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4-2:黙って


 坂田は血走った目で渚を睨みつけ、立ち上がるなりその胸倉を荒々しく掴んだ。汗と涙に濡れた顔には、助けられた安堵の影は欠片もない。ただ、醜く濁った怒りだけが張りついている。



「ちが――」



 否定しかけた声は、喉の奥でかすれて途切れた。

 坂田の罵声は止まらない。恐怖と憎悪を混ぜた声が、洞窟の空気を震わせる。



「黙れ! お前みたいな半端者がいるから、俺までこんな目に遭うんだ! 命令だ――《俺を守れ》! 《今すぐこの怪物を倒せ》!」

 


 その声には異様な圧があった。


 控室で感じた、恐ろしく、背筋をぞっと凍らせる威圧感。

 全身が強張り、動けなくなるような縛りの感覚。

 坂田の異能力――自分より等級の低い者を支配する力。


 

 胸に重苦しいものが突き刺さり、頭を締め付けられる。 靄がかかったように視界が鈍り、呼吸が浅くなった。足が勝手に、よろよろと後退る。


 坂田の手が、渚の頭の方へ伸びてくる。



(殴られる)



 逃げたいのに、身体が言うことをきかない。鉛を詰め込まれたみたいに、ずしりと重い。



(……あ、れ)



 だが、その圧力は弾けるように消え去った。

 靄のかかるような感覚も、胸を締めつけた重みも、まるで火花を散らして消えるように。



(もしかして……あの液体、能力を無効化してるの?)



 渚は反射的に坂田の手首をつかんだ。坂田は大きく目を見開いた。


 

「なっ、おまえ……!」


「やめてください!」



 振り払うように叫ぶと、坂田は明らかに狼狽した。



「お、俺の異能を――!」



 渚は奥歯を噛み締め、再び短剣を構え直す。

 坂田の背後で、目をつぶされた獣が起き上がっていた。大きく体をのたうち回しながら、二人の方向へと爪を振り下ろしてくる。



「うしろ!」



 振り返った坂田の顔から、サッと血の気が引いた。

 渚は即座に水を粘液のある液体に変え、振り下ろされた腕に絡ませた。ぶつかりそうになったその軌道を逸らし、坂田を突き飛ばす。



 だが、その衝撃を避けきれず、二人はそろって岩壁に叩きつけられた。



「カハッ……!」


 

 キイィーンと耳鳴りが走る。手は汗で滑り、足首が痺れて力が入らない。うまくら短剣を握れない。

 それでも渚は立ち上がろうして――坂田の罵声がそれを遮った。



「くそっ、何ちんたらしてやがる! おとりにでもなって引き付けろ!」



 耳を劈く怒声だ。

 渚は頭を片手で押さえたまま、ほんの数秒、立ち尽くした。動けない。頭がぐわんと揺れて、地面が二重になって見える。



 (何もしないくせに……何もしないくせに!)


 

 罵声が岩壁にぶつかっては跳ね返り、何度も渚の耳を打った。


 胸の奥がざわめいて、全身が熱に浮かされた。


 頭が痛い。喉が灼ける。


 自分でも感じたことの無い感覚だった。目眩を覚えるほど上気している。それなのに、冷たい氷に全身が浸されている。腹の奥から抑えきれない熱いものがせり上がり、喉の奥で痞えている。



 湖底に沈む水圧のように、感情が重みを増していく。沈ませようとしていたものが、抑え込んでいた何かが反発するように強い力でと外へ飛び出ようとしてる。



 ――怒り。


 

 渚は息を吸い、坂田のもとへと近づく。その腕を引いて立ち上がらせ、口を開いた。


 

「すみません」



 それは、()()()()ずっと言いたかった言葉だった。

 


 

 渚は一拍、坂田をまっすぐ見据え、低く告げた。



 「黙ってもらっていいですか」



 喉の奥から圧されて出てきた声は、思っていた以上に低く、驚くほど静かだった。

 その響きは、滴が水面に触れて広がる波紋のように空気を震わせ、ゆっくりと染み渡っていく。


 坂田の口から「は」と短く息が漏れる。みるみるうちにその顔は紅潮し、坂田は怒鳴り散らした。



「あぁ!? おまえみたいなC級なんかいくらでも替えが――うぐっ!」



 言葉は途中で途切れた。

 さらに怒鳴り散らそうとする坂田の顔を、渚は手のひらで掴んでいた。一切の隙を与えない確かさで、その声を握りつぶす。



「何もしないなら黙って!」



 言葉と同時に、渚の周囲の空気が凍り付いた。

 漂う水滴がふるりと震え、光を弾く。それはぱちぱちと目に見えないほど細かく砕け散り、白い霧となって、坂田の口と鼻を覆っていく。



 坂田は異変を察し、身を震わせた。

 目の前の存在を、理解できず、ただ恐れている。


 そこにいるのは、気弱な椎野渚ではなかった。

 冷え切った視線。凍りついた温度。


 ――あり得ない。A級がC級に恐れをいただくことなど、あり得ない。あってはならないこと。だが、坂田は、目の前の巨大な波のような重圧に押し潰されていた。

 


「ひぃっ……げほっ、ごほっ……な、あり、えっ……!」



 咽び声がしだいに弱まり、坂田は膝を折ると、虚ろな目のまま石床に崩れ落ちてしまった。


 ようやく渚は息を吸いこんだ。肺の中へ急速に冷気が取り込まれ、喉が震える。

 


「――わ、わた、し――何を――」



 我に返った渚は坂田のそばに膝をついた。

 指先に触れたのは、冷たい皮膚の感触。


 頭から冷水をかけられたように全身が凍り付く。さっきまで頭を焼いていた熱は消え、代わりに冷たい恐怖が這い上がってきた。



(あ……い、いきてる?)



 耳を澄ますと、かすかな寝息が聞こえた。坂田の肩は、ゆるやかに上下している。

 


(よ、よかった……!)


 

 安堵に息をついたその後ろから、地鳴りのような咆哮が広間を貫いた。

 霧の奥で黒い影が蠢いている。砕けた破片が空を舞い、地面が軋んだ。



(……そうだった)


 

 獣はまだそこにいる。

 霧を押しのけるように、巨大な影が、ゆらりと立ち上がった。





 

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