物語開始時点で亡くなっているモブ令嬢は死の運命を回避したい
石造りの階段を駆け下りていたアイヴィーの足元に、何か硬いものが滑り込むような感覚があった。次の瞬間、彼女の体は宙に浮き、背中から冷たい石畳へと叩きつけられる。
「あっ……!」
短い声が喉をついて出ると、視界がぐるりと回り、全身を突き刺すような痛みが襲った。遠くでエヴリンの叫び声が聞こえる。
「アイヴィー! ねえ、大丈夫!? 目を開けて!」
泣きそうなエヴリンお嬢様の顔がぼやけて見える。しかし、その声もやがて遠のいていき、意識が深い霧に包まれていった。
意識が混濁する。目の前で揺れる風景が、突然鮮明な記憶の断片とともに変わり始めた。
(……ここはどこ?これは……私の記憶……?)
気づけば、自分の体が違う場所にいる感覚がした。所々に観葉植物を置いた見覚えのあるオフィス。窓の外には高層ビルが立ち並び、都会の喧騒が遠くから聞こえてくる。机の上には書類の山、パソコンのモニターには忙しなく点滅するメール通知。
(この景色……知っている…)
スーツ姿の女性――それがかつての自分だと気づくのに時間はかからなかった。鏡に映る自分の姿は、今の自分とは全く異なる。アイヴィーの持つ柔らかさではなく、どこか硬い印象の女性がそこにいた。
(私は……会社員だった。秘書として働いていて……)
電話の音が鳴り響き、手早く応答していた記憶が蘇る。
「はい、ローレンスコーポレーション、秘書課の佐藤です」
自分の名前が「佐藤」であること、その忙しい日常の中で働き詰めだったことが次々と思い出される。
大きな会議室で、上司たちに資料を配りながら指示を受ける自分。スケジュールを管理し、時には理不尽な叱責を受けながらも、それでも淡々と仕事をこなす日々。
「佐藤さん、この書類は明日の朝イチで準備しておいてくれ!」
「はい、分かりました」
その声が現実のように耳に響き、アイヴィーは現実と記憶の狭間で揺れる。
(私は、秘書だった。上司に振り回されて、残業ばかりして……でも、それが当たり前だと思っていた。)
夜遅くまでオフィスに残り、帰宅するのはいつも終電ギリギリ。家に帰れば、冷たい蛍光灯が迎えるだけ。コンビニの弁当を温め、趣味のネット小説を読む。
(忙しい毎日の中で、何かを感じる余裕さえなかった)
次第に記憶は、ある日の出来事へと集約されていく。雨が降る夜、帰り道で慌ただしくスマートフォンを操作していた。上司からの急な連絡に対応しながら、足早に駅へ向かっていた――そのとき、目の前に迫る光と轟音。
(あのとき……私は……)
雨の冷たさ、車のライトの眩しさ、そして暗闇へと沈んでいく感覚。それが前世の最期の記憶だった。
(私は……佐藤愛だった。前世で……働き詰めで、孤独で……)
ふとアイヴィーの中に、一冊の本の記憶が鮮明に蘇る。それは前世で何度も読んだ物語、「美しい侯爵家の恋物語」。その舞台と登場人物――全てが、自分が今いる世界そのものだと気付く。
(私は、この物語では死んでいる)
物語の開始時点でアイヴィーはすでに故人。若くして命を落としたと記され、彼女の死は主人公ローレンスの心に深い傷を残す重要な設定だった。
その深い傷が、ヒロインと出会うことで癒されていき、やがて恋に発展する。
確か物語の中で、ローレンスは24歳。現在彼は18歳なので、いまは物語開始の6年前ということになる。
(私はもうすぐ死ぬの?)
目を開けると、見慣れた天蓋付きのベッドが広がっていた。頭に鈍い痛みを感じながら、アイヴィーは視線を動かす。大きな窓から差し込む光が、部屋を柔らかく照らしていた。
アイヴィーのそばには、エヴリンがしゃがみ込んでいた。くるくると巻いた藍色の髪が揺れ、潤んだ瞳が心配そうにアイヴィーを見つめている。
「アイヴィー、よかった……! 本当に心配したのよ!」
声が震えていた。
「あなたが階段から落ちたのを見た瞬間、心臓が止まるかと思ったの!」
エヴリンは取り乱したまま、アイヴィーの手をぎゅっと握りしめている。彼女の目元には涙の跡があった。
その隣では、アナベルが冷静な顔で立っていた。彼女の端正な顔立ちは揺るぎなく、控えめな動きでアイヴィーの枕元を整える。
「エヴリンお嬢様、落ち着いてくださいませ。アイヴィーは無事です」
アナベルの声は穏やかで落ち着いていたが、その目にはほんのわずかに緊張の色が宿っていた。
そのとき、控えめなノックの音が響いた。アナベルが静かに扉の方に歩き、慎重に返事をする。
「どゔぞ」
扉が開き、ローレンスが姿を現した。彼の藍色の髪は乱れ、目元には疲れた色が見える。それでも彼は毅然とした足取りでアイヴィーの元へと近づいてきた。
しかし、すぐに彼女の顔を見ると、堰を切ったように心配をぶつけた。
「アイヴィー、大丈夫か? 階段で転んだと聞いた」
彼の声は低く抑えられていたが、その裏に隠しきれない焦燥が感じられた。
エヴリンがその様子を見て、小声で囁いた。
「兄様、今朝この話を聞いた時なんて、寝室からガウンのまま飛び出してきたのよ。『すぐに医者を呼べ』って…。」
その言葉に、ローレンスが少し顔を赤らめる。
「とにかく、今は安静にしてくれ。君が無事ならそれでいい」
「私は大丈夫です、ローレンス様。こんなことで気を揉ませるなんて……申し訳ございませんでした」
自分の運命を知った以上、どうにか死を回避しなければならなかった。
朝陽が大きな窓から差し込み、侯爵家の廊下を柔らかな光で包み込む中、アイヴィーは久しぶりにエヴリンの部屋へ向かっていた。階段から転落して以来、仕事を休むように命じられていたが、今朝ようやく復帰を許されたのだ。
