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4-3:岐路

 渚は立ち尽くした。呼吸のたびに肋骨の奥がひりつく。


 耳を澄ますと、遠い水滴の音に混じって、ぬちり、と泥が引き剥がされる気配がある。背中の皮膚が粟立った。渚は唾を飲み込み、呼吸を細く細く落とした。

 


 (まだ、いる)



 ぬるい腐臭が喉の奥を刺した。


 渚は震える指を握りしめ、乱れきった呼吸を必死に整えようとする。

 だが、意識すればするほど、息は洞窟に大きく響いた。胸の奥に沈殿した痛みが、肺へ入る空気を拒むようだった。



 ――ズルッ。



 泥が擦れる音がした。

 白く霞んだ霧の向こうで、ぼんやりとした黒い影が、ゆっくりと頭をもたげている。


 近くで聞こえる湿った吐息に、渚は叫びそうになるのを必死でこらえた。


 背筋を冷たい刃でなぞられたような感覚。

 逃げ場はない――悟った。ここは袋小路だ。進路はひとつしかない。そしてその先は、獣の向こう側。


 視界の端に、気を失って倒れている坂田が映った。




 (置いていけない……)


 


 息を吸って、そしてまた細く、静かな糸のように吐き出す。


 黒い影の輪郭が重たく膨らみ、四本の脚が這い出る気配がした。泥と瘴気に塗れた巨体の一部が、霧を裂いて眼前に現れる。




「――ッ!」




 腐臭をまき散らし、獣は喉を低く鳴らした。その裂けた口の奥で、灰色の舌がぬめりと蠢く。



 吐き出された瘴気が霧を押し払い、巨体の全貌が露わになった。より強い腐臭が一瞬で肺を焼く。

 

 その渚の足が無意識に後ずさった。

 込み上げる吐き気に耐えきれず、口元を押さえて辺りを見渡す。




(どうにか……しないと)




 胃の奥がひっくり返りそうな不快感に耐えながら、渚は坂田へと視線を走らせた。置いていくわけにはいかなかったが、ここから出るには、坂田を背負わなければならない。


 それに――この獣に勝てるとは、到底思えなかった。今は、逃げる。それしかない。だが、その判断をまとめる暇もなく、獣の咆哮が洞窟の空気を引き裂いた。


 耳をつんざく衝撃に、渚はよろめいた。天井から砂が雨のように降り注ぎ、視界が揺れる。思わず片膝をついた。


 獣が跳んだ。


 泥を弾き、加速する。床を抉る音が壁を打った。




 (う、うごけ……!)




 渚は立ち上がろうとしたが、足が思うように動かなかった。

 

 肩をかすめるように鋭利な爪が通り抜ける。髪が数本、宙に散った。服が裂け、ビュ、と飛んだ鮮血の滴が後ろへ流れる。頬も切れた。後から痛みがやってくる。




「……っ!」




 渚は横へ転がった。泥水で滑り、ついた右肘を強く打ち付ける。ジンジンとした痛みが骨を伝った。勢いよく肺から空気が飛び出して、視界が白く弾けた。


 立てない。

 

 渚は指先から短剣を取り落とした。

 それでも這うように手を伸ばし、泥の中から柄を探り当てる。


 低い振動が地面を揺らしている。獣の歩みだ。


 黒い息が充満し、一層視界が悪くなった。獣の息は黒い霧となって渚の足元を這い、体温を吸い取るように冷たい。腐臭に混じる、鉄のような味。カラカラに焼け付く痛み。




「こふっ、ごほ!」




 抑えきれない咳が喉の奥を揺らした。

 せき込んだ瞬間、喉が裂けたような感覚がして口元を覆った掌を見る。手のひらに血が飛び散っていた。



(このままじゃ……)



 渚は悟った。このままでは、自分も坂田も死ぬだけだ。

 


「ぃ、いやっ……」



 獣が地面を叩く。泥の破片が飛び散り、渚の頬に冷たい斑点を残した。

 渚はその一撃を間一髪でかわしながら、柄を握り直した。



 (死にたくない――! それに、あいつをここに置いて死なせたくない)



 懐を抉るように薙がれた爪を避け、渚は腕を振り抜いた。指先から放たれた少量の水が、弾丸のようにほとばしる。それは膨れ上がり、衝撃の波となって、獣へ叩きつけられた。


 じゅう、と何かが灼ける音がした。


 水滴が触れた箇所で、表面を覆う泥がばしゃりと剥がれ落ちた。



 (……効いた!)



 泥の中に隠れていた本体が顕わになる。 

 影のように揺らめく黒い皮膚。その異形の中身が剥き出しになり、黒煙がちりちりと散って揺らいでいた。


 獣は、目に見えて苦しみ始めた。渚は、自分の掌を見た。この指先から放たれた液体は、普通の水ではない。明らかに性質が違う。



「……水じゃ、ない――なにこれ」

 


 獣が低い悲鳴を上げ、わずかに後退する。


 その様子を見た渚は息を大きく吸った。もう一度、腕を振り上げようとしたその瞬間。


 指先に、再び異質な重さがまとわりついた。



 (え……?)



