2-10:嫌悪
エレベーターが十九階で小さく揺れ、止まった。
渚は一歩、外に出ることを躊躇した。
初めて足を踏み入れる職場の匂い――消毒液と乾いた紙の混じる冷ややかな空気。白々としたライトが無人の廊下を照らし、余計に寂しさを強調している。
(――どっちへ行けば……)
エレベーターの扉が閉まりかけて、渚は慌てて廊下に飛び出した。
扉が閉まりかけ、渚は慌てて廊下へ飛び出した。左は行き止まり。右へ踏み出そうとすると、奥から人影が現れる。若い女性が渚に気づき、早足で近づいてきた。
「……なぎちゃん? なぎちゃん!」
首から下げられた職員証が目に入った。
渚は咄嗟に後頭部へと手をやり、とぼけるように首を傾げつつ、その名前を見る。
『御幡ゆかり』。
渚と同じデザインの職員証。昨夜のメッセージの名前が脳裏に浮かび、結びついた。――この女性が『ゆかり』だ。
「復帰は午後からじゃなかったの?」
渚は困ったように笑った。
「朝からだと思ってた」
「そ、そうだったのね。でも本当に大丈夫? あんな大怪我してたのに、今日からなんて」
言葉の端に焦りが滲んでいる。ただの心配ではない。御幡の目の奥に、別の怯えが沈んでいるのを見て、渚は悟られぬよう背筋を伸ばした。
「平気だよ。昨日のメッセージ、返せなくてごめん」
「いいの、それは大丈夫……」
御幡の声は優しい。だが、どこか何かに怯えているような表情に、渚は内心その首を傾げた。
「なにか、あった?」
そう聞かずにはいられないほど、御幡の様子はおかしかった。
御幡は渚の腕を掴んだ。
思わず引こうとしたが、指先の力が強い。振りほどけない。焦りと怯えが、皮膚越しにじわりと伝わってくる。
「なんで今日、復帰するなんて言ったの?」
「ど……、どういうこと?」
御幡は声を落とし、廊下の先へ素早く視線を走らせた。
「だって! なぎちゃん、今ならまだ帰れるわ。無理に出ることなんてない。この前のこともあったし――」
小声で言葉を重ねようとした、その時だった。
「おはよう、御幡隊員。それから復帰おめでとう、椎野隊員」
背筋がぞわりと粟立つ。振り返ると、丸顔で大柄な男が立っていた。
皺だらけのスーツが肉厚な体を無理やり包み、笑うたびに頬の肉が揺れる。ぶよぶよした首筋が目立った。
目が笑っていない。
細めた目尻の皺の奥で、濁った水底に沈む刃物みたいな冷たい光が潜み、視線だけで温度を奪ってくる。
渚は、喉の奥に生ぬるい石を押し込まれたような不快感を覚えた。
嫌悪が湧く。反発も湧く。
それとは別に、胸の奥で何かが縮こまり、筋肉が固まった。背中を冷や汗が伝っていく。
「挨拶もできないのか? 俺はお前らの班長だぞ」
ゆるい口調に嘲笑が混じっていた。
御幡は身をすくめるように、小さく頭を下げた。
「……お、おはようございます、坂田班長」
か細く吐息のような声だ。
「おはようございます」
渚は口元に薄く笑みを乗せ、声色を柔らかくした。――こういう相手に恐怖を見せるのは悪手だ。この身体の記憶が、そう訴えてきたような気がする。
坂田と呼ばれた男――坂田泰次、弧洞調査課第四班の班長。彼は眉をピクリと動かし、満足げに渚を見下ろして、ゆっくりと口角を上げた。
「椎野。もう怪我はいいのか? せっかく生き残ったんだから、その身体を大事にしなきゃな」
御幡の肩がぴくりと跳ねたのが横目に見えた。唇を青くして俯いている。
同情ではなく、生き残った者が、いつまで使えるかを量るような口調。
事情を知らずとも、渚にはわかった。
この男は強い立場にいて、部下の命すら己の玩具のように見ているようだ。
渚の意思とは裏腹に、身体は重石を載せられたように硬直する。――怖い。身体が、坂田を怖がっている。
(――落ち着け……)
「さあ! 今日の任務も頼むぞ。俺のためにせいぜい役に立ってくれ。C級の落ちこぼれたちにできるのはそれだけだからな」
肩を激励めいて軽く叩くと、坂田は去っていった。
残った感触を拭い払いながら、渚は奥歯を噛む。
(――この男が、椎野渚の上司?)
「……な、なぎちゃん、大丈夫? 顔が……」
御幡の声で意識が戻る。御幡はひきつった表情で渚を見ていた。その理由が分からず、渚はわずかに首を傾げた。
「ゆかり、さん」
「え? ど、どうして、急に『さん』付けなの?」
一瞬、ぎくりとする。そう呼んでいなかったのか。渚は肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
「あ――、ごめん。ほら、この前の任務のこともあって、まだ色々混乱してるみたい」
「そうよね、前の……」
御幡は渚の手を優しく包み込んだ。
「なぎちゃん、無理だけはしないで。あの人、A級だから。言うことは、聞いた方がいいからね」
震えているのに、彼女は渚の手を包んで離さなかった。




