日常
桶を引き入れ、手で水をすくって顔に叩きつける。痛みと認識するほどの冷たさが、未だ頭に残っていた微睡を払う。
続けて、濡れた手で寝癖を整える。
余った水は窓の外へ捨て、空になった桶は元の場所に戻し、もう一方の紐を軽く引く。滑車が回り、桶が返る。
未だにこの作業の価値は分からない。
目覚めにはいい。夏は心地よく感じるけれど、冬が近づけば寒いだけ。
仄かな不満を抱え、濡れた髪と顔をタオルで拭う。ついでに、悴んだ手も。
それでも続ける理由なんて、一つしかない。それが母の指示だから。
女なら、ちゃんとしなさい。ちゃんとって何?
指示があるなら従えばいい。それでいいのに。
自分で考えろ。自分というものを持て。自分の意志に従って——
いつも母はそう言っていた。或いは出されたこの指示も、拒否させるためなのではないか、なんて。そう笑ってみるけれど、正直、よく分からない。
自分の意志に従って、従いたい相手の指示に従う。それの何がおかしいのか。
聞けば、曖昧に笑って言う。いつか分かるようになるよ。そう、仕方ないなぁと言いたげに。——わかる日は来るのかな。来るといいな。
窓を締め、震える手先をすり合わす。それでも足りず、はーと息を吐きかけて。
遠くで、闇に紛れた木々が不気味にざわめく。朝は遠い。誰もまだ起き出さないだろうな、と。
これから何をすればいいのか。
ぼーっと外を眺めていれば、思考も虚ろに消えていく。
こんなものが自由だというのなら、なくなってしまえばいいのに。
全てを管理してほしい。考えなくてもいいように。すべての行動を決めてほしい。そんなこと、誰にも言えるはずがないけれど。
知られたら、また、母さんが言うのだろう。
どうしろというのか。いっそ何も考えず、布団へダイブ。本能的な心地よさに身を委ねる。そうすれば、この嫌な気持ちも消えるだろうから。
考えたくないこと、知りたくないことから目をそらし続けて。それでいいのに。
自分の意志で行動しなさい。その言葉が浮かぶけど。自分の意志ってなんだろう。
どうせ考えても分からない。なら。
「少し、動くか」
軽く伸びをしたり、体をほぐしたり。
幼いころからの習慣のせいか、こうして初めて朝が来たって気持ちになる。凝り固まった体がほぐれるのも気持ちいい——と。そう思っていられたのは最初だけ。
次第に思考が消えていく。運動もまた、激しいものへと変わっていく。
かつてをなぞっているのか、逃避しているのか。回らない思考の中で、より自分を追い詰めていく。やがて、その時間も終わるころ。
両手を組んで、手のひらを上にぐーっと伸ばす。だらんと両手の力を抜いて。呼吸が戻っていくにつれ、意識が現実に引き戻される。
感じるのは、じっとりと汗を吸った肌着が肌に張りつく不快感。もう苦笑しか浮かばない。
またやりすぎたのか。
溜息とともに窓を開け、涼しい風を取り入れて。ひんやり感じていた風は、今となっては心地いい。着替えるついでに、体を拭こう。水に浸したタオルでも、今ならきっと、寒くはないから。
紐を引き、井戸水をくみ上げる。手拭いを浸して、服を脱ごうと手をかけて。——その時。
「希望、そろそろ飯」
突然の声に、少女——希望の体が小さく跳ねた。
胸の奥がざわつき、息が詰まる。一瞬、世界が遠ざかったような。
扉の向こうには、兄の姿。思い返せば足音はあった。認識できていなかった。
ノックは……兄のことだ。多分していない。それでも。気づけるはずだった。意識から追い出していたみたいじゃないか。
昨日もそう。気が緩んでいたのか、声に驚いて、手が出てしまう。慌てて謝れば、兄はいつものように許してくれたけれど……
「……兄さん、おはよう」
「おう。早く来いよ」
交わすのは、いつもの挨拶。昨日のことなど忘れたように。とはいえ兄も根に持つタイプじゃない。そういうもの。そんな気もしてくる。
兄の後ろ姿を眺めていれば、今感じている感情が恐怖に代わる気がして。
視線をそらして空を見る。晴れ渡った青空。風が冷たくなるわけだ。
「……そっか。もう、そんな時間か」
思わず笑みがこぼれるけれど、この感情は何に対してなのか。
とりあえず、楽しいと思える毎日なのは確か。窓から涼しい風が吹き込む、穏やかな朝——
——のはずなのに、ずっと心の奥にしこりのような何かが残っている。
正体はわからない。ただ、今日のそれは、今までより強い。
「とりあえず、着替えよ」
日常とは、こんなにも変わらないものだったっけ。
変わらない毎日を望んでいた。当たり前の日常が当たり前に続く、そんな日々を望んでいた。不満はあれど、不便はあれど、時に喧嘩し仲直りして。
そんなありふれた時間が続いてくれたら——と。
ああ。確かにその通りの日常。ここは夢のような毎日だろう。
楽しいという感情は心からのもの。今の日常がずっと続いてほしいという感情に偽りはない。
けれど、これは……
部屋を出る。
階段を下りる。
扉の前で立ち止まる。
兄がいる。母がいる。家族がみんなそろっている。今はそれでいいじゃない。そう自分に言い聞かせながら。
「おはよう、みんな」
二人の団欒に紛れ込む。
家族三人が揃い、元気に過ごせる毎日。それだけで、十分幸せ。それ以上何を求める。これでいい。いつもの笑顔を浮かべ、二人の会話に混ざりながら——
例え。その笑顔が張り付いたものであったとしても。
感情を抑え、不安を殺す。必死に取り繕った結果の団欒であったとしても。
「いただきます」
——心の奥で願いを紡ぐ。この時間が、どうか続きますように。