願い
「お待たせ」
少女の言葉に、二人は黙って頷いて、そして。
「じゃ、打ち合わせを始めよっか」
少女もまた、母親の言葉に頷いた。
いつもとはまるで違う雰囲気を纏いながら。
この場に現れた時からそうだというのに、誰も何も言わない。
それがいつものことだからなのか——気づいていないのか。
仄かに殺気立つ希望をよそに、母親は続ける。
「まず、罠地帯の状態確認を行う」
罠地帯。屋敷一帯を覆う罠だらけの区間。
そこが正常に作用してこそ森の中にある屋敷の安全が保証される。
その状態確認がどれだけ重要かなんて、普段の希望であれば理解していないはずがない。
それでも口にする理由。
「すでに起動しているものは取り換える。そして、罠が足りないと思われる場所は増設していく。その他気になることが——」
少女は理解しているだろうか。
いや、していないだろう。
時折軽く頷き、けれどその視線はここではないどこかを眺めている。
その瞳は何を映しているのか。今何を考えているのか。或いは何も考えていないのか。
「——続けて、外に罠を設置する。痕跡、状況を考えて罠を設置するように。他に警戒しないといけないことは——」
やがて、打ち合わせという名の既知の再確認が終わる。
そも、再確認でしかないのだから、話し合うことなどなかった。時間がかかるはずもなく。
「それでは、出発する」
歩き出す二人の背中を、無機質な目で眺める少女。
気配を経ち、神経を研ぎ澄ませながら。その目には、覚悟が宿っているようにも見える。けれど……
少女は全力で警戒していた。
ほんのわずかな気の緩みが死へとつながる状況下。緊張して警戒に当たることは間違いではない。
ただ、小動物どころか虫の存在にさえ反応してしまうその集中。過剰なはずなのに、誰も何も言わない。
彼女の記憶にあるかつてであれば、あるいはその状態であろうと最後まで警戒し続けることができたのだろうか。
けれど、今の彼女にそれは不可能。
一時間ほど経過する頃には罠地帯の点検が終わる。
その時点で既にパフォーマンスは低下を始めていた。
誰も、彼女自身その事実に気づけていない。
二時間が経過する頃。頭痛でもこらえているのか、たまに目をつむり、両目の間を摘む。眉間にしわを寄せ、頭を振る。その顔色は悪く、もはや彼女は限界に近く。
なのに。
誰も、何も言わない。心配そうに視線を向けることもなく。
二人は、普段通りと言いたげに罠を仕掛けていく。
普通ならあり得ないその光景に、けれど少女は何も思わないらしい。歯を食いしばって、今できる限界で警戒を続けている。
まるで仲の悪い家族のような光景。けれど、そうじゃない。三人の中は良好だった。
やがて、すべての作業が終わる頃。「また」その時が訪れる。
少女がナニカに気づいたのか、動きを止めて、周囲を警戒して。いつでも飛び出せるよう重心を落として——その直後。
それらは、霧の如く彼女の前に現れた。
気配なく、音もなく、気づけば既にそこにいた。
それは、化け物だった。
かろうじて狼と言えなくもない輪郭を除き、最も目を引くのは、全身を覆う濃い毛並みに見えるナニカの隙間から覗く無数の目だろうか。
顔の周囲でさえ何十もの目がひしめき合い、口元や耳の裏、足の爪先、尾の先までも、無数の眼球が不規則に突き出している。
それらは獰猛に輝き、ひとつひとつが自律的に移動する。それは視線が動くにとどまらない。文字通り体中を駆け巡る。
その周囲。体すべてを覆うように、呪いのような鈍色のモヤが巻きついていて。それらに触れた植物が枯れていく。
極限まで引き伸ばされた時間の中、化け物が歩く。その体から粘性の何かを滴らせながら、ゆっくりと。周囲の植物を枯らせながら。
或いは動けたかもしれない少女さえ動くことのない時間の中を、ゆっくりと歩み寄っていく。
最も近くにいた母親の元へ。
鎖でも振り回されるような軌道でモヤが動き——
直前。何かに気づいたのか、母親は構え、兄は駆け。けれど、すべては手遅れ。
——頭が落ちた。体もまた、血をまき散らしながら崩れ落ちる。
その光景を眺めながら、少女は——
万全の彼女であれば対処できたのかもしれない。
彼最初の一撃さえしのぐことができていたら、撃退できていたかもしれない。
或いは警戒を促していれば。即死は避けられたかもしれない。
母親が生き残っていれば、少女も我に返ることができただろう。現状であっても、三人揃えば撃退できたのではないか——なんて。
そんな〝もしも〟に意味はない。 少女は何もできなかった。それが事実で、それがすべて。
呆然と、母親の首が落ちるのを眺める。
駆け寄ることも、声を上げることも。何もせず。
化物共が母を貪る様子にさえ、殺意を見せることなく、憎悪をたぎらせることなく。
現実逃避でもしているのか、うわごとを呟きながらよたよた歩き、足をもつれさせ転ぶ。そしてそのまま何もかもを諦めたように目をつむる。
その様子を傍から眺める僕は思う。
——ああ、まただめだった。
ため息が漏れる。どこまで愚かなんだろう。
やがて我に返った兄は、彼女を連れて帰るのだろう。
現実から逃避し、続け逃げることさえ忘れた愚かな少女であれ、妹だから、と。必死に抱えて走るだろう。
生きて帰れば日常に戻れるわけもなく。
少女はふさぎ込み、何もせずただ生きるだけ。
死なないから生きているだけの人形を、それでも兄は見捨てられず、必死に無意味に足掻き続ける。
そんな、見る価値のない未来が淡々と続く。
そんな現実、見たくないだろうに。
〝三人そろって仲良く暮らしました〟ちゃんちゃん————それでいいじゃない。
最後の時間まで幸せな世界に浸ってしまえばいい。死ぬ、その瞬間まで。
ここは全てが夢の中なのだから。
希望を名乗る少女に都合がいい世界。叶わない願いはなく、すべては彼女の望むまま。こうあれと願えばそうある世界。
真実を知る必要なんてない。違和感があっても見て見ぬふりすればいい。余計なことなんて考えず、ただ幸せを願い続ければいい。そのためだけにここはあるんだから。
……なんて。そんな器用なまねができるなら、こんなことになっちゃいないか。
希望が望めば何もかもが叶う。家族の性格すら、都合よく変えられる。
それは最早おままごと。そんな世界に未来はないし、夢も希望もありはしない。
僕は機会を与えただけ。その中で何を望もうが僕に関係ない。
けれど、気に入らない。そう、少女は吐き捨てた。
たとえそれが夢であろうと、死者にもう一度会える。
その奇跡、どれほどの対価を払えば叶うというのか。願うだけ無意味なほどの願いだというのに。
——僕もまだ、叶っていない。
呼びかけても、話しかけても。未だ彼は眠り続ける。
……いつか。今でこそ、そう信じられる。
それでも、ふとした時に願ってしまう。
僕も、夢を見ていたい。都合のいい夢を。
だから。
「夢を拒むなら。事実を望むなら、せめて乗り越えてみせろよ」
夢に浸るでなく、現実を乗り越えるでなく。ただ同じ時間を繰り返す。
そんなコイツが気に入らない。
世界が砕けていく。
結局、今までと同じ。現実に耐えられず、かつて在りし日を望んだ。幸せだった時間に戻りたい、と。何度もそう願ってきたように、今回もまた。
「僕の理想は叶わないのに!」
この感情が八つ当たりでしかないと知りながら、それでも抑える気になれなかった。
だから、世界を止めた。