2-9:スローモーション
突如、渚の視界はスローモーションに侵食された。
(――え)
重心を僅かに後ろへ移したユノ。その背後に、カフェのホットコーヒーを手にした職員がいる。
液体が傾き、茶色の飛沫がユノの背に――。
「あっ!」
ユノが声を上げ、体勢を僅かに崩した。
(え、なにが――)
カップはまだ傾いていない。コーヒーも零れていない。
呼吸が止まる。まるで、時間が巻き戻されるような感覚。何が起きているのか、理解が追いつかない。
あ、と渚の口から声が漏れる。その未来が訪れることを《《感じ取った》》。
(――コーヒー!)
咄嗟に身体が動いていた。
自分でも、どこにそれほどの速さがあったのだろうかと疑問に思うほど、素早く手を伸ばし、ユノの腕を掴んで、自分の方へ引き寄せていた。
ユノの瞳が、驚きで揺れる。
「ちょっと何。離してよ!」
「あ、えっ」
ユノの冷ややかな表情に凄まれて、渚は余計なことをしたと悟った。
倒れかけたカップ。飛ばされたプラスチックの蓋。そこから零れ出た中身――コーヒーの茶色の液体。それが空中で、時を止めたように浮かんでいる。
「あんたに助けてもらわなくても、自分で避けられるんだけど」
ユノがため息をつくと、茶色の飛沫は映像を逆再生するかのように手元へ戻っていく。コーヒーを運んでいた男性は驚いたまま目を丸くして固まっていた。
「あ、ご――、ごめんなさい」
渚は我に返り、掴んでいた手を離した。ユノは腕を見て目を細め、渚を値踏みするように見つめる。
「こんなものも避けられないって思われてるなら心外。それより、さっさと弧洞の調査に行ったら? 調四さん」
「おい、莉佳子。言い過ぎだぞ」
茶髪の男がユノを諫めたが、ユノは苛立ちを隠そうとしなかった。
「あんたたちみたいな人、珍しくないの。キャアキャア言って、ほんと迷惑」
渚の身体がすくみ上がった。それは、目の前の強者に対する畏怖だった。
目の前にいるのは、自分より強い存在。逃れられない威圧感が渚に掛けられている。
今ここで、自分はこの少女より弱いのだと知らしめられる。胸の内に恐怖がじわじわと広がる。
界律能力には等級がある。
Sが並ぶ等級から下はCまで。この世界ではS級が特殊な立ち位置にあり、絶対的な強者となる。
C級はB級以上の威圧に逆らうことはできず、A級はB級以下に威張ることができても、S級にはどうあがいても屈してしまう。
そしてこの世界では、S級には、二通りの存在があった。
最初からS級になることが確定し、体としての強さゆえに、先天的に周囲に対して威圧感や忌避感を与えてしまう『生来型のS級』。
そして、境遇や条件によってS級へと能力を進化させる『進化型のS級』。
ユノの放つ威圧は、生来型のS級特有のもの――生まれながらの重圧そのものだ。
さきほど周囲に発していた威圧感とは比べものにならない重さが襲いかかる。本能が、ユノに屈しようとしていた。周囲の人々も顔を蒼白にして後退る。
だが、その圧迫感の中で、渚の内側では逆に熱がせり上がっていた。
「ごめんなさい」
渚は、つい言い返していた。内側でかっとなった熱は無視できないものだった。
「でも、私、たまたま居合わせただけなんです。見ていたのは失礼だったかもしれません……でも、そんな言い方をされるほどのことじゃないと思います」
ユノから発される威圧感に耐えながら、渚は声を絞り出した。
「は、――」
ユノはぽかんとしていた。弱いとみなした存在に、噛みつかれたような顔で。
そして当の渚はもう一度「ごめんなさい」と言い、逃げるようにエレベーターへ駆け込んだ。
閉まりかけの扉の向こう。灰青の髪の男がまた視線を寄越し、ひらりと手を振った。唇が「またね」と形を作る。
けれど、渚にはそんなことを気にしている余裕もなかった。
エレベーターの中で荒い息をつきながら、冷たい壁にもたれかかる。行き先は十九階を押した。エレベーターは止まることなく、ぐんぐん上へと昇っていく。
(――ユノ。ユノだ!)
由乃莉佳子。
桃色の髪を持つ、誰よりも可愛い少女。
《天鳴グループ》に所属するS級の《界律者》。七瀬の部下である、『ろく』の登場人物。
「はは……決まった。これ、絶対に『ろく』だ」
渚の心臓は、どきんどきんと大きく音を鳴らした。
『ろく』の世界に自分がいるという現実。
『ろく』の登場人物に会えた喜び。
そして、『ろく』の世界であるなら、確実にこの未来で世界は滅亡するという現実。
「うう……もう、どうしろっていうの……それに、さっきの、なに……」
渚はエレベーターの中に座り込み、頭を抱えた。
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