エヴリンの寝室に到着すると、軽くノックをして扉を開ける。中では、エヴリンがベッドに腰掛け、膝にクッションを抱えながら何かを考え込んでいた。
「お嬢様、おはようございます」
アイヴィーが微笑みながら挨拶すると、エヴリンはぱっと顔を上げ、満面の笑顔で飛びついてきた。
「アイヴィー! ようやく戻ってきてくれたのね!」
小柄な体で勢いよく抱きつくエヴリンに、アイヴィーは少しよろめきながらも、そっとその肩を支えた。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。でも、もうすっかり元気です」
エヴリンはぎゅっとアイヴィーの手を握り、涙ぐみながら言った。
「無理しないでね。私、あなたがいなくなったらどうしたらいいのかわからないもの!」
その純粋な言葉に、アイヴィーは胸が温かくなる一方で、心の奥に小さな罪悪感が芽生える。
エヴリンには「死ぬ運命」を隠していること、そして自分の存在がどこか不確かなものだということが、彼女を少しずつ苦しめていた。
エヴリンはアイヴィーの手を引いて、クローゼットの前に立った。
「今日は外に出る予定があるの。伯爵家招待のガーデンパーティで、あまり格式は高くないわ。こういう場に慣れるよう冬休み中の学生たちで集まりましょうってかんじかしら」
アイヴィーは丁寧に頷きながら、色とりどりのドレスが並ぶクローゼットを開けた。侯爵家の次女としての地位に相応しい、華やかで品のあるドレスばかりだ。
「お嬢様、こちらの黄色のドレスはいかがでしょうか?日中のお出かけにぴったりですし、お庭の花のように映えるかと思います」
アイヴィーが提案すると、エヴリンは少し唇を尖らせる。
「悪くないけど、ちょっと普通じゃない? もっと派手なものがいい気がするわ!」
「お嬢様、派手すぎる装いはかえって注目を集めすぎます。適度な品格を保つことも大切です。」
そう答えるアイヴィーに、エヴリンは一瞬だけ不満そうな顔をしたが、やがてくすりと笑った。
「本当に真面目なんだから」
「そのかわり、これにこのネックレスとイヤリングを合わせるのはいかがでしょうか」
「素敵!それがいいわ」
アイヴィーは控えめに微笑んだ。
エヴリンの支度を整えている最中、扉がノックされる音が響いた。入室してきたのは侍女長のマーサだった。背筋を伸ばしたその姿勢と鋭い眼差しが、部屋の空気を一気に引き締める。
「アイヴィー、支度は順調ですか?」
マーサの冷ややかな声に、アイヴィーは振り返り、深く頭を下げた。
「はい、侍女長様。ただいま整えている最中です」
マーサはエブリンを一瞥し、さらに机の上に置かれている髪飾りを見て微かに眉をひそめた。
「リボンでは、少し格式が劣りますね」
アイヴィーは即座に対応を考え、用意していた他の髪飾りを取り出した。
「侍女長様、編み込んだ髪にこちらの飾りを散りばめることで、お嬢様の華やかさを引き立てることができるかと思います」
マーサは短く頷いた。
「悪くありません。ただし、もっと早く判断を下せるよう心がけなさい」
その厳しい声に、エヴリンが口を挟む。
「マーサ、そんなに責めなくてもいいじゃない! アイヴィーはいつも私のために完璧にやってくれるのよ!今日はそれほど格式ある会じゃないし、私がリボンがいいって言ったの」
マーサはその言葉に少し眉を上げたが、すぐに冷静さを取り戻す。
「お嬢様、私はただこの家の名誉を守るために言っているだけです。それを理解していただければ幸いです」
エヴリンは少し不満そうに顔をしかめたが、何も言わなかった。侍女長が部屋を出て行く背中に、アイヴィーは黙って頭を下げる。
ドレスに着替えた終えた後、エヴリンは椅子に腰掛け、アイヴィーはその柔らかくくるくるとした藍色の髪を整え始めた。
「ねえ、アイヴィー。何かあったら絶対に私に相談してよ。あなたが無理してるのを見るのは嫌だもの」
その言葉に、アイヴィーは少しだけ戸惑いを見せる。
「お嬢様、お気遣いありがとうございます。でも私は大丈夫です」
エヴリンは首を横に振り、いたずらっぽい笑顔を見せた。
「でも、もし本当に困ったら兄様に相談するのもいいわよ。兄様、あなたのことばっかり気にしてるんだから」
その言葉に、アイヴィーは顔を赤くしながら視線をそらした。
「そ、そんなことはありません」
エヴリンはその反応を見て、満足そうに笑った。
エヴリンの髪を整えながら、彼女の明るい声が響く。
エヴリンは嬉しそうに笑みを浮かべたが、そこに軽いノック音が響いた。
「お嬢様、失礼いたします」
扉の向こうから、冷静な声が響き、アナベルが部屋に入ってきた。優雅な所作でエヴリンに一礼する。
「今日のお出かけには、私が付き添います」
エヴリンは少し不満そうに唇を尖らせる。
「アナベルもいいけど、アイヴィーと一緒に行きたいのに」
アナベルは穏やかな微笑みを浮かべながら、冷静に言葉を返す。
「侍女長様のご指示です、お嬢様。アイヴィーはまだ完全に回復していません。無理をさせないようにと」
その言葉に、エヴリンは不満げに小さな声でぼやいたが、最終的には納得した様子で頷いた。
アイヴィーはエヴリンとアナベルを見送った後、廊下を歩いていた。アナベルにお出かけを任せることに少し寂しさは感じる。
そのとき、前方から藍色の髪が揺れる姿が目に入った。ローレンスだった。彼は廊下の端に立ち、窓から外を見つめていたが、アイヴィーに気づくとこちらに歩み寄ってきた。
「アイヴィー」
