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シャークファイト  作者: 奥森 蛍
2章 森山亮・奈津美
9/40

3 悪魔の勧誘

「シャークファイト? アホかお前。参加するってできるわけないだろう」


 亮は世間で話題のシャークファイトの存在をすでに知っているようだった。


「ううん、できるの。今日契約してきたから」


 亮は豆鉄砲を食らったハトのような顔をする。空いた口がふさがらない様子だった。


「鬼島さんっていう方にお話を頂いてね。ご主人と一緒に参加しませんか。っていわれたから契約してきちゃった」

「契約してきちゃったって。お前電気代じゃねえんだぞ」


 亮が、だんっとグラスをテーブルに打ちつけると泡が吹きこぼれた。また、恫喝が始まるのか。負けるな、負けるなと心で叱咤する。


「慰謝料払わないでいいから。莉理もあたしが育てる。これに参加さえしてくれれば文句は今後いわないわ」


「冗談じゃない。離婚はしないし、お前が参加するのも許さない」


 大きな声で罵られると身がすくみそうになる。その恐怖を堪えて。


「ううん、あなたにそんなこと命令する権利ない。わたしはずっと我慢してきたの」

「参加するつもりはない。明日からパートも辞めろ!」



       ◇



 どうしてパートを辞めろになるんだろうな。悲しい気持ちでそれをずっと考えていた。突然辞められるはずはないし、みんなの迷惑もある。亮はわたしの自由さえも奪いたいのか、そう思っていた。


「森山さん、お客さんが怒ってらしたわよ」

「えっ?」


 事務所で同僚にそっと告げられてさっと血の気が引いた。


「お釣りが500円足りなかったって。お返ししておいたわ」

「すみ……ません」


 いいのよ、と同僚は朗らかに笑った。


「このところずっと考え事しているでしょう。よくないわ。話してごらんなさいよ」


 優しい言葉に涙がにじみそうになった。誰も聞いてくれなかったこと。背をとんと叩かれると堰を切ったようにわっと気持ちが溢れだした。

 それから泣きながら、旦那の横暴を話した。学生時代に出会って恋愛結婚だったこと。本当は優しくて大好きだったこと。その話を同僚は茶化さずに聞いてくれた。


「ホントは優しい人だって分かってるんです」

「でも辛いのね」


 追従する涙は止まらない。


「わたし、たち。シャ……ファ…………トに参加することにしてて」

「えっ、なに。シャ?」

「ク……ファイトに」

「良く分からないわ。大丈夫よ、大丈夫。誰もいないから」


 わたしたちはシャークファイトに参加する。亮はしないといったけどする。小さな決意だった。そして、その小さな決意さえも亮に威圧されそうになっているのかと思うとまた泣けてきた。


 話を聞き終えた後、同僚は隣に腰かけて自らの話をしてくれた。

 若い頃に旦那の暴力があったこと。数日間家を出たこと。離婚しようと思ったこと。それでも今は仲良く老後を過ごしている。


「いがみ合っていても夫婦よ。愛があって結婚したんだもの。歳をとれば丸くなるわ」

「そうですよね。そうです」


 泣きながら頷いていた。親身になってくれる人がいてこんなに嬉しいことはなかった。


 午後、働いている最中もずっと悩んでいた。

 亮が乗らないのならやっぱり止めてしまおうか、そういう気になってくる。

 先日会った鬼島の提案は賞金1億円を2人で山分けすることだった。

 とても都合のいいように思ったけれど、亮が怒って話を中断したためその詳細を話せなかったのだ。


 やっぱり別れずにやり直した方が。気弱な奈津美はそう考えたくなる。状況を変えるよりは莉理を育てた方がはるかにいい。

 そうすると次第に罪悪感が湧いてきた。勝手に判断して離婚しようとしたこと。亮を信じていなかったこと。


 仕事が終わると事務所で項垂れた。わたしどうかしていた。

 今日鬼島と会うことになっている。そこでやっぱり断ろう。




 鬼島とは先日行ったのとは別の喫茶店で落ち合って話をした。

 ファンの回るレトロな店内でコーヒーを注文した。


「ごめんなさい、やっぱり止めたいんです」


 鬼島は相変わらず紫のスーツでサングラス。怖そうに見える。でも、怒らなかった。代わりに理由を聞いた。


「なにかあったんですか」

「主人と話して、やっぱりやり直そうって」

「暴力する夫は変わりませんよ」


 言葉を詰まらせて、うつむいた。そんなの分かってる。

 反論を口にできずに拳をにぎった。でも信じたいの、それもいえなかった。代わりに小さく口にする。


「離婚はしたくありません」

「そうですか」


 鬼島がはあっと吐息して、じゃあといった。


「こういうのはどうです。例えばやらせとか」

「やらせ?」


 奈津美は視線を上げた。


「2人でタイムアタック方式で競うというお話はしましたけど、あえて勝利をどちらかに譲るんですね。片方が安全なところでゲーム終了になるのを待って、片方は賞金へとたどり着く。2人とも生還されれば賞金は夫婦のものです。あとは学費にでも生活費にでもあてて下さい。そうすればご家庭に収入1億円が上手く入って、生活が楽になるでしょう」


