日常
しばらく何もない庭をぼーっと眺める。
それから、窓の外に垂れる二本の紐のうち、片方を引いた。すると、滑車が回って井戸水が入った桶が運ばれてくる。
その桶を眺めているうちに、ふと思いだした。
この絡繰り、ここに来たばかりの頃はすごく驚いたっけ。
軽く紐を引いただけで水が得られる。そんな夢物語のような絡繰りが、当たり前になってしまっている。
振り返れば、暖かな色の光の粒が目に入る。それは、一定時間部屋を仄かに照らしてくれるもの。まだ日の上らないこの時間、落ち着いていられるのはこれのおかげ。
少し視線を下げれば、柔らかな寝床。温かく体を包んでくれる。今はまだいい。けれど、冬になれば手放せない。
その他諸々。
すべてがこの場所にしかない特別なもの。
気づかないうちに、贅沢になってしまったみたい。どの特別も、今の私の当たり前。
もう、村や町の生活にはなじめない。
……とはいえ、森に囲まれたこの場所も、それ相応の不便はあるけれど。
ほんの少しの愚痴とともに、桶を部屋に引き入れた。
パシャッ
手で水をすくって顔に叩きつける。痛みと認識するほどの冷たさが、未だ頭に残っていた微睡を払う。
続けて、濡れた手で寝癖を整える。
余った水は窓の外へ捨て、空になった桶は元の場所に戻し、もう一方の紐を軽く引く。それだけで、桶は滑るように井戸へ戻っていく。
女だから。ただその一言により指示されたこの行為が、なんの意味を持つのか、少女はいまだに理解していない。
目覚めにはいい。夏は心地よささえ感じる。けれど、冬が近づけば寒いだけなのに。
仄かな不満を抱えながら、濡れた髪と顔をタオルで拭う。ほんのりと手が悴んでいる。こんな習慣、やめてしまいたい。
けれど、それが母の指示だから。
自分はただ言われたようにすればいい。
そうやって、少女は思考を止めてしまう。
——すべきことが決まっているほうが楽。
その思いは昔より強まっているらしい。
何度も言われてきた。自分で考えろ。自分というものを持て。
……そう言ったのは母。或いは出された指示も、否定させるためだったりするのではないか、なんて。
半ば冗談で笑う少女自身、現状ではだめだと理解している。
それでもなお、空白の時間は、ただの苦痛にしか感じられなかった。
窓を締めて、少し凍えた手をさすりながら思う。
これから何をすればいいだろう。
時間があれば、余計なことばかり考えてしまうから、いっそ何も考えず、布団へダイブ、なんて。
それも悪くない。どうせ、したいこともすべきことも何もない。
考えれば考えるほど、正しいことのように思えてくる。
いっそそのまま、ずっと眠っていられたら。何も考えず、何も思わず、本能的な心地よさに、身を委ねていられたら。
——そうすれば、この嫌な気持ちも消えるだろうか。
考えたくないことを考えないままに。知りたくないことを知らないままに。
……けれど。
そうやって停滞し続けて、その先に何がある?
