第2話:黄色いアヒルが大海をゆく
シゲジイがペロリと舐めた。
「……しょっぺぇ。こりゃあ、紛れもなく海だな」
その一言で、私たちの日常は音を立てて崩壊した。
「テレビ、テレビ見なくっちゃ! ニュースはどうなってるの!?」
母さんが我に返ったように叫び、家の中へ駆け戻っていく。
私は震える手でスマホを取り出した。画面の右上を確認する。
予想はしていたけれど、アンテナの棒は一本も立っていない。完全に「圏外」だ。
「やったぁぁ! これ、絶対学校休みじゃん!」
状況をポジティブに捉えすぎている弟のチョウジも、ランドセルを放り投げて家の中へ消えていった。
残されたのは、私とシゲジイ。
この人は昔から、肝心な時にだけは役に立つ。
「ねえ、これどうなってんの? シゲジイなら何か分かんないの?」
期待を込めて尋ねると、足元から気の抜けた音が響いた。
「――ぷぅぅぅぅぅ。」
「……ちょっと、こんな時までふざけないでよ!」
「ふざけてなんざいねえよ。こりゃあ、てーへんな事になっとる」
シゲジイは空を見上げたまま、真面目な顔(お尻は別として)で言った。
「今のおいらに言えるのは、それだけさね。……ぷぅ」
最後にもう一発お見舞いして、シゲジイは物置の方へとよろよろ去っていった。
私はもう一度、周りの景色を眺める。
どこまでも、どこまでも続く、深い青。
吸い込まれそうなほど高く、突き抜けたピーカンの空。
遠くの方では、どこから来たのかカモメが数羽、のんびりと風に乗っている。
なんて、のどかなんだろう。
でも、その「のどかさ」が、今は何よりも不気味だった。
リビングに戻ると、母さんが受話器を握りしめたまま呆然と立ち尽くしていた。
「ラジオもテレビもネットも、みんな駄目。……電話も、繋がらないわ」
そこへ、物置から何かを引きずってシゲジイが戻ってきた。
「なあ、カナエさん。冷蔵庫の食料、どれぐらいある?」
「えっ、そうですね……ちょっと待ってください」
「サユキ、電気は来てるか?」
「うん。電気も水道も、今は普通に使えるみたい」
「ふーん、そうかい。電柱一本、配管一つ残ってねえってのによ。……こりゃあ、ますます厄介な事に巻き込まれたみたいだな」
そう言いながら、シゲジイは体を上下させ始めた。
ペコペコペコ、ペコペコペコ。
黄色いアヒルの形をした、浮き輪ボート。
それにシュコシュコと空気を入れている。
「ありがてえ事に波は高くねえ、凪だ。いつまで続くかもわからんし、今のうちにちょっくら周りを偵察してくるわ」
シゲジイがテキパキと指示を飛ばし始める。
さっきまでオナラを連発していた老人とは思えない、司令塔のような口調だ。
「チョージ! ゲームなんてしとらんで、望遠鏡とトランシーバー探してこい!」
「ラジャ! 任せて!」
チョージが二階へ駆け上がっていく。
「食料は3日……節約して、一週間分くらいかしら」
母さんが冷蔵庫の中身をメモしながら報告する。
「よし。サユキ、水道もいつまで出るかわからん。風呂場に水をいっぱい溜めとけ!」
「ラジャ、任せて!」
私も思わず、叫んで動いていた。
この「家」がどこへ向かっているのか、そもそもここはどこなのか。
分からないことだらけだ。
蛇口をひねると、透明な水が勢いよく流れ出した。
「……どこから来てるのよ、これ」
独り言が、湿った浴室に虚しく響く。ここだけはまだ、あの長い雨の匂いがこびりついている。
◇
リビングに戻ると、チョウジが窓際に張り付いて、古い真鍮の望遠鏡を覗き込んでいた。シゲジイが昔、どこかの骨董品屋で買わされたとかいう、怪しい代物だ。
「ユキ姉、見て! シゲジイがもうあんなところに!」
窓の外、真っ平らな鏡のような海面に、ポツンと黄色い点が浮かんでいた。
アヒルの形をした浮き輪ボート。
その背中に丸い背中を丸めて乗り、シゲジイがゆっくりとオールを漕いでいる。
「……ぷぅぅぅぅぅん。」
遠くから、頼りない音が海を渡ってきた。
すると不思議なことに、音が波紋となって広がり、アヒルボートの周囲だけ海の色がパッと「桃色」に染まった。まるで海がシゲジイの機嫌に反応しているみたいに。
「あ、何かある!」
チョウジが叫んだ。
「シゲジイの行く手に、何か赤いのが浮いてる!」
私も望遠鏡をひったくって、ピントを合わせる。
水平線の少し手前。波ひとつない海の上に、それは「立って」いた。
赤い郵便ポストだ。
アスファルトに埋まっていたはずの、あの古くさい円筒形のポストが、台座もなしに海面にぷかぷかと、垂直に直立している。
シゲジイがアヒルボートをポストに横付けした。
そして、慣れた手つきでポストの口に手を差し込む。
「え、嘘でしょ……」
シゲジイが何かを取り出した。
それは、びしょ濡れになった一通の手紙のように見えた。
シゲジイはそれを空にかざすと、またひとつ、短く「ぷっ」と鳴らした。
すると、どこからともなく一羽のカモメが舞い降りてきて、その手紙をくわえ、私たちの家の方へと飛び始めた。
「ねえ、こっちに来るよ!」
チョウジが窓を開ける。
潮風と一緒に、どこか懐かしい、雨上がりの土の匂いが部屋の中に流れ込んできた。
カモメはリビングのテーブルの上にポトリと手紙を落とすと、ひと鳴きして、またピーカンの空へと消えていった。
キッチンから戻ってきた母さんが、その手紙を手に取る。
「これ……」
母さんの指が震えていた。
宛名には、消えかかった文字でこう書かれていた。
『昨日までの世界より、本日お越しの皆様へ』
手紙の封を切ると、中からは砂がさらさらと溢れ出し、テーブルの上に小さな山を作った。
文字はない。ただ、その砂は微かに光っていて、耳を澄ますと、あの長い雨の音がかすかに聞こえてくるような気がした。
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