彼の低い声に、アイヴィーは立ち止まり、一礼した。
「ローレンス様」
ローレンスは、彼女の顔をじっと見つめ、軽く眉をひそめた。
「……やはり、まだ無理をしているんじゃないか?」
その言葉に、アイヴィーは少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに微笑んで答えた。
「いいえ、大丈夫です。仕事に問題はありません」
しかし、ローレンスは納得していない様子だった。彼はゆっくりと視線を下ろし、アイヴィーの手元に目を留めた。彼女の指がわずかに震えているのを見逃さなかったのだ。
「……君は昔からそうだ。平気なふりをする」
アイヴィーはその言葉に目を見開いた。
「覚えてるか? 君がこの屋敷に来たばかりの頃、よく庭で遊んだよな。木に登ってリンゴを取ったり……」
アイヴィーは懐かしさに小さく笑みを浮かべた。
「ええ、覚えています。あのとき木から落ちたのはローレンス様でしたね」
ローレンスは少し照れくさそうに笑ったが、すぐに真剣な表情に戻った。
「そのときも、君は僕を受け止めようとして怪我をした。君はいつだってそうだ。自分のことよりも他人を気にして無理をする」
彼の真摯な言葉に、アイヴィーは返事ができず、ただ視線をそらした。
ローレンスはさらに彼女の顔をじっと見つめる。
「少し痩せた気がする。食事はちゃんと取っているのか?」
アイヴィーは言葉を詰まらせ、軽く首を振った。
「……ええ。もちろんです」
「嘘だ」
ローレンスの声は低かったが、そこにははっきりとした確信が込められていた。
「君が侍女としてここでどれだけ頑張っているか、僕は誰よりも知っている。誰よりも君を見てきた。だから、わかるんだ。体調が良くないんだね?」
アイヴィーの胸がきゅっと締め付けられるようだった。彼の言葉の一つひとつが、彼女の心に深く響く。
「……ローレンス様、本当にありがとうございます。でも、私は大丈夫です」
ローレンスは短く息を吐いた。
「君がそう言うなら信じる。でも、何かあったらすぐに僕に言え。それだけは約束してくれ」
アイヴィーは微笑みながら、小さく頷いた。
その日、アイヴィーはエヴリンの部屋の窓辺に花を飾ろうとしていた。薄青色の小花が集まった束を手に取り、花瓶に移そうとした瞬間、ふいに軽いめまいが襲った。
「あっ……!」
彼女の手が花瓶の縁を捉え損ない、陶器の花瓶が床に落ちて割れる音が部屋中に響いた。
「アイヴィー!」
エヴリンが驚いた声を上げ、急いでアイヴィーの元に駆け寄った。
「大丈夫?怪我はしていない?」
アイヴィーは慌てて床に膝をつき、割れた花瓶を片付けようとしたが、手先が震えてうまくいかない。
「申し訳ありません。すぐに片付けます。」
その声には明らかな疲労感が滲んでいた。エヴリンは、そんなアイヴィーの顔を覗き込みながら、小さく首を傾げた。
「珍しいわね。あなたがこんな失敗をするなんて……。もしかして、どこかしんどいの?」
ちょうどそのとき、アナベルが部屋に入ってきた。彼女は割れた花瓶と片付けようとしているアイヴィーを一目見ると、すぐに状況を理解したようだった。
「アイヴィー、素手で触ってはいけないわ」
アナベルは落ち着いた声で言いながら、アイヴィーの手元にしゃがみ込み、彼女を優しく制止した。
「そのまま動かないで。割れた欠片で手を切ったら大変よ」
アイヴィーは少し戸惑いながらも手を止めた。
「でも、私がミスを……」
「いいの。ここは私に任せて。箒を持ってくるわ。お嬢様も近づかないでくださいね」
アナベルはアイヴィーの顔をちらりと見ると、眉をひそめ、小さく息をついた。
「それにしても……顔色が良くないわね。最近、疲れているんじゃない?」
エヴリンも、すぐにアイヴィーの様子がおかしいことに気づいたようだった。彼女はそっとアイヴィーの手を取り、自分の膝の上に置く。
「アイヴィー、私には隠さないで。本当にしんどいならちゃんと言ってほしいの」
その真剣な声に、アイヴィーは小さく微笑んだ。
「大丈夫です、お嬢様。ただ少し疲れているだけです」
エヴリンは不満げに頬を膨らませた。
「それ、絶対に無理してる人の言い方よ。ほら、今日は私のことは気にしないで休んで」
エヴリンはそう言いながら、アイヴィーの肩を優しく撫でた。その様子に、アナベルも同意するように頷く。
「お嬢様の言う通りよ。無理をするよりも、ゆっくり休んでから復帰しなさい」
アナベルの声は穏やかだが、その中にはしっかりとした説得力があった。
アイヴィーは二人の優しさに胸が温かくなる一方で、言い知れぬ罪悪感を覚えていた。
彼女は内心そう思いながらも、エヴリンとアナベルの視線が真剣であることに気づき、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。少しだけ休ませていただきます」
その言葉に、エヴリンはようやく満足そうに頷き、アナベルは優しい微笑みを浮かべた。
アイヴィーが自室に下がると、控えめなノックが部屋に響いた。彼女が扉を開けると、そこには侍女長マーサが立っていた。
彼女の手には封がされた手紙が握られており、どこか申し訳なさそうな雰囲気を漂わせている。いつも毅然としたマーサにしては珍しい表情だ。
「アイヴィー、これを届けに来ました」
手渡された手紙には、子爵家の紋章がはっきりと刻まれていた。それを見た瞬間、アイヴィーは息を飲む。
「父から……?」
マーサは少し声を潜めながら話を続けた。
