってシンプルだ。

 時計を見た時に決まっている。

 聞くまでもない簡単な問題だ。

 では『もし時計が無かったら』どうであろうか。

 暖色の部屋を出た人も、寒色の部屋を出た人も会議室を出て時計を見たときに、「思ったより時間はそんなに経ってない」「思ったより時間が経ってた」などと考えた筈である。その「思ったより○○だ」の○○に含まれる客観的な測定器がこの世に無かったとしたら、この二者が互いの時間間隔の違いに気づく事などできるのであろうか。

 そして、その後一生、それを確認することがなかったらならば。

 二者に生じた3時間の「ずれ」は最終的にいつどこで修正されるのだろうか。

『Real Over』

 彼女は、持っていた本を閉じた。

 分厚い装丁の表紙には、銀の箔で『Real Over』と印字されている。

「リアル・オーバーか…。私が思うよりも、案外身近な場所で簡単に発動するのかもしれないわね」

 小さな呟きが風に巻かれるように広がり、消えていく。

 今日は風が強い。

 彼女の好きな窓辺での読書も、今日のような日になると、優雅に満喫とはいかない。

 しかし、彼女はそういう障害が嫌いではなかった。

「あ、もう三時か。コーヒーでも淹れようかな」

 ふと見上げた時計が、銀の針で綺麗な直角を描いている。その図形が示す数値と今日の予定を細かく計算しながら、彼女は腰掛けていた竹椅子から細い身体を持ち上げた。

 しなやかな膝元から、ストールと本がスローモーションのように静かに落下する。

 本が床とぶつかりあう衝撃をストールが吸収してしまったのだろう。その静かな落下物に彼女は気づくことなく、キッチンのある方角へとほとほとと歩いて行った。

 風が吹く。

 落ちた本がバラバラと音を立ててページをめくっていた。

 その重みのある不規則な拍子に溶け込むように、小さなベルが鳴る。

 ――いらっしゃい。

 ――お邪魔します、姉さん。

 いつも通りの和やかな談笑。

 本はゆるかやにページめくり続ける。

 長い長い物語を読むようにパラパラと音が紡がれ、やがて重たい装丁がパタンと蓋を閉じた。

 その裏表紙には、万年筆で書いたのであろう彼女の文字が走り書かれている。

 『ReaL Over』

 この物語は、ある少年が起こした不可思議な事件の話である。


      1


 雨が、いつまでも身体を打ち続けている。

 肌に吸い付くように張り付いた衣類が、その不快な感触と共に僅かに残る体温すらも奪い取っていくかのようだった。

 ただただ……寒い。

 ――大丈夫?

 確かめるように、手を伸ばす。

 ――さむいよ。

 小さな手の平が、その小さな温もりをもって応える。

 ――きっと、もうすぐお迎えが来るよ。

 その温もりに何度励まされた事だろう。少年は薄暗闇に包まれた空を見上げた。

 もうどのぐらい、自分達はこうしているのだろうか。

 繰り返し励まそうとする声も、止まない雨音が容赦なく邪魔をする。

 ――大丈夫?

 確かめるように、手を伸ばす。

 ――こわいよ。

 震える指が、少年にしがみつく。その弱々しい少女が、少年に気丈であり続ける事を要求するように、少年は自身に鞭打つように前向きな言葉を搾り出した。

 ――僕が、一緒に居るから。

 ――ほんとう?

 不安に満ちた返答が返ってくる。

 ――どっかに行ったりしない?

 どこかに行ってしまった人とは、先ほどまで一緒居た先生やクラスメイトの事なのだろう。少女の途方も無い不安に、もう片方の指が重なってきた。

 ――大丈夫だよ。僕はずっと傍に居るよ。

 少年はそう言って、重なり合った手に更に自分の手を重ねた。この手に感じる温もりだけが少年の支えなのである。

 今の二人には、頼れる大人も居なければ身体を温める日光すらない。

 ――絶対に一緒だよ。

 2人は、励ますように繰り返した。

 ――僕らは絶対に一緒だよ。


   * * *


 橋本恭介(はしもときょうすけ)が、夏瀬(なつせ)なつみに告白したのは、秋の文化祭での事だ。

 盛り上がる雰囲気に乗せられたフリをして、なつみと2人きりになり、勢い任せで想いをぶつけたのである。

「なんで俺だけが後片付け役なんだよ」

 そんな青春真っ盛りを謳歌しながらも、恭介は何故かその舞台となった『お化け屋敷』の片付けに追われていた。

 キューピット役を果たしたお化け屋敷も、用が済めばただのガラクタである。大小様々の奇怪な人形に囲まれながら、恭介は何とも言えないため息をついた。

「そりゃあお前、あんな目立つ所で愛の告白なんかやるからだろ」

 恭介に応えるように、ケラケラと笑う声が教室に響いた。

「噂の美人転校生を彼女にできたんだ。このぐらいやってもお釣りがくるぐらいじゃねえの?」

 教室の隅で笑っているのは、恭介の幼馴染、鍬野秋一郎(くわのしゅういちろう)である。

 文化祭翌日の半日授業は、文化祭休みとして用意されたものである。いっそ丸一日休みにすれば良いのにと生徒達のブーイングが聞こえてきそうなシステムは、町内唯一の進学校としては仕方の無いものなのかもしれない。静けさの際立つ放課後の空き教室はまだ明るく、恭介をからかう秋一郎の笑い声も爽やかに透き通っていた。これが夕暮れ時の放課後でなくて良かったと、恭介は秋一郎の皮肉も気にせず前向きに思案していた。

 夏瀬なつみが恭介たちの学校に転校してきたのは2人が2年生に進級して間もない4月の出来事である。

 地上デジタル放送すら満足に届かないくたびれた田舎に現れた転校生は、その容姿もさることながら、東京出身という垢抜けた肩書きを併せ持ち、あっという間にクラスの人気者となった。

 まさにクラスのマドンナと化した転校生に、恭介は例外なく一目惚れしていた。

 恭介が、なつみと2人きりになれたのは、文化祭のお化け屋敷で2人でお化け役をしていた時のことである。二度とない絶好のチャンスに、思い切って想いを告げると、なつみは化学室の暗幕に身を包んだ姿で二三度恭介を見つめ直し、小さく頷いてくれたのである。

 これがどれほどの喜びだっただろうか。

 感極まって思わずなつみを抱きしめてしまったことは今でも反省している。

 本当にどうしてそうなってしまったのか、今でも恥ずかしくて仕方がない。

 気がつくと、恭介となつみはクラスメイトに囲まれていて、全力で冷やかされていたのだ。

「虚しい…」 

 思い出しながら、恭介は泣きそうな気持ちを素直に口に漏らした。

 二人きりになれたと思ったのは、恭介の勘違いだったのだ。急に静かになったので誰も居なくなったのだろうと思った教室には、クラスメイトが示し合わせて息を潜めており、要するに恭介の恋心はクラス中に筒抜けになっており、更にそのクラスメイトの罠にも気づかず、恭介はクラスメイト達の目の前で思いっきり告白して抱きついてしまっていたのである。

「はぁ…」

 あまりの恥ずかしさに思い出すのも苦痛だった。

 告白する前、もしこの告白が成功したあかつきには、翌日の文化祭休みに初デートに誘おうと事前計画を練っていたにも関わらず、アイドル転校生を取られたクラスメイト達の嫉妬は瞬く間に恭介への攻撃となり、天罰とばかりに文化祭の後片付けを押し付けられたのだ。

 恭介は更にため息をついた。

「泣きたい…」

「ほらほら橋本くん。ちゃんとお掃除しないと、泣いてもゴミは自分からチリトリの中に入ってくれませんよ?」

「お前も少しは手伝えよ!」

 恭介は教室の隅から飛んでくる野次に思わず言い返した。教室の隅で机の上にあぐらをかいている秋一郎は、手伝うどころか人の不幸をふりかけにご飯でも美味しく頂く勢いである。

 秋一郎は恭介の罵声に肩をくすめると、「手伝ったところで俺に彼女が出来る訳でもないのになあ」と悪態づきながら、いそいそと掃除道具箱を開け始めた。 鼻歌を歌いながらほうきとチリトリを取り出している。脇に抱えている鞄から、町役場指定のゴミ袋が除いていた。

(やっぱり最初から手伝うつもりだったんだな)

 そんな秋一郎の遠まわしな気遣いが、くすぐったく感じた。根は優しいのだろうが、秋一郎自身も素直になれないのだろう、彼が優しくしようとする時は、決まってふざけた言動が目立つ。

 恭介は、持っていたほうきを適当に動かしながら、今度は心の中でため息をついた。

(本当だったら今頃なつみと記念すべき初デートだったのになぁ)

 悔やんでも悔やみきれない。

 自分の失態を呪いながら見上げる窓の外には、鬱屈した自分に相反するように爽快な秋晴れが広がっていた。

(なつみ、今頃何してるんだろう)

 なつみを思い出す時、決まって恭介は柔らかそうな栗色の髪を思い出す。

 次に綺麗に肩で切りそろえられた髪と白いうなじ、清楚な顔立ち、大きな目、落ち着いた身の振る舞い。

(会いたいなあ……)

 考えれば考えるほど、虚しかった。

「そういや恭介。夏瀬さんとの話は春姉(はるねえ)に通してんのか?」

 教室の隅でダンボールの人形をバリバリと破りながら、秋一郎が話しかけてきた。

「お前も春姉の弟分だし、言っておかないと後が怖いんじゃねーの?」

 秋一郎の言う『春姉』とは、2人の一つ年上にあたる幼馴染である卯月春子(うづきはるこ)のことである。家が隣同士なのもあり、3人はいつも一緒に行動していた。中でも最年長の春子は面倒見がよく、特に恭介に対しては、文字通り姉のような存在だった。春姉という呼び名は『春子』という古くさい名前で呼ばれるのを嫌った春子の為に秋一郎が考え出したあだ名である。

「ああ、うん……。一応春姉にはいつか言おうとは思ってるんだけど。ちょっとタイミング逃しててな」

「そうやってズルズルしてっと、またゲンコツくらうぞ?」

「分かってるんだけど……」

 恭介はばつが悪そうに剥がしたガムテープをぐしゃぐしゃと丸めた。恭介は面倒くさがりな性格ではあるが、今回に限り、なつみの事を春子に伝えないのには理由がある。

「ちょっと言いにくいって言うか……」

「春姉から志雪(しゆき)ちゃんに伝わるのが怖いのか」

 突然の『志雪』という図星に恭介は思わず顔を上げた。

 秋一郎は教室の隅でダンボールの屑を放り込んだゴミ袋に、ぐいぐいと片足を突っ込んでいる。

「志雪ちゃん、お前の事好きだもんな。春姉は春姉で志雪ちゃんにべったりだし、春姉が志雪ちゃん可愛さに夏瀬さんに何か言うんじゃないかとか考えると、やっぱり言いにくいよなぁ」

「お前、気づいてたのか?」

「鈍感なお前が気づくぐらいさ、俺なら一目で分かる。全くなんでかねぇ、あんな可愛い子までがお前みたいな根暗な先輩を好きになるなんて」

 ぎゅっぎゅっとゴミ袋を絞める音がした。

 秋一郎はそれを抱えるとおもむろに恭介のほうを振り返った。

「お前だけモテすぎなんだよ! 1人ぐらいよこせー!」

 秋一郎の叫び声と同時に、ダンボール入りのゴミ袋が飛んできた。

「お前絶対文句言いたいだけだろ!」

 放課後の静かな教室に、二人の笑い声が響き渡った。

 何ということもない日常。

 お調子者で優しい友人、美しく清楚な恋人、愉快なクラスメイト達。

 それが、橋本恭介の世界なのである。



「橋本先輩! と鍬野先輩」

 お化け屋敷の後片付けが一通り終わり、文化祭会場からようやく教室の姿を取り戻した部屋を抜け、黄金色に染まった廊下を歩き出そうとした時の事である。恭介と秋一郎の背中から、鈴を鳴らすような少女の声が響いた。

 最初に振り返ったのは秋一郎だった。

「はいはい、どうせオマケの鍬野先輩ですよー」

「い、いや。そんなつもりじゃないですよ鍬野先輩。えっと、今日は2人ともどうしたんですか? 今日は午前中授業で午後は全員お休みだった筈ですけど……」

「文化祭の後片付けしてたんだよ、志雪ちゃん」

 恭介が振り返ると、黄金色に染まった廊下に、ひとりの少女が佇んでい姿が見えた。考えなくても恭介にはその少女が後輩の柊志雪(ひいらぎしゆき)である事が分かっていた。

 会いたくなかった、というのが恭介の正直な感想である。

 まるで中間服がそこに立っているかのような小柄な体格に、柔らかな巻き毛から覗く大きな瞳は、真っ直ぐ恭介だけを映していた。

 彼女のその健気な視線は、決して何かを要求したり期待したものではない。謙虚が服を着て歩いているような彼女の素直な好意が、束縛も悪意も持たない綺麗なものであるからこそ、恭介は余計に後ろめたさを感じていた。

「本当は俺達も早くと帰って午後休みを満喫したかったんだけどね、逃げそこねちゃったんだ。おかげで今の今までかかっちゃったよ」

「ほえー大変でしたねー。言ってくれれば私、お手伝しましたのに」

 素直さと明るさが混じる声が、鈴のように転がりながら笑っている。

 そんな二人の横で腕を組みながら、秋一郎が「どうすんだよ」と言わんばかりに恭介に目線を向けていた。

「それじゃあ橋本先輩と鍬野先輩は今帰りですか?今日私も部活帰りなんで、良かったら一緒に帰りませんか?」

「いや、それは…」

「おっと!志雪ちゃん!気をつけたまえ!」

 言葉を濁しかけた恭介に助け舟といわんばかりに秋一郎が割り込んだ。

「男2人の相手をひとりでするのは危険だぜ! せめてもうひとり、できれば美人で優しくて気立てのいい女の子を追加してから出直しな!」

「え?ええ?」

 それはあと一歩ずれたらセクハラじゃないのか?という恭介の目線をもろともせず、秋一郎は目を白黒させる志雪の目の前に立ちふさがり両手を広げておどけていた。

 恭介は秋一郎の助け舟に、心の奥で安堵していた。

 志雪はお世辞にいっても社交的ではない。放課後も過ぎに過ぎた学校で、今すぐ誰かを呼び出せはしないだろう。

 いくら秋一郎が一緒だからとは言え、今はなつみ以外の女性と一緒に登下校する気にはなれなかった。

 今日はもう秋一郎と一緒にさっさと帰って、なつみに電話して声を聞きたかった。

(でかした秋一郎。あとはさっさと下駄箱まで走るか)

 しかし、この日の恭介は本当に運が悪かったらしい。

「もう一人女性が居れば問題ないんだな?」

「げ」

 秋一郎の方向から、凛とした声と、秋一郎の潰れたような声がした。

 見ると、秋一郎の前で困惑する志雪を押しのけ、秋一郎の前に1人の女性が立っている。

 長い黒髪、すらりとした長身。

(ああ、今日の俺は厄日なのかもしれないな)

 その姿自体に何の威力があるのか、恭介は何かに観念したように、その女性の名前を呼んだ。

「春姉」

 そこには、いち早く冬服に身を包んだ卯月春子が凛と立ちふさがっていたのだ。

「ちょ、え? えと、ご機嫌麗しゅう春子姉様。これはまたまた何でまたこのようなお時間に」

「つまらんお世辞はいらん。あと『卯月先輩』だ。学校では学校にふさわしい呼び名で呼べ」

「はいい! 申し訳ありません卯月先輩!私とても反省いたしました! だから頭をつかむのはやめて下さいぃ!」

 春子に頭を鷲づかみにされた秋一郎が情けない声をあげた。

 整った顔立ちに似合わない逞しい言葉遣い。

 黙って立っていれば、大和撫子風の美女に見えるというのに、この言動から彼女の存在は常に畏怖の塊である。

「先ほどから見ていたが、どうやら私の可愛い後輩はお前らと一緒に帰りたいらしい。美人で優しくて気立ての良い私が同伴すれば問題ないよな」

「はい! 全く問題ありません! 問題ありませんんんん!」

 秋一郎の悲鳴にも似た返事を聞くと、春子は掴んだ手を離し、恭介の方を振り返った。

「そういう訳なので、私はちょっと荷物を取ってきたい。恭介と志雪はここで待っていてくれないか?」

「あ、う…うん」

「すまない、直ぐ戻る」

 そう言うと、春子は無駄のない動きで真っ直ぐ廊下を歩き去っていった。

 目を開いたままぽかんとした表情を浮かべている志雪の隣で、秋一郎は頭を抱えながら「何この待遇の違い。差別だわ」と愚痴っていた。

 鞄を持ってきた春子の提案により、帰りは商店街の喫茶店で紅茶ケーキセットを食べて帰ることになった。

 無論、恭介と秋一郎の奢りである。

(やっぱり厄日だ)

 今日何度目になるか分からないため息をつきながら肩を丸めて恭介はとぼとぼと街を歩いた。

 その隣では、恭介しか見つめない大きな瞳が輝いていた。



 結局その日、なつみの声が聞けたのは夜も更けてからの携帯電話からである。

『そっか、それは大変だったね』

 コロコロと笑う優しい声。

 労わりの言葉がなくても、恭介はその言葉が聴けるだけで、今日1日の疲れも吹き飛びそうだ。

「本当だよ。でもまあ春ねぇおすすめの喫茶店は大体はずれがないし、実際紅茶ケーキセットも美味しかったのが唯一の救いかな」

『へえ、卯月先輩ってそんなに紅茶好きなんだ』

「根っからの紅茶党だよ。なつみが嫌いじゃないんだったら、今度一緒に行きたいかな」

『本当? うれしい。私も行きたい!』

「じゃあ、今度の休みに2人で行こう」

 恋人というのは不思議だ。

 こんな他愛もない会話なのに、心踊る気分にさせられる。

 しかし、そんな幸せな気分を打ち消すような質問が電話口から聞こえた。

『そういえば、さっき恭介くん言ってたけど』

「ん? 何?」

『卯月先輩ってひょっとして私のこと、嫌いなのかな…』

 携帯電話を握る手が一瞬固まったような気がした。

「え? なんで? 俺なにか言ってたっけ?」

 いくらなんでも彼女に志雪ちゃんの話をする訳にはいかない。

『いや、私と付き合ってることを卯月先輩に言いづらいって言ってたから』

「あ、ああ、ああ。それねそれね」

 人は慌てると、どうして同じことを何度も反復してしまうのだろう。

 恭介は自分の心臓に静まるように暗示をかけながら携帯電話を持ち替えた。

(嘘をつくと俺の場合、直ぐばれるし、志雪ちゃんの事でない本当の話をしよう)

