一縷の希望
希望の切実な声に、兄は小さく息を呑んだ。
それが何に対しての驚きなのか、希望は理解できなくて。
答えてくれるだろうか。何を言われるだろう。
もしかしたら、笑い飛ばされるのではないか——
永い沈黙に少女の体がこわばっていく。
なぜ何も言ってくれないのか。
不安で、怖くて、逃げ出してしまいたくて。
——何を言われても、その指示に従えばいい。
そう考えていた少女は、もうどこにもいない。
数秒、或いは数分。時間間隔の曖昧な中、兄は小さく息を吐く。
その音にさえ過剰反応してしまう少女に、兄は、優しく呼びかけた。
「なぁ。希望」
静かな声が耳を打つ。その声に嘲りはなく。
それでも、少女の心を強張らせる。
今にも逃げ出したくなる心を抑え、少女は静かに言葉を待ち。
「まず、話してくれてありがとうな」
そして、固まった。
理解できなかった。
悪い意味でも、いい意味でもなく。ただただ意味不明。
それが希望の心をほぐすためのものであれば、大成功といえる。
恐怖は、いつの間にか困惑へと変わっていたから。
「……なんで兄さんが礼言うの?」
なんとか硬直から抜け出した少女の質問に、兄は小さく笑いながら答えた。
「話してくれないとな、わからんねや。何を悩んでるのか。何に困ってるのか。助けたいって気持ちはあるけど、何もわからんと何もできん。だから、ありがとう、や」
兄の言葉に、ふぅん。そういうものなのか、と。
よくわからない。
何もできなくていいじゃない。そう思う。
よくわからないまま、口を開いて——
「どういたしまして?」
首を傾げながらの希望の言葉に、兄は小さく笑い。
そして、一拍。
「どうすればいいか、希望は聞いたな」
小さく深呼吸した兄は、本題へ入った。
希望の体が少しこわばる。けれど、さっきほどじゃない。耐えられないほどじゃない。
そして。その心の中に、期待が生まれた。
何かが変わるんじゃないか。
——けれど。
「結論から言うで。——俺にはわからん。……ごめんな」
現実は——或いは夢の中であろうと、残酷だった。何も変わることはない。それを突きつけられただけ。
たとえ、その言葉にどれほどの思いが詰まっていても、最早希望に関係ない。
数秒。
意味がわからなかった。
理解できなかった。理解したくなかった。
何それ。必死になって聞いたのに。
やっぱり、聞かなきゃよかったのかな。
希望の視線がゆっくりと下がっていく。焦点をどこにも合わせないまま。
何それ。じゃぁ、私はどうすれば……
期待した。その結果が今。
心の中にあるのは、混乱と、裏切られたことへの悲しみと。そして、後悔。
やっぱり、期待するだけ無駄なん——
「けどな!」
————
思考を遮るような大声に、希望は跳ね、意識が白く染まる。
その瞬間を狙ったのか。或いは偶然なのか。
「希望の欲しい答えは、希望の中にしかない。だから、俺は答えれん」
——なにそれ。
少しだけ。希望の心を掠めていった。
それで何かが劇的に変わる、なんてことはない。それでも。心は揺れた。
ごまかせばよかったのに。自分の意見を押し付ければよかったのに。
欲しかったのは、すべきこと。
どうすればいいのか。兄の指示が欲しかった。
指標が欲しかった。それだけだった。
「だから、質問するで。」
けれど。ありがとうって言った。助けになりたいって言ってくれた。
どうしてもわからない。なぜそんな事を言ってくれるのか。
ただ、何となく。
本気で考えてくれている気がしたから。
だから。
そんな事あるわけない。心が叫ぶ。傷付きたくない心が必死に訴える。
信じるな。期待するな。ただ、諦めてしまえ。そう、必死に語り掛ける。
それでも。
「それに答えたら、見つかるの?」
もう一度だけ。これで最後。
「ちゃんと考えてくれたら、もしかしたら」
どこまでも真剣な兄に、曖昧だなぁ、なんて思いながら。
見つかるといいな。そう思いながら。
そんなことで、本当に見つかるんだろうか。
その疑いを否定できないまま。
「——どうぞ」
ただ、受け入れ——
——そして、言葉を待った。
薄暗い部屋では、兄の表情はよく見えない。
何を考えているのかわからない。
……もしかしたら。自分がこうして緊張するように、兄もまた。そういうこともあるんだろうか。
一。二。三。四。時間が過ぎていく。
