メビウスの輪
悩んでも、何もわからずとも、時間は勝手に進み続ける。
止まってほしいと願っても、巻き戻ってほしいと願っても、その願いが叶うことはなく。
うだうだうだ——と。
無意味に思考が回り続け、今日。
「おはよう、母さん」
何も変わらなかった。何も変えられなかった。
今日、化け物が現れる。いつ来るだろう。どこに来るだろう。
私はどうすればいいだろうか。いまだに答えを出せていない。
戦う理由も、諦める理由も。どうすればいいのかさえも。
思えば、自分で決めたことなんで何一つない。
流されて、従って、それを自分の意志として。そうして今まで生きてきた。
余計なことは考えなくていい。考えるのは指示を出す人の役目。ただ命じられるままに行動すればいい。そう教わって生きてきた私は、安易に答えを求めてしまう。
それではだめだ。何度も言われてきたけれど、結局いまだに変わらない。
何をする気力もない。何をしたいとも思えない。きっと、このまま何も変わらず終わりを迎えるんだろうなぁって、そう思いながら、楽しくもない食事を進めていく。
そして、終わりが始まる。
「今日の予定、外でいいか?」
尋ねる兄を眺めながら、ただ、頷く。母を殺す引き金と知っていても、抗う気力は残っていない。心にあるのは落胆だけ。
今、私は消耗しているはずなのに。私の知る二人なら、提案するはずがない。
危険はないとは言い切れない。それをわかっているはずなのに。
二人はいつも通り接してくる。異変に気づいてほしかったわけじゃない。けれど、やっぱり二人は偽物なんだなぁって。記憶にある行動をなぞるだけ。ただそれだけのお人形。
——もう、死んでほしくないと思えない。本物だと思えない。
「じゃぁ、行こうか」
もう、諦めてしまってもいいのではないか。思いながらも、いつもの言葉を口にする。
「ちょっとだけ準備させて」
最後に一つ、試したいことがあったから。
闇に染めた部屋の中。恐怖を紛らわせたかった。心を落ち着かせたかった。この感情が、邪魔だった。だから、いつもの行動を試みる。今までなら、少しずつ感情が押さえつけられていく。過去が今を塗りつぶすように。けれど、今、それがない。今こそ過去に縋りたいのに。何も感じないまま。
こんな感情消してしまって、目的通りに動く人形になってしまいたいのに。
戸棚の奥。押し入れの中。刀を前に、何も変わらない。手に取って。……変わらない。
あの日に塗りつぶされる恐れのない今は、望ましい事のはず。そのはずなのに。
何をする気も起きないまま。きっと、集中しきれていないから。別にそれでもいいじゃない。そう嘯く自分がいる。
集中できたとして。過去に浸ることができたとして。変わるものなど何もない。
——もう、ここに用はない。
こんなところで時間をかけても意味がない。
部屋を出た。ここから先は、殺されに行くようなものだと知りながら、何も感じない。
それこそが、過去に浸っている証拠であると、知らないままに。
そして。何もできず、見殺しにした。
鉄の錆びた匂いが辺りを満たす。地を赤黒く染めていくその光景。眺めるのは、これで何度目になるだろう。
母が死ぬと知ってここに来た。助けられるはずもないと理解して、ここにいる。何をするでもなく、何を望むでもなく、ただ流されて、ここにいる。……だというのに。
胃がぎゅっと締め付けられるように痛くなって、そして熱いものが喉に上がってくる。
それを妨げることもできなくて。
死んでほしくないと思えない。その心に変わりはない。ただ、偽物であると理解してさえ、大事な人の姿をした存在が壊されていく。その光景は、耐えられるものじゃなかったらしい。
四つ這いで、朝ご飯を吐き出しながら——それでも。前回よりは余裕があった。
雑音と処理していた声を認識できる。それは兄のものだった。私に叫ぶ声だった。必死に語り掛ける声だった。けれど、その言葉は響かない。
人形でしかないと知ってしまった今、何を言われようと、きっと——