 恭介は、一呼吸おいて口を開いた。

「春ねぇは世話焼きで良い人なんだけど、時々行き過ぎて心配症になるんだよ。特に俺の場合は、ほら…」

『記憶のこと?』

 恭介は自分で出した話題でありながら、後悔の念に襲われた。

 自分の要領の悪さを呪った。

 慌てて出した話題とはいえ、自分でもあまり考えたくない事だからである。

 当たり前の高校生としての日常。

 しかし、恭介の人生は、決して当たり前と言える人生ではない。

 橋本恭介には、5年前の記憶が一部完全に思い出せないのである。

 いわゆる、『記憶喪失』というやつだ。

 春子の勧めで脳神経外科や精神科にも通った。

 解離性健忘。

 それが医師の出した結論だった。

『解離性健忘について、この間図書館で調べてみたよ。確か、大きなトラウマとか、ショックな事があると起きるみたいな事が書いてあった』

「うん」

 そんなこと、知っている。

『5年前に何があったのか分からないけど、卯月先輩がそんなに心配するってことは、よっぽど辛いことなんだって事だよね』

「……ごめん」

『どうして謝るの?』

「いや……」

 恭介は自分がどれだけ普通の高校生のように振舞っても、『普通でない』カテゴリに自分がまわる現実があまり好きではなかった。

 失った記憶だって、そんなにショックで忘れたというなら、もう忘れたままでいいじゃないかとさえ考える。

 春子が自分の事を腫れ物のように扱うのも気に食わないし、春子が心の奥で、なつみをあまり気に入っていないと分かることも気分が悪かった。

 そして何より、自分ですら解決できない自分の膿につき合わせてしまっているなつみに大して申し訳ないという気持ちがあったのだ。

『まーた暗い方向に考えてるでしょう』

 携帯電話から光が差し込むように明るい口調が聞こえた。

「そ、そんなことないよ!」

『いいよ、そんなに気を使わなくても』

 優しい、声がする。

『だって、私達、もう恋人同士なんだし』

 ああ、本当に。

 自分はなんて幸せ者なんだろう。

『卯月先輩の心配な気持ち、私も全部じゃなくても分かる気がする。同じ恭介くんを心配する者同士だもん。私は卯月先輩の事、好きだな。だから、卯月先輩が私に恭介くんを任せられないって思うなら、納得してもらえるまで頑張るし、できれば卯月先輩と一緒に協力して恭介くんを支えていきたいの』

 優しい声に似合わない、芯の強い言葉。

 美しい外見でも、優しい心遣いでもない。この彼女の魅力に、他にどのぐらの人間が気づいているのだろうか。

「ありがとう」

 他にもたくさんの言葉が浮かんでいたが、一番シンプルな感謝の気持ちを、恭介は口にした。

「でもそれ、なんだか男女が逆みたいだな」

『ええ! そうかな?』

 思わず笑みがこぼれた。

「できれば俺がなつみを守ってあげたいんだけど」

『じゃあ、お互いがお互いを守るって事にすればいいじゃない』

「なるほど」

『そうしたら、私達一緒だよね』

 ――僕が一緒に居るよ。

「ああ、そうだね。そのままずっと一緒に居られたらいいな」

 ――大丈夫だよ。僕らはずっと一緒だよ。

『ずっと一緒だよ』

 頭痛がした。

「ああ、俺達はずっと一緒だ」

 ぽつり、と窓に雨が落ちる音がした。


      2


 身体に厚い膜ができたかのように、感覚が分からない。

 ざあざあと降りしきる雨が、2人の雨宿りする唯一の洞穴にまで染み込んできた。

 ――大丈夫?

 差し出した手の先に、暖かい感触。

 しかし、暖かすぎる。不自然な、熱。

 ――……。

 ――雪花(せつか)ちゃん? どうしたの?

 返事はない。

 その熱に反比例するように背筋が凍った。

 ――大丈夫? ねえ、大丈夫? 雪花ちゃん!

 ――……。

 ――大丈夫だよ! もうすぐきっと春姉が来るよ! だから!

 そうだ。

 きっともう直ぐ迎えに来てくれるんだ。

 それとも、ひょっとしたもう既に来てて、周囲で面白がって隠れてるだけなのかもしれない。

 わっ! て言って皆出てきて驚いた? と聴いて笑ってくれるんだ。

 ――神様、お願いです! 雪花ちゃんを助けてください!

 まだ年端もいかない子どもに、縋れるのはもうそれしかなかった。


 * * *


『解離性健忘とは、重要な個人情報や、外傷的または強いストレスを伴った出来事を忘れてしまうことを主症状とする解離性障害である』

 ぽつぽつと、窓を叩く雨の音がする。

 湿っぽい図書室の中、なつみはぱらりとページをめくった。

『解離性健忘の最も一般的な症状は、記憶の喪失である。健忘が起きた直後は混乱した様子になることあり、解離性健忘の人の多くは、健忘によって軽度の抑うつ状態になったり、大きな苦痛に悩まされやすい』

 ぱらり。

『このような「健忘する」という現象は、この病気の例に挙がっている原因にも考えられるように「辛い記憶から自分を守ろう」とする自衛の一つだという説もある』

 ぱらり。

『これは悪いことではないのだが、やはり本人にとって「健忘」しているという状態が不愉快なものであったり、実際の生活上困ることがある場合は治療をするべきである』

 ぱたん。

 なつみは本を閉じた。

 紫色の表紙には、『臨床心理学への招待~著・宮内都~』と書かれている。

「記憶を失うほどのトラウマ、か……」

 なつみは折り重なる本を隣に、肘をついて誰ともなく呟いた。

 脳裏には、恋人である恭介の顔がよぎっていた。 

 トラウマを持つ人間は、同じトラウマを持つ人間を嗅ぎ分ける力がある。少なくとも、なつみはそう思う。

 ――あんな人のどこがいいの?

 なつみは転校してから出来た女友達の言葉を思い出していた。

 夏瀬なつみが橋本恭介と付き合い始めたのは、文化祭の日からである。

 付き合う理由は、決して向こうが雰囲気たっぷりに告白してくれたからでも、恭介に外見的な魅力を感じたからでもない。

 実際、恭介の容姿は特出して良い訳でもなく、クラスメイトの見ている目の前で告白して、付き合える喜びのあまり抱きついてくる勢いから考えると、雰囲気を読む能力も高くない。

(それでも……)

 なつみは雨水の滴る窓の向こうを見上げた。

 恭介に告白されるよりも前から、なつみは恭介のことが異性と認識するよりの前の段階から好きであった。

 なつみが転校してきたのは春。

 この町では、東京という単語が余程珍しく、興味深いものなのだろう。

 登校したその日から、クラスメイトだけでなく、違うクラスや違う学年の人からも質問攻めにあった。

 子どもの頃みていたドラマでは、村八分や排他的なシーンがあり、やっていけるか不安ではあったが、実際こうやって住んでみると、都会人に比べて町の人も優しく親切だった。

 きっと、そのせいなのだろう。

 なつみは沢山の歓迎に囲まれながらも、どことなく疎外感を感じていていた。

 『普通』とは違う、イレギュラーの人間のみが感じる、独特な孤独感。

(ここの人たちは、きっとトラウマとかいう言葉とは無縁なんだろうな)

 なつみは心中でため息をついた。

 なつみは、中学生の頃、実の妹を交通事故で亡くしていた。

 ほんの少し、目を離した時のことだ。

 気がついたときには、3歳になったばかりの妹が道路に飛び出していた。

 即死だった。

 思い出しながら、なつみはきつく目を閉じた。

 父も母も姉である自分も、一緒に楽しむための旅行の最中だった。

 ――あの時、目を離していなければ。

 幾度となく、自分を責め、両親も自分自身を責めていた。

 ――どうして、見ていてくれなかったの?!

 自分自身を何度責めても妹が生き返る事はなく、責める場所もなくなると、今度は家族が自分以外の誰かを責めるようになった。

 1年も経つころには、家族の心はバラバラになっていた。離婚という言葉を聞いた時も「ああ、そうだろうな」ぐらいにしか感じることができなくなっていた。

 なつみがこの田舎に引っ越したのは、母の実家というのもあるが、何より、妹との楽しい思い出ばかりが残る街を見るのが苦痛で仕方なかったからだ。

 不思議な話である。

 自らの苦痛を知る人達から逃げるように来た町で、何も知らずに笑顔で接してくれる人を見ながら、なつみは更に自分の傷がより深まっていく感覚に襲われていた。

 そこに現れたのが、クラスメイトの橋本恭介だった。

 東京出身だから、都会らしい雰囲気があるから、などという理由でなく、彼だけが普通の転校生としてなつみを扱ってくれた。

 だからこそ、直ぐに気づくことができたのかもしれない。

 彼自身もまた、心に深い闇を持つ人間だと言う事を。

「5年前か…」

 なつみは、サブバックの中から、新聞のスクラップをまとめたリングノートを取り出した。

 解離性健忘を起こしやすい体験として、主に戦争、事故、自然災害などがある。

 5年前にそんな体験をしているのならば、この田舎のことだ。必ず、新聞の記事になったはずだ。

(私は、余計なことをしているのかもしれない)

 苦痛だったからこそ失った記憶。

 失う苦痛と、トラウマ自身の苦痛、その両方から恭介を守る術は、本当にないのだろうか。

 なつみは目を閉じる。

(5年前の記憶――)

 当時のなつみは小学六年生。妹が2歳。

 未だにおむつ替えが上手くできずに苦労して、哺乳瓶、ベビーベット、初めて立って歩いて裾を掴んできた妹。無邪気な笑顔。

 ――トラック。

 なつみは首をふった。

(思い出したくない)

 当たり前だ。辛い記憶なんて忘れてしまいたいに決まっている。

 バラリ、と重たい音を立ててノートがその灰色の中身を見せた。

 そこには、五年前の『ある事件』を示す記事だけが無造作に貼られている。

『連日の大雨で大規模な土砂崩れ。行方不明者多数』

『土砂災害、重傷3名軽傷10名、未だ行方不明者5名』

『小学生2名、未だ見つからず』

『橋本恭介くん(12)無事救出。命に別状なし』

 見出しだけを流し読みしながら、なつきは何とも言えない後ろめたさに襲われていた。

 あまりにも直球な事件。

 恭介は、12歳の若さで遭難を経験し、命の危険に晒されたことがあるのだ。

(それでも、少しでも恭介くんのこと、知っておかないと)

 なつきは、一度息をつくと、バラバラにされた記事に手を伸ばした。

「夏瀬先輩?」

「きゃあ!」

 突然背後から聞こえた声に、なつみは思わず声をあげた。

 そして、その次の瞬間になつみは自分が図書室に居ることを思い出した。

 慌てて口を塞いで振り返ると、そこには中間服を身にまとった、小柄な少女がぽかんとした表情でなつきを見つめていた。

 考えるまでもない、図書委員の柊志雪である。

「ひ、柊さん。吃驚した」

「吃驚なのはこっちですよ。ここ、図書室ですよ。大声はよくないです」

「ご、ごめんなさい」

 なつきは、謝りながら後ろ手でノートを片付けた。

 その仕草よりも、先ほどの悲鳴がよっぽど珍しかったのか、柊はなつみの手先よりも表情をまじまじと覗き込んでくる。

「夏瀬先輩が悲鳴だなんて珍しいですね。その様子だと、閉館時間を過ぎてるのも気づきませんでしたか?」

「え?」

 志雪の言葉に、なつきはまず自分の耳を疑い、次に慌てて周囲を見回した。

 放課後すぐに訪れた図書室は、既に煌々とした蛍光灯に照らされ、窓は雨も見えないぐらいの暗闇に塗りつぶされている。

「ご、ごめんなさい」

「いえいえ。校内指折りの美人こと夏瀬先輩が足しげく通ってくれるお陰で、図書室の貸し出し冊数が右肩上がりになってるんですから! 感謝こそすれ責める事なんて何一つないですよぅ」

 おどけて笑ってみせる志雪に、なつみは思わず苦笑いした。

 図書館通いが趣味のなつきにとって、図書委員の志雪は丁度良い話友達である。

 もちろん、先輩と後輩という上下関係はあるものの、2人が仲良くなるのに時間はかからなかった。

「じゃあ、私はそろそろ閉館の作業に戻りますね」

 志雪はそう言うと、中腰から立ち上がって軽やかな足取りで片付けを始めた。

「そうそう、夏瀬先輩に聞きたいことがあったんですよ」

「何?」

「橋本先輩と付き合ってるって本当なんですか?」

 なつみは3度目の驚きに襲われた。

 今日は驚いてばかりである。

「上回生の人が言ってましたよ。何でも文化祭のお化け屋敷の中で抱きついたとか何とか」

「ううー…」

 口に出して言われると恥ずかしい。

 抱きつかれた直後にクラスの人に取り囲まれた時のことをを思い出すと、なつみはうなだれた。

「そっかあ、付き合ってるんですねー…」

 呟くような志雪の声に、なつきは違和感を感じた。

 普段なら、ここぞとばかりになつきをからかってくる絶好のタイミングのはずだ。

 しかし、顔を上げても、そこには少し寂しそうに笑う志雪の表情しかない。

「柊さん?」

「何となく、避けられてるのかな、とは思ってたんですけどね」

 誰にいう訳でもない、声。

 仕方ないですよね。と、志雪は寂しそうに笑っていた。

(ああ、柊さんは恭介くんのことを……)

 なつきはその姿に沢山の事を理解した。

 志雪が春子の親戚であることは、恭介から既に聞いていた。

 恭介は恐らく、志雪の気持ちに気づいていたのであろう。

 そして、この健気で素直な後輩が、真っ直ぐ傷ついて、真っ直ぐ苦しんでしまう姿に耐えられなかったのだろう。

 現に目の前に立つ少女は、誰を恨む訳でも誰を呪うわけでもなく、真っ直ぐに自分の失恋と向き合っている。

 だからこそ、彼女の恋心の一途さが分かって胸が痛んだ。

「柊さ…」

「夏瀬先輩! 私、夏瀬先輩のこと応援します!」

 何か言おうと開いた口を塞ぐように、ピンと背筋を伸ばしたような真っ直ぐな声が覆いかぶさった。

「私、夏瀬先輩の良い所いっぱい知ってますから。夏瀬先輩だったら全然大丈夫です! 私の分もいっぱい橋本先輩を支えてあげて下さい!」

 真っ直ぐな瞳。

 言い終えると、志雪は「てへへ」と笑いながら背伸びをした。

「よーっし! 気合入れて片付けるぞーっ!」

 そんな後ろ姿に、なつみは好意だけが浮かんだ。

(なるほど、卯月先輩が私を嫌う訳だわ……)

「じゃあ、私も気合入れて手伝うよ。帰りに一緒に喫茶店行こう」

「やったー!」

 藍色に塗られた窓の外では既にみぞれが降り始めている。

 その冬支度にも負けない春の陽気が、図書室を包み込んでいた。


 * * *


「それで、卯月はその夏瀬さんとやらの何がそんなに気に食わんのや」

 古びた化学実験準備室に、どこの方言ともつかない訛りの男声が響いた。

「別になつみ自体が気に食わない訳じゃない。あいつはあいつで良い後輩だ。優しくて気立てがよくて、私個人としては好きだ」

「つまり橋本くんに彼女が出来るんが気に食わん訳か。そりゃ見事なブラコンやなぁ」

「九条。私はブラックユーモアを聞きにきたわけじゃないんだが」

 春子の殺気を帯びた目線に肩をくすめると、男はいそいそと三角フラスコ下のランプに火をつけた。

 男の名前は九条(くじょう)

 春子と同じ3年生である。

 学校唯一の化学部員であり、暇を持て余しては化学実験準備室で珈琲や紅茶を作っている。

 学ランの上には白衣を羽織っており、その白衣を体育の時間以外に脱いだ姿を見た生徒は居ない。

 要するに、変わり者なのである。

「卯月。今日は何にする?本日は、珈琲、紅茶、玄米茶、ココアからポタージュまで取り揃えとるで」

「紅茶。アールグレイを頼む。ミルク付で」

「ほいほい」

 九条は、お湯の沸騰した三角フラスコをハンカチで持ち上げると、ティーパックを入れたビーカーに注いで卯月の座る机の上に置いた。

「ほいミルク、あとはセルフサービスや」

「ありがとう」

 春子のこのありがとうを聴くのが恭介や秋一郎だったならば、2人が卒倒する姿が見れたであろう。

 九条は特に気にする様子もなく、残りのお湯をインスタント珈琲入りのビーカーに注いでいた。

 春子と九条は、一緒にこうしてお茶を飲むことが多い。

 特に友達という訳でもなければ、恋愛感情などとは全く縁のない間柄だ。

 腐れ縁、というのが最も適切なのだろう。

 アールグレイ独特のフルーティな香りに包まれながら、春子は呟くように口を開いた。

「恭介は、記憶喪失なんだ」

「5年前の土砂崩れのやつか?」

「ああ、見つかるまで1週間もかかった。運よく山中の洞穴に逃げ込んでて助かったんだが、そのせいで…」

「それならホンマに余計なお世話や」

 春子は顔をあげた。

 九条は面倒くさそうにビーカーを揺らしながらこげ茶色の液をまわしている。

「解離性健忘は、本人が膨大なストレスでトラウマをよう処理できへんから起きる。問題なんは記憶を失ったことやない。それだけ処理できない心の傷を背負ってる事が問題なんや」

 まずそうに口をつけたビーカーからこげ茶色の液体が九条の口に吸い込まれた。

「やったら、彼女ができるんは大正解やろ。ラブラブ生活でストレス発散して、幸せ満喫したら心にも余裕ができる。そしたら難しいストレスやていつか処理できるようになるわ。歓迎こそすれ嫌う理由になんてならんやろ」