時折彼の口から洩れるのは、言葉にならない音ばかり。
不安そうに。ためらうように。言っていいのか迷うように。恐る恐る。
それでも彼は、口を開いて——
「どんな夢見たん? その夢見てどう思った?」
——心にナイフを突き立てた。
そこにどんな思いがあったのか。
嫌な気持ちを吐き出させたかったのか、それともまずは簡単な話題から。そう思ったのか。
考えた末の言葉。そこには何かしらの意味はあるのだろう。
そんなもの、少女には何の関係もないというのに。
ただ。
幸いにも。或いは最悪にも。
希望は、その絶望を半ば乗り越えていた。
割り切れたわけじゃない。受け入れたわけじゃない。
ただ、慣れた。
最初ほど取り乱さなくなった。それだけ。
悲鳴を、心に閉じ込めてしまえるほどに、慣れた。
錆びた鉄のように視線が徐々に下がっていく。その静かな動揺は、はたから見れば、ただ考え込んでいるだけにしか見えないだろう。
無言の悲鳴は、けれど誰にも届かない。
未だに、目をつむるだけで鮮明に思い出せるというのに。
未だ、その記憶は十分トラウマとして機能しているのに。
それでも思考を回すのは、一縷の希望を信じたいから。
ちゃんと考えれば、もしかしたら。
否定するのと同じくらい、信じたいと願ったから。
だから。
あの時。初めてあの光景を目にしたとき。
世界の音が遠のいた。風が吹く。草木を揺らす。そして、化物が通り、草木が枯れる。
私が大地を踏みしめる。鳥が羽ばたき、逃げていく。そして。誰かが必死に語り掛ける。
何もかもが遠い。それは、雑音にさえなりえないほど減衰した音。
現実だけが、自分を置いて先へ進んでしまっているような。
自分一人、この世界に取り残されてしまったような。
目に映る全ても、どこか遠い。
……なのに。嫌なものだけがそこにあって、嫌な音だけが妙に響く。
そんな感覚。
ただただ信じたくなかった。嘘、冗談。或いは夢。
なんでもいい。現実を否定したかった。
けれど。血の匂いが微かに届く。
もしかしたら。あちらへ行けば、いつもみたいに笑い返してくれるのではないか。
期待して、転んだ。体が思うように動かない。
擦りむいたのか、ねじったのか。鈍い痛みを訴える気がする。どこか他人事のように、その事実を認識した。
そうしている間にも、嫌な音が響き続け——意識が落ちるまで。
その一部始終。
目をつむり、手を固く握りしめながら、静かに少女は反芻する。
後悔を、再確認するように。
——母は、物静かな人だった。
必要な時、気づけばそばにいてくれる人だった。
悲しいとき。苦しいとき。泣きそうなとき。ただ、静かに寄り添ってくれる。そういう人だった。
そして。
闇に揺れる自分をここまで引き上げてくれた人。
使い捨ての道具に、「希望」という名を与え、人の温かさを教えてくれた人。
まだ何も返せてない。もう何もしてあげられない。
ずっと一緒にいたかった……
——あの時の感情。
そんなもの。
「最悪な気分」
それ以外にありえない。
静かに、想いを口にした。言葉に怨念を込めながら。
どんな夢だったのかなんて、言えないし、言いたくない。
そして、言うつもりもないままに。
「それだけ、かな」
少女は静かに口を閉じた。
一部は答えた。考えればいいのであれば、全部答える必要、ないよね、と。
「そっか」
兄はただ、その言葉を受け止めた。
「辛かったな」とも「分かるよ」とも口にしない。
ただ、聞いてくれるだけ。
突っ込むこともない。深く切り込むこともない。ただ、静かに受け止めてくれる。
それがよかった。
同情されたいわけでも、共感してほしいわけでもない。
ただ、答えが欲しいだけ。
答えを得られるなら、何でもいい。
答えを見つけられるなら。
けれど。
「どうして、そう思ったのかな」
言葉は心を抉り続ける。
……どうしてって。
そんなの、母が死んだから。それ以外にないじゃない。
けれど、それを口にすることはできなくて。
嘘を言うのも違う気がして。
どうしていいかわからなくて。だから、小さく問いかけた。
「言わなきゃ、ダメ、かな」
ダメだと言われたらどうしよう。本当のことなんて言えないのに。
そんな小さな葛藤は。
「ちゃんと考えてるならいいよ。じゃぁ、次々聞いていくで」
幸いにも、回避できた。
質問は続く。
「どうすれば、避けられたのかな」