「本来ならもっと早く届けられるべきものでしたが、侍従が間違えて検閲対象にしてしまい、今まであなたに渡らなかったのです。侯爵家として、不適切な処理をしたことを謝罪いたします」
その言葉に、アイヴィーは驚きながらも、静かに封筒を受け取った。
「ありがとうございます、侍女長様……」
マーサは短く頷いたが、その目には微かに何かを探るような光が宿っている。
アイヴィーは手紙を受け取り、震える手で封を開けた。封筒から引き出した紙には、父の無機質な筆跡が並んでいる。
「アイヴィー、結婚相手が決まった。すぐに子爵家に帰るように」
短い文章が目に飛び込んだ瞬間、アイヴィーの胸に重苦しい感情が広がった。
「結婚相手……?」
彼女の耳には、過去に父が冷たく言い放った言葉が蘇る。
「お前の役目は、子爵家の利益のために尽くすことだ。それ以外の価値はない」
その言葉が、まるで手紙の裏側から響いてくるようだった。
アイヴィーが手紙を握りしめ、視線を落としているのを見て、マーサは静かに言葉を継いだ。
「顔色が悪いですね」
アイヴィーは顔を上げ、マーサの目を見つめた。その瞳には、いつもの冷たい厳しさだけでなく、どこか彼女を試すような色も感じられた。
「父から婚約者を決めたという内容でした。……子爵家に帰るべきだと思いますか?」
マーサは短く息を吐いた。
「それはあなたが決めることです。ただし、どの道を選ぶにせよ、後悔のないように」
その言葉に、アイヴィーは深く頭を下げた。
父からの手紙を受け取ったことで、アイヴィーの中に子供の頃の記憶がよみがえった。
彼女がまだ幼かった頃、母親は病に倒れて亡くなった。父はすぐに新しい後妻を迎え入れた。後妻は表向きには優しそうに振る舞っていたが、アイヴィーに対しては冷たく、そして厳しかった。
「あなたは何の役にも立たないわね。どうしてこんな子が子爵家に生まれてきたのかしら」
使用人同然に扱われ、冷たい視線に晒される日々。それを救ってくれるはずの父も、彼女に無関心で、厳しい言葉を投げかけるだけだった。
「アイヴィー、お前は子爵家の名を汚すな。それがお前の唯一の役目だ」
幼い心には、その言葉が重くのしかかり、彼女は必死に自分の存在意義を探そうとしていた。
10歳の頃、行儀見習いという名目で侯爵家に送られたのは、半ば追い出される形だった。アイヴィーはそのとき、自分の存在が子爵家には必要ないのだと感じた。
侯爵家に来て初めて、彼女は温かさに触れることができた。
「アイヴィー、こっちにおいで!一緒に遊ぼう!」
庭でローレンスとエヴリンが声をかけてくれた日のことを、今でも鮮明に覚えている。特にローレンスはいつも彼女を気遣い、困ったときにはそばにいてくれた。
庭のリンゴの木に登った日、ローレンスがバランスを崩して地面に落ちたとき、アイヴィーは自分を責めながら彼の手当てをした。
「君は僕の傷なんて気にしなくていいんだ。むしろ、僕を受け止めようとした君のほうが痛かったんじゃない?」
侯爵家の嫡男だが、彼にはアイヴィーのような下級貴族に対しての偏見はなかった。
その言葉がどれほど彼女の心を救ってくれたか分からない。
現在に戻り、手紙を見つめるアイヴィーの横で、マーサが静かに言葉を続けた。
「子爵家のために尽くすべきだという考えも分かります。しかし、今までここで培ってきたものを捨てるかどうかは、あなたの選択次第です」
アイヴィーは顔を上げ、マーサの厳しい目を見つめた。その視線の中には、冷たさだけでなく、一抹の期待があるようにも感じた。
「……少し考えさせてください」
そう答える彼女に、マーサは短く頷くと、部屋を出て行った。
エヴリンとアイヴィー、ローレンスの三人は、町での買い物を終え、馬車へ戻る道を歩いていた。エヴリンは先程購入した新しいリボンを嬉しそうに眺めながら、アイヴィーに話しかけていた。
「これ、可愛いわよね! アイヴィー、今度はあなたも選んでみて!」
アイヴィーは微笑みながらエヴリンに答えたが、その瞬間、遠くから馬の蹄の音が激しく鳴り響いた。
「……あの馬車、速すぎない?」
エブリンが異変に気づき、アイヴィーが前方を見やると、確かに馬車が異常なスピードでこちらに向かって突進してきていた。道を外れ、明らかに三人を狙った動きだ。
「危ない!」
ローレンスの叫び声とほぼ同時に、アイヴィーは瞬時にエヴリンの手を掴み、彼女を横に押しのけた。
「アイヴィー!」
エヴリンが驚きの声を上げるが、アイヴィーは振り返る暇もなく、急接近する馬車の前に取り残されてしまった。
アイヴィーが馬車の進路に立ち尽くす中、ローレンスが鋭い動きで彼女に飛びついた。その勢いで二人は地面に転がり、馬車の車輪がぎりぎりのところで二人をかすめて走り抜けた。
「……大丈夫か?」
ローレンスは息を切らしながらも、しっかりとアイヴィーを抱きしめ、彼女の顔を覗き込んだ。
アイヴィーは肩で息をしながら、かすれた声で答える。
「すみません……」
「間一髪だったな」
ローレンスの低く震える声に、アイヴィーは息を呑む。彼の腕に支えられながら、彼の真剣な瞳を見つめ返すことしかできなかった。
エヴリンは青ざめた顔で駆け寄り、アイヴィーの手を取った。
「兄さま!アイヴィー!大丈夫なの? 怪我してない?」
その小さな手の震えから、彼女がどれほど動揺しているかが伝わってきた。
「お嬢様、ご無事で良かったです」
アイヴィーは微笑みを浮かべて言うが、その声はかすかに震えていた。
「ああいう時は逃げなさい!アイヴィーが怪我したらどうするのよ!」