「……」

 春子は、ふた代わりにおいた手帳をビーカーから持ち上げると、ティーパックを取り出し、珈琲用のミルクを入れてかき混ぜた。

「……そうやって過去を思い出せと言うのか?」

「何心配してるん? 橋本くんはもう小ちゃい子どもと違うんやから、思い出したかて潰れたりせえへんよ」

「そういう問題じゃない」

 春子は凛と呟くと、紅茶入りのビーカーに口をつけた。

「私は、乗り越えられるかどうかとは関係の無い位置で、恭介に思い出して欲しくないんだ」

 九条は返事をしなかった。

 それは、言う事を頑なに受け入れない春子への反抗ではない。春子が何か別の次元で何かを考えている事に気づいたからだ。

 どこからか隙間風が吹いた。

「九条」

「なんや?」

「笑わないで聴いて欲しいんだ」

「うちのディフォは笑うことやから、いらん心配はせんでええよ」

 九条の返事に、春子は苦笑いを見せた。

 廊下の向こうから、生徒の笑い声が聞こえた。

 吹奏楽の練習音、運動部の掛け声。

 春子は息を吐いた。

「お前は、幽霊を信じるか?」

 九条の口元が歪んだ。


      3


 いつものメンバー、と言われたら、誰を思い浮かべるだろう。

「春ちゃん卒業おめでとう!」

「ありがとう、雪花」

 桜舞い散る校門で、雪花が両手を掲げて笑った。

 雪花の前には、来月には中学生となる春子と、卒業式のお祝いに駆けつけた幼馴染が微笑ましく見守っている。

 恭介、春子、秋一郎、雪花。

 これが、恭介の思う『いつものメンバー』だ。

「でも寂しいなぁ、私ずっと、春ちゃんと恭ちゃんと秋ちゃんと一緒に居られると思ったのに」

「そりゃ無理だろ。中学だけじゃない、高校も大学もあるんだから、ずっと一緒ってのはなぁ」

 黒いランドセルを背負った秋一郎が、呆れたという顔を浮かべている。

「いや、そうでもないぞ。最年長の私が今6年でお前らが5年で雪花が4年生なら、学校さえ同じなら大学まで一緒にすることはできる」

「ちょ! 春ねぇ、さすがにそれは…」

「やったー! じゃあ、一緒の中学に行って! 高校に行って! えっと、あれ?」

「高校の次は大学か『しゅうしょく』じゃないかな?」

 はしゃぐ雪花に恭介が助け舟を出す。

「そ!そうそう! 高校卒業しても全員が大学に行くわけじゃ…」

「じゃあ一緒の大学行って!次は…えっと、あれ?」

「大学の次は『だいがくいん』だったかな」

 不敵に笑う春子が後を続けた。

「じゃ、じゃあ! 一緒の『だいがくいん』に行く!」

「あのー、ひょっとしてさっきから物凄いこと言ってない? 俺ら」

 秋一郎の一声に、どっとした笑いが生まれた。

「いいじゃないか、夢は大きくだ」

「わーい! これで私達ずっと一緒だーっ!」

 雪花を見守る視線も、4人を見つめる大人たちの視線も、包み込む桜の花びらたちも、全てが優しかった。


 * * *


 恭介と雪花が見つかったと聞いたのは、遠足が土砂崩れに巻き込まれて1週間後のことだった。

 秋も深まった夕焼けの日である。

 カンカンカンカンと革靴から甲高い音を立てながら、春子は切れる息すら忘れて病院へと走っていた。

 恭介と秋一郎は小学6年生、卒業遠足での出来事である。

(どうして、どうして――)

 誰とも言わず恨めしい気持ちがこみ上げる。

 連日の雨で地盤が緩んでいた。それを知っていても当日にようやく晴れ間が見れ、子どもたちは「てるてる坊主を作った甲斐があった」とはしゃいでいた。楽しみにしていた子どもたちの想いを優先したかったのだろう。しかし学校の落ち度を呪ったところで、2人が無事に帰ってくるわけでもない。

 72時間。

 それが専門家に言われた生存率の壁だった。

 土砂災害の被害者は、恭介と雪花以外全員72時間以内に発見され、大小様々ではあっても死亡者を出さずに済んでいた。

 恭介と雪花だけが、72時間を経過し1週間過ぎてもなお見つからずにいたのだ。

 カンカンカンカンカン。急ぎわたる歩道橋がうるさく悲鳴をあげる。

(それでもいい、見つかってくれたのなら)

 2人が見つかったのは、土砂に流された崖の途中にある洞穴の中だった。

 春子は走りながらセーラー服のスカートからメモを取り出した。ぐしゃぐしゃになったメモからは「県立総合病院」と走り書きされている。

 しかし、目に見える建物とその文字を照合させることなく、夕映えに一際目立つ白い建物が直ぐに目に飛び込んできた。

(病室の番号…いや、先に名前を受付で確認して…)

 すぐさま受付に飛び込もうとしたその時である。

「春ちゃん」

 聞き覚えのある声に呼び止められて、春子は飛び跳ねる勢いで振り返った。

「雪花!」

 そこには、事件の日と同じ紺のセーターに花柄のスカートの雪花が立っていた。

「良かった…、良かった! 心配したんだぞ」

「春ちゃん? 私が見えるの?」

「何言ってるんだ!当たり前だろ!」

 安堵の感情に背中を押されるように、春子は雪花に飛びつき、きつく抱きしめた。

 腕から、たよりない身体ながらも確かな体温を感じる。

「良かった…本当に良かった」

「春ちゃん…」

「何か食べたいものあるか? お腹すいてるだろう。それとも疲れたか? だったら病室で休もう。雪花の病室はどこだ?」

「……」

「雪花?」

 安堵の気持ちに気を取られすぎていた。目の前に居る少女の違和感に気づいて肩に手を置くと、春子は怪訝そうに雪花の顔を覗き込んだ。夕焼けのせいで黒く深く染まった顔。そこには悲しみとも諦めともつかない微笑があった。

「どうした、何かあったのか?」

 遭難の疲れとも思えない疲労とは違う表情。

 まさか、恭介の身に何かあったのか?と春子が続けようと口を開いた。

「春子。どうしたの? そんな所で」

「え…」

 声に反応して顔を上げると、そこには春子の母親の姿があった。

 その動作と同じくして雪花は少し春子の後ろに隠れるように立った。

「母さん…」

「おばさん…こんにちは」

 春子の母親は、小さく呟く雪花に視線を向けることなく、真っ直ぐに春子を見据えていた。

「恭介くんでしょう? 病室ならこっちよ」

「う、うん…」

 足早に春子を中庭の向かいにある病棟へと促す母親。

 春子は違和感を感じていた。

「……母さん」

 母親に促され、春子と雪花は病棟へと続く中庭のタイル廊下を歩き出した。

 夕暮れも傾き、黄金色の光が真横から容赦なく照りつける。

 中庭を歩く春子の正面にそびえる白い病棟が、夕陽を照り返す様は、壁自体が光輝いているように見えた。

「恭介は…無事なのか?」

「あら聞いてなかったの?」

 問いかけた母親の顔が真っ黒に染まっている。

「恭介くんは軽い怪我だけで命に別状はないって。まぁ流石に衰弱がひどいようだから暫くは安静みたいだけど」

「そ、そっか…」

 中庭のタイルに黒い3つの影。

 春子の目の前には半身を黒く覆われた母親。後ろにはほとほとと雪花が歩いている。

(何かが、おかしい)

 春子は自分の感じる違和感が、一体どこから来るものなのか分からなかった。

 先ほどの雪花の表情のせいだろうか。

 雪花も恭介もこうして無事に居るというのに、それとも恭介の元気な姿をまだ目で確認しないまま無事だと聞いたからなのだろうか。

(雪花は、恭介が無事だって知ってたんだよな)

 春子は雪花の方を振り返った。

 雪花の表情は確認できない。彼女は表情が見えないぐらい項垂れていた。

「ほら、春子あそこよ」

 随分長く歩いている気がした。立ち止まった母親が指差す先に中庭に面した廊下と、病室が見える。

『103橋本恭介』

 生きている。

 ネームプレートの存在が、これほど説得力を出してくれたことがあっただろうか。

 春子は胸に手を乗せ息をはき出した。

「そうか、良かった。恭介も雪花もちゃんと無事なんだよな」

「……」

「母さん?」

 病室のドアに手をかけ、まさにあけようとした母親が固まった。

「母さん?」

「春子、落ち着いて聞きなさい」

 再度確認しようとした春子の肩を、今度は母親が掴んだ。

 こんなに、この病院は静かだっただろうか。

 後ろでかすかに衣服を引っ張る感触がした。

「雪花ちゃんはね、見つかった時、もう死んでたんだって――」

 目眩が、した。


 鍬野秋一郎が病院に駆けつけたのは、春子がたどり着いてから30分ほど後のことだろうか。

「雪ちゃん、何か飲みたいのある?」

「ココア…」

「春姉は?」

「紅茶ならなんでもいい…」

「じゃあちょっと待ってて。そこに自販機あったから買ってくる」

 秋一郎は雪花を一目見て、その場に凍りついていた。恐らく、彼女の死を既に知っていたのだろう。

 軽い足取りで自販機に向かう秋一郎を見送ると、雪花は先ほど春子の前でしたそれと同じように、同じ表情で俯いた。

 3人が居るのは病院の裏庭だ。

 目眩を理由に面会と母親から逃げるようにたどり着いた裏庭に、雪花と共に項垂れていた。

 携帯で秋一郎を呼び出すまでの間、春子と雪花が言葉を交わすことはなかった。

「春ちゃん…」

 俯いたままの雪花から弱々しい声が鳴った。

「なんだ」

「ごめんなさい」

「雪花が謝らなきゃいけない事があるのか?」

「……」

 雪花は黙って首を横に振った。

 彼女が謝る理由は簡単に想像できた。春子の心中を察しての言葉なのだろう。

 しかし、今一番辛いのは春子ではない筈なのだ

「お待たせお待たせー」

 裏庭の壁から、秋一郎が素っ頓狂な声をあげながら「アチアチ」と3つの缶を運んできた。

「はい、雪ちゃんはココアねー」

「ありがとう…」

「そして、春姉には…じゃじゃーん、俺特製のおしるこー…って痛い痛い!」

 紅茶とおしるこの両方を持っておきながら敢えておしるこを差し出す秋一郎の耳たぶを、春子はここぞとばかりに引っ張ると、秋一郎の手元から紅茶を取り上げた。

 その様子が面白かったのだろう、花壇に腰掛けていた雪花がクスクスと笑い出した。

「よしよし、やっぱ雪ちゃんは笑ってる方がいいや」

「あ…」

 秋一郎はいつも通りの笑顔を浮かべたまま、雪花の頭を撫でた。その姿に、春子は敵わないな、と口元をゆるめた。

「俺、ユーレイって見たことなんだけど、こんなにはっきり見えるのもなんだ?」

「わ、わかんない…」

「缶も持ててるし、飲めるみたいだし。他の人には見えないなら、その缶や飲んだものはどう見えてる訳?」

「「あ…」」

 春子と雪花は同時に言葉を発した。秋一郎の指摘が完全に盲点だったからだ。

「まぁ俺頭悪いし、俺が考えてもアレだから。とりあえず恭介にだけでも会っていけば? 俺がさっき会った時はもう元気だったからさ」

 秋一郎は左手を腰にあてて勢いよくおしるこを飲み始めた。あずきの流れが悪いのか、時々缶の底を手のひらで叩いている。

 雪花は花壇から地面に届かない足をゆらしながら、空になったココアの缶を指でいじっていた。

「恭ちゃんに…私が見えるのかなぁ」

「大丈夫大丈夫! 根拠はないけど、俺と春ねぇが見えるんだ。恭介が見えねーわけないだろ? なぁ春姉」

「……でも、最初に会った私のお母さんは……私が見えなかったんだよ?」

 ぽたり、と音がした。

 ココアの缶に落ちた涙がゆるやかなウェーブを描いて細い指に染み込んだ。

「私……もう誰かに見てもらえないの、嫌だ……」

 足を抱えて花壇にうずくまり、雪花は嗚咽をもらし始めた。

 この健気な泣き声すら、もう誰にも聞こえないのだろうか。

 困ったように目配せする秋一郎に頷き、春子は雪花の隣に腰掛けて雪花を抱きしめた。

「雪花、いいよ。今は思いっきり泣け」

 その言葉に応じるかのように堰を切ったような泣き声が響き渡った。弱々しく震える指が強く春子の制服に食い込む。

「大丈夫だ。お前が何回辛い思いをしても、私と秋一郎が何度でも泣き場所になる。だから、泣くことを怯えなくていいんだよ」

 言いながら、春子はようやく病院で会った時の雪花の表情がどういう意味なのかを理解した。

(どうして、どうして)

 こんなに無垢な少女に、あんな表情をさせる事態を生み出した原因を恨んだ。それが何か分からなくても呪うしかできなかった。

「……ひょうひゃんにあいひゃい」

 腕の中から、嗚咽に混じった声が聞こえた。

「恭ちゃんに、会いだい」

 顔をあげて涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、雪花は再度繰り返した。

 迷いはなかった。どんな結果になろうとも、春子にも秋一郎にも受け止める覚悟が出来ていた。

「よし分かった。秋一郎も一緒だ。3人で恭介に会いに行こう」

 春子はそう微笑むと、雪花と共に花壇を降りた。

 夕暮れは既に沈み、あたりは藍色の闇と煌々と照らす水銀灯に輝いていた。


 * * *


 どうあがいても絶対的に絶望になると分かっていたら、希望を持たせるような言葉も出てこないのだろう。

 だからこそ、絶望は希望の後にしかやってこないのかもしれない。

 最初に恭介の病室に入ったのは、秋一郎だった。

「よう恭介」

「なんだよ、お前帰ったんじゃなかったの?」

「へっへー、お前を心配してる人に会ったから、連れてきてやったのさー」

 秋一郎の目配せに合わせて、春子は雪花の背中を押した。

 雪花は、一度春子を振り返ったが、何かを決意したように唇をかみ締めて病室に進んだ。

 続いて病室に入った春子の視界に、真っ白なシーツと、ベットに腰掛ける少年の姿が見える。

「恭介…」

 無事である姿に安堵した気持ちが、思わず春子に口を開かせた。

 その言葉に応じるように、恭介はやつれながらも瞳を輝かせた。

「春姉、来てくれたんだ」

「恭介、無事で良かった」

 春子の声にはどれだけ心配と安堵の想いがこもっていたのだろうか、恭介は大丈夫だよと笑うと視線を春子から雪花に移動させた。

(良かった)

 春子と秋一郎は目配せした。

 少なからず、恭介には雪花がきちんと見えている。

 安堵した春子が、続けて雪花に喋らせようと口を開いた時だった。

 恭介は雪花を見つめたまま、予想外の言葉を紡いだ。

「えっと、初めまして」

 春子たちの視界が一瞬、真っ白になった。

 何が起きたのか認識するのに少し時間がかかった。

 ベットの上に腰掛ける恭介は、相変わらず不思議そうな視線で雪花を見つめている。

「おまえ! 何言ってるんだよ!」

 最初に言葉を発したのは秋一郎だった。

「誰に向かって『初めまして』なんて言ってるんだよ!」

 入院用の寝巻きの襟首をひねる勢いで、秋一郎は恭介に食って掛かっていた。しかし恭介が謝る気配はない。それどころか、今度は秋一郎すらも驚いたような顔で見つめ返している。

「誰にって……そこの女の子だけど……。あの、俺物忘れひどいから……ごめん、ひょっとして俺と同じクラスの子だった?」

「同じクラスって……」

 秋一郎が息を飲んだ。絶句というのはこの状態なのだろう。弱まった指からぱさりと寝巻きの襟がおちる。

 恭介の表情は変わらない、戸惑いと困惑。

「春姉」

 助けを求めるような声で、恭介が春子の方を見た。

 その声に呼ばれて漸く春子は自分が呆然と病室に立ち尽くして居たことに気づく。

「あの、ごめん……俺本当に分からなくて。この子、どういう子なのかな」

「……」

 歯の奥歯から不自然な音が鳴った。歯を食いしばりすぎているのである。しかし、そうでもしないと秋一郎のように食いかかってしまいそうだった。

「――柊志雪です」

 その空間を破った声は、誰のものでもない、雪花本人の声だった。

「雪花、何を言って…」

「雪ちゃ…」

「私の名前は柊志雪。柊雪花の妹です」

 秋一郎と春子をふさぐように立つと、雪花はそういって恭介に微笑んだ。

 恭介は相変わらず怪訝そうにしている。

「ひいらぎしゆき、さん?すみません姉のせつかさんは僕と何か知り合いだったんですか?」

「はい。姉の雪花は、橋本くんと一緒に遭難したんです。でも残念ながら…」

「そうだったんですか…」

 恭介は、雪花の言葉に深く項垂れた。

 違う、そうじゃないんだ。と言おうと前に出る春子の腕を秋一郎が引っ張る。

「すみません、俺、全然覚えてない…それどころか、自分だけ助かって…」

「いいんですよ」

 雪花はにっこり微笑んだ。

「姉は、橋本さんの大ファンだったんです。橋本さんが助かって無いほうが、きっと姉にはつらかったでしょうし。そう悲しんでくれるだけで姉は十分幸せものですよ」

「……柊さん」

「しゆき、です」

 雪花は、恭介の両手を握った。

「私の事はこれから、志雪と呼んで下さい」


 それから橋本恭介が柊雪花のことを思い出すことはなかった。

 雪花の姿は、その後も『子ども』にしか見ることができず、春子の姉の家に住むことになった。雪花の希望もあり、春子はできるだけ制服を手に入れ、雪花を学校に連れて行った。

 それが、柊志雪の始まりである。


      4


 何かを崩し落としたような音を立ててドアが開く。

「おはよう」

 極力中の様子を悟らぬように呟いた声に、クラスメイトが戸惑いの笑顔を浮かべた。

「お、おはよ」

「橋本、身体はもう大丈夫なのか?」

「授業、分からないところあったらいつでも言ってくれよ」

 恭介を取り囲んで気遣いの言葉をかける友人達の笑顔には、必ず『誰か』を想い憂う表情があった。

(うるさい)

 そう、思わずに居られなかった。

(俺が、何をしたって言うんだ)

 鉛のように重いランドセルを投げ捨てたい思いで机に置いた。

 ――誰にも言ってはいけませんよ。

 母親の声が心臓を縛り上げるように再生された。

 ――雪花ちゃんの記憶がないなんてことは。

 うるさい。

 うるさいうるさい。

 視線――。

 机からあげた視線に、クラスメイト。その向こうの教室の窓、廊下。そこには真っ直ぐに恭介を見つめる春子が居た。

 ――うるさい。

 柊雪花なんて、俺は、知らない。


 * * *


「恭介くん、恭介くん。大丈夫?」

 歪んだ視界の中に、優しい声が溢れる。

 ピントを戻していく世界の中に、焦げた色のタイルとなつみの白い顔が映った。

「なつみ……」

 2人が居るのは中央図書館のロビーだった。

 なつみは恭介の声に、安心したような表情を浮かべた。

「良かった……心配したよ。ごめんね、私が図書館に行きたいなんて言ったから。体調が悪かったの?今はもう落ち着いた?何か飲む?」

「いや、ただの立ちくらみだよ。……俺のほうこそごめん」

 去年完成したばかりの中央図書館は、以前の無骨な鉄筋コンクリートの味気なさに相反するように、清楚なレンガ造りになっていた。メインの図書館以外にも1階フロアに自習室・自販機ルーム・小型映画館・レストランまで設けており、高校でも話題のスポットになっている。

 初デートに、なつみが中央図書館を希望したとき、まさに外見どおりのおとなしいチョイスに小躍りするほど嬉しかった。

 しかし、いざ中央図書館に入って1時間もしない内に、恭介は目眩を起こして座り込んでしまったのだ。

「ホント、俺って凡ミスばかりやって、馬鹿だよな」

「ううん、そんなことないよ」

 欲しい言葉。

 なつみは濁りの無い微笑みを浮かべると、硬く握り締めていた恭介の両手にそっと手を重ねると、いったん強く握り締めてから両手をはずして立ち上がった。

「やっぱり何か買ってくるよ。恭介くんはオレンジジュースで良かったよね。直ぐ戻るから待ってて」

 なんでこんなに彼女の笑顔に安心するのだろう。

 軽やかに身体を反転させて、レンガ造りの床を軽やかに歩いていくなつみの姿に、恭介は安堵していた。

(なつみさえ居れば、俺はそれだけでいいんだ)

