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覚醒都市  作者: ムクイ
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07. < 戻れる場所 帰らない人 >


07. < 戻れる場所 帰らない人 >



『おかえりなさい』


『 さようなら 』





瑕奈ちゃんと別れた後、バスに乗って自宅方面へ。


途中、お土産を買うために街中をぶらついてみた。

お菓子屋のウインドウを覗いてはみたものの、二年ぶりに会う妹たちの好みが分からなかった。

確か朝陽あさひは洋菓子が好きだったはずだ。

けれど体が弱い彼女は食事も制限されていて、大好きなチョコレートケーキも週に一度しか食べられないと事あるごとに嘆いていた。

逆に、食べようと思えばいくらでも好きなものを食べることが出来た夜月よつきは、食に関して無頓着だった。

お菓子はおろか通常の食事に関しても好き嫌いがなく、ただ栄養補給のために咀嚼しているといった様子だった。

やはりどこかで朝陽に遠慮している部分