エヴリンの涙声に、アイヴィーは何も言えなくなる。ただ彼女の手をそっと握り返すことしかできなかった。
屋敷に戻り、ローレンスは馬車の件についてすぐに調査を始める一方で、マーサから呼び出しを受けた。
「ローレンス様、少しお時間をいただけますか」
マーサは静かだが鋭い目でローレンスを見つめ、言葉を続けた。
「子爵家からの手紙の件について、アイヴィーと話しましたが、その内容についてお伝えしておくべきだと思いました」
ローレンスは眉をひそめ、うなずく。
「何が書かれていた?」
「彼女の婚約者についてです。名前はエドモンド・グレイ。グレイ伯爵家の長男です」
ローレンスの表情がさらに険しくなる。マーサは続けた。
「彼には平民の愛人がいるという噂があります。その愛人との仲は深く、彼自身も貴族女性との結婚を嫌がっているようです」
ローレンスは一瞬息を飲み、驚き混じりの声で聞き返す。
「エドモンド・グレイ……あの男か。彼の名前を聞いたことがある」
マーサは短く頷きながら話を続けた。
「エドモンドの両親は、彼に貴族女性との結婚を強く勧めているようです」
ローレンスは拳を握りしめ、低い声で言った。
「つまり、金で嫁を買うような形でアイヴィーを利用しようとしているわけか」
ローレンスは深くため息をついた。
「そんな奴に、アイヴィーを渡してたまるか。彼女は物ではない」
マーサは厳しい表情のまま、軽くうなずいた。
「ローレンス様の仰ることはごもっともです。しかし、エドモンドが今回の馬車の件に関わっている可能性も否定できません」
「調べる必要があるな」
ローレンスの瞳には強い決意が宿っていた。
「アイヴィーを守る。それが僕の務めだ」
マーサは一瞬だけ微笑みを見せたが、それはすぐに消えた。
「ご自身の判断で行動してくださいませ」
アイヴィーは薄暗い部屋の中で、ロウソクの明かりに照らされた天井をじっと見つめていた。馬車の轢き逃げの光景が頭を離れない。誰かが自分を狙っている――その恐ろしい可能性が、胸の中に重くのしかかっていた。
そのとき、控えめなノック音が響く。
「アイヴィー、まだ起きている?」
静かな声が扉の向こうから聞こえる。それはアナベルだった。
「はい、どうぞ」
扉が開くと、アナベルが優雅な所作で部屋に入ってきた。彼女の手には、湯気の立つティーカップが乗った小さなトレイがあった。
「あんなことがあった後で、眠れていないかと思って。少しでも気分が落ち着けばと思って、はちみつティーを持ってきたの」
その言葉に、アイヴィーは小さく微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、アナベル様。懐かしいですね。昔もよく作っていただきました」
4歳上のアナベルは、いつもみんなの姉のような存在だった。
アナベルは微笑みながらカップを手渡した。
「あなたが眠れない夜にね。ほら、まだ熱いから、ゆっくり飲んで」
アイヴィーは一口ティーを口に含み、甘い香りに包まれる。その香りに少し安心したような気持ちになるが、同時にアナベルの真剣な視線に気づき、カップを置いた。
「馬車の件……怖かったでしょう?」
アナベルの静かな声に、アイヴィーは小さく頷いた。
「はい。でも、ローレンス様が助けてくださったおかげで……」
アナベルはアイヴィーの手にそっと手を重ねた。その手は温かく、どこか母親のような安心感を与える。
「正直に言うわ。誰かがあなたに危害を加えようとしているように思えてならないの」
アイヴィーはその言葉に驚き、目を見開いた。
「……私に?」
アナベルは頷き、慎重に言葉を選びながら続けた。
「考えてみて。馬車があんな動きをするなんて普通じゃないわ。誰かが意図的に何かを仕掛けているのかもしれない」
アイヴィーはその言葉に沈黙した。彼女自身も薄々感じていた疑念を、アナベルが口に出したことで、現実として突きつけられたように思えた。
少しの間、静寂が続いた後、アイヴィーは意を決したように口を開いた。
「アナベル様、私……信頼できるのはあなたしかいません」
アナベルは少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに柔らかな微笑みに戻った。
「ありがとう。どうしたの?」
アイヴィーは手元のティーカップを握りしめながら、低い声で言った。
「もし、誰かが私を狙っているのだとしたら、それを明らかにするために協力してほしいんです。」
アナベルの目が一瞬だけ鋭く光る。しかし、すぐに彼女は真剣な表情で頷いた。
「分かったわ。何をすればいいの?」
アイヴィーは大きく息を吸い込み、少しずつ言葉を紡ぎ出した。
「まず、私が口にするものや触れるものを、これから一緒に確認してください。それと……私の周囲で不自然な動きをする人がいたら教えてほしいんです」
アナベルは真剣な表情で頷き、そっとアイヴィーの手を握りしめた。
「安心して。きちんと目を配るわ」
その言葉に、アイヴィーは微笑んだ。
エヴリンが学園へ向かい、屋敷は静けさを取り戻していた。アイヴィーは久々に使用人たちの食堂で朝食をとりながら、穏やかなひとときを過ごしていた。隣ではアナベルが立ち上がり、優雅に紅茶を淹れてくれている。
「はい、アイヴィー」
アナベルは微笑みながらカップを差し出した。
「ありがとうございます、アナベル様」
アイヴィーはそっと紅茶の香りを吸い込み、小さく微笑んだ。心に広がる甘い香りに少しだけ緊張が解けた気がした。
そのとき、食堂の扉が急に開き、ローレンスが息を切らせて入ってきた。彼の顔は焦りと苛立ちに満ちており、場の空気が一瞬で張り詰めたものに変わった。