 深い息を吐いて、恭介は再び両手に額を預けた。

 依存――。

 分かっていることだった。恭介はなつみに縋るように頼ってばかりだ。

(この街は、嫌だ)

 春子の視線を思い出す。

 クラスメイトの視線を思い出す。

 両親の視線を思い出す。

 期待――。

(俺って、今のままじゃ駄目なのかな。こんな俺は生きていない方が良かったのかな)

 頭の中がぐにゃぐにゃと入り乱れ、視界が合わせるように歪んでいく。ぐるぐると回っていく頭の中で、図書館内で偶然目に入った医学書の背表紙だけが鮮明に浮かび上がった。

 解離性健忘――。

『焦らなくていいんですよ』

 5年前から通っているカウンセリングの、宮内心理士の言葉が聞こえる。

『思い出せない自分を責めなくていいんです。記憶が無くなるのは貴方の心が抱えるのは限界だって貴方の代わりに言ってくれているんですよ』

(だけど先生、みんなが俺を責めてるんです)

『周りのみんなにもみんななりの辛い気持ちがあるからなんでしょう。何も貴方を責めている訳じゃないんですが、辛いですよね』

(俺が悪いんです。俺が忘れたせいなんです。早く思い出さないと、雪花さんのご両親にも……)

『だから、焦ってはいけません。焦ることが余計に橋本さんの心に負担をかけて、思い出せる余裕もなくしてるんですから。気長にいきましょう』

 でも先生――。

 皆が俺を責めてるんです――。

 春子の視線を思い出す。

(どうして俺は、柊雪花の記憶を失ってしまったんだろう……)

 額を預けた筈の両手が、いつの間にか額に食い込み、細い前髪を掴みあげていた。

 髪を掻き毟る勢いで掴んでいるのに、痛みすら感じない。

『仕方ないですよ』

 志雪の言葉が、トンネル内を反響するように響いた。

 柊雪花の双子の妹。

『姉の雪花は1週間近く橋本先輩と一緒の洞穴に居て、高熱で橋本先輩の目の前で亡くなったんです』

 志雪の言葉はいつだって穏やかで、真っ直ぐだ。

『目の前で幼馴染が苦しんで死んだのに何もできなかったのなら……私が橋本先輩で、雪花が橋本先輩だったら……私だったら間違いなく耐えられませんよ』

(……どうして)

 かみ締めた口の中から歯が悲鳴をあげていた。

(どうして志雪ちゃんが俺を一番庇うんだよ。どうして妹の志雪ちゃんが俺を責めないんだよ)

 それが恋愛感情だと言うのなら、これほど疎ましい恋愛感情があるだろうか。

 髪を掴んでいた指先が、いつの間にか額に爪を食い込ませていた。

 せめて、志雪が口汚く恭介を責め憎んでいていれば、春子やクラスメイト達が気遣う言葉の裏に、あんな飲み込みづらい感情を含ませることもなかったのだろう。

 春子の視線を思い出す。

(どうして、俺は許してもらえないんだろう)

 もうあれから5年の月日が流れた。

 中学に進学して高校に進学し、小学校時代のクラスメイト達とも少しずつ切り離されても、春子とはどこまでも同じ高校で、志雪とも同じ高校だった。

 記憶を取り戻せない自責の念が、どうして自分だけ生きてしまったのかという気持ちに変わることすらあった。

 俺なんか――。

 額に食い込ませた爪が、皮膚を抉る。

 俺なんか、死んでいれば良かったんだ――。

 胸の内の黒い塊が、恭介自身を飲み込む勢いだった。

「恭介くん!」

 甲高い声が響いた。

 その声に弾かれるように、黒い塊が飛び散る。

 そこには、両手に缶ジュースを持ったなつみが立っていた。

「恭介くん! どうしたの? きついの?」

 鞄と一緒に投げ捨てるようにジュースをベンチに置き、なつみの指が強張った恭介の両手を包んだ。

「ごめんね! きついのに離れてごめんね! もう大丈夫だから――っ」

 どうしてその時、そうしてしまったのだろう。

 恭介は、なつみを抱きしめた。

 すべてをかなぐり捨てるように。

「恭介、くん……?」

 戸惑いの声が腕の中から聞こえる。公共の場所であることなんて、もうどうでも良かった。

 腕の中に居る小さな体温が、数秒小さく動いた。しかし、それは周囲の視線を意識することなく、ゆっくり細い腕を恭介の背に回してくれた。

 子どもを慰めるように撫でることもない。添えるような優しさが伝わってくる。

「大丈夫、だよ……?」

 呟くような、ささやくような声。

(ああ、どうして)

 恭介の指が、なつみのカーデガンに食い込んだ。

(どうして、彼女は俺の一番欲しい言葉をくれるんだろう……)

「なつみ……」

「ん?」

 うつむいた顔を上げることができない。

 恭介はなつみの両肩に手を添えた。

「約束、してくれないか」

「なに?」

「ずっと……」

 そんな言葉を言う資格があるのだろうか。

「ずっと傍に居てくれ」

 搾り出すような声が、悲鳴のように響く。

「頼む。頼む……」

 依存でも何でも良かった。

 今の恭介にとっては、事件の事を知らないでいてくれる、なつみだけが頼りだった。

 震えるように縋る恭介の指に、なつみの指が重なる。

 その感触に、突き放されるのではと持ち上げた視界には、優しい笑顔だけが移っていた。

「大丈夫だよ。私は絶対、恭介くんの傍にいるよ」

「なつみ…」

 感極まって立ち上がろうとした恭介の動きで、ベンチに置かれたなつみの鞄と缶ジュースが落ちた。

 アルミ独特の甲高い音が館内に響き渡る。

 慌てて視線をずらした恭介の視線に、なつみの鞄が入り込んだ。

 鞄から飛び出たノートの中から、新聞記事らしきものが散らばっていた。

『連日の大雨で大規模な土砂崩れ。行方不明者多数』

『土砂災害、重傷3名軽傷10名、未だ行方不明者5名』

『小学生2名、未だ見つからず』

『橋本恭介くん(12)無事救出。命に別状なし』

『柊雪花ちゃん(11)涙の帰宅』

 そうだ。

 きっともう直ぐ迎えに来てくれるんだ。

 それとも、ひょっとしたもう既に来てて、周囲で面白がって隠れてるだけなのかもしれない。

 わっ! と言って皆出てきて驚いた? と聞いて笑ってくれるんだ。

 はじけるように、恭介の世界に神様よりもリアルな現実が飛び散った。


      5


 呪うという行為でしか救われない現実なんて存在しちゃいけない。

 雨の音が、世界の終焉のようにさえ感じる。

「雨、やまないね」

「……」

 指先で感じていた熱は、今は腕の中にもたれかかっていた。

 もう、どのぐらいだろうか。

 恭介と雪花が土砂に流されて、もう何時間、何日経ったのかすら、もうよく分からない。

「でも大丈夫だよ。僕らはずっと一緒なんだから、ね?」

「……」

 励ましの声が聞こえているのか居ないのか、雪花からの返事はない。

 雨の冷たさに腕が弱っているのか、雪花の重みすら増した気がする。

「雪花ちゃん?」

 返事がない。

「雪花、ちゃん……?」

 どうして同じ質問を2回もしてしまったのだろう。

 不安と焦りと絶望の予兆が一気に背中を駆け上がった。

「雪花ちゃん? ……雪花ちゃん? 雪花ちゃん! 嘘だよね! ねぇ! 雪花ちゃん! 起きて! ねぇ! 雪花ちゃんっ!」

 包む筈の恭介の指は、いつの間にか雪花を掴む指へと変わっていた。

 疑いはいつだってそうだ。疑い出した時点で、もう止まらない。

「嘘だよね…? だって一緒だって言ったよね? ねぇ! 一緒なんだよね!」

 ざあざあと雨が降り続いていた。

 それは果たして声になっていたのだろうか、それとも雨が吸い取ってしまったのだろうか。

 悲鳴とも泣き叫ぶ悲しみともつかない絶叫が世界の外へと撒き散らされた。


 * * *


「先に言うといてええか?」

 化学実験準備室に、香ばしい珈琲の匂いが広がる。

 沸騰した湯が気泡を浮かべる丸型フラスコを転がしながら、九条はその気泡を数えるようにフラスコだけを見つめていた。

「ウチは見ての通り、科学が大好き人間や。非科学的な事は好きやない」

「分かっている」

 覚悟と諦めの入り混じる春子の声と、握り締めるチェック柄のスカートがプリーツの型を崩した。

 非現実だという理由で引き下がれるほど、春子の見た現実は希薄なものではない。

 空になった春子のビーカーごしに九条の白衣が不自然に白く光ったように見えた。

「幽霊は科学で証明されてない分野や。その柊雪花って子の話は不思議でいっぱいやけど、分からんから言うて直ぐ非科学に走るのはナンセンスやで」

「だが…」

 反論しようとする春子を制するように、九条は春子の空のビーカーを拾い、丸型フラスコのお湯を注いだ。

「せやから、今からその雪花ちゃんの事について科学的に説明しようと思てる」

「何?」

 お湯の入ったビーカーと三角タイプのティーパックが渡された。

 思わぬ発言に、受け取ったビーカーとティーパックと交互に見つめる九条の顔には、不敵な笑顔が浮かんでいた。

「卯月は『Real Over』って知ってるか?」

 リアルオーバー。

 初めて聞く単語に、春子は戸惑いを隠せなかった。

「まぁ、知らんで当然やな。つい最近超心理学で発表されたばかりの論文やから」

「超心理学…?」

「超心理学って言うんは、科学の一つで超能力や超常現象を研究してる分野のことや」

「ちょっと待て」

 いきなりの聞きなれない単語続きに、春子は思わず右手を九条の前に掲げた。

 話が長くなること、また、これから春子にとって想像もできない話が待ち受けている事が予測できた春子は、ティーパックをビーカーに入れてビニール製の緑色の手帳を上に載せると、椅子の横に置いた鞄から砂時計を取り出してビーカーの横に置いた。その姿に九条が肩をくすめながら「律儀やなぁ」と笑った。

「お前はさっき『科学』で説明すると言っていただろう? 話がいきなり非科学になってないか?」

「この話は非科学やあらへんよ」

 九条の表情は変わらない。

「心理学も超心理学も立派な『科学』や。日本やからまだ占いの域を超えきれてへんだけで、きちんとした統計や数字で説明できるものなんやで?超能力研究をメインにしよる超心理学は1889年にドイツの心理学者から始まった学問で、もう100年以上も研究されとる」

「百万歩譲ってその話を信じてもいいが、それで超能力が科学で、幽霊が非科学になる理由が分からない」

 余程胡散臭そうな表情をしていたのだろう。九条は春子の顔を見ると、苦笑いを浮かべながら背もたれに身体をあずけ「せやなぁ」と笑いながら身体を揺らした。

「人間って生き物は傲慢や。分かってるつもりで分かってないことを思い込んで、それが『思い込み』やて気づかんでおることが仰山ある」

「思い込み…?」

「せや。卯月やてウチに関して思い込んで決め付けよる事があるやろ」

「そんなことは…」

 誰だって相手の事を100%理解することはできない。少なからず憶測で決め付ける事もあるだろう。

「じゃあ言うたるで。例えばウチはこう見えて文系や」

「……え?」

「得意科目は国語」

「……それは、意外だ」

 目から鱗とはこの事だろう。目を白黒させる春子の前で、九条は面白そうに笑っていた。

「人は知らず知らずの内に思いこんでるんや。『白衣を着る人間は化学関係の人間である』『化学を好む人間は国語が苦手』やて」

「でも、それは…」

「そうや、大半はそうなんやもな。統計で考えればそう考えるのが妥当や。やけど、そこが盲点やで」

 九条の顔から笑顔が消える。見慣れない表情。

 白衣の腕がゆっくり伸びて春子の机の上にある砂時計を指した。

 いつの間にか砂時計の砂は全て落ち切っており、そのことに漸く気づいた春子は慌ててビーカーから手帳をどけてティーパックを取り出した。

「人は気づいてへん。統計で『大半がそう』なら、そうでないイレギュラーがある筈なのに、それを『大半じゃないもの』やなくて『あり得ないもの』として処理してまう」

 九条がさりげなくシャーレを春子の前に差し出した。

「ウチが文系やて言うた途端、卯月がウチを信じられへんようになったように、大人には『柊志雪』が信じられへん」

 シャーレに出がらしを入れる手が固まった。

「信じられへんから認められへん。どうしても認められへんから見えんのよ」

「…………」

「科学にとらわれない『子ども』には、目に見えたまま素直に『柊志雪』を認識できる。せやけど、大人には『死んだはずの人間が、遺体と別に目視で確認できる訳がない』から認識できへん。そういうことや」

「ちょっと待ってくれ」

 勢いで立ち上がった春子の足が机に当たり、ガタッと言う音と同時にビーカーの紅茶が大きく揺れた。

「そういうことってどういう事だ。死んだ人間が遺体と別に動いているなら幽霊じゃないのか?雪花が幽霊じゃないなら、何だって言うんだ?そもそも『あるはずがない』ぐらいの思い込みで見えないなんて……」

「認めたくないから、橋本恭介ん中から柊雪花の記憶が無くなったんやろ?」

「それは……」

 九条がため息をついた。

 立ち上がったまま動けずに居る春子の机にあるビーカーを持ち上げ、ガーゼで零れた紅茶を拭うと、手元のシャーレからコーヒー用のミルクを取り出し、紅茶の中に注いだ。ガラス棒でゆっくり紅茶を混ぜていく九条の姿に、いつのも笑顔は見えない。

「見えて聞こえて感じるもん全部を100%正確に認識できよる人間は殆どおらんよ。1m先の物が50cm手前に近づいてきて、その物体が2倍に見える人間も殆どおらん。同じ大きさの物やのに、ちょっと周囲に障害物があっただけでその物体を実際より大きく見てしもうたり。人間は見えてるもんやら聞こえてるもんを自分勝手に操作してしまうんや」

 ちなみに今のは認知心理学の話な、と九条は続けた。

「なら、本題にも少し近づこか。『何で超能力がオッケーで幽霊がアウトなんや』って話な」

「……その話は長いのか?」

「なんや面白くないんか?やったらショートカットするわ」

 これから面白くなるんになぁと九条はぼやくと、ひらりと立ち上がり本棚から紫色の本を1冊取り出して春子に投げた。

 慌てて受け取めた教科書サイズの本には、表紙に『超心理学~リアル・オーバーに関する考察~:著・宮内都』と記載されている。

「超心理学はそこから入るんがオススメや。超心理学の基礎から、最新情報リアル・オーバーまでバッチリやで」

「……読んでおく」

「今の超心理学ではな、人間は少なからずPSIサイ……まぁ超能力やな。潜在的に超能力がある言うんが主流や。転がしたサイコロの目が偶然当たる。宝くじが偶然当たる。やたら当たりやすい奴がおる。つまり、Psychokinesisサイコキネシス……ウチらの間じゃPKって言うんやけどな。人間は自分の意思で物体にある程度の影響力を持ってるんや」

 春子は首を傾げた。

 子どもの頃に見ていたテレビを思い出す。胡散臭いバラエティに登場していた超能力者がやっていたことは、主に封筒の中身に描いてある文字や絵を読み取る行為だった気がする。

 その事を指摘すると、九条は「それはESPやな」と続けた。

「超能力は大きく分けて2種類ある。サイコロやらスプーン曲げ言う物体に働くPKと、透視やテレパシーみたいな認知に働くESPや」

 スプーン曲げ、という単語に思わず眉がゆがむ。一気にインチキ臭く感じた事が伝わったのだろう、九条が「ユリ・ゲラーは世界を騒がせたもんなぁ」と笑った。

「PKは現代の測定器やカメラを用いれば測定しやすいのに比べて、ESPは機械で証明するんが難しい。ましてや超能力者って言うんは大抵繊細な神経を持ってたりしてプレッシャーに弱い。そういう意味ではPKよりESPの方がレアなんや」

「話が脱線してないか?」

「そんなに離れてへんよ。ポルターガイストで有名なRSPKって言う能力がある。あれは思春期の子どもや女性が過度のストレスによって起こす言われてるんやで」

 もうとっくに冷めているだろうコーヒー入りのビーカーを、九条が口元に運んだ。

「今から言うんは、ウチらの仮説やけどな」

 春子の目の前の紅茶は、口をつけることなく冷め続けている。

「人間の感情と言われる現象は、脳の伝達物質の関係で発生する。やったらその伝達物質を動かす又は動くことで発生するエネルギーが、めちゃ小さい単位で物質として存在するんやもしれん。そう考えたら、より感受性の高い人間ほどPKで物動かすんも説明つくんや」

 春子は想像した。

 小さい子どもというのは、吃驚するほど不思議な事をいう事が多い。

 見えない友達が見えるだの、ぬいぐるみが喋るだの、鏡の向こうに別の世界があったり、タンスをくぐると別世界に続いていたり。魔法もあれば奇跡もある。それが子どもの語る世界である。

 子どもの言葉に大人は耳を貸さない。嘘としか思えないからだ。しかし、子どもが嘘をつくことが何の利益になるというのだろうか。

(子どもや女性ほど、ストレスによってポルターガイストなどの物質を移動させる能力を持ちやすい……)

 春子の脳裏に、11歳の雪花の姿が映った。

「お前は、雪花がそのPKだと言いたいのか? 死ぬ直前の雪花の死にたくないと思う強い意思が、エネルギー体となって死後も外をさまよっていて、それが私たちの目に見えると?」

「ええ線いってるんやけど、残念ながらはずれや」

 九条がひらひらと手を振った。

「さっきも言うたけど、超心理学ではユーレイって言うのはおらん。研究しよる奴もおるみたいやけど。あくまでウチらが研究してるのは人間の生きてる間に起こす感情がエネルギーとして外に影響を与えるかどうかや。死んだ人間は脳停止やから感情を作れへんしエネルギーも出せん。つまり死んだ時点でアウトなんや。まぁ仮に死ぬ直前の意志が強くてそのエネルギーが残存していたとしても5年もすれば霧散して消えてしまうんがオチや」

 春子は以前秋一郎とした話を思い出した。

 もし、人間が死んだら幽霊になるのだとしたら、霊能者の言う幽霊のいるこの世界はどう見えるのだろうか。という話題で盛り上がったことがあった。

 きっと幽霊がそこらじゅうにぎゅうぎゅう居て、満員電車のように息苦しいだろうな、と言って笑った秋一郎の言葉を思い出す。

「……さっきのRSPKの話やけど、子どもってよう『見えない友達』を作るやろ? それをウチらは『ファンタジー』って呼んでるんやけど。ファンタジーの濃さは人それぞれでな。自分にしか見えへんファンタジーから感受性の高い人だけ見れるファンタジー、これはホンマに極稀やけど物体に影響を及ぼせるレベルのファンタジーを創ることもあるんや」