 どくり、と胸の奥が跳ねる。

 ぬるりとした液体が掌に溜まり、黒い粘液がねじれるように集まっていく。


 その瞬間、脳裏に記憶が走った。



 ――薄暗い弧洞。

 ――呼吸ができないほどの刺激臭。

 ――喉を焼く苦しさ。

――胃を逆流するような痛み。

 ――声すら出なかった恐怖。



 (な……なに、……これ……)


 覚えのない記憶。

 鉄さびの味がするように、身体だけが鮮明に覚えている。

 

 混乱した頭でも、渚は目の前の獣に腕を向けた。



「うっ!」



 黒い液体の粒を獣の身体に向かって放つ。


 粘液が張り付き、獣は断末魔の悲鳴を上げて暴れた。毒に侵されたかのように首を左右に振り、のたうち回っている。


 渚は短剣を握り直し、身体を前に投げ出すようにしてその横腹へ向かって走った。

 


 ()()()と思った。



 僅かな隙でも良い。

 獣を地面に倒し、巨体を超えられるだけの時間を稼ぐだけで良い。


 獣は眼をつぶされたまま、気配で渚を探しているようだったが、今の状態では渚を見つけられずにいるようだ。暴れながら壁や床にその身体をぶつけている。

 


 渚の指先に黒い液体が溢れる。それは短剣の刃にまとわりつき、鋭い液体の膜となった。獣の脇腹に向かって、渚は刃を振り下ろした。どっと重たい手応えがあった。

 


 黒い肉が裂け、濁った血が雨のように飛び散る。獣の口から漏れた悲鳴が低く濁り、洞窟の奥まで響いた。腐臭がさらに濃くなり、渚は顔をしかめながらもさらに踏み込み、刃に液体を重ねた。



「はあぁ――っ!」


 

 深く深く突き刺して、泥と腐肉を混ぜた血が、渚の頬に大きく飛び散る。渚はその裂け目に黒い液体をさらに流し込んだ。自分の手も、液体に触れた箇所がピリピリと痺れている。



 ――あの時は、全身が焼けて動けなかったのに。


 今は、痺れるだけで済んでいる。



 (あのとき……毒の……)



 渚は頭を振って違和感を振るい落とし、歯を食いしばって獣の身体から刃を引き抜いた。



 (まだ、いける!)



 その一瞬だった。

 

 ほんの一欠片。勝てるという希望がよぎった刹那、ぎょる、と()()()()()()()()()獣の目が、渚を見た。



「あ……」



 その目が、再生されていた。

 

 一つではない。目の数は二つではなく、いくつもあった。それはぎょろぎょろと動いたすえに、すべてが渚に集まった。

 


 渚は思わず息を止めた。

 獣の背中が、ぐにゃりと波打った。


 ひゅ、と遠くで音が鳴る。渚の死角から、第二の前脚が伸びた。



 ――ぶつ。



 (え――?)



 狡猾だった。

 渚の攻撃を誘うために、わざと。痛がるふりも、弱ったふりも、全部――ただ渚を誘い出すためのものだったのだ。



 気づいたときには遅く、鋭い爪が、渚の横腹を裂いた。布が裂ける乾いた音の後、肉をひっかく鈍い衝撃が走る。

 

 温かいものが一気に流れ出し、渚は息を詰めた。気づけば身体が宙を舞っていた。



「ガ、あぐッ……!」



 そして、湿った壁に叩きつけられた。


 背中が岩肌に圧され、肺に空気が入らなかった。腹の傷からどくとくと流れ出る血は、何が起きているのか理解できていなかった渚を待ってはくれなかった。



「あ、あ、は、ハハ……」


 

 視界がぐらりと揺れて傾き、膝が崩れ、渚は泥の上に倒れ込んだ。

 

 腹から広がった血が床に滲んで混じり合い、熱と寒気が、交互に背骨を駆け上がる。



 (い、いた、い、いき……でき、な……)



 獣の足音が迫ってきた。どすん、どすん、と一歩ごとに、地面がたわむ。

 

 濁った複眼が渚を見下ろし、裂けた口が横に広がる。

 まるで笑っているかのようだ。


 そして、ぱかりと開けられた口の奥は、闇だった。牙が何本も重なり、ぬめる泥と血が滴り落ちている。灰色の舌がちろりと見え、粘性の液体が糸を引いて地面に落ちていく。 



 (……あ、……)



 渚は動けなかった。

 腕も、足も、喉すらも、震えることもなかった。


 頭を打った衝撃で、視界がと二重三重にぶれている。獣の影が渚を覆い、大きな口が近づいている。



 (ま、って……まだ、わたし、まだなにも)



 喰われる。


 その時、渚の視界の隅に一筋の光が落ちた。まるで雲の隙間から降り注ぐ、まっすぐ凝固された光。泥と腐臭とは無縁の、澄み切った色の何かが、まっすぐ、渚を貫いた。



「ああ」


 

 光。お迎えみたい。

 そう思った渚の頬のすぐ横で、かすかな金属音が響いた。


 カラーン。

 

 軽い音だった。鈴の音のような、澄んだ音色。

 それは小さな音だったが、渚の鼓膜を大きく震わせ、意識を引っ張った。迫りくる獣の口から、その視線だけを横に向ける。



 (か、ぎ?)



 獣の口が渚の頭へ落ちてくる。

 あと数センチで噛み砕かれる――刹那、地面に落ちた何かから光いっそう溢れ、渚の頬を撫でた。



 洞窟の空気が静止した。世界が動きを失ったように、すべての音が遠ざかった。

 


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