冷静な自分が、心の中で問いかける。
溜息を一つ。少女は体を動かすことにした。
軽く伸びをしたり、体をほぐしたり。
幼いころからの習慣のせいか、こうして初めて朝が来たって気持ちになる。
凝り固まった体がほぐれるのも気持ちいい。
——何よりも。見たくない現実から目をそらすにはそれで十分。
思考する余裕はある。けれど、嫌な考えは浮かんでこない。同じ思考なのにずいぶん違う。
その違いに首を——かしげる余裕すら、いつの間にかなくなっていた。
昔、受けた指示の影響もあるだろう。
いつでもすぐ行動に移せるように。いつでも指示に従えるように。そういう役割を持っていた、準備運動。
今となっては言い訳にしかならない。
この場所に、あの頃のような戦いはない。少なくとも、少女の記憶にある限りでは。
なら。それはきっと、嫌な気持ちを振り払うため。
そのために、無意識に自分を追い詰めていく。
思考するのすら億劫なほどに疲れてしまえば、無心になれるから。
そんな時間もそう長くは続かない。
最後に、両手を組んで、手のひらを上にぐーっと伸ばす。だらんと両手の力を抜いて。それでおしまい。
呼吸が戻っていくにつれ、意識が現実に引き戻される。
だから、次の何かを探す。
それを無意味と知りながら。今までそうしてきていたように。
少女はじっとりと汗を吸った肌着が肌に張りつく不快感に顔をしかめた。
いつものことだ。
ただ体をほぐすためだけのはずが、いつの間にか訓練めいてしまう。
ただ、今日は。
なんとなく、部屋の温度も上がっているような……
「そろそろ着替えるか」
つぶやき、服を脱ごうと手をかけた時。
「希望、そろそろ飯」
突然の声に、少女——希望の体が小さく跳ねた。
心臓が暴れ、呼吸も乱れ。思考も停止し、数秒。振り返れば、扉を開けた兄の姿。
全く気付けなかった。そういえば、普通に足音は聞こえてたような。
まるで、意識から追い出していたように、その存在に気づけなかった。
ノックは……多分していないだろうけれど。
昨日といい、今日といい、自分は気を抜きすぎているのかもしれない。
特に、昨日。
本当に気付いていなかった。突然の声につい殴り掛かっちゃって、慌てて謝ったっけ。
——あれは反射だから仕方がないけど。
自分への言い訳を脳裏で呟く。ほんの少しよぎった気持ち悪さには蓋をした。
「……兄さん、おはよう」
「おう。早く来いよ」
交わすのは、いつもの挨拶。昨日のことなど忘れたように。まぁ、兄も根に持つタイプじゃない。そういうものだろうか。
そう少女は思い、けれど。
希望の少し歪な笑みに、兄はちらりとそちらを見るだけ。
何事もなかった。そう言うように。
彼の後ろ姿を眺めていれば、今感じている感情が恐怖に代わる気がした。
視線を逸らすと、木々の隙間から空が見えた。
青空。
「……そっか。もう、そんな時間か」
部屋が暑かったのは、どうやら自分のせいじゃなかったらしい。
そう考えて、クスッと笑う。
今が楽しい。そう思える自分は、確かにここにいる。
火照った体に、窓から涼しい風が吹き抜ける。そんな気持ちの良い朝なのに。
——気持ち悪さがぬぐえない。
ずっと何かを感じていた。言葉にならない何か。それの正体はわからないまま。
今日。その違和感が、今までになく強い。
「とりあえず、着替えよ」
今感じているこれも、たぶんその一旦。
日常とは、こんなにも変わらないものだったっけ。
変わらない毎日を望んでいた。
当たり前の日常が当たり前に続く、そんな日々を望んでいた。
不満はあれど、不便はあれど、時に喧嘩し仲直りして。
そんなありふれた当たり前が続いてくれたなら。そう、願っていた。
ああ。確かにその通りの日常。ここは夢のような毎日だろう。
楽しいという感情は心からのもの。
今の日常がずっと続いてほしいという感情に偽りはない。
けれど、これは……
——部屋を出た。
何かが間違っている。けれど、その何かがわからない。わかりたくない。
考えないように。見ないように。気にしないように。そうして今日を生きてきた。
それを無意味と知りながら、今もまた。そして、これからも。
——階段を下りた。
だから、何もわからないまま。
——扉を前に立ち止まった。
扉を隔て、兄がいる。母がいる。家族がみんな揃っている。
今はそれでいいじゃない。そう自分に言い聞かせながら。
「おはよう、みんな」
二人の団欒に紛れ込んだ。
家族三人が揃い、元気に過ごせる毎日。それだけで十分に幸せだから。
いつものように、希望は笑顔を浮かべた。
——例え。その笑顔が張り付いたものであったとしても。
感情を殺して。不安を殺して。必死に取り繕った結果の団欒であったとしても。
「いただきます」
それでも、少女は祈った。この時間が続きますように。