 芸術家に多いみたいなんやけどな、と九条は続けた。

「ファンタジーが物理的に影響を及ぼす言う現象は、RSPKの親戚みたいなもんや。まあファンタジーは所詮感情によって創るモンやから、感情がコロコロ変わるようにファンタジーも安定せんでおることが多い。やけど……」

「だけど?」

「これはホンマに極稀な話や。ファンタジーの進化系の進化系なんやけど、ホンマに極稀な話。莫大な感情のエネルギーが、『人間』そのものを創ったり、実際存在してる人間を消したりしてしまう事があるんや」

 九条がおもむろに座りなおして、真剣な顔の前に両手を握った。

「それを、ウチらは『Real Over』って呼んでる」

 リアル・オーバー――。

 感受性の高い人間が、その強い感情を莫大なエネルギーに変えて一人の人間を作り出す――。

「まさか……」

「そう、そのまさかや」

 ぴちゃん、という音を立てて紅茶が揺れた。

「柊志雪は、橋本恭介が作り上げたリアル・オーバーや」


      6


 どうして自分はこんな大切な事を忘れていられたんだろう。

「ここで一つ、ウチは卯月に謝らなあかんことがある」

 視界にある、新聞記事が歪み、身体の中にある歯車が一気に逆方向に動き出す。

「リアル・オーバーを起こした人間は、大抵がその対象になる人物の記憶を失ってまう」

 自分は、柊雪花を知っている。

 遠くで誰かの声が聞こえる。

「この現象には諸説色々あるんやけど、問題は、万が一、橋本恭介が思い出してしもた時の話や」

 ――柊志雪です。

 どうして、彼女はそんな事を言ったのだろう。

「前も言った通り、記憶を失うん言うんは、その現象が受け入れられんほど『強い』ショックやからや。そんなに強いショックやなくなれば思い出せる」

 志雪ちゃんは、雪花ちゃん本人だというのに。

「橋本恭介が柊雪花のことを思い出す時言うんは、彼の中にある『柊雪花に生きていて欲しい』という気持ちが緩まった時や。張本人がそんなに強く望まんようになれば、自然とエネルギー体は霧散して薄くなって消えてまう」

 探さないと。

「つまり、橋本恭介が柊雪花を思い出した時点で、柊志雪は消えてまうんよ」

 雪花ちゃんを、探さないと――。


 * * *


「志雪ちゃん。お待たせお待たせ!」

 冬の訪れを感じる、肌寒い風が中間服の隙間から侵入してくる。

「ほら、志雪ちゃんは紅茶だったよね?」

「ありがとうございます。鍬野先輩」

 神社の境内に座る志雪は、秋一郎の差し出すミルクティーをありがたく受け取った。

 2人は、丘の上にある神社に居た。

 今日も恭介を待って校門に佇んでいた志雪を、秋一郎が呼びかけて連れ出したのである。

「いやいや、俺としては可愛い女の子と2人きりでデートできるだけで、紅茶なんか100本でも1000本でも買ってあげられちゃうよ!」

 着崩した学ランから入る寒気など気にもとめずに、秋一郎は志雪の前でくるくると踊ってみせる。

 その普段と変わらない態度に、志雪は微笑みをこぼした。

「よしよし、笑ってくれた」

「あ……」

「前から言ってるだろ。志雪ちゃんは笑ってる方がいい」

 志雪を覗き込む顔が嬉しそうに笑い、暖かな手のひらが頭の上にそっとかぶさった。

 いつも、秋一郎はそうなのだ。

 決して口に出して説教することも説得することも、自分が率先して人を引っ張ることもない。本当に苦しいとき、真っ先に駆けつけて助けるのではなく、いつの間にかそこにいて、笑えるようになるまで、いつまでもおどけてくれるのである。

「そうなんです。俺は所詮悲しいピエロなんですよ」

 自分の身体を自分で抱きしめ、悲しそうな泣きまねをする秋一郎に、志雪はとうとう我慢できずに声を出して笑ってしまった。

「鍬野先輩って本当に面白い人ですよね」

「ふふふふふ。お気に召していただけたようで何より。気に入りついでに俺のことも『秋ちゃん』って呼んでもらえると嬉しいなぁ」

 『秋ちゃん』という単語に、志雪は身体を強張らせた。

 それは、彼女がまだ『雪花』だった頃に使っていた秋一郎への呼び名だからである。

 ミルクティーの熱を帯びた缶を握り、うつむく志雪を見つめ、秋一郎は更におどけて見せた。

「俺さ、見ての通り素直な少年だろ?嘘つくの超苦手っていうか、演技とか超無理というか、ここ5年ぐらい俺は俺自身に鞭打って生きてきたんだよー。可哀想だろ? だろ? 俺って超可哀想! だから俺は今日は『志雪ちゃん』じゃなくて『雪ちゃん』と素直にお話がしたい訳さー。頼むよ雪ちゃん! この通り!」

「ちょ、ちょっとやめてよ秋ちゃん!」

 言いながら合わせていた両手を地面のうえにつけて土下座を始めようする秋一郎を、志雪こと雪花が慌てて抱えた。

「ふふふ、やっと言ってくれましたね」

「あ……」

 してやったり、という顔で秋一郎が笑い出した。おもむろに開けっ放しの学ランの裏地に手を差し込むと、もう一本、スチール缶を取り出した。

「じゃじゃーん! 実はこの秋一郎。ちゃんとココアもさりげなく買っていました!」

「秋ちゃん…」

「紅茶なんて春姉の趣味じゃん。自分の趣味じゃないことを無理して偽造しなくていーの! ほら! やっぱり雪ちゃんはココアだよね!」

 そう言うと、雪花の手にココアを乗せ、既に置かれていた紅茶を取り上げた。勢いの良い音を立ててタブを空けると片手を腰にあてて一気飲みを始める。

「秋ちゃんには、敵わないな…」

「ふっふっふっ、俺に勝とうだなんて、10年早いのです!」

 山吹色に染まった紅葉が舞い散る境内に、2人の幼い笑い声が響いた。

 2人のいる小雪神社は、昨年建立700年を迎えた。

 700年の昔、戦国の世でこの神社は雪龍神社という名前で、主に巫女が神に戦勝を願う社だったという。しかしある儀式の日のこと、当時の巫女であった小雪が戦に赴く武士への恋慕に、儀式を放棄して逢引を行ってしまった。このことにより神の怒りを買い、神社は雷に打ち砕かれ、戦は敗戦。小雪の愛した武士も戦死してしまった。この事実に心を痛めた巫女・小雪はその日から許しを請うため死ぬまでその場所で祈りを捧げ続けた。その経緯から、後に再建立された神社は『小雪神社』と名を改め、毎年神に許しを請う儀式を繰り返している。と雪花たちは大人たちから教わっていた。

 しかし、その悲恋の物語に反して小雪神社は、今や縁結びの神社として人気が高く毎年年末年始にはカップルが絶えない。

 人間というのはどこまでも強かな生き物だと、春子がよくネタにして笑っていた。

「秋ちゃんは、気づいてるんだよね。私が恭ちゃんと夏瀬先輩のこと、気づいてるって…」

「そりゃ、あの2人に関して気づいてない奴が居ないと思ってるよ。気づかれてないって思ってる恭介がバカなんじゃね?」

 3本目になるコーラの缶に口をつけながら、秋一郎がボヤいた。

「雪ちゃんこそどうすんのさ。2人のこと気づいてるなら、どうしてまだ恭介を待ちぶせしてんの? 今日だって、俺が呼び止めなかったらまだあそこに居るつもりだったんだろ?」

「……どうしてかな。もう癖なのかもしれないね。待ち伏せするのも、恭ちゃんの事好きで居るのも……」

 雪花は、小さく笑うと2本目のオレンジジュースの入ったアルミ缶をゆっくり回し始めた。

「秋ちゃんこそ、気づいてるんでしょ。私が、幽霊じゃないんだって」

「俺頭悪いからなぁ。ただ、俺には目の前に居る美少女が雪ちゃんにしか見えなくて、雪ちゃんは雪ちゃんだとしか思わないな」

 ふふ、という笑い声が雪花から漏れた。

「秋ちゃんは、ホント優しいね」

「だろ? 俺の優しさに涙が出るだろ?」

 鈴を鳴らすような笑い声が聞こえる。

(ああ、どうしてなんだろうな)

 目の前に居る女の子を必死に笑わせながら、秋一郎は自分自身に問いかけていた。

(どうして雪ちゃんの笑顔って、こんなに張り裂けそうな気持ちにさせられるんだろ……)

「秋ちゃん、聞いてくれるかな」

「どーぞどーぞ、何でも言ってくださいな」

 言いながら、秋一郎は鞄からマフラーを取り出すと、雪花の首にさりげなく巻きつけた。

「私ね、たぶん、恭ちゃんの力でできた雪花の複製品なんだ」

「…………」

 何を言っているんだ、と言う言葉を秋一郎は飲み込むことで精一杯だった。

「恭ちゃんが私の事忘れてた時点で、何か分かったんだ。私ね、死ぬ前あの洞穴で恭ちゃんと約束したの。『ずっと一緒だ』って。何度も何度も約束したの。でも、私はその約束を破っちゃったんだ。恭ちゃんは、きっと嘘つきだった私を許してくれなかったんだよ」

 だから、と続ける雪花の声が、涙でにじみ始めた。

「これは、罰なんだよ。恭ちゃんが、私の事忘れたのも、お母さんが、私の事見てくれないのも、私が、雪花が居ちゃいけない世界に強引に生かされているのも、逃げたくて逃げたくて堪らないのに、それでも私が恭ちゃんの事が好きで憎くてたまらなくて、恭ちゃんを私から奪っていく夏瀬先輩が、物凄く良い人で、私が夏瀬先輩を嫌いになれないのも、全部、全部――」

 その後の言葉は嗚咽で聞き取れなかった。

 雪花は、秋一郎のもらった缶を横に置くと、膝をかかえてうずくまっていた。

「私、消えたくないよぉ! 消えてしまいたいのにっ消えたくないんだよっ! おかしいよね? おかしいよね、こんな世界で…っ、私は居ないほうがいいって言われてっ、こんな苦痛…もう味わいたくないのに、私…っ、生きていたくてたまらないよ! 消えてっいなかったことにされて…良かった良かったって言われたくないよぉ!」

 気が付くと、秋一郎は泣きじゃくる雪花を抱きしめていた。

 雪花は秋一郎にしがみつくことも抱き返すこともなく、秋一郎の腕の中で声をあげて泣いている。

『雪花、いいよ。今は思いっきり泣け』

 いつかの春子の声が、秋一郎の頭に響いていた。

『大丈夫だ。お前が何回辛い思いをしても、私と秋一郎が何度でも泣き場所になる。だから、泣くことを怯えなくていいんだよ』

(ああ、本当にな……)

 腕の中で怯えて泣きじゃくる少女を、秋一郎は再度強く抱きしめる。

 こんな小さな女の子ひとりの目の前で、鍬野秋一郎は虚しいほど無力だった。

「雪ちゃん」

 雪花の背中に回した右腕をはずして、雪花の目の前にこぶしを作ってみせた。

 それは、雪花が気づいて瞳を向けた途端、小さな破裂音を立てて指先に小さな花を咲かせた。

「ふぇ?」

 その唐突の現象に驚く雪花に追い越されるより先に、今度は秋一郎の左腕から、次々に小さな破裂音と一緒に紙製の小花がポンポンと飛び出す。

「じゃじゃーん! 吃驚した? 俺の新ネタ『突然お花がスペシャル』ですよ! ほらほら、まだまだあるよ!」

 秋一郎は、次々に、雪花の髪や服の裾から、小さな紙花を出して見せた。

「あらあら雪ちゃんったら、こんなにあちこちお花を隠しちゃダメじゃん!」

「え? え?」

「雪花だけに花だらけ! なんちゃって!」

 もはや秋一郎の出した花に埋もれ出している雪花に向かって、秋一郎は舌を出して笑って見せた。

 雪花は暫く呆然と秋一郎と大量の紙花を見つめていたが、プッという音と共にケラケラと笑い始めた。

「もう、秋ちゃんってホント唐突すぎるよー」

「ふふふ、この勢いだと来年には、雪ちゃんを花まみれですな!」

 そう言いながら、秋一郎は先ほど雪花が置いたオレンジジュースを持ち上げて、雪花に差し出した。

「昔の約束にこだわる女は美人になれませんよ! そんなに約束にこだわるんだったら、この俺と新しく約束してよ」

「え…」

 秋一郎はひょいと境内から降りると、雪花の前に両手を広げて立った。

「来年! 春に俺とデートしようよ! 今の紅葉デートも落ち着いていいけどさ! 本物の花に囲まれて明るく華やかに行こうぜ! 俺が雪花ちゃんを今度こそ本当の花でいっぱいにしてやんよ! ついでに俺に紅茶を入れてくれまいか! 俺知ってるんだぜ! 雪花ちゃんが春姉直伝の紅茶テクを持ってるってことを! そして2人だけの秘密のお茶会さ! ヒュー! ロマンチックーッ!」

 そう言って、くるくると回る秋一郎の周囲を、冷たい風にまかれた紙花と紅葉が舞っていた。

「どうですか? お姫様」

 綺麗に回転に着地をつけてじっと見つめてくる秋一郎に、雪花は噴出す。

「分かった分かった。うん、いいよ。約束する。来年の春に2人でお茶会ね。実は誰にも言ってないけど、私、紅茶淹れる腕は結構自慢なんだ」

「よっしゃぁああああ! やったね!」

 秋一郎は再びくるくると両手をあげて回ると、雪花の隣に飛び乗った。

「じゃあ、今度一緒に春物の洋服買いに行こうぜ! 俺、いい店知ってんだよ」

「ちょ…冬飛び越えちゃってるよ秋ちゃん」

「冬なんてサササのサーッで! おっと、ただしクリスマスとクリスマスイヴと年末年始の初詣はゆっくりでお願いしたいね!」

 再び境内に2人の笑い声が響いた。

(ああ、俺って意外に不器用だったんだな)

 冬の気配と一緒に舞い上がる枯葉が、秋一郎の本音すらもかき消してしまうようだ。

 これからの話題と他愛も無い会話が続く。

「それでさ、商店街の真ん中らへんにある『喫茶タナカ』をちょっと曲がったあたりにさー」

 突然、大きな音がした。

 甲高い音がして、アルミが石畳にぶつかって跳ね返る。

 その音が、不自然にゆっくりに聞こえた。

 秋一郎が振り返ると、花に埋もれた境内と、オレンジジュースが零れるアルミ缶が転がっている。

 雪花は、いない。

「雪ちゃん?」

 秋一郎は笑って、首をかしげた。

(ああ、俺、やっぱり不器用だわ)

 どこかで自分の声が聞こえる。

 秋一郎は辺りを見回した。

 境内、鳥居、参道、水のみ場…沢山のおみくじが結び付けられた木。しかしそこに雪花の姿だけが無かった。

 秋一郎は黙って境内を降りた。

 オレンジジュースが流れるアルミ缶を拾い上げる。すっかりオレンジジュースにまみれたアルミ缶からは、まだ誰かが握っていた温もりが残っていた。

「だっせぇ…」

 誰に言うでもなく、自嘲の言葉が漏れた。

「ホント、女は魔性ですね。約束しといて放置プレイですか」

 冗談めかして笑ってみせる。

 しかし、いつもの笑い声は帰ってこない。

「……雪」

 秋一郎の持っているオレンジジュースの空き缶が、乾いた音を立ててへこんだ。

「秋一郎!」

 こぼれたオレンジジュースが石畳を伝って溝に落ちる頃、秋一郎の目の前にある紙花の群れと反対側の、秋一郎の背中から声が聞こえた。

 振る返る必要もない。

「秋一郎! 雪花ちゃんを知らないか? 俺、思い出して、彼女を探さないと――」

 高い秋空に乾いた音がした。

 肩に乗せられた恭介の手を、秋一郎が払いのけた音だ。

「秋……」

 想像もできなかった秋一郎の態度に、恭介が戸惑う。

 振り返る視界に、鳥居と、複数人の人影が確認できた。

 恭介、春子、なつみ、あともう1人は秋一郎の知らない人物だった。白衣を着て秋一郎と同じ制服を着ているので、同じ高校である事は確かだが、それが誰か考える気にもなれなかった。

(制服…)

 再度振り返って確認する境内には、秋一郎の出した紙花だけが折り重なって積もっている。

「遅ぇんだよ」

 吐き捨てるような言葉だった。

 秋一郎はそれだけ言うと、ジリリと音を立てて踵を返し、鳥居の方へ歩き出した。

 春子たちの横を通りすぎるとき、春子が何かを言おうとして、飲み込む姿が見えた。

(もう、どうでもいい)

 秋一郎の顔から、笑顔が消えていた。

 風が吹いた。

 鳥居から眺める町並みは、まるで何も変化がなかったかのように当たり前に存在していた。

 右手にはオレンジジュースの缶がベタベタと張り付いてくる。

 秋一郎は、そのまま缶を握り締めた。

 その後、柊雪花が姿を現すことは二度となかった。


 * * *


 それが、去年の話である。

(どうして、こんな事になっちゃったんだろう)

 けたたましいサイレンの音が聞こえる。

 ――おい! 大丈夫か! 救急車が来たぞ!

 ――軽トラックが横断歩道に!

 ――大丈夫ですかっ?

 ――ええ、交通事故です! 男の子と女の子の2人です!

 ――ストレッチャーで運びます! どいて下さい!

 視界の端に赤いランプが回転していた。

 オレンジ色の服を身にまとった白いヘルメットの人物が映る。

 頬に冷たい、アスファルト。

(……恭介くん)

 上手く反対側が見れない、痛みとも重みとも分からない感覚が頭を支配する。

 手を握ろうと伸ばした指が、気がつくと少しも動いていなかった。

 指先に、ぬるい水の感触。

(恭介くん……)

 空はどこまでも青く透き通っていた。

 鮮やかなパステルブルーが、春を終え、夏の訪れを知らせていた。


      7


(どうしてこんな哀しい事が世の中に存在しているんだろう)

 オレンジ色に染まった光の中で、なつみが横たわる机だけが黒い影を残していた。

 何度、同じことを考えてきただろう。

 机の上に転がした携帯から2つのストラップが伸びる。淡いパステルブルーとパステルピンクのうさぎ。そこから2つの長い黒い影が伸びていた。

 妹とお揃いで買ったストラップ。

 本当はなつみもパステルピンクのうさぎが欲しかった。しかし、ストラップは2つでセットになっており、何より妹がピンクの方が欲しいと駄々をこねた為、譲るしかなかった。携帯もないのにストラップだけが欲しいと言う妹を苦々しく思う気持ちが無かった訳ではない。しかし、そんな些細な自分の欲求は、ピンクのうさぎを手に入れた瞬間に妹が見せた笑顔の前で、吹き飛んでいた。ただそれだけの事だ。

 罰が当たったとするのならば、そのぐらいしか思い当たらない。

 ピンクのうさぎのストラップを転がしながら思う。

(私が、内心でこっちを欲しがってたから、妹が死んでこれがが手に入ったの…?)

