001:世界一不幸
多々良は好きだった。
父親である遊馬が、六角形のリングの中でボロボロになりながらガッツポーズをしている姿が。
だが、いつからだろう。
そんな父親を心の底から憎むようになったのは。
16歳になった多々良は高校には行かず、清掃の仕事をして生計を立てていた。
それは病床の母・幸枝の治療費を稼ぐ為に働いているのである。
今日はデパートの清掃だ。
他の人とは、一切関らずに掃除を続ける。
すると電化製品を売っているコーナーの前を通ると、聞いた事がある声が聞こえて来た。
『そうですねぇ、とても簡単な道のりではありませんでしたねぇ』
『やはりそうですよねぇ』
多々良は自然と聞いた事がある声の方に顔を向ける。
そこにはテレビがズラッと置かれているが、そのテレビに映し出されているのは遊馬だった。
昼のニュース番組にゲストで出演している。
遊馬の顔を見た多々良は、キッと深いそうな顔をして直ぐに家電コーナーを離れた。
今日の仕事を終えた多々良は、直ぐに着替えて荷物をまとめて帰ろうとする。
そんな多々良に現場責任者の男性が、明るい声で「あっ多々良くん!」と呼び止める。
スッと止まると振り返る。
「多々良くんの歓迎会してなかったよね? だからやろうと思うんだけど、これからどう?」
「すみません! ちょっとこの後、用事があるんすよ」
多々良の歓迎会への誘いだった。
少し考える仕草をしてから、明らかなニカッとした作り笑いをして断るのである。
そして何も言わせないように「それじゃ!」と言って走って帰って行く。
声をかけさせる間もなく走っていたので、男性は「あっえっ」と困惑している。
「多々良くんのお母さん、病気で入院してるみたいですよ? 仕事終わり毎日お見舞いに行ってるみたいです」
「あぁそうだったのかぁ……それはちょっと申し訳ない事しちゃったかなぁ」
多々良の事情を知った男性は、頭をポリポリッと掻いて申し訳ないと言うのである。
多々良は周りに幸枝の事について話していなかった。
周りの人間たちから「不幸だ」「可哀想だ」と思われたくないからだ。
職場から飛び出した多々良は、真っ直ぐ幸枝が入院している病院に向かうのである。
30分かけて病院に到着する。
いつも通りに幸枝のいる病室に入ろうとしたら、そこに幸枝の主治医が「多々良くん」と声をかけた。
「ちょっとお母さんについて話があるんだけど、これから話良いかな?」
「え? あっはい……」
主治医の顔が暗い顔をしていた。
何の話も聞いていないが、多々良は心の奥がザワッとしたのを感じる。
そのまま多々良は主治医に案内されるまま会議室のようなところに案内される。
「お母さんが最近、調子悪いのは知ってるよね?」
「はい……確かに調子悪くて寝てる事が多いです」
「このまま治療を続けたとしても、お母さんは1ヶ月から2ヶ月くらいだと思う」
やはりそうだ。
少しは心の準備をしていた多々良だったが、いざ話を聞いてみると頭の中が真っ白になる。
しかもあと1ヶ月から2ヶ月の命なんて……。
言葉を失って、あまりの衝撃に立ちくらみを起こす。
主治医は駆け寄って「大丈夫か!」と声をかけるが、多々良は手で主治医を制して背筋を伸ばす。
「その話、母さんは知ってるんですか?」
「いや、君に伝えてからにしようと思っていたんだ。この事は私の口から言おうか?」
「いえ、できる事なら自分の口から伝えさせて下さい」
「そうか……分かったよ。お母さんの事も心配だが、君の事も心配だ」
「本当に俺は大丈夫です……」
もう余命幾ばくも無い事は多々良が伝えるか、それとも主治医が伝えるか。
自分の口から言いたいと多々良は引き受けた。
それを主治医は了承した。
話が終わったので多々良は、この場を離れようとするが足元がフラフラしている。
これは多々良も心配だと主治医は声をかけた。
しかし心配されたく無い多々良は、本当に大丈夫だからと作り笑いをして幸枝の病室に向かう。
どうして自分たち親子は、こんなにも人生が上手くいかないのかとパイプ椅子に座る。
絶対に泣いてやらないと涙を我慢しながら、苦しそうに眠っている幸枝の顔を見る。
立ち上がって幸枝の顔にかかった髪を退けてあげる。
痩せこけた手で触ると、涙が我慢できなかった。
「どうして母さんが、こんな思いを……どうしてこんな事になったんだよ」
さすがの多々良も自分たちの人生は、どうしてここまで不幸なのかと思って涙を溢した。
10年前までは幸せな家庭のはずだった。
あの頃の国見家は、ちょうど幸せ絶頂期と言っても良いくらいだった。
それは遊馬が総合格闘技で、日本タイトルを奪取しているのを聞けば分かるだろう。
日本タイトルマッチを多々良はリング脇で見ていた。
「どうだ、多々良っ! 父ちゃん、かっこいいだろ!」
「うん、かっこよかった! 僕も総合格闘技やってみたい!」
「え!? おぉそうか……やってみるか!」
黄金のベルトを持っている遊馬が、とてつもなくかっこよく多々良は総合格闘技をやりたいと思った。
まさか6歳児が総合格闘技をやりたいなんて、言うと思わなかった遊馬は少し困惑する。
しかし自分を見て始めたいと言ってくれた事が嬉しくて、やってみるという気持ちを尊重する事にした。
幸枝は不安だったが、鼻息荒い多々良を見たら止めなさいなんて言えなかった。
「遊馬さん! お子さんは俺たちが見ますんで、遊馬さんは世界戦に向けてトレーニングして下さい!」
「おぉ! 良いのか? 悪いなぁ」
「良いんすよ! このジム初めての世界チャンピオンになって貰わなきゃ困るんすから!」
遊馬は自分のジムに多々良を連れて行った。
すると遊馬の後輩たちがやって来て、多々良の面倒は自分たちが見ると引き受けてくれた。
これから遊馬は日本タイトルを返上し、世界戦に向けてトレーニングが始まるからだ。
遊馬は多々良を後輩たちに任せる事にした。
「多々良くんは、どうして総合格闘技を始めたの?」
「父ちゃんが、かっこよかったから!」
「だよなぁ! 遊馬さんって、かっこいいよな!」
「うん! 僕にとってヒーローだよ!」
意気投合した多々良と後輩たちは、自分たちの練習をしながら多々良にミット撃ちなどをさせた。
すると思っているよりも遥かに上手かった。
初めてだというのに、殴るポイントがシッカリしており後輩たちが言葉を失うくらいだ。
「お おぉ……凄いな、多々良くん!」
「僕、凄いの!?」
「凄いよ! 初めてで、さらに6歳で……さすがは遊馬さんの息子さんって感じ!」
この時のさすがは遊馬の子供だという言葉は、多々良にとって嬉しくて仕方ない事だった。
それでさらに総合格闘技にハマっていった。
遊馬の後輩とも仲良くなって、遠目で見ている遊馬が練習を捗るくらい心の支えだった。
しかし突如として、この幸せの家庭が崩壊する。
それは遊馬が世界戦を4戦連続で失敗した事から始まったのである。
日本タイトルを獲り、周りからは最も世界チャンピオンに近い日本人として期待されていた事も大きい。
世界との距離を知らしめられた遊馬の心は、ドンドン荒んで行った。