1-5:消滅した世界
「なぎちゃん、どうしたの?」
呆然と立ち竦む渚の視線を追い、柳瀬も空を仰いだ。
「熱中症かしら……ね、今日はもういいからね、無理しないで、休んでいいのよ」
「え……あ、あれ! 見えてないんですか!?」
「あれって……何?」
(――見えてないの?)
渚は目を何度も擦り、瞬きを繰り返した。それでもまだ、空を巨大な黒い霧が覆っている。
「……み、みまちがい。あの、見間違い、したみたい、です。なんだか空が黒く見えて」
「本当に大丈夫?」
ごくり。渇いた喉が引き攣る。
柳瀬の言う通り熱中症で、意識が朦朧としているのかもしれない。全身は金縛りにあったかのように動かなかった。まるで、あの巨大な眼に睨まれているようで、その圧迫感に圧し潰されそうだった。
ジジ。ジジジジ。
「ひっ!」
渚のものではない別の悲鳴が、店の外から聞こえてくる。
声の方向に顔を向けると、横断歩道で信号を待つ男性が、空を仰いで尻もちをついている。だが、周囲の人々は怪訝な顔をその男性に向けるだけだった。
(あの人には見えている。わたしだけじゃない……?)
「どうしたのかしら」
柳瀬も、その男性を見て首を傾げた。
「――あ、その」
いよいよおかしいと思ったのか、柳瀬が渚の顔を覗き込んだ。
「本当に大丈夫? 具合が悪いの?」
「だい、だいじょう……でも、あの。そら、空が」
「空?」
柳瀬に、「あの彼と同じものが見えている」と言いたかったのに、何と言えばいいのだろう。耳の奥で、蝉の声が壊れたラジオのようにずっと鳴り響き、頭を締め付けてくる。
じじ、じじじ。ぐわんぐわん。みーん。みーん。
景色が揺れているのか、自分の身体が揺れているのかすら分からない。足がふやけて浮いている。顔を上げると、黒い眼が見下ろしていた。
「頭が、……割れそう!」
痛みに耐えられず、渚はうずくまり、固く目を閉じた。ううう、と唸り声が漏れる。
次第に、塞いだ手の外側から、悲鳴や叫び声も大きくなって聞こえてきた。
誰かが言った。黒い霧が見下ろしている、と。
(そう、それだよ――)
誰かが言った。あの黒い瞳から何かが落ちてくると。
黒い何かが。雨のように、煙のように黒い何かが。
それが、空も、建物も、人も全てを覆っていくと。
柳瀬の手が、震える渚の背中を摩った。
たが、その腕は小刻みに震えを帯び、渚を抱き締めるような形になった。まるで庇うような姿勢だった。
(なんで?)
なぜそんなことをするのだろう。渚は痛みに唸り、そしてその時、脳裏にふとある文章が浮かび上がった。
あの小説の結末だ。
『黒い霧が見下ろしたあと、赤い空が世界を囲む。血の雨が涙のように降る。全てを洗い流していく。それが、この世界の終わりだった』
一番最後の言葉。あの小説の結末――。
「ああ……」
力のない柳瀬の声が、頭上から落ちてきた。
あぁ。
その声は、自ら出したのではなく、諦念と驚愕から押し出されたかのような音だ。
「なにかしら、あれ」
柳瀬の言葉に、渚は固く閉じていた目をゆっくりと開いた。
空は、血のような赤黒さに染まっていた。
夕焼けではない。血が空全体に広がったように、濃く、どろりと揺れている。
その赤はまるで生き物の体温を持っているかのように揺らめき、脈打つたびに世界の色を変えていった。
そして赤黒い海の中心で、黒い霧が渦を巻いている。大粒の雨のような何かが、中心から降ってきていた。
(――涙みたい)
赤黒い雫は世界の全てを真っ赤に染めた。
地面も、木々も、建物の壁も、外に立つ人間の頭から足先まで。
ざぁっと世界を洗い流すように。
赤い雨が吹き付け、渚の頬を掠めた。その一滴がぬるりと肌を滑る。ガッ――、強烈に全身が殴られたかのような衝撃を受けた。一等強い頭痛に苛まれ、渚の視界が白く弾け飛んだ。
店の中に充満した花の匂いにクラクラする。耳の中では不快な耳鳴りが鳴り響いて止まらない。
「なぎちゃん……!」
柳瀬の腕が、強く渚を抱き締めた。次いで、ドンッ――、大きく地面が揺れる。
真っ赤な世界が二重三重にぶれて崩れた。いくら日本人が地震にな慣れているとはいえ、それは地震というレベルを遙かに超える衝撃だった。
地球はスーパーボールになったようだった。そして、渚はその中に詰め込まれたゴムの繊維だ。もしくはスノーボールのように、箱庭に詰められたちっぽけな存在だと思わされる。
ボールは勢いよく床に打ち付けられて、跳ね飛んで、どこかに落とされ、またぶつけられた。
落とされて、跳ねて、またぶつかる。
落とされて、跳ねて、転がされる。
ぐわん、ぐわん。じじじ、じじじ。みーん。みーん。
きぃ――ん。耳鳴りが最高潮に達した。意識も、感覚も、グチャグチャにかき混ぜられる。
(――やめて、やめて、やめて!)
ぷつり。その音がどこか鳴った。
渚の意識は、ろうそくの火を吹いたように、たやすく掻き消されてしまった。
店の花の香りだけが漂っている。最後に残ったのは、それだけだった。