 そんなバカな事があるだろうか。

 もし本当にそうなら、こんなストラップなど要らなかった。

 むしろ、このストラップ一つと妹の命が対価などとふざけた意見が通用するのならば、何十本でも何百本でも差し出せるだろう。

 しかし、なつみが何千本何万本のストラップを差し出そうとも、自分の命を投げ出そうとも、自分を憎しみ家族を憎しみ、両親が離婚して、友達を失うことになっても、妹はもう二度も戻ってきてはくれないのである。

 いつも『運命』というものは身勝手だ。

 あっちから勝手にやってきて、良い行いをしてようが悪い行いをしていようが、容赦なく壊していってしまう。

 情け容赦ない仕打ちの前で、一生懸命粗探しをしても、自分がそんな仕打ちを受けねばらなないような悪行はどこにも見当たらない。それでも人間は、どうしても理由付けしないと安心できない生き物なのだろう。常に自分に、他人に、自分の身に起きた不幸の原因を探そうとする。不幸はいつもその『出来事』に限らず、それに理由付けをこじつけたい人間の解釈まで呪いのようにはりついて、人間関係をも長年に渡って壊していくものなのだ。

「リアル・オーバーは『死を悲しむ気持ち』から生まれるもんやない」

 黄金色の夕陽を背に、ストラップの影を見つめるなつみの頭に、いつかの九条の声が響く。

「『寂しさ』が原因なんや。大切な人を失って寂しい『自分の為』やないとリアルオーバーは起きん」

 九条の言いたいことが分からない。

(私の気持ちじゃ駄目なのかな)

 細い指先でピンクのうさぎが転がっている。

(私には、妹をリアルオーバーさせることはできないのかな)

 雪花をリアルオーバーさせるほどの喪失感だ、少なからず恭介は雪花に恋心なりの強い気持ちを抱いていたのだろう。

 家族愛が、恋愛に劣るとは思えない。例え、いずれ家族になり最後まで連れそうのは伴侶であったとしても、最後まで連れそう覚悟を決める時は結婚して『家族』になった時だ。

(何考えてるんだろ、私)

 うつむいたまま、なつみは首をふる。

 大切な人と死別した条件では、なつみも恭介は同じだというのに、哀しみの優劣をつける事の何と愚かな事か。

「夏瀬先輩、私、夏瀬先輩の事、応援します!」

 いつかの志雪の声が聞こえる。

「私、夏瀬先輩の良い所いっぱい知ってますから。夏瀬先輩だったら全然大丈夫です! 私の分もいっぱい橋本先輩を支えてあげて下さい!」

 明るい声。制服にうずもれてしまいそうな小さな身体のどこにそんな元気があるのだろうといつも不思議だった。

(どうして、柊さんはあんなに明るくいられたの?)

 リアル・オーバーの発動条件に『寂しさ』が伴うのならば、あの神社で志雪が消えた原因は、なつみの存在によって恭介の寂しさ軽減したからに他ならない。柊志雪という別人格を振舞ってまで恭介の傍に居ようとした雪花を差し置いて、恭介の傍に現れ出して志雪の存在自体を危機に立たせたなつみの前に、どうして雪花は明るく振舞うことができたのだろう。

(もし、私が柊さんの立場だったら…)

「志雪ちゃんは夏瀬さんのことなんて恨んでないよ」

 いつかの秋一郎の声がする。

 あれから、秋一郎は殆ど学校に来ないまま3年生を迎えた。去年卒業した春子の卒業式には顔を出したらしいが、恭介が現れる前に帰宅してしまったのだと春子は笑っていた。春子はいつも通りだった。いつも通り恭介と一緒に、九条と一緒に、彼女なりに気丈に明るく振舞っていたのである。

 見かねたなつみが単独で秋一郎の家に押しかけると、秋一郎が困ったような笑顔で迎えてくれた。

「俺も正直、恭介が全面的に悪いとは思ってないんだよ。リアルオーバーが何か俺にはよく分からないけど、どんな状態にかかわらず恭介の哀しさっていうか寂しさって言うか、そういう思いが計り知れない程大きかったって事には変わりないじゃん」

 たださ。と秋一郎は笑った。

「俺には俺の都合があるから。ちょっと泣かせてくれたっていいじゃん? 今の俺じゃ、恭介を見た瞬間に殴っちまいそうなんだよ。今の恭介なら俺が居なくても夏瀬さんが居るし、俺もこれでいて一応無理して明るくしてたタイプだからさー。今までの清算って感じで1人にしてくんないかな?」

 いつかまた笑顔で戻ってくるからさ。と言って秋一郎は笑っていた。

(仕方の無い、事なのかな)

 柊雪花を失った恭介の哀しみ。リアルオーバーとして生まれ、消された柊志雪の哀しみ。その姿を見ているしかできなかった春子の哀しみ。柊志雪を目の前で失った秋一郎の哀しみ。全員が全員、自分の哀しみを一番辛いと主張することなく相手を尊重しようとして傷つき、失っていく。誰もが自分可愛さに他人をないがしろにせず、思いやりに満ちているというのに、どうして誰も幸せになれないのだろう。

 どうして誰も自分だけでも幸せになろうと思わないのだろう。

(恭介くん)

 なつみは、恋人の橋本恭介を思い出した。

「そう言うなつみだって同じだろ?」

 なつみの集めた新聞記事と、春子にもらった雪花の写真を抱きしめながら、恭介が呟いた。

「なつみだって大切な妹さんを亡くしたのに、それを誰にも話さずに明るく生きてた。自分可愛さに雪花をリアルオーバーさせて苦しめてた俺とは大違いだよ」

 そんなこと、ない。

 コツ、と小さな音を立ててなつみの額が冷たい机にあたる。

 傷を抱えた人間に、傷を抱えた人間を支えることなんてできない。共倒れが目に見えておきながら表面の美しさにとらわれて具体的な解決策を探そうとしない事をなつみは良いことだとは思わない。そういう自己犠牲の精神があったからこそ、なつみの両親は無理をした結果、離婚せざるを得ないほどに心がバラバラになってしまったのだ。

「私たちは幸せにならなくちゃいけないんだよ」

 誰も居なくなった図書室に、なつみの小さな呟きだけが広がって消えていった。

 辛くても生きて幸せにならなくちゃいけない。相手の文句一つ受け止められずに潰れてしまうような人間には、なっちゃいけないんだ。

 なつみは立ち上がった。

 ストラップのゆれる携帯をつかむと、ゆるやかな動きで鞄にしまい、図書室を後にした。

 閉まるドアの隙間からより一層強い光が、一瞬だけ廊下に広がっていた。

 

 * * *


 哀しい出来事というのはえてして客観的な第三者によって決められることだ。

(ああ、お母さんに晩御飯間に合わないって連絡しないと)

 恭介を乗せた救急車を見送りながら、なつみはぼんやりとそんな事を考えていた。

 なつみと恭介が交通事故に巻き込まれたのは、蝉の声も賑わう夏の盛りの話である。

 3年生にも夏休みが訪れ、受験に備えて2人で図書館に向かう途中だった。商店街の交差点を渡ろうとした時、なつみの真横から大きなクラクションと共に軽トラックが襲いかかり、とっさになつみをかばった恭介ごと数メートルに渡って引きずられたのである。

 恭介を手早くストレッチャーに乗せて救急車に乗せた救急隊員から「居眠り運転」という単語が漏れていたようにも思えるが、その記憶も既にノイズの彼方に消えようとしていた。

 どうして自分は青信号でももう少し確認して渡ろうとしなかったのだろう。

 どうして自分はとっさに庇おうとした恭介を突き飛ばさなかったのだろう。

 どうしようもない思考ばかりが脳内を侵食していき、そして空中に霧散するように消えていった。

 そう思っているだけなのだろう。空中に霧散するように消える意識が、消えているものなのか、自分が考えたくないのかも、今はよく分からない。

「お母さんに、連絡しないと」

 なつみは商店街の入り口に立ち、今度は声に出して呟いた。

 なつみの母は、妹の事故があってからすっかり心配症になっていた。

 恭介の番号もアドレスも行き先も教えているのに、デートと言っても連絡なしで遅くなろうものならば、凄まじい量の着信とメールを送ってくる。下の娘を亡くし、夫と離別し、唯一残る娘すら失いたくないという気持ちは分かるが、その歪んだ愛情表現もあって母親とは度々トラブルになっていた。しかし、そのトラブルも両者が両者を思いやってのことである。できれば母親とのトラブルは避けたい。

(既に日も傾き始めているし、これから恭介くんの運ばれた病院を探して、恭介くんのご両親に連絡して謝って……と考えると、今日の帰宅が夕暮れを過ぎる事は間違いないか……)

 なつみはアーチの内側へと歩き出しながら、チェックのスカートから青色の携帯を取り出した。

(お母さんの携帯番号は…)

 携帯を広げると、外側を飾るパステルブルーとは対照的な黒の液晶と文字盤が現れ、なつみと妹の写真が待ちうけ画面で笑顔を見せている。アドレス帳を示す両開きの本のマークが描かれたボタンを押し、『な』の欄を見るか『は』の欄を見るかで悩んでいると、携帯の縁から見える商店街の通行人たちの中に、見慣れた女性の姿が見えた。

「あ」

 それはなつみの母親だった。商店街の帰りなのだろう食材のスーパーを下げ、いつも通りのゆったりとした足取りでこちらに向かってきている。

「お母さん」

 前方の女性に、笑顔で片手を振りながら、なつみの頭にカタカタと計算するような音が鳴る。

(交通事故の話を抜いて事情を説明しよう)

 ただでさえ繊細な母である。いたずらに交通事故の話題など出して混乱させてはいけない。

 そう決意したのも空しく、母親はなつみの声が届かなかったのか、ややうつむいた顔を上げることなく、手前の八百屋に足を止め、外に並んだ野菜を物色し始めた。

 平日とは言え、夕食前の商店街は人が多い。これ以上大きな声を出しても恥ずかしいという思いもあり、なつみはやや面倒くさい気持ちを抱えたまま、母親の居る八百屋まで早足で向かった。

 八百屋に近づくと、そこに佇む女性の丁寧に束ねた髪から、嗅ぎなれたシャンプーの香りが届いてくる。

 夏の盛りであっても、夕暮れ時は寒いのだろう。母親は半そでから伸びる白い二の腕を抱えていた。

「お・か・あ・さ・ん」

 さっきの声かけに反応しない母親を脅かしてやろうという気持ちから、なつみは隣に同じように立って、悪戯っぽく母親を呼んでみせた。

「ふふ、驚いたー?」

 そう言いながら、なつみは足元にある『激安!』と赤字で書かれた黄色のポップの群れを見渡した。

 なつみは敢えて母親の顔を見ることを避けた。これから言う帰り時間が遅れるという報告に、母親が顔を濁らせる姿を見たくなかった。

 それは娘であるなつみを心配する、というよりも、泣き妹を思い出す表情が、まるで自分の表情を見るかのように不愉快に感じるからだった。

「えっとね、今日の晩御飯なんだけど。今日はこの後恭介くんと隣町の映画館で映画を見に行くことになっちゃってね。晩御飯まで間に合いそうにないんだ、だから…」

 嘘をつくときは、どうしても早口になる。

 自身の後ろめたさに耐えられず一気にまくし立てると、なつみの隣で甲高い電子音が鳴った。一瞬自分のポケットの中身を見たが、直ぐにその聞きなれた電子音の正体に気づいた。

 母親の携帯電話である。

「…はい、夏瀬です」

 見ると、なつみの隣で母親が携帯を取り出し、耳元に当てていた。

「あら、春子ちゃん」

 ぱっと母親の表情が明るくなった。どうやら電話の相手は春子らしい。

「そうなの、今商店街に居てね。今日は凄く冷えるわよー。春子ちゃんも外に居るなら気をつけて……なつみ? なつみは今日恭介くんとデートよ? …うふふ」

「……」

 すぐ隣で母親に『デート』と言われると恥ずかしい。なつみは何となく視線を母親からそらした。

 母親は嬉しそうに会話を続けている。

「まだ帰ってきてるかは分からないけど、あの子の事だからまた『帰りが遅くなりそうだから晩御飯いらない』ってメールでも来るんじゃないかしら」

 目をそらした視界の後ろから、母親の声が続く。

「そうなのよ、最近週末になるとよくデートで帰りが遅くなってね。私も母親として強く言いたいんだけど、力いっぱい恋愛できるのって若い内だけだし、応援してあげたいって言うか…あらやだ私ったら何話してるのかしら」

 クスクスと笑う声が聞こえる。

 なつみの目の前で、小松菜が風に揺られている。

「春子ちゃんも、なつみに会ったら『お母さんが寂しがってた』って伝えておいてね。あと今夜は凄く冷えるみたいだから早く帰ってきなさいって言ってね。じゃあ、うん。うん。またね」

 ピッと携帯の通話終了ボタンを押す音だけが一際甲高く聞こえる。

「……」

「……」

 なつみの隣で母親は何も言わない。

 なつみも、何も言わない。

 夕暮れ時のオレンジ色の光が、2人の足元から黒い影を伸ばし、足元の小松菜と特売ポップを塗りつぶしていた。

 声が、できない。

 ごくり、と飲み込むのど元に、嫌な汗が流れる感触がした。

 ひょっとしたら、隣にいる女性はなつみの母親ではないのだろうか、という現実逃避の思考が現れ、そして冷静な思考が阻止するように立ちふさがる。

 確かに隣に立つ時に隣の女性の顔を殆ど確認しなかったが、今隣で通話していた女性は『なつみ』『春子』『恭介』という単語を口にした事に間違いはない。

 どうしようもなく、隣に立っているのは自分の母親である。

「……」

 飲み込む固唾もなくなった喉から、張り付くような痛みが走る。

 ――冗談、だよね?

 悪い夢なんだろう。と、再度逃避のささやきが頭の中に響いた。

 先ほどから、隣に立つ母親は何を言っているのだろう。何故隣に居るなつみに声をかけてくれないのだろう。何故、まるでなつみが今隣に居ないかのような口調で、電話で会話していたのだろう。何故今この時ですら、母親は自分に声をかけてくれないんだろう。

「……」

 声が、出ない。

 ただ単純に『お母さん』と言って、隣の女性の顔を見るだけである。

 たったそれだけが、出来ない。

 小刻みに震える身体の前で、小松菜だけが何事も起きてないかのようにゆるやかに揺れていた。

(嘘だよね、嘘だよね?)

 困惑と恐怖が割れた音楽のように頭の奥までガンガンと響き渡っていた。

「あ、すみません。この小松菜2つお願いします」

 母親が隣で、自分の足元にある小松菜を指差した。

 なつみの視界に母親の横顔が入り込む。

 いつもの、顔――。

 いつも通りの、母親――。

 見慣れた母親の姿をした女性が、なつみの足元にある足元から小松菜を持ち上げ、なつみの方を向いた。

「お母……」

 自分を見る母親の視線に、安堵したなつみが声を上げた時である。

 なつみの身体中に、生暖かい感触がすり抜けていった。

「……え?」

 最初、なつみは自分の身体に起きた現象を理解できなかった。

 何が起きたのか分からなかった。

 呆然と立ち尽くすなつみの背中から「230円です」「ありがとう」というやり取りが聞こえる。

 目の前には、誰も居ない。

「あ……」

 振り返ると、小松菜を抱えた母親の背中が見えた。その脇に、母親に頭を下げる店員の姿。

 母親に頭を下げていた店員が、なつみの方を振り返る。

「いやー今日は冷えるねー」

「ちょっと今日の冷えはやばくないか?もうお客も来ないし、外の野菜は下げようか」

 なつみの後ろからも店員の声が聞こえる。

 もう一度、生ぬるい感触がした。

 ゾッと、音がするように全身が総毛立つ。

 なつみの背中から、店員が目の前に通り抜けたのである。

「うわ、寒。今日マジで寒いわ」

「異常気象って奴かねー。もう7月なのに、たまらんなぁ」

 目の前で店員が、何事もないような笑顔で笑っている。

「……ひ」

 なつみの喉が悲鳴のように、小さな音を出した。

 その自分の小さな声に弾かれるように、なつみは母親と逆方向に走り出していた。

 張り裂けるような胸元から、ちぎれるような感情が今にも噴出しそうであった。

 その日は、季節で一番を謳うほどの赤い夕陽だった。


 * * *


 一体あれからどのくらい経ったのか、何故ここに居るのかも分からない。

 気がつくと、なつみは丘の上の神社に居た。 柊志雪が消えた小雪神社だ。

「ふ、ふふ…」

 駆け上がった荒い息を整えることもなく、階段の上で笑う膝を押さえつきえながら、鳥居の下でなつみは自嘲した。

(ああ、やっぱり、自分も、ここに来るんだ)

 論理的な理解とは関係ない直感で、諦めにも似た感情が存在している。

 どうして自分は、柊志雪の消失に、あそこまで冷静でいられたんだろう。

 答えは分かっていた。

 『柊志雪の気持ちが分からなかった』からに決まっている。

(私も、消えるのかな)

 寒くもないのに身体が震えていた。

 なつみは、ガタガタに震える両腕を互いの両腕で抱きかかえた。

(私も、消えちゃうのかな)

 どうして、自分は恭介の乗った救急車に乗らなかったのか、どうしてその疑問を感じなかったのか。

 当然である。

 なつみは、その時、恭介と同じく血まみれで地面に倒れていた筈なのだ。

 抱きかかえる身体はまだ温かく、身体のどこにも怪我もなければ痛みもない。

 その現象に安堵の気持ちなんてない。

 恐怖しかない。

(お母さん……)

 思い出す。

 沈黙だけの母親。

 自分を振り返らない母親。

 通り抜けた身体。

「……ふぐっ」

 言葉にならない音が、口から漏れた。食いしばりたい歯が食いしばれずに宙に縛られている。

 どうして、涙が出ないんだろう――。

 もういっそ、大声を上げて泣きじゃくることができれば、どれだけ楽になれるんだろう。

 いっそ、今思い切り声を上げて泣いてしまいたいのに――。

「久しぶりやなぁ、卒業式ぶりやないか?」

 予想外の声に、なつみは一瞬飛び跳ねるように身体を起こした。

 人が居た。

「確か夏瀬なつみさんやろ?」 

 視界に広がる石畳の、本道まで続く道の間に、白衣姿の男が1人立っていた。

 夏場だというのに長袖の真新しい白衣の下にはごくごく普通の黒シャツにジーンズ姿が見える。

「九条…先輩…?」

 混乱しきっていた脳内が急に整頓され、なつみは秋の神社の件で知り合った1人の先輩の名を思い出した。

 やっとの事で搾り出した名前に、九条は笑うと、白衣の内側から缶コーヒーを差し出した。

「良かったら飲む?うっかり2本買ってもうて困っとったんやわ」

(ああ……)

 なつみは真っ直ぐ九条を見つめた。

 九条は真っ直ぐなつみを見ている。

(人と、会話できるってこんなに幸せな事なんだ――)

 神社は、夕陽で既に真っ赤に染められていた。

 その燃え上がるような赤さは、2人の存在も赤の中へとかき消してしまいそうだった。

 なつみは九条の缶コーヒーに手を伸ばした。


      8


 ――おねーたん。おねーたん。

 まだたどたどしさの残る幼い声が聞こえる。

 妹は、喋る事ができる時期が他の子より遅かった。喋るまでの期間が長かった事が、焦らされていた期間のように、妹が私を呼ぶ声は、他の人の何倍も何十倍も嬉しく感じた。

 実際、他の人の立場にたったことはないのだから、他の人の喜びなど知る由もない訳だが、それでもなつみは妹に対して自分が受ける喜びは人よりも上だと信じて疑わなかった。

 ――おねーたーん。

 ――はいはい、お姉ちゃんはここですよ。

 台所から、母と一緒に作った市松模様のクッキーを重ねた器をもって、なつみは笑顔でリビングに顔を覗かせた。

 途端に足元にしがみついてきた小さな身体に、なつみは一瞬驚き、そして笑顔がこぼれた。

 ――全く、恭子はすっかりお姉ちゃんっ子になったなぁ。

 リビングから、参ったと言う声で父親が笑っている。

 ――お父さんよりお姉ちゃんの方が頼りがいがあるものね。ねぇ?恭子。

 ――あい!

