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1-2:黒い本




 「え……、なに?」



 玄関の青白い灯りに照らされ、刻まれた傷跡が鋭く光った。

 

 指先から水が滴るのも忘れ、渚は巾着に手を差し入れる。辞書より分厚い黒い本を掴みあげた。



「ろ、く?」



 ろく。六。録。――ろく。


 本のタイトルにしてはあまりにも簡潔だ。中身がどのような内容なのか、まるで見当もつかない。本であるかも怪しい代物だ。



 そこには、二文字しかなかった。表紙の中央上部に刻まれた『ろく』。その金色だけが、鈍く光っている。

 

 著者名も、出版社もない。背表紙も裏表紙も空白だ。


 ふっと、玄関の自動点灯ライトが消えた。見捨てられたように暗くなり、背筋を冷たいものが走る。肩が震えた。



「はっ……、くしっ!」



 ぱち、と慌てたように電気が戻る。


 寒気は隙間風のせいだけではない。濡れた身体に雨が沁みていた。

 渚はまた、もう一度込み上げてきたくしゃみをこらえて、自分が濡れ鼠だったことを思い出した。

 

 鞄から水気を振り落とす。


 フローリングを踏む前に靴下を脱ぎ捨て、つま先立ちで床に足をおろした。


 パタパタと床に落ちていく水滴もそのままに、湿った指先を延ばしてスイッチを押し、小さな部屋に明かりをつけた。


 濡れた身体と髪をぬぐって着替え終えると、渚は机に放った本の前に腰を下ろした。丸テーブルの上に置かれた黒い本は、無機質な部屋の中で、ひどく異質だった。

 


 渚はその本に手を伸ばしかけて、あ、と止まる。棚の前に移動した渚は、小さくお鈴を鳴らして、静かに手を合わせた。



「今日は居酒屋のバイトしてきたんだ。それからね、報告なんだけど……、来年からの就職先、決まったよ」



 渚は目を閉じて続けた。


 

「なんと大手だよ! 朝霞電子、知ってるでしょ。内定貰ったの。花屋の柳瀬さんもお祝いしてくれたんだ。明日からシフトも増やしたいってお願いして……」


 

 写真立ての横に置かれた花瓶。老夫婦が営んでいる花屋は、渚が三年前からお世話になっているアルバイト先の一つだ。



 桃色のガーベラは大学の進級祝いのプレゼントで――大学生にもなって進級祝いは恥ずかしいが――薄付いた花弁は、渚の部屋に優しさと安堵を与えてくれる。

 


 渚は、棚の上に並ぶ二人の男女の笑顔をじっと見つめてから、また目を閉じた。

 そしていつものように、その二人が、自分に笑いかける姿を思い浮かべた。けれども、どうしたって、その笑顔を思い描くことはできなかった。


 

 彼らが渚に置いていったものは、あの笑顔とは程遠い。

 


 ――二人は、渚を捨てたのだから。



 しばらくして、また目を開く。

 一人暮らしの部屋はシンと静まりかえっていた。

 


 人の気配がない空間に、鳴らした鈴が永延と鳴り響いている。その響きの中で、今ここにいる自分という存在の意味が、ひどく不快に思えて仕方がなかった。



「……あとね、変な人から変な本を渡されたんだ。宗教勧誘かなぁ。でもこんな雨の日に宗教勧誘なんて、あの人も苦労してるよね。すごい切羽詰まってたし」



 渚は身体を捻って背後のテーブルから本をとった。

 

 硬く、いい手触りとは言えなかった。

 古ぼけた匂いが鼻を突く。ページは水を吸って波打ち、紙はすでに傷んでいた。

 

 

 古書だろうか。聖書、あるいは歴史書かもしれない。価値があるなら売れるだろうか。そんな打算が脳裏を過る。

 


「宗教なら……、面白そうだけど!」



 渚は指をかけた。

 そして、黒い厚紙をめくった。



 

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