「アイヴィー、アナベル!」
その声にアイヴィーもアナベルも驚き、立ち上がる。ローレンスは彼女たちの前に立ち、息を整えながら話し始めた。
「昨日の馬車だが、持ち主が分かった」
アイヴィーは目を見開き、息を呑む。
「誰のものだったのですか?」
「父親が勝手に決めたというお前の婚約者の家のものだ」
その言葉に、アイヴィーは唇を震わせた。
「……どうして……?」
ローレンスは怒りを抑えきれない様子で言葉を続けた。
「馬車の持ち主はもう騎士団に連行された。奴はどうしても結婚したくなかったらしい。それで、お前を狙ったということだ。」
アイヴィーは手にした紅茶を見つめ、悲しそうに呟いた。
「殺そうとするなんて……どうして……話し合えなかったのかしら」
その声にローレンスは苛立ちを隠さずに答える。
「話し合うような奴ではない。それに、そういう奴がやることだ」
アイヴィーはふと目を伏せて、紅茶のカップの縁をなぞった。
「でも……話し合いたいわ。解決の糸口があるかもしれないのだから。私に何か悪いところがあるなら、それをちゃんと向き合って話し合いたい。どうしてこんなことをしたのか……それが知りたいの」
その言葉にローレンスは返す言葉を失い、静かに彼女の沈んだ顔を見つめた。
アイヴィーは静かに紅茶を持ち上げ、飲もうとした。その瞬間、ローレンスが手を伸ばし、彼女の手からティーカップを奪い取った。
「待て、俺にもくれ」
突然の行動にアイヴィーは驚き、慌てて声を上げた。
「ローレンス様、ダメです!」
ローレンスがカップを口に運ぼうとした瞬間、アイヴィーはとっさにカップを叩き落とした。カップは床に落ち、派手な音を立てて割れる。
その場の空気が凍りついたように静まり返った。ローレンスはアイヴィーを見つめ、低い声で問いかけた。
「やっぱり、この紅茶には……何か入っているのか? アイヴィー」
アイヴィーは言葉を失い、ただ震える手を見つめていた。その様子を見たローレンスの目が鋭さを増す。
その沈黙の中、アナベルの手が震え始めた。彼女の表情は青ざめ、目を伏せたまま微かに唇を噛んでいる。
ローレンスはゆっくりとアナベルの方を振り返り、冷静な口調で尋ねた。
「アナベル。お前がこの紅茶を淹れたんだな?」
アナベルは一瞬言葉に詰まるが、すぐにかすれた声で答える。
「……はい。でも……そんなつもりじゃ……」
ローレンスの視線がさらに鋭くなる。
「紅茶に何を入れた?」
アナベルは震える声で答えた。
「毒……少しだけ……でも……そんな、本当に死ぬような量では……!」
アイヴィーは目を伏せ、ローレンスの方を向こうとしない。
「アイヴィー、知っていたのか?」
その問いに、アイヴィーは小さく頷いた。
「……気づいていました。昨日のハチミツティーはいつもと味が違っていましたから」
アナベルは驚いた顔でアイヴィーを見つめた。
「どうして……?」
アイヴィーは涙を浮かべながら答えた。
「協力してと言ったのも気づいていることに気づいてくれないかと思って……今もあなたが飲むのを止めてくれるのではないかと期待していました。私にとってアナベル様は……唯一の姉のような存在でしたから。」
アナベルの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい……アイヴィー……」
ローレンスは二人のやり取りを見つめながら、険しい表情を崩さなかった。
割れたカップの破片が床に散らばり、冷たい静寂が食堂を支配していた。アナベルの手はわずかに震え、視線は床に落ちたままだった。ローレンスの厳しい声が、冷たい空気を切り裂くように響く。
「アナベル、なぜこんなことをした?」
その問いかけにアナベルは息を呑み、一瞬だけ瞼を閉じた。そして、震える声でようやく口を開いた。
「……どうしてかしらね」
アナベルはアイヴィーを見ようとせず、深く息を吐きながら続けた。
「私は、アイヴィー、あなたが眩しすぎた」
アナベルは、まるで自分自身に向かって語りかけるように言葉を紡ぎ出した。
「あなたがこの屋敷に来たとき、私は正直、安堵していたの。子爵家の娘でありながら、行儀見習いに出されるなんて、きっと使えない子だろうと思っていた」
アイヴィーはその言葉にショックを受けながらも、黙ってアナベルの言葉を待った。
「でも違った。あなたはすぐにエヴリンお嬢様の信頼を勝ち取り、侍女としての仕事を完璧にこなした。それどころか、マーサ様からも認められた。私が何年もかけて築き上げてきたものを、あなたはたった数年で手に入れたのよ」
アナベルの声は次第に震え始め、感情が溢れ出した。
「私は、侍女としての役割を誇りに思っていた。誰よりも冷静で、誰よりも効率よく仕事をこなすことが、私の価値だった。でも……それさえも、あなたに奪われたように感じた」
アナベルはそのまま言葉を続けた。
「そして、ローレンス様」
彼女がその名を口にした瞬間、ローレンスの眉が微かに動いた。
「彼があなたを見つめる眼差しに、私は気づいていたの。あなたが気づいていないふりをしているのも、分かっていた」
アイヴィーは息を呑み、動けずにいた。
「私は……ローレンス様のことを、心のどこかでずっと想っていたの。でも、彼の目には最初からあなたしか映っていなかった」
アナベルは涙を浮かべながら、力なく笑った。
「そして、知ってしまったの。ローレンス様が、あなたとの結婚をすでに侯爵ご夫妻から承認されていることを」