 なつみの後ろから同じく笑顔でティーカップを運んできた母親に応じるように、恭子は勢いよく小さな手を伸ばして返事をした。

 その動き一つが可愛くて仕方がなかった。

 10歳以上の年齢差で妹が出来ると聞いた時は、喜びよりも恥ずかしさの方が上で、なかなか素直になれなかったものだが、実際生まれて見ると妹というより自分に子どもが出来たかのように愛しくてたまらないものである。

 この小さな命を守る為だったら、何でもしよう。

 なつみは、小さな決意をしていた。

 それは決して大袈裟な事でもなく、ごく当たり前のことのようだった。妹を愛する自分も、妹を守る自分も、ごく当たり前に続いていくのだと思っていた。

 ――私は、何があっても恭子のお姉ちゃんなんだから。

 ――逞しいなぁ、流石俺の娘だ!

 ――うふふ、お父さんったら調子がいいんだから。さて、お茶にしましょうかね。

 ――美味そうなクッキーだなぁ。料理上手のお母さんと娘に囲まれてお父さんは幸せ者だよ。な?恭子。

 ――あい!

 ごくごく当たり前の家庭、ごく当たり前のリビングが、小さな家族の談笑に包まれていた。

 『夏瀬恭子』

 それが、夏瀬なつみが愛してやまなかった妹の名前である。

 

 * * *


「恭介くん」

 夜の病室は、ガラスの迷路のように青く、冷たい。

 窓から覗く外の景色は、まるで天国のように綺麗だ。

 青白く光る夜の病室。

 なつみは、恭介の病室の中で、恭介の隣に佇んでいた。

「恭介くん、聞いてくれる?って言っても自分で話しちゃうんだけどね」

 ピッピッピッと規則正しい音を立てて、恭介の枕元に置かれた小さなテレビの黒画面から、緑色に光るラインが角ばった波を打っている。

 恭介は目覚めない。

 なつみは、その反応に応じることなく、笑顔のまま恭介の眠るベットの横に置いてあった椅子に腰掛けた。

 既に消灯時間は過ぎている。

 しかし、なつみを咎める者は誰も居ない。誰かがこの病室を覗きに来ても、なつみを咎める人は居ないだろう。

「初めて会った時の事覚えてる?私が転校してきた日」

 恭介の反応に構わず、なつみは続けた。

「あの時は驚いたよ。だって恭介くん、私の妹と同じ名前なんだもん。しかも漢字まで一緒でしょ?」

 恭介と恭子。

 そのどこにでもありそうな単純な一致。

 しかしそこになつみは溢れるばかりの大きな想いと、期待を重ねていた。

「変な事だって自分でも思うんだけど、初めて名前見た時に思ったんだ。『ああ、これは神様がチャンスをくれたんだ』って」

 安っぽい『神様』というフレーズを自ら口に出しながら、なつみはくすぐったそうに笑った。

「神様が、妹を守れなかった私に最後のチャンスをくれたんじゃないかって思ったの」

 だから、何があっても恭介くんを守りたかったの。となつみは続けた。

 なつみは冷たい鉄パイプに腰掛けながら、ゆっくり瞳を閉じた。

 あの日の文化祭が浮かぶ。

 照れくさそうに、それでも一生懸命を顔で描いたかのようになつみを好きだと言って付き合って欲しいと頼ってきた姿。

 頷いたなつみに、溢れるほどの笑顔を見せて抱きついてくれた温もり。

 わっと周囲のクラスメイトに驚かされて、慌てふためく素直な姿。

 自分の感情に正直で、喜びも、怒りも、悲しみも、楽しさも素直に表してくれる姿は、一生懸命『姉』として『娘』として『転校生』として取り繕って生きるなつみとは正反対のように映った。

「最初はね、恭介くんみたいになりたかったの。何があっても素直に表に出して言える人に」

 小さな初恋の人を失った恭介と、最愛の妹を失ったなつみ。

 2人は同じようで全く違う人生の歩き方をしていた。

 なつみの脳裏に、いつかの図書館がよぎる。

 まるで小さな子どものようになつみに縋ってきた恭介の小さな温もり。

「何でかな、だけど守ってあげたいって思っちゃったんだよ。自分が素直に辛い苦しいって言える人生より、カッコ良く生きて恭介くんを守っていける人生の方が、私には幸せな気がしたんだ」

 恭介の苦しみが、初恋の人を思うゆえのものであっても構わなかった。

 だったらその初恋の人も含めて、愛していこうと思っていた。

「だから、私をリアルオーバーさせるほど、私を必要としてくれたのは、凄く嬉しいよ。私は恭介くんにとって、絶対死んじゃダメな存在なんだね」

 柊志雪を思い出す。

 ――私の分もいっぱい橋本先輩を支えてあげて下さい!

 鍬野秋一郎を思い出す。

 ――今の恭介なら俺が居なくても夏瀬さんが居るし。

 2人の言葉が頭を巡る。

「本当に、そうなのかな…?」

 なつみは、うつむいたままチェックのスカートを握り締めた。

 ――リアルオーバーは『寂しさ』が原因なんや。

 いつかの九条の声が聞こえる。

「私は、恭介くんの『寂しさ』を埋めるためだけに創られたんだよね? 私がこのまま一緒に恭介くんと生きていけばそれが恭介くんの望みで、それが正解なんだよね?」

 ひょっとしたら、目覚めた恭介はなつみを覚えていないかもしれないのに。

 スカートを握りしめた指先がスカート越しに太ももに爪を立てた。

「怖いよ…」

 呟くように、なつみの口から震える声が漏れた。

「酷いよ…」

 震える両手に、熱を帯びた雫がぽたりと落ちて、青白い肌を伝った。

 ゆっくり、なつみは立ち上がると、恭介の眠るシーツを掴んでいた。

 正式には掴めないシーツを前に、血が滲むほど拳を握り締めていた。

「起きてよ、恭介くん。怖いよ。私、怖いんだよ? 傍に居てよ。忘れないでよ、私の事」

 恭介からの返事はない。

 なつみの口から、ギリリという何かをかみ締める音が聞こえた。

「嘘つき。酷いよ恭介くん。私とずっと一緒だって約束したじゃない…っ」

 少しずつ。

 少しずつ、なつみの口から零れていく。

「このまま恭介くんと一緒に居たって、私、全然幸せじゃないんだよ? 私、柊さんとは違うもん。自分犠牲にしてお母さんに見てもらえない身体にされて、それでも好きな人の為なら平気とか笑って綺麗にしてられないよ?」

 嘘つき…。と再度なつみの口から震えるように言葉がもれた。

「一緒に居てよ! 私を見てよ! 私を頼るんだったら、私も幸せにしてみせてよ! 自分だけ他人犠牲にして可哀想とか泣かないでよ!」

 いつからだろうか。

 自分の顔から、一滴とは言わず、大量の雫が零れ落ちていた。

 シーツの上で握り絞めた拳が、自分の涙に濡れていた。

 恭介からの返事はない。

「だいきらい…」

 歯はすでに削れるぐらいに噛み締めている。

 額を、涙にまみれた拳に押し当てて、なつみは叫んだ。

「アンタなんか大嫌いっ!」

 その声に呼応するように、堰を切ったように嗚咽が漏れた。

 縋りつくように、なつみは青白く光るベットの脇に座り込んで泣きじゃくっていた。

(漸く気がついた)

 自分でもこれほど声が出るのかと思うほどの大声で泣きじゃくりながら、なつみはその態度とは反比例するほど冷静に考えていた。

(私が一番、無理してたんだ)

 何が恭介の為だ。

 何が妹の為だ。

 いつだって、一生懸命やって誰かに『よく頑張ったね』って褒めてもらいたかっただけだ。

 その本音すら隠す為に何重にも自分を偽って優等生に生きてただけだ。

 恭介の為に自分が居たんじゃない。自分が生きて行く為に恭介が必要だっただけだ。

「起きてよ…」

 掴めないシーツにしがみつきながら、なつみが声を漏らした。

「一緒に居てよぉ…」

 夜の病室は、天国のように綺麗だ。

 いつの間にそうなっていたのか、なつみは気づかなかった。

 どのぐらいの時間が過ぎたのだろう。

 一通り泣き終えて、冷静になったなつみの頭に、不自然な温もりが存在していた。

 それが、誰かの手の平の温もりだと気づくのに、どのぐらいの時間を有しただろう。

「恭介、くん…?」

 慌てて顔をあげるなつみの視界に、青く光る世界が広がっていた。

 横たわっている恭介の瞳が、真っ直ぐなつみを見ている。

「え…? 恭……」

 理解しがたい現象に、なつみが戸惑うのも待たずに、恭介の口が開いた。

 小さな小さな声で。

 「ごめん」と。

 そのはっきりと聞こえた言葉に、なつみは暫くぽかんと恭介を見つめ思わず噴出した。

「遅いよ」

 そう答えるなつみの顔は涙と笑顔で埋め尽くされていた。

 夜の病室は天国のように綺麗だ。

 このまま、なつみは消え去って、本当の天国に行くのかもしれない。

 それでも良かった。

「ありがとう」

 どちらともつかない声が、輝く病室の中へと消えていった。


 * * *


 強い光が突き刺してくる。

「なつみ? ……なつみ聞こえる?」

 白く輝く光の向こうから、懐かしい女性の声が聞こえた。

「……お母さん?」

「なつみ! なつみ、良かったっ!」

 瞳を開けるや否や、目の前に居た母親が抱きついてきた。

 白い光だと思ったものは、白い病室のカーテンとシーツの色だった。

 女性の後ろで慌しく動く白い制服の人間が複数人見える。

「良かった…良かった。あんたが交通事故って聞いて…もう…良かった、良かった」

「交通、事故…?」

「商店街の交通事故で、意識不明の重体だったんだよ、なつみ」

 ベットをはさんで母親と反対の方向から、更に男性の声が聞こえた。

 その声を振り返って、なつみはその男性の存在に目を疑った。

「お父…さん」

 そこには数年ぶりに会う父親が涙をうるませながら、笑顔を浮かべていた。

「……すまなかった」

 うつむきながら、父親がなつみを抱きしめる。

「ごめんな。お父さんは自分のことばっかり考えてた。なつみが恭子と同じ境遇になるまで、自分の本当に大切にしたいものも気づけないなんて、お父さんは馬鹿だよな」

 気丈で優しい父親の声は、僅かに震えているように聞こえた。

「今こんな話をする時じゃないとは分かっているんだが、聞いて欲しい。お父さんはもう二度とお前達と離れたくないんだ。なつみ、お前さえ良ければ、お父さんとまた一緒に……」

「……何言ってるのよ」

 なつみを抱きしめ震える父親に、なつみは恭介にそうしたように微笑んだ。

「当然じゃない」

 なつみを抱きしめる腕に更に力がこめられた。

「痛い、痛いよ!お父さん!」

 助けを求めるように脇に立つ母親を見ると、母親が涙を大量に浮かべたまま、嬉しそうに笑っていた。

 その笑顔に、なつみもつられて笑った。

(私、帰ってこれたんだ)

 白く輝く病室が、天国のように思えた。

 よく見ると、自分の身体のあちこちに白い包帯が巻きついており、足に至っては、骨折したらしく痛々しいギブスごと上から吊り下げられている。ずいぶん所帯じみた生々しい所が天国なもんだな、となつみは考えて更に苦笑した。

 暫くすると、主治医がやってきて、採血や血圧などといった検査を沢山受けさせられた。一番心配された脳波にも異常は見当たらなかったらしく、主治医が検査結果の用紙を前に首をかしげていたが、念の為、来週にカウンセラーを受けて、異常がなければ退院にする、との事だった。

 渡された用紙には、来週の日付の下に『カウンセリング予約:宮内心理士』と書かれていた。

「なつみ、食べたいものとか欲しいものないか?お父さん売店まで買ってくるぞ。よしプリンだな!行って来る!」

 一通り抱きしめ終えた父親が、なつみの答えも聞かずに飛び出した。

 その父親もスーツ姿のままで、母親から、職場から駆けつけてなつみが目覚めるまでずっと隣に居たのだと聞いた。

「あの人、なつみの好物がプリンだなんてよく覚えていたわね…」

 呆れたように笑う母親から、照れたような恥ずかしそうな笑顔が覗いていた。

(ああ、お母さんも、やっぱりお父さんのこと、好きなんだな)

 この年齢になって、母親に対して更なる発見をした気分だった。

「そういえば、もうすぐ恭介くんも来るわよ」

「え…?」

「恭介くん今朝やっと歩けるようになったみたいでね。どうしてもお見舞いに来たいって。うふふ、お父さんも居るのに修羅場ね」

「修羅場って…」

「あらあら、ならお母さんもこうしていられないわ。お化粧直さないと。お母さんちょっと化粧室に行って来るわね」

「ちょ、ちょっと、お母さん」

 足早に笑顔で退室する母親を追いかけようとして、ギブスの足では追いかけられないという事に気がついた。

(これは…リハビリとか必要なレベルよね)

 大人しくベットに横たわりながら、現実的な未来予想を考えていた。

 3年生の夏だというのに、これからの受験勉強を考えると憂鬱この上ない状況である。

(うわぁ…どうしよう、事故のショックで単語が飛んでませんように)

 後で父親に参考書を買ってきてもらおうと考えていた矢先、病室のドアをノックする音が聞こえた。

「はいどうぞー?……あ」

 ごく当たり前に返事をしてから、なつみはそのノックの正体に気がついた。

 ノックをした主は、起きてドアを開けられないなつみの反応が読めないらしく、暫く黙って曇りガラスの向こうに立ち尽くしていたが、何かを決意したかのように、病室のドアをスライドさせた。

 その分かりやすい態度に、なつみは懐かしさとも言えぬ微笑ましさを感じていた。

 病室には夏を告げる日差しがさんさんと降り注いでいる。

 夏の空は、高く青く澄み渡っていた。


      9


 いつものメンバー、と言われたら、誰を思い浮かべるだろう。

「恭介、秋一郎、なつみ、卒業おめでとう」

「ありがとう、春姉」

「ありがとうございます、卯月先輩」

「どうも! 春姉! 俺凄いでしょ? もっと褒めてくれたっていいんだぜ! というかもっと褒めて! 褒め…あいたたたたた」

 桜舞い散る校門で、相も変わらずふざけて見せる秋一郎の右頬をスーツ姿の春子が掴んで持ち上げた。

「俺のイケメンな顔がぁああああ」

「よりイケメンになって嬉しかろう?」

「ふぁい! 嬉ひいです! めっちゃ嬉ひいです! だから離ひで下しゃいまひぇんか!」

 秋一郎と春子の前で、紙花をつけた恭介となつみが微笑ましく見守っている。

 恭介、春子、秋一郎、なつみ。

 これが、今の恭介が思う『いつものメンバー』だ。

「しかし、私は正直驚いているよ。秋一郎が卒業できるとは考えてもいなかった」

「ふふふ、それは心外ですね。こう見えてもボクは優等生ですよ?」

 乱れた学ランを直しながら、秋一郎がこりもせずに不敵に笑っている。

「そして4月から晴れて大学生の仲間入りさ!」

 秋一郎はその後に合コンするぞーっと続け、再度春子によって吊るされた。

 恭介、秋一郎、なつみは3人とも同じ大学に進学が決まった。春子のいる総合大学であり、4人の居る町の中には大学はそこしか存在しない。

「同じ大学行けて良かったね、恭介くん」

「そうだね」

 3人の門出を祝うように、桜の花びらが雪のように風に吹き上げられ空へと舞が上がっていた。

 恭介は、その桜吹雪に腕をかざしながら、誰に言うでもなく呟いた。

「皆で、同じ大学院…だっけ」

 その言葉に、春子と秋一郎が、動きを止めて恭介を見つめた。

 なつみだけが、その動きの意味が分からず、きょとんと3人を見つめている。

「恭介…やる気なのか?」

「だって春姉、ここまで来たら仕方ないだろ?秋一郎も進学しちゃった事だし」

 真っ直ぐな視線で答える恭介は、小さな笑顔を残していた。

 わずかな沈黙が経ち、春子はゆっくりと笑う。

「仕方ないな。乗りかかった船だ」

「何の話ですか? さっきから。私も混ぜて下さいよー」

 しびれを切らして問いかけるなつみに、2人は笑顔で迎えた。

「ああ、4人全員で同じ大学院に行こうって話だよ」

「ふぇ?」

「俺となつみが理系で、秋一郎と春ねぇは文系だから、ちょっと差はでるけど、まぁ大丈夫なんじゃないかな?」

 目を白黒させるなつみの後ろで、秋一郎が「はーい」と右手をあげた。

「何だ、秋一郎。言ってみろ」

「この鍬野秋一郎。全力で大学院に行かせてもらいます!」

 その返事に、春子と恭一郎が度肝を抜かれた。

「おい…秋一郎、お前自分が何を言っているのか分かってるのか?」

「ちょっと! どういう事ですか? 人がたまに素直に賛同してみせたらっ! チックショー! 見てろよ! この中で一番の成績で入ってやんよ!」

「おおう、それは凄いな。私も負けてられないな」

 4人に再び和やかな笑いが生まれた。

 桜の花は空を舞い、薄い青空の中へ冬の終わりを告げていた。


 * * *


「なんや卯月、まだ化学実験準備室に立ち寄る趣味なんか持ってたんか?」

「……お前にだけは言われたくない」

 未だに白衣姿の九条を前に、春子はため息をついた。

 卒業式も終わり、それぞれが解散したり2次会へと足を運ぶ中、春子は1年ぶりに母校の化学実験準備室に足を運んでいた。特に九条と待ち合わせをしていた訳ではない。それどころか1年ぶりに見た九条の姿に、驚きを隠せないでいる。

