003:本当の絶望
目の前にいる女性が、遊馬の妻であると知った多々良は言葉を失ってしまう。
すると沙耶香は多々良が呆けているうちに、スッと背を向けて関係者入り口の方に戻っていく。
その姿を見て直ぐに多々良は沙耶香の前に回り込む。
そして地面に両膝をつけて土下座した。
「本当に一生のお願いです! 母の……母の余命が幾ばくも無いんです! どうにか最後に会わせてあげて貰えないでしょうか!」
16歳の多々良ができるのは土下座しか無かった。
こんな多々良の姿を見た沙耶香は、フッと笑みを浮かべると多々良の側にしゃがむ。
優しく肩に手を乗せた。
もしかしてと思って多々良は顔を上げる。
沙耶香は付けているサングラスを、パッと取って髪をバサバサとして言う。
「もう私たち家族に関わらないで貰えるかしら? あの人は、あなた方に会う事をストレスに思っているの」
「そ そんな……」
「自覚しなさい、あなた方は〈家族だった〉人たちよ」
そういうとまたニコッと笑って、立ち上がりサングラスを掛け直して居なくなっていく。
放置された多々良は、このイベントの警備員たちに捕まって外に放り出されてしまった。
外は雨が降っていた。
傘も持っているわけが無いので、ゾンビのようにフラフラしながら雨の降っている街を歩く。
それにしてもこんなに雨って冷たかったのか。
そう多々良は思った。
この翌日である。
幸枝は病院の緊急治療室で息を引き取った。
それはそれは簡単に死んだのだ。
幸枝の人生は、どれだけ幸せだったのだろうか。
多々良にとっては、それだけが気がかりであり、自分がいなければとすらも思ってしまっている。
帰ってきた骨になった幸枝を抱き抱え涙を流す。
「どうして母さんが、こんな思いをしなきゃいけねぇんだよ! 母さんが何をしたってんだよ……ふざけんじゃねぇよ」
多々良は家の中にある家具に当たり散らかす。
それくらいしないと多々良の感情が、発散される事は無いのである。
見るに耐えない。
多々良が生きてきた16年の人生において、最も感情を剥き出しにした日だ。
そして明確にある事を自覚した日でもある。
それは遊馬への殺意である。
幸枝と自分の不幸は、全て原因を作り上げた遊馬の責任だという思考になった。
こうなったら殺してやろうという考えが思いつく。
しかしいきなりの感情なので、そんな巧妙な殺人計画を考えられるわけがなかった。
家のキッチンにある包丁を手に取る。
そしてそれを持ち運んでいる時にバレないように、布に包み込んで持っていく事にした。
顔がバレないようにフードを被る。
どこでやろうかと考えたが、確実に来るであろう遊馬の所属するジムに向かった。
目の前をウロウロしていたら、さすがに怪しまれて通報されかねない。
なので路地裏に隠れて様子を伺う。
何日も潜む覚悟だった。
しかしその日のうちに遊馬は姿を現した。
「行くぞ……行くぞ!」
最初は少し躊躇したが、母親の仇を取ってやると震えながら包丁を出す。
そして行こうとした瞬間、後ろから肩を叩かれた。
振り返ると、そこには多々良と同じ歳くらいのイケメンの少年が立っていたのである。
多々良が振り返ったタイミングで、少年に顔面を殴り飛ばされた。
「お前、包丁なんて持って何してんだよ。明らかに親父の事を狙ってたよな?」
「お 親父?」
「あぁ真谷 遊馬は俺の親父だ」
まさかの事実に多々良は動揺を隠せない。
多々良の頭をよぎったのは、自分と同い年くらいという事は不倫をしていてできた子供なのか。
いや義理の息子の可能性だってある。
しかし目元や立ち姿から遊馬の雰囲気を感じ、明確には分からないが、この少年は遊馬の子供だろう。
そう思った途端、この少年にも多々良は強い殺意が芽生え包丁を構え直す。