その言葉に、アイヴィーは目を見開き、ローレンスに視線を向けた。ローレンスはアイヴィーを見つめ返し、小さく頷いた。
アナベルはさらに言葉を続けた。
「私は、何をしてもあなたに敵わない。仕事でも、恋でも……すべて」
彼女は静かに涙を拭いながら、自嘲するように笑った。
「だから……毒を使おうと思ったの。そんな小さな抵抗でしか、あなたに追いつけないなんて、本当に滑稽よね」
アイヴィーは、彼女の言葉に胸が締め付けられる思いだった。
「アナベル様……」
アナベルは力なく首を振った。
「私はずっと、自分が侍女であることを誇りにしていた。でも、結局、私が守っていたのは自分のプライドだけだったのよ」
アイヴィーは、そっとアナベルの手を取った。その手は冷たく震えていたが、彼女の心には温かさが伝わった。
「アナベル様、私は……あなたを憎んでなんかいません」
アナベルは驚いて顔を上げた。
「私にとって、アナベル様は大切な先輩でした。いつも助けてくれて、励ましてくれて……私はそのことに感謝しかありません」
アイヴィーの言葉に、アナベルの目から涙がこぼれ落ちた。
「でも……私は……」
「それでも、私はアナベル様を許します。そして、これからもあなたを信じたい」
ローレンスは二人のやり取りを見つめていたが、静かに口を開いた。
「アナベル。君の苦しみも理解したが、それでも罪を犯したことは事実だ」
アナベルは目を伏せ、小さく頷いた。
「分かっています。償います」
ローレンスは深く息をつき、続けた。
「君を父に引き渡し、適切な処遇を決めてもらう。それが君の償いの始まりだ」
アナベルは涙を拭いながら、静かに立ち上がった。
アナベルが去った後、食堂には再び静寂が訪れた。アイヴィーは、割れたティーカップの破片を見つめながら小さく呟いた。
「私が……もっと早く気づけていたら……」
ローレンスはそっと彼女の肩に手を置き、力強い声で言った。
「君が悪いわけじゃない。むしろ、君が彼女を救ったんだ」
その言葉に、アイヴィーは静かに頷き、深く息を吸い込んだ。
外から射し込む陽の光が、食堂に新たな希望を運び込むように感じられた。
冷たい冬の朝、玄関ホールは静まり返っていた。アナベルが簡素な外套を羽織り、荷物を持って立っている。玄関の扉は重々しく開かれ、外には騎士団の一行が待機していた。彼らの鋭い視線と規律正しい佇まいが、この別れの重さをさらに引き立てている。
侍女長マーサがアナベルの横に立ち、じっと無言で見つめていた。いつものように冷静で、厳しい表情。しかし、その目には微かに感情が揺れているようにも見える。
アナベルは何も言わない。ただ静かに、最後の別れを待っているようだった。その姿はどこか誇り高く、同時にどこか痛ましかった。
アイヴィーが一歩前に出た。その瞳は涙で潤んでいたが、必死にこらえていた。
「アナベル様……」
アナベルは振り返らない。彼女の肩越しに、アイヴィーは震える声で言葉を続けた。
「私にとって、あなたは憧れでした。そして、支えてくれる大切な存在でした」
アナベルの肩がわずかに揺れる。
「あなたに救われていたのも本当です。だから……どうかお元気で」
その言葉に、アナベルはようやく振り返った。その瞳には涙が浮かんでいたが、彼女はそれをこらえ、わずかに微笑んだ。
「アイヴィー。さようなら」
騎士団の隊長が彼女に歩み寄り、無言で手を差し出す。アナベルは荷物を抱え直し、毅然とした足取りで騎士団の一行に加わった。その後ろ姿が扉の向こうに消えるまで、アイヴィーはじっと見つめ続けた。
扉が閉じる音が響き、再び静寂が訪れる。
アイヴィーが立ち尽くしていると、横からマーサの低く静かな声が響いた。
「あなたは昔から優しすぎるのです」
アイヴィーは驚いて振り返る。マーサの鋭い視線が彼女に向けられていた。
「そんなことでは侯爵夫人はつとまりませんよ」
その言葉は冷たく厳しいものに聞こえたが、その裏には別の感情が込められているように思えた。
「しかし……あなたのその優しさが、屋敷の人々を救ってきたのも事実です」
マーサはため息をつき、少しだけ表情を柔らかくした。
「これからはもっと自信を持ちなさい。そして、自分を誇りなさい。それがあなたの義務です」
その言葉に、アイヴィーの胸が熱くなる。マーサが自分を認めてくれていることが、はっきりと伝わった。
「ところであなたはローレンス様のことが好きなのですか?」
まったく恋の話などしそうにない無表情から発せられた突然の質問に、アイヴィーの目は見開かれ、頬が赤く染まる。
「え!? な、何をおっしゃっているのですか!?」
マーサは軽くため息をつき、しかしその表情にはどこか微笑みが浮かんでいた。
「ローレンス様があなたを好きなことは、この屋敷中の人間が知っていますよ」
アイヴィーは完全に固まってしまい、何も言えずに目を泳がせた。
マーサは穏やかな声で続けた。
「坊ちゃんは本当に小さな頃から、アイヴィー、アイヴィーとあなたの後ろをついて回っていましたから」
その言葉に、アイヴィーは昔の記憶がよみがえった。幼いローレンスが庭で自分の後を追いかけてきた姿、木登りを手伝おうとして泥だらけになった姿。彼の笑顔が頭に浮かぶ。
「あの頃から、ずっと特別な想いを抱いていたのだと思いますよ。そして、その想いは今も変わっていません」
マーサの声には、どこか優しさが滲んでいた。
「あなたとの結婚を許してもらうために、坊ちゃんは両親から厳しい条件を課されました」
アイヴィーは驚いて顔を上げる。
「厳しい条件……?」
マーサは頷き、少し微笑んだ。