——そういえば、兄さん、生きてたっけ。
あの時。あの後。倒れた私は兄に運ばれる。そして、養われる。何もできないまま。何もしないまま。見捨ててしまえばよかった。何もせず生きる気力もなくした私なんて、足手まといでしかないだろうに。それでも、二人で生き残るために、と。
その毎日は楽なものじゃなかったはずだ。
三人でしていたことを一人でしなきゃならなくなった。
薬草の採取、保存食への加工。ジビエの捕獲、血抜き、保存食への加工。無数にある罠の管理、壊れた罠の修復、その材料の管理————
一人でできるものじゃない。そのすべてを必死にこなしてくれている。私が生きていられるということは、そう言う事。それで、どうなった。私はこんなところで夢を見る。
兄は今も現実で必死に働いているだろうに。
どれくらいの時間が過ぎただろう。一年? 二年だろうか。
時間の感覚はあいまいで、昔の記憶は薄れ始めて。
まがい物なんかじゃない。本当の家族に、もう一度。
それは、戦う理由になるだろうか。不可能に近い化け物に挑む活力になるだろうか。勝てるはずもない戦いを始めるその一歩に、なりえるだろうか。
……
いくら考えても、体が前に進まない。武器を構えることもせず、母の死を眺めるだけ。だから、悟った。
「無理だよ」
心が砕けた音がした。兄の存在。それは確かな道標。けれど。立ち向かおうと思えない。
「やっぱり私は私だった」
感情を理解した。自分を確立し、夢を抱いた。
使い捨ての道具から、少しくらいは変われたんじゃないか。そう思っていたのに。
もう、いい。どうせ、このまま食い殺される。それで終わり。それでいい。それがいい。
それで終わることができるなら。何も考えずに済むのなら。地獄に戻らずに済むのなら。目をつむり、迫る絶望から目を逸らして——けれど。
地を蹴り、後ろへ飛んだ。死を受け入れたはずなのに。生きていたいと思えないのに。気づけば私は跳んでいた。
意識が消失する直前。最後に見たのは、何かが地面を抉る光景。それも、直前まで自分がいた場所を。最後の最後で死にたくないとでも思ったんだろうか。
——そして、跳ね起きる。
数秒。それが、この場が自室であると理解するまでにかかった時間。呆然としながらも、まだ思考は回るらしい。
「いっそそのまま止まってしまえばいいのに」
また戻ってきた。死ねなかったんだろうか。ここへ戻ってきたということは、そういうことなんだろう。少し、残念。けれど、次こそは。そう願った。もうこれ以上自分を蔑みたくなかったから。
何をするでもなく、何を願うでもなく。明かりを灯すこともなく、ボーッと宙を眺め、時間は無為に流れゆく。やがて日が昇り、兄が来る。ご飯を食べて、また眠る。
必要なこと以外何もしない。ただ二人の指示に従うだけ。それが最も楽だから。やがて化け物が現れるまで。そして。最期の日。母親が目の前で食い殺された。
感情が麻痺してきているのだろうか。ほんのわずかに痛みが走る。ただ、それだけ。
こんなもの、気にならない。もう二度と感じることもないと思えば、なおさら。
或いは、これが私の願いなのだろう。乾いた瞳で敵を見据えながら、そう思った。
確実に、死ぬために。その一挙動さえ見逃さないよう強く目を見開いて——ゾワッとした。首筋に何か冷たいものでも押し当てられたような。
それが何なのか。考えるより先に、体が動く。地面を蹴って、後方へ。その直後。
私の体は舞っていた。お腹より下を残して、飛んでいた。左手と、右手首もその場に置き忘れ——
痛みはもう、感じなかった。回避しようとしたのか、自分から当たりに行ったのか。無意識下により自分でさえわからないその疑問もまた、消えた。
これは、助からない。今度こそ、間違いなく殺される。ようやく終わることができる。
そう思えば、ほんの少し感情が揺れる。それはきっと喜びという感情なのだろう。
……よく、わからない。
目を瞑り、意識は遠のき——