そして叫び声を上げながら少年に向かっていった。
だが少年は簡単に多々良のナイフを避けると、前蹴りを腹に入れてから左フックを顔面に叩き込む。
この2連打を喰らって多々良は地面に膝を着けた。
ここで少年は多々良の事を、まだ許さない。
馬乗りになって顔面を複数回に渡って殴打する。
完全に戦意を消失している多々良はグダッとなって、ようやく少年は殴る手を止めた。
「今日のところは、これくらいで許してやる。また来るようなら今度は、お前を殺すからな」
やり切った少年は汗を手で拭う。
すると頬に多々良の血がついた。
多々良は、もう虫の息で反撃する気力すら奪われてしまっていたのである。
満足した少年は路地裏を出る。
多々良は這いずりながら表の道が見えるところに行くと、そこには笑っている遊馬・沙耶香に加えて少年も5歳くらいの少女が居たのである。
この光景を見た多々良の精神は完全に折れた。
そしてまた雨が降ってくる。
いつも最悪な時に雨が降ってくる。
多々良は顔面を腫らし、フラフラになりながら街中を歩いている。
もちろん雨に打たれて、びしょ濡れだ。
涙なのか、雨なのか分からないくらい顔面がグシャグシャになっている。
幸枝にも申し訳が無いのだ。
何より何も達成できなかった自分自身への嫌悪感が、多々良を襲っているのである。
このまま生きていても仕方ない。
生き恥を晒すくらいならば、ここで人生を終わらしてやろうと歩道橋までやってくる。
そして歩道橋の手すりのところに登った。
「あぁ……俺の人生って何だったんだろうなぁ」
多々良は死ぬ間際になって自分の人生を振り返る。
しかし自分の人生は何だったのかと、笑いが出るほどに何も無い事に気がつく。
思わず笑ってしまうのである。
人生の最後に笑えて良かったと多々良は思って、車が横行しているところに飛び込もうとする。
だが多々良の後ろから「おい小僧」と聞こえて来る。
思わず、パッと振り返ってみると、そこには外国の老人が傘を差して立っていた。
「何があったかは聞かんが、死ぬのはちぃと勿体無いんじゃないかのぉ?」
「え? おじいちゃん、日本語喋れるの?」
「老人扱いするな! ワシの嫁が日本人じゃった……そんな事よりもじゃ! 死ぬには勿体ないって話じゃ!」
「そんなこと言われても、もう俺の人生には何も……」
老人は多々良に何があったかは聞かないが、死ぬのは勿体ないと言って来る。
しかし多々良的には、もう自分の人生には何も無い。
だから死にたいんだというが、老人は傘で多々良のオデコをバンッと叩くのである。
「小僧は人生において素晴らしいものを知らんな!」
「人生において素晴らしいもの? それって何ですか」
「総合格闘技じゃ! これ以上に素晴らしいものは、そうは無いぞ!」
老人の口から総合格闘技と出てきた瞬間、多々良の表情が露骨に暗くなった。
「総合格闘技は嫌いなんです……」
「ほぉ? 総合格闘技に何かがあったみたいじゃな」
多々良が総合格闘技は嫌いなんだと言ったら、老人は総合格闘技で何かあったと分かる。
しかし多々良の肩をポンポンッと叩く。
「良いか? 男なら負けたまま終わるな。何かしら成してから死になさい」
「おじいちゃん……」
別に普通の精神状態の時ならば響いていないかもしれないが、今の多々良には釘を打たれた感じだった。
すると老人は服の懐からスッと紙を取り出し「ほれ」と多々良に渡してきた。
「明日、ワシが開催するアマチュア総合格闘技大会をやるから出てみんか? 空きもあるし、自分の実力も試してみなさい」
死のうと思っていた多々良だったが、死ぬくらいならば他者を殴るのも悪くないかと思った。
本当は死にたいなんて思っていなかったのかもしれないが、今はほんのほんの少し生きたいと思っている。