 とてもいい話には思えたが。


「高木勝利さんは亡くなったでしょう。やっぱりどちらかが欠けるって怖いです」

「ああ、高木勝利さんは生きていますよ」

「えっ」


 寝耳に水のような話を聞いて驚いた。


「ココだけの話ですよ。彼は海外に移住して2億円を手に入れて悠々自適に暮らしています」

「本当ですか?」

「シャークファイトはゲームなんです。あくまでゲーム。詳細は話せませんが、そういう仕組みがあるんですよ」

「やっぱりそうなんですね」


 途端に沈んでいた気持ちが明るくなる。


「ご主人とも話し合われてください。その代わり他の方には内密に。じゃないと規約違反で賞金はお支払いできませんので」

「分かりました。話し合います。ありがとうございました」


 奈津美は笑顔で礼をいって、喫茶店を後にした。




 その晩、話をすると亮はいつもより幾分冷めた表情で奈津美を見た。怒る気も失せたといった表情だった。


「お前馬鹿か。そんな美味しい話あるわけないだろう」

「撮影に参加するだけでいいの。合成だから。賞金は動画の収入で一部払われるからって」


 亮は疑るような目を向けていた。


「1億円だもの。これがあれば将来に貯金できるし。それに。亮も仕事辞められるわ」


 その言葉に亮は目を見開いた。その後、苦虫をかみつぶしたような顔になる。何かいいたそうにして何もいわず、髪をくしゃりと潰すと脱力気味に首をふった。


「お前な、そんなの気にして働きにいかなくていい」


 いつもよりも優しい口調に感じられた。声が潤んでいる。疲れているけれど、どこかで奈津美を思っているような響きがあった。


「今日は酒は飲まない。もう寝よう」


 読みかけのスポーツ雑誌を畳むとリビングを出ていった。

 同じベッドに寝て、背中に亮の存在を感じていた。ラグビーで鍛えた大きな腕で抱きしめてくれている。何もいわない、いわないけれど優しかった。


「ごめん」


 そのひと言でこんがらがっていた気持ちが解けていくようだった。心を包むような温もりにほだされてまた許したくなる。仲睦まじかったころの感触が懐かしかった。

 顔を埋めつぶやく。


「お前のいう通り参加しよう。仕事辞めたい」


 寂しげなトーンに冷たい澱が優しく包まれた。

 そうか、亮も疲れていたんだな。繋がっていた、全部繋がっていたんだ。

 そう思うと気持ちが穏やかになった。



       ◇



 都内某所で2人は鬼島を待つ。娘の莉理はしばらく亮の実家にあずけた。

 夜の不気味なこの場所には人の気配がない。

 しばらくすると「森山さん」と声がした。


「あっ。鬼島さん」


 ふり向いた奈津美はペコリとあいさつした。


「主人の亮です」


 どうもと亮は頭を下げた。


「じゃあ、いきましょうか」


 鬼島に誘われて、路肩の車へ歩いていく。闇に溶けこみそうなワゴン車に乗りこむと説明を受けた。


「まずはこの薬を打ちます」


 そういって注射器を見せられた。その途端に血の気が引いた。


「薬ですか。危ないものじゃないんですか」


 亮が警戒して問うと鬼島は首をふった。


「ただの麻酔です。秘密厳守ですので」

「やっ」


 強引に奈津美の腕を引っ張ったので、声が漏れた。亮が制止した。


「あんたたちやっぱり怪しいんじゃないか、妻には手を出すな!」

「大丈夫、大丈夫ですよ。旦那さん」


 亮が抵抗して暴れると走行中のワゴン車が大きく揺れた。荒ぶりを抑えようと、ワゴン車の二列目に座る夫妻を三列目に座った関係者が枕ごとクリンチしている。息が止まりそうに苦しくて、身動きできない。亮の腕に針が侵入する、奈津美にも。

 間もなく2人は脱力した。

 消えゆく意識の向こうで、鬼島の声が聞こえた。


「じきに着きますから」


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