 さも自分が居るのが当然のように春子を見ていた九条は「まぁええわ」とぼやくと、棚からビーカーを2つと三角フラスコを取り出し始めた。

「卯月、今日は何にする?珈琲、紅茶、玄米茶、ココアからポタージュまで取り揃えとるで」

「お前、いつでもそのチョイスじゃないか。いつものを頼む」

「たまに減ることもあるんやで。アールグレイやな。ミルクは勘弁してくれ、今日はあいにくの品薄や」

 慣れた手つきでアルコールランプに火をつけると、九条は引き出しからコーヒーの瓶とティーパックの袋を取り出した。

 合間に見える白衣の下は、黒のハイネックにジーンズと言った姿で、少なくとも九条が留年した訳ではない事が分かる。

「九条、お前今はどうしてるんだ? 就職して真人間やってるとかふざけたことは言わないよな?」

「まさか。一応大学でお勉強してるで」

 町内では唯一の4年制大学に春子は通っている。同じ文系でありながら九条の姿を見かけたことがない。

 県内か県外か、遠くの大学に通っているという事になると、それなりの偏差値の大学に行っているのだろう。

「ああ、そうだ九条。これをお前に返そうと思って今日はきたんだ」

 春子は、小さな手提げ鞄から1冊の紫色の本を取り出した。教科書サイズの本の表紙から『リアル・オーバー』という単語が読み取れた。

「ああ、これか。律儀やなぁ」

 九条は笑いながら受け取ると、懐かしそうにパラパラとめくって本を閉じた。

 ふらりと立ち上がると、慣れた手つきで本を元の位置に直す。

「分かりやすかったやろ? 少しは役に立てたんか?」

「ああ、そしてお前が居るなら都合がいい。何点か聞きたいことがある」

 春子の慎重な声に、九条は春子を一瞥すると、小さく笑って元の席に座った。

 その態度に答えるように、春子は一度スーツの前に両手を組んでから、顔を上げた。 

「夏瀬なつみの事だ。去年の夏ぐらいの話なんだが、なつみが恭介と一緒に交通事故に巻き込まれて怪我したことがあってな。2人とも重傷で、特になつみは意識が1日なくなるぐらいだったんだが。……その1日の間に、なつみがリアル・オーバーを起こしたって言うんだ」

「そんで?」

「それでじゃないだろう?九条。お前がリアル・オーバーを起こしてるなつみを助けてくれたんだと私は聞いた」

「助けた訳とちゃう。あそこで会うたんも偶然やし。むしろ差し出したコーヒーが落ちてもうて…泣かせてしもたぐらいや」

 苦虫を噛み潰したような顔で「ありゃウチも驚きやったな」と言うと、九条はガーゼごしに三角フラスコを持ち上げ、2つのビーカーに注いだ。

「いや、それでも。お前が居なかったらなつみはリアル・オーバーとして雪花と同じように消えていたのかもしれないんだろう?その…お前には、感謝している」

「せやからウチは何もしてへん言うてるやろ?ちょっとお話ししただけや」

 バツが悪そうに、九条はティーパック入りのビーカーを差し出すと自分の手元にあるビーカーにインスタントコーヒーの粉を入れてガラス棒でかき回し始めた。

「夏瀬なつみの事はウチもはっきり覚えてる。あれから無事に戻れたんやな」

「ああ、あれから恭介もしっかりした子になって。秋一郎も戻ってきてくれて…いや、そういう話題ではなかったな。すまない」

「卯月、あんさんまだ渡した参考書、ちゃんと読んでへんやろ?」

 受け取ったビーカーに緑のスケジュール帳を乗せながら、春子が怪訝そうに九条を見つめた。もはや標準装備らしい砂時計をテーブルの上に乗せる。

「リアル・オーバーが元に戻ることは絶対にあらへんよ。リアル・オーバーは『生まれるか』『消えるか』や。オリジナルの生死とは何の関係もあらへん」

「……どういう事だ?なつみがリアル・オーバーじゃないなら何だと言うんだ?」

 ウチも後から気がついたんやけどな。と言うと、九条は春子の手元の砂時計を指差した。慌てて手帳をどける春子にビーカーを差し出す。

「まず、ウチと会うた時の夏瀬なつみは『人が身体をすりぬける』『缶コーヒーが身体をすりぬける』て言う『物に触れない』状態やったんや。別にそれだけは構わへん。リアル・オーバーでも『創り主』の意思が弱けりゃエネルギー体も弱なるもんやし。ただ、更に彼女の居る空間は『温度が下がる』状態やった。それが気になってな」

 春子は夏の事故があった日を思い出す。

 事故を知る前、諸用でなつみの母親に電話をかけた時、なつみの母親がしきりと『寒い』と繰り返していた。その日は寒いどころか最高気温が例年より高いと騒いだ日で、商店街に居ながら正反対の事を言うなんておかしなものだと思っていた。

「いまいち言っている事が掴めない。夕暮れ時に会ったんだろう?温度が下がって当然じゃないのか?」

「ウチ、普段から温度計を持ち歩いてんやけどな」

 言いながら、九条は白衣の内ポケットから温度計を取り出した。「そんな物を持ち歩くなよ」と春子が呟く。

「夏瀬なつみと会話しよった時の温度、何度やったと思う? マイナスや」

「マイナス…?」

「最初ウチも驚いてな。温度計の故障かと思うたけど実際に寒いやろ? ウチもまさかなぁと思うてたんやけど、今の卯月の話でよう分かったわ」

「いやいや、待て。お前1人だけで納得してもらっては困る。なつみに何が起きてたんだ?」

「幽霊や」

「……は?」

 話は終わったと言わんばかりに珈琲を口に運ぶ九条に、春子は思わず立ち上がった。

「お前、幽霊は信じないんだろ? 何を言ってるんだ」

「よう覚えてるな。そうや幽霊はまだ証明されてへん。せやけど、リアル・オーバーやないオリジナルに戻れる、物に触れられへんほど希薄な存在で、周囲の温度を急激に下げるモノ言うたら、ウチらの世界では幽霊ってなってるんや。オリジナルに戻れた言うことは生霊?臨死体験ぐらいになるんやないかな」

 そう分かってたらもっと真剣に話し相手になったんやけどなぁ、と九条はぼやいた。

「存在の薄いリアル・オーバーやと思てたわ。ホンマ自分の目に見えるものやからて信じたらアカンな」

 言ってから、九条は面白そうに笑った。

「ほんまに。本当に不思議なものは結構目に見える世界にあるんやな」

「……」

 春子は、次から次へと突飛な答えを出す目の前の変人に、言葉も出なかった。しかし、少なからずこの九条という男は自分のまだ知らない学問の世界に居るのだという事だけが分かっていた。

 今の自分には、九条の言う事が本当かどうか確かめる能力などないのだ。

 どんな突飛なメカニズムであれ、不幸な事態は避けられた。それで良いじゃないか。

「せや、卯月。鍬野秋一郎くんがどこの大学に行ったんか知ってるか?」

「え?……秋一郎は私と同じ雪龍大学の心理学部だが」

「意外や。卯月心理学なんかに興味あったんか」

「……私としては、お前が秋一郎の話題を口にする方が意外な事だ」

 春子は、九条の意味不明な単語を少しでも理解したくて心理学部を目指した。秋一郎も同じ心理学部を目指していると聞いた時は驚いた。九条は「まぁちょっと鍬野くんとは仲良うさせてもらってるんや」と言って笑った。

 彼の返事は常に突飛なもので、回答の詳細を聞くと1時間だけでは追われそうにない。

 春子はため息をつくと、とりあえず手持ちの質問をぶつけることだけにした。

「なんであの時、お前は小雪神社にいたんだ?」

「調べ物や。ちょっと依頼された仕事があってな」

「何でお前はいつも白衣を着て、変な関西弁を喋るんだ?」

「男のロマンや」

「……お前、そもそも下の名前は何て言うんだ?」

「ミヤウチ」

「……?」

「九条はウチの上の名前やあらへん。九条はウチの下の名前や。苗字は宮内。宮内九条がウチのフルネームや」

「……意外だ」

「せやろ?」

 目に見える世界の方が、不思議な事だらけなんやて。と言って宮内九条が笑った。

「そろそろ質問攻めはええか?ウチも一応暇人と違てこの後予定あるんよ」

 言うと九条は立ち上がって、ビーカーと三角フラスコを片付け始めた。

「最後に一つだけ質問させてくれ」

「なんや?」

「あの時、小雪神社でお前は夏瀬なつみとどんな話をしたんだ?」

 春子の質問に、九条は一度手元を止めて春子を見上げると、小さく笑って答えた。

「恋愛の話や」

「……は?」

 最も意外な回答に、春子は思わずキョトンと九条を見つめた。

「これ以上はプライベートやから教えられへんよ。話は終わりやな。またどっかで会ったらお茶入れるわ」

 九条はビーカーや三角フラスコを洗い終えると、慣れた手つきで棚に戻し「戸締りよろしくな」と言って化学実験準備室を立ち去って行った。

「れんあい?」

 誰も居なくなった化学実験準備室で、春子は九条の回答を繰り返した。

 九条の立ち去った廊下の方角をマジマジと見つめると、もう見えぬ九条に向けて呟いた。

「……私には、お前の存在自体が不思議そのものだよ」

 廊下で、誰かが笑う声が聞こえる。

 窓の向こうでは、桜が空を舞い上がっていた。

 4月はもう直ぐそこまで近づいている。

 新しい季節の始まりを前に、春子はもう一度立ち上がった。


      エピローグ


「じゃあ、夏瀬さんはリアル・オーバーじゃなくて幽霊だったから元に戻れた訳ね」

 カウンセラー宮内都(みやうちみやこ)はそう言うと、持っていた本を閉じた。

「橋本くんがリアル・オーバーを起こしてたからてっきり……紛らわしい子ねぇ」

 そう言って大袈裟にため息をつくと、右手のテーブルから2枚のカルテを取り出し、腰掛けていた竹椅子を揺らし始めた。カルテには、それぞれ『橋本恭介』『夏瀬なつみ』と記載されている。

 夏も終わりだというのに、窓際の居間にも強い風が吹き込んでいた。

 長い柔らかな茶の髪が強い風に揺れるのも気にせず、都はぼんやりと窓から緑の木々に包まれた自然溢れる庭を眺めている。木々のざわめきに合わせるように彼女の竹椅子が小さな軋み音を鳴らしていた。

 その今にも消え入りそうな細い肩に、宮内九条はゆっくりと落ちていたストールをかける。

「あら、ありがとう九条」

「いや。それより姉さん。もう3時だけど、何飲む?珈琲?紅茶?」

「珈琲お願いしていいかしら。さっき作り置きしたからキッチンに行けばあると思うんだけど」

「分かった」

 九条はそう言うと、着ていた白衣を脱いでキッチンへ向かった。そこには、春子の前で使っていた訛りも、ふざけた態度も存在していない。それが、宮内都の弟としての九条の姿だった。

 女性らしいアンティークの食器棚で包まれたキッチンに入ると、珈琲メーカーが丁度良い具合にコポコポと音を立てて珈琲のドリップを終えていた。九条はとりあえずガラス扉の食器棚を見渡し、和風テイストのティーカップを取り出すと、珈琲を注ぎ、棚の下からカロリーオフと記載されたシュガースティックとコーヒーホワイトを付け、銀色のスプーンを添えて居間へと運んだ。

「姉さん、珈琲だよ」

「ありがとう…あら、気が利くわね」

 膝の上に2枚のカルテ、右手にレポートの束を持ちながら、都は脇のテーブルに出されたティーカップを見て笑った。

 最近、体重が気になってね。と言いながらローカロリーシュガーを珈琲の中へ注いでいる。

 その脇では九条が、マグカップに入れた珈琲を立ったまま口に運んでいた。

「そうそう九条、貴方の書いたレポートの話なんだけど」

 都はそう言うと、ティーカップを置いて、右手に持っていたレポートをひらひらと揺らした。

「幽霊って仮説は凄く面白いんだけど、流石にうちのゼミ選考には使えないわよ?」

「分かってるよ」

 九条はそう言うと「それはまた別にレポート提出するよ」と繋げた。

「あーあ、しかしやっぱり創り主は自分の創ったリアル・オーバーの記憶を失くしちゃうのねぇ。橋本くんが最初目が覚めてなつみちゃんの記憶どころかなつみちゃんが病室に来た記憶まで持ってた時は『やった』って思ったのになぁ」

 幽霊じゃ当たり前なのよねぇ…と呟くと都はため息をついた。

「その後のカウンセリングでも、橋本くんは雪花ちゃんの記憶を全部取り戻してちゃんと立ち直ってるし、それどころかなつみちゃんの体験を受け止めて前よりしっかりした子になっちゃってるし。なつみちゃんもいつも通りどころか家庭環境も丸く収まって…ああ、いいことなんだけど」

 手持ちのサンプルが居なくなったことが余程残念なのだろう。相変わらずのマッド・サイエンティストぶりである。

「誰か私みたいに、リアル・オーバーの記憶を持つ創り主が居れば、論文も書きやすいのに…ねえ?九条」

「…………」

 九条は答えず、ゆっくりと都に笑ってみせた。

 宮内都は、幼い頃の交通事故で両親と弟の九条を亡くした。そのリアル・オーバーとして存在している九条の記憶を、彼女は失うことなく持ち続け、九条自身も誰かに「見えない」という現象を起こさせることなく今の年齢まで順調に成長している。しかし、彼には戻れる本体はない。オリジナルは両親と共に火葬場で既に焼かれているのである。

 都はこの現象を「より強い意思によるリアル・オーバー」と名づけ、自分自身の身体ごと被験対象として研究している。

「まぁでも今回は俺が『幽霊』自身を体験できたから上出来なんじゃないかな。専門外の分野だけど、リアル・オーバーが幽霊を認識できるって事は、俺に霊感なりの特異な感受性があるのか、リアル・オーバー自身が幽霊と同質の成分なのかって話になるし…姉さん?」

 言い終えるより先に、九条は竹椅子の上で寝息を立てている姉の存在に気づいた。

 彼女がこの街で柊雪花を契機にリアル・オーバーの研究を本格化させてから、彼女がベットで眠っている姿は殆ど見たことがない。彼女自身は「研究の為」だと息巻いているが、その後ろに大切な弟のリアル・オーバーを失いたくないという強い意思があることを九条は知っていた。

「全く…姉さん。こんな所で寝てたら風邪ひくよ」

 九条はそうため息をつくと、傍らのタンスから夏用の毛布を取り出して竹椅子の上にかけた。慣れた手つきで窓を閉め、都の周りに散らかっているゴミを片付け始める。

 床に落ちた『橋本恭介』のカルテを持ち上げ、『夏瀬なつみ』のカルテを持った手を、一度止めてからテーブルに置いた。その2枚のカルテの下に重たい表紙と背表紙に包まれた彼女の愛読書である『Real Over』の参考書が出てきた。その裏表紙には彼女が万年筆で書いたのであろう走り書きが書かれている。

『ReaL Over』

「L?何でLだけ大文字…。迷宮(Labyrinth)か、嘘(Lie)か、Lov……」

 言いかけて、九条は自分の発想の稚拙さに自嘲した。

「駄目だな俺は、悪い影響を受けすぎたかな?」

 そう誰に言うでもなく呟くと、その本を持って横の書斎に向かった。その後ろでは相変わらず姉の都が小さな寝息を立てている。

(……彼女が、気づくわけがない)

 九条は、都の言うような弟のリアル・オーバーではない。

 宮内都には弟そのものが存在していない。それどころか彼女の言う両親すらも虚偽のものである。

 彼女は幼い頃に、両親の虐待が原因で児童養護施設に預けられた。その後に両親が迎えに来たことも迎えにこれるだけの状態になっているとも聞いていない。彼女は新しい住処となった施設内のいじめや虐待に耐えられず、12歳の若さで施設を飛び出し、半ばホームレス状態で路上生活していた所を精神科医の宮内御門(みやうちみかど)に保護されたのである。

 彼女が初めて九条を『創った』のは14歳の時、突如庭に創りだされた九条を見て「私の死んだはずの弟が居る」と御門に告げたのが最初であった。

 この時、既に都は自身の生い立ちに耐えられず、保護した後見人の宮内御門を『祖父』だと思いこみ、自分の両親は事故死したのだと主張していたという。何もない所から人間1人を創り上げるという過去類を見ないリアル・オーバーに、祖父である御門は彼女に『被験者』としての多大なる期待を強いた。

 その拘束は、祖父が死してもなお強大なものとなっており、都は仕事のカウンセリングをしに病院に行く時と准教授として大学に行く時以外にこの家を出ることは殆どない。

 皮肉なことに、彼女は自身が想像している以上に、家族にも御門愛されずに生きているのだ。

 九条は、都の眠る竹椅子を振り返った。都は穏やかな顔で眠り続けている。

 誰にも愛されずに生き続けていても、『九条』という弟を創っている限り、彼女は表面上では決して孤独にならずに生きていけるのだ。

「創り主がリアル・オーバーのオリジナルを思い出す事なんて絶対にないんだよ、姉さん」

 自らがリアル・オーバーである九条には、リアル・オーバーにしか分からない複数の事柄を確信している。

 一つは、創り主がリアル・オーバーのオリジナルを思い出す事は、リアル・オーバーの消失時以外あり得ないのだと言う事。

 一つは、リアル・オーバーは発生時ないしは発生1日以内に、自身がリアル・オーバーである自覚を持つ事。

 そして一つは――。

 都の眠る竹椅子に、九条は手を伸ばした。触れようと思えば触れられる都の、その身体を受け止めている竹椅子に手を乗せ、その自身の手の甲に唇を重ねた。

「愛してるよ、姉さん」

 リアル・オーバーは必ず、その創り主に絶対的な愛情を持つ。

 自身が、創り主の記憶と共に消される、その日まで――。

「さて…いい加減連絡しないとな」

 都の眠る竹椅子から手を離すと、九条は置いていた白衣を持ち上げ、勢いよく羽織った。

 玄関の外に出て、白衣のポケットから真っ赤な携帯を取り出すと、発信履歴から『鍬野秋一郎』という名前を検索して通話ボタンを押した。

「ああ、鍬野くん。今ええか?前依頼されとった柊雪花の再構築の話なんやけど……」

 風が吹き上がる。

 緑に包まれた広大な庭の木々が、互いにぶつかり居ながら夜の帳に覆われた空へ、秋の訪れを告げていた。


      《終》

初めまして。こちらでの投稿は初めてになります。文月になという者です。

ここまで読んで下さって有難う御座います。

いかがだったでしょうか?「あっと驚く展開」が大好きなので、もし驚いて頂けたのなら幸いです。

まだまだ未熟な放浪物書きですが、宜しくお願いいたします。

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