——避けることなんてできなかった。
希望が答えることはない。
心は徐々に冷えていく。
「どうすれば、それを超えられる?」
——超えることなんて、できないだろう。
ただ黙って、うつむき続ける。
気力もだんだん失っていく。
心が擦り減っていく。
「希望は、どうなりたい?」
死にたい。消えたい。楽になりたい。それしかない。
言葉はすんなり浮かんでくる。
聞かれずとも、空白の時間に考えていたことだから。
けれど。だからこそ。
こんなものを考えて何になるのか。
本当に、答えまでたどり着くんだろうか。
少しずつ、疑惑が膨らんでいく。
ただ必死に考えた。
「それを叶えるために、どうすればいいと思う?」
そんなの、私が知りたいよ。
死ねば終わるはずなのに、死んでも終わらないこの世界。
何度も何度も繰り返して、最悪の光景を見続けて。
願いが叶うことなんて無いんだって、思い知らされて。
そんな時間が永遠と続くことになる。
考えるうちに、もういいんじゃないかな。
そんな思いが芽生え始めた。
「じゃあ、それが叶うって確信を持てたら、どう思う?」
きっと、何も思わないまま、その答えを選ぶだろう。
前の自分がそうしたように。
そこに、うれしいも楽しいもあるはずがない。
辛いとも寂しいとも思わない。
何も考えずにいられるなら、ただ、それだけでいい。
ああ、けれど。心が楽にはなるだろうか。
どの質問も、既に考えたものばかり。
必死になって、なんになる。
それで得られる答えなら、もう手に入れているはずだろう。
「なぜそう思うようになったかわかる?」
小さく苛立ちながら、それでも思考を回転させた。
勝てるはずがないから。
必死になって抗うことに、何の意味があるだろう。
抗うだけ無意味なら、受け入れるしかないじゃない。
死ぬしかないじゃない。
それ以外にないから、それを願った。
……違和感。
少し考え、わかった。
それ以外にないから、死を願った。
それ以外が、あったなら?
もし、もしも。ありえることのない、そんなIF。
私が化け物に勝てるなら。
その時私はどうしただろう。
戦っていた、んじゃないだろうか。
確信は持てない。そんな気がするに留まる答え。
勝てるはずもない。その意識が張り付いて、希望の思考を妨げる。
それでも。
もし、戦って勝てたら、兄さんと暮らすことができる。今度は、二人で。今までのことを謝って。そして、今度こそ、二人で。
けれど、それは戦う理由になりえなかった。それは、抗う理由になりえなかった。
私は今も、あの世界へ戻りたい。そう願っているんだろうか。
小さな問いは、つぶれ消える。
願っていたとして、どうなるというのか。
考えたところで意味はない。勝てる未来なんてあるわけがない。頑張ったところで報われない。なら、努力しない。それでいいじゃないか。
……なら、私は、どうすればいい。
死ぬことすらもできなくて。楽になることができなくて。繰り返すこの世界に閉じ込められて。
いつまで。いつまでこの時間を繰り返す。
こんなことなら、忘れたままでいたかった。
そう考えた、その時だった。
「なぁ、希望。本当は、どうなりたいん?」
心の一線を踏み抜いた。
本当は、どうなりたいか。
直前、考えていたこと。まるで、心を見透かしたように。
ここに何かがあるのかな。
もう一度だけ考えた。そして、巡り戻る。だから——
「……もういいかな」
つぶやく声は、かすれていた。
怒るでなく。感情的になるでもなく。
——ただ、静かに、音を上げた。
「そうか。分かった」
その声音に何が含まれているのか、もう考えない。
今日はもう何も考えたくなかった。
まだ何かを口にしようとする気配を前に、希望は待たずに席を立つ。
結局、何も分からなかった。何も変わらなかった。
この時間は、無駄だった。
歩き始めた。
部屋を出る、その直前。
「なぁ、希望。本当の願いに挑んでみたか?」
聞こえた声に、足が止まった。
何も考えない。何も思わない。そう、努めた。
「まだ何も見つかっていないと思うなら。一度も挑んでないんなら」
ただ。
「一度だけ。試してみたらどうかな?」
少しだけ——
「もしかしたら、叶うかもしれん」
希望はただ、一言。
「おやすみ」
そう返し、部屋を出た。
——少しだけ、気まずさを覚えた。