2-6:特務機関
翌朝。
渚はアラームが鳴る前に目を覚ました。
布団は柔らかいのに、肌に馴染まなかった。深く眠れた気がしないまま、重たい頭を抱えて起き上がる。
時計は六時十五分を指している。
階下には朝の光が満ちていた。東の窓から射す陽が、家具の輪郭を淡く削り、壁にきらりと反射している。
台所に立つみつえが振り返った。
「おはよう、渚。早いのね」
「うん」
昨日よりは、この家の空気に馴染んでいた。
顔を洗い、台所を手伝い、食事を取る。その流れが驚くほど自然にできている。だが、それは「渚ではない誰か」――この世界で生きていた椎野渚の置き土産。その痕跡をなぞっているような感覚だった。
特務機関に行く日だというのに、朝食の間、みつえと豊は何も言わなかった。
朝食を終えると、渚は部屋のクローゼットから黒い制服を取り出した。それは特務機関の制服だった。
天災対策特務機関――通称、DDA。
内閣府直属でありながら独立権限を持つ特務機関。弧洞の監視と管理を担い、発生直後に調査を行うことが役割に含まれる。
渚が所属しているのは、「弧洞調査課」だ。
弧洞には界律能力と同様に、危険度を示す等級が定められている。
発生した弧洞は、まず外部観測によって「一次内定」が下される。
そこでは表層のエネルギー反応を測定し、おおまかな等級が振り分けられる。もちろん、すでに人的被害が出ている時や強大な反応が観測された場合は、等級の判定を待たずに緊急作戦が実行されていた。
「一次内定」によって等級が判定されるが、外部測定で分かるのはあくまで表層の安定度にすぎず、内部に潜む「本質的な危険」は判定できない。
そこで出番となるのが、渚が所属する弧洞調査課だ。
弧洞は進入してから十五分ほどで入り口が固定され、以後は終末装置が破壊されるか、一定の時間が経過するまで、完全閉鎖される。
そのわずかな「十五分の猶予」のうちに突入し、内部を確認して真の危険度である「二次内定」を行うことが、調査課の任務である。
弧洞は未知の資源と怪物の素材を秘め、発生原因を解き明かすサンプルの宝庫でもある。だからこそ安定した弧洞の「進入権利」は、競売にかけられ巨額で落札されてきた。
さらに、極めて安定した弧洞は「所有」されることすらある。
国家の研究拠点として、あるいは企業の独占資源として。怪物の素材や内部資源の権益が絡むため、民間にとっては一大ビジネスであり、同時に実績を積む舞台でもあった。
英雄のように怪物を討伐するわけではない。
渚の役割は、ただ――冒険の入口を決めること。だが、それはいわば「ファーストペンギン」となるということだ。
渚が調べたところ、第四班の担当はCランク以下。比較的安定し、出没する怪物も弱いとされる弧洞だ。
(調査なら、命がけにはならない……よね)
不安を抱えたまま、渚は姿見に自分の姿を映した。
黒地に銀のライン。スーツにも、軍服にも見える。膝上のスカートは落ち着かず、黒のストッキングで足を覆う。
筋肉の乗った身体に、整った小さな顔をしている。鍛えていたのだろう。鏡の中の「椎野渚」は制服がよく似合っていた。
いったい、この世界の渚はどこへ行ってしまったのだろう。
その疑問が頭の片隅にずっと残っている。
「……行こ」
鏡の中の自分が、小難しい顔で渚を見つめ返していた。
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この世界の椎野渚は両親に愛されている。
一日過ごしただけで、それは痛いほど分かった。
渚は玄関先で二人に見送られた。みつえは複雑そうな表情をしていたが、「頑張ってね。でも、怪我しないようにね」とだけ言い、渚を引き止めなかった。
その声は温かく優しさに包まれていた。心の奥底の柔い部分をくすぐられるような感覚になり、渚はふと心の奥底から思った。
(もし親がいたら、こうして見送ってくれたかな)
渚は、二人にうまく笑えなかった。気づかれていたかもしれないが、二人は渚を咎めなかった。なんとか笑い返したようにも思う。
しどろもどろに「いってきます」とだけ言って、渚は玄関を飛び出した。
渚のやるべきことは大きく分けて三つある。
一つ目、この世界の現状について知ること。
二つ目、七瀬玲梓を探すこと。
三つ目、自分自身について調べること。
この三つが最初の目標だ。
渚は記憶を頼りに、特務機関本部へと向かった。
日本の《界律者》と弧洞の管理・監視・対策を担う特務機関は、政治と行政の中枢である虎ノ門一帯を拡張した再開発区域に本部が設けられている。
自宅からそれほど遠くない場所だ。電車で三十分、さらに歩いて五分程度の時間がかかるようだった。
電車に乗っている間、渚は腕に巻いた腕時計型のデバイスをじっと見つめ、ロック画面をスライドした。
黒い端末の画面が薄く光を放ちながらすっと広がる。腕時計の中から、手首の上、空中へと浮かび上がった。
「わっ……」
浮かび上がったホログラム画面の中で、文字やアイコンが流れるように通り過ぎる。指先の動きに一寸の狂いもなく完璧に反応して、空間を舞うように動いていく。
どうやらこの世界は渚の世界よりも、はるかに進化した技術を持っているようだ。まるでテレビで見たVR空間が現実にあるようだ、と渚は思った。
指先が触れるたびに画面が滑らかに動き、平面が立体となって現実に溶け込む。
デバイスは特務機関が《界律者》に装着するよう指定したもので、弧洞の研究の副産物で得られた技術を使用していた。その証として、黒い画面の背景には、機関のロゴが映し出されている。
周囲の人々は浮かび上がる画面を気にしていない。制服を着た他の乗客も同じように腕の上で指を動かしているが、彼らの手元には画面が見えていなかった。
渚にしか見えない。
まるで未来へ入り込んでしまったような優越感に、口元が緩みかける。慌てて唇にぎゅっと力を入れた。
ガタン、と電車が揺れた。
ぶれた指先がとあるアプリの前で画面を止めた。
水色のメッセージアプリアイコンだ。その中には、渚の職務や人間関係の細かなやり取りが詰まっていた。