「ええ。学園を首席で卒業することです。貴族の家柄において首席卒業は大きな名誉。それを成し遂げなければ、あなたとの結婚は認めないと言われたそうです」
アイヴィーの目に驚きが浮かび、唇を震わせた。
「ローレンス様が……そんなことを……」
マーサはふっと息をつき、少し優しい声でアイヴィーに語りかけた。
「あなたは愛されていますね」
その言葉に、アイヴィーは顔を上げた。マーサは、珍しく微笑みながら続けた。
「だから、もっと自分に自信を持ちなさい。そして、自分を誇りに思いなさい。それが侯爵家の夫人となるあなたに必要なことです」
アイヴィーの目には涙が浮かんでいたが、彼女は懸命にそれをこらえた。
「侍女長様……ありがとうございますす」
マーサは静かに頷き、最後に一言付け加えた。
「坊ちゃんがそこまでしたのですから、あなたもそれに応える覚悟を持ちなさい。さて。これをローレンス様から預かって参りました」
渡されたのは、小さく折りたたんだ便箋だった。
懐かしい折り方だ。
便箋には大きく星の形だけが描かれていた。
庭園に漂う冬の冷たい空気が、アイヴィーの頬をかすめていた。月明かりが庭を銀色に染め、枝葉の間からこぼれる星の光が、石畳に儚い輝きを落としている。彼女は胸の中で高鳴る鼓動を感じながら足を進めた。
噴水の側、ローレンスが立っていた。藍色の髪が夜風に揺れ、彼の背後には広がる星空がまるで彼自身のように静かに輝いている。
「来てくれてありがとう、アイヴィー。あの暗号、よく覚えていたね」
その声は温かく、冬の冷たい夜気をほんの少し和らげるようだった。
アイヴィーは彼の目を見つめ、微笑んだ。
「懐かしいですね。昔はよくあの便箋で夜中の天体観測決行の合図をいただきました」
ローレンスも微笑み返し、ふと夜空を見上げた。
「よく、庭園でこうして星を見上げたよね」
その言葉に、アイヴィーは懐かしさで胸が温かくなるのを感じた。
アイヴィーは小さく笑いながら答える。
「そうですね……あの頃はエヴリン様と三人で、夜中にこっそりベッドを抜け出していました」
ローレンスは少し目を細め、微笑んだ。
「エヴリンは途中で寝ちゃって、君が毛布をかけてやっていたっけ」
その光景が彼の記憶に鮮明に蘇るようだった。アイヴィーもまた、その夜の静けさや星のきらめき、そして幼い頃のローレンスの笑顔を思い出していた。
「お二人の後を追いかけて、転んで泣いたローレンス様も印象的でした」
アイヴィーが笑いをこらえながらそう言うと、ローレンスは照れくさそうに頭をかいた。
「ああ、あの時か……僕は本当に君に迷惑ばかりかけてたな」
ローレンスはふと真剣な表情に変わり、アイヴィーに向き直った。その瞳は、星空よりも深く輝いていた。
「アイヴィー、僕は……君のことがずっと好きだった」
アイヴィーは驚き、息を飲んだ。
彼の声は静かで、しかしその言葉には迷いがなかった。
「君が侯爵家に来てから、ずっと君を見てきた。君が笑っているときも、泣いているときも……君が頑張りすぎているのも知っていた。でも、君に何もしてあげられなくて、ただ見ているだけだった」
ローレンスは少し息を吐き出し、目を伏せた。
「君がいなければ、僕の世界はこんなに輝かなかった。君は僕にとって、星みたいな存在なんだ」
彼の真剣な言葉が、アイヴィーの心に響いた。
しかし、アイヴィーの心には別の思いも浮かんでいた。
「でも……私は……」
アイヴィーは視線を落とし、胸に手を当てた。
本の中のアイヴィーは、誰に殺されたのだろう。婚約者かアナベルか、はたまた違う人間なのか。それともただの事故なのか。
「ローレンス様、私には不安があるんです。本当に私は、死の運命を回避できたのかも分からない。未来がどうなるのかも……。それに」
彼女の声は震えていた。
「あなたには他に素敵な人ができるかもしれない」
ローレンスを癒すのは、ヒロインだ。
本当にここが本の世界なら、ローレンスはいつかヒロインに惹かれてしまうかもしれない。
ローレンスは静かに彼女の手を取った。その手の温かさが、彼女の冷えた指先にじんわりと伝わってくる。
「アイヴィー。君の未来は、君自身で作るものだ。誰かに決められるものじゃない」
その言葉に、アイヴィーは目を見開いた。
ローレンスは静かに続けた。
「君がここにいる限り、僕の未来には必ず君がいる。君の不安も悲しみも、全部僕が受け止める。だから、僕と一緒に未来を作っていってくれないか」
アイヴィーの目から涙がこぼれた。
「私……」
彼女は小さく声を震わせたが、その瞳には新たな決意が宿っていた。
「私も、未来を作りたいです。あなたと一緒に」
ローレンスは笑顔を浮かべ、彼女をそっと抱きしめた。
月明かりと星空の下で、二人の影は一つに溶け込むようだった。
庭園の冷たい風が、二人の周りを優しく吹き抜けていく。星々は彼らの頭上で輝き続け、まるでその未来を祝福しているかのようだった。
(未来は自分で作るもの。きっと……ローレンス様となら、それができる)
だってアイヴィーがこれから作る未来は「美しい侯爵家の物語」ではない。アイヴィーとローレンスの物語だ。未来のことが分からない、もしかしたら明日死ぬかもしれない。それは生きている限りみんなに言えることだ。
アイヴィーはそっと目を閉じ、彼の胸に顔をうずめた。
ミステリー要素を入れたかったのですが無理でした…
ちょっとアナベルに甘すぎになってしまった…
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