3-9:濡れる唇
渚はよろめきながら立ち上がった。
頭の奥を金槌で叩かれたような痛みに、視界が二重に揺れる。
牙を剥いた獣たちが、再び行く手を塞いだ。
「こっち、来るなっ!」
短剣を振り払う。倒れ込みながら無様に振り回し、勢いのまま渚は扉へと進んだ。
「ま、まだっ……!」
まだ、少しだけ、仲間が作った隙間が残っている。もう通れるほどの余地はないと分かっているのに、足は止まらない。
「椎野さっ――!」
「ま、まってまって、だめ!」
声が喉に引っかかり、砕けた破片のように漏れる。伸ばした指先は空を掻くだけで、扉の縁に届かなかった。
叫びが交錯した瞬間、ガシャアンッ――鋼鉄が噛み合い、その場は静まり返った。
渚はその勢いのまま閉ざされた石の扉に激突した。
肩と額を強打し、骨の芯まで響く衝撃が走った。
「ぐっ、はぅっ!」
渚はずるずると座り込み、震える指先で扉を引っかいた。
吐き出した息が喉にひっかかる。額から血が伝い、顎先からぽたりと落ちていた。
爪がこすれて甲高い音を立てても、冷たい石扉は応えてくれない。涙と唾が混じり、溢れていく
(おわった……)
渚の思考が冷たく結論を下した。
勝ち目はない。ここで喰い殺される。
背後では泥と血の塊が蠢き、獣たちが低く唸り声を上げていた。赤く濡れた牙が、今にも飛びかかろうとその隙を狙っている。
渚は扉に額を擦り付けた。逃げ場のない、完全な行き止まりだった。
天災も異能もない平和な世界で一般人として生き、こんな場面とは無縁だった渚にとって、死があまりにも近すぎた。
だが、渚は震える手をぎゅっと握る。
脳裏に浮かんだのは、自分を気遣ってくれた御幡や和久田の顔。守ろうとしてくれた人たちを裏切るように死ぬのは、どうしても嫌だった。
それから、母と父。思い出せないほど、遠くにあったはずの温もり。
それには違和感と居心地の悪さばかりだったが、あの人たちにとっての『椎野渚』は、確かに最愛の娘だ。
渚がここで諦めたら、渚を信じて見送っていたあの人たちを、また深く傷つけることになる。
それが、どうしても受け入れられなかった。
そして、七瀬。
まだ、渚は七瀬を見つけていない。この本の中の世界に来た意味すら分かっていない。
「……あきらめ、ない」
理性は無駄だと突き放すのに、心臓は立て続けに、激しく叩きつけるように脈打つ。
渚は奥歯を噛みしめ、手のひらをほどいて石扉に置いた。まだ、終わらせるわけにはいかない。
「ふぅー」と、長く、落ち着かせるように息を吐く。
ざわめきを沈めるように。その瞳に決意の色が宿り、青が燦然と輝いた。
(――終わらせられない。まだ!)
泥と血の獣が一斉に飛びかかった。
影が渚の視界を覆った。よろめく身体を無理やり反転させ、握った短剣を振り抜く。
獣の影が幾重にも膨れ上がった。数は減らず、また形を取り戻してくる。
「ぐっ……!」
渚は短剣を握りしめ、もう片方の手で水を呼んだ。
掌から滴った透明な液体が宙に散り、鞭のようにしなりながら獣の首を打ち据えた。水の衝撃に一体が壁へ叩きつけられたが、霧散することなく、泥の塊から再び同じ姿を成す。
「効いてない!」
渚の全身は焦りと恐怖に震えた。
身体は戦闘に馴染んでいる。それは、恐らくこの世界の椎野渚の力。幾度も弧洞の訓練を受けてきた肉体による動きだった。
だが、心は平凡な日常しか知らない、ただ何もない日々を過ごしてきた椎野渚だ。理性と感情がせめぎ合い、次の一手を迷わせる。
背後から牙の気配がして、渚は反射で身を転がした。
岩に肩をぶつけ、痛みに息が詰まった。衝撃で身体に絡まった花の蔓が、壁でぐちゃぐちゃに折れる。絡みついていた花の蔓が裂け、裂けた蔓の断面から、粘性のある樹液が頬を伝い、唇へと落ちた。
その液体が唇に付着していたことに、渚は気づかなかった。無意識に唇を噛んだ拍子に、舌先へ、鉄と草のえぐみが広がる。
「ぐっ!」
突如、渚の腹部が灼けるように熱くなり、喉から胸へと痺れが走った。
「な、なに……! これ……、うぅっ、うぇっ」
口元に手をあててうずくまると、素早くまた獣が襲いかかってくる。
瓦礫と植物の間に落ちた短剣をとっさに拾い上げ、渚は絡まった蔓ごと短剣を振った。
刃に絡んだ樹液がどろりと広がり、ぬめる感触が手に伝わる。刃にまとわりついた樹液のぬめりが、獣の胴に食い込んだ。
ずぶり、と嫌な感触が腕に返る。獣はすぐには消えなかった。
裂けた胴の内側で、黒い肉塊が遅れて崩れ、声にならない音を漏らした。一拍、その獣の口だけが苦悶を吐き出すように開閉し、歯の間から泥と血が泡立って溢れた。
ようやく刃が抜けた瞬間、獣の身体は形を保てなくなり、足元で崩れ落ちた。
霧散したあとにも、床には黒い染みだけが残った。渚の手首から肘にかけて、生温かい液体が垂れている。
「……え」
(消えた?)
別の獣が襲いかかってくる。渚は刃に樹液を纏わせ、膝を起こしながら獣を斬りつけた。またも、獣の影が悲鳴とともに消えた。
「き、効いてる?」




