3-10:液体生成
くう、と、獣が怯んだ。
渚と獣の間に、わずかな距離が生まれる。
その瞬間、渚は自分が放った水と、その根源を思い出した。
『椎野渚』は、水だけではなく、液体を作れる能力を持っている。
喉から胸にかけて、しびれと微かな熱が帯びた。
(もし、これが……作れたら)
渚は手を握りしめて振る。
作り方は、わかっていた。
唇を濡らしたその時から、渚の身体は、その液体を「知って」しまったのだ。
ただ、念うだけ。
作りたい。
それを、自分の身体の一部のように。
まるで最初からそこにあったものを、呼び覚ますみたいに。
ふぅ、と落ち着かせるように息を吐き出す。呼吸とともに生まれたのは、粘性を帯びた濁った水滴だった。
ふよふよと浮かび上がる液体。
それを指先で弾くと、パッと風を切った。弾丸のように空気を裂いた滴が、獣の体を貫く。泥の影は痙攣し、短い悲鳴を残して霧散した。
「……でき、た?」
胸が熱い。恐怖で膝は震えているのに、頭だけが妙に冴えている。どう動けば活路が開けるか、思考が勝手に次を描き始める。
渚は刃を握り直し、水と樹液を組み合わせて振るった。狙いは荒く、足ももつれた。
それでも確実に、群れの数は削られていった。
最後の一体が霧散した。
渚の荒い呼吸だけがその場に残った。霧散した獣の跡が床に黒い斑点として残り、じわじわと広がっていく。
渚は、その中心に立ち尽くしていた。いまだ胸は焼けるように熱いのに、手足は氷に縛られたみたいに冷たい。
「はっ、はっ、はっ――。私、やったの……?」
掠れた声が、洞窟に吸い込まれる。
「……あは。すごい、な……わたし……」
笑いは乾いて、どこか歪んでいた。舌の奥にはまだ、えぐみと金属の苦さがこびりついている。
喉の渇きに負けて水を流し込んだが、痺れは抜けない。胸の奥に、ひりつくような熱が残ったままだ。
(へんなの飲んじゃった……)
胃がむかむかとして、渚は慌てて治療薬――これもなぜか作り方が分かる――を作り、拡張ポケットの中にあったいくつかの瓶に入れると、そのうちの一本を勢いよく飲み下した。
「う、ごほっ……まず……っ」
粉薬を無理やり溶かしたような不快な味が舌に広がり、渚は思わず「うえっ」と顔をしかめた。
胸やけは幾分か収まり、呼吸が落ち着いていく。だが、身体の痛みはあまり消えなかった。
漫画やアニメのように、回復魔法みたく、ものの数秒で怪我が消えるような――そんな都合の良いものではないらしい。
渚は震える足で立ち上がり、扉へと歩み寄った。押しても、叩いても、爪で縁を抉っても、扉はびくともしなかった。
(みんな、外に出られたかな。出られてないか。……十五分以上、経ってたし)
残されたのは、奥へと続く道。
坂田が巨大な怪物に引きずられていった、暗い通路。
その奥から這い出した空気が、渚の頬を撫でた。
頭に浮かぶのは坂田の顔。横暴で、傲慢で、仲間を切り捨てる上司の顔。助けたいとは思えなかった。それでも――。
(でも、放ってはおけない)
ここで背を向ければ「誰も救えない自分」になる。それだけは嫌だった。
渚は震える指先をぎゅっと握りしめる。
短剣の柄は、汗で滑るほど濡れている。
「……行くしかない」
声に出した瞬間、身体の芯にわずかな熱が灯った。渚は、また一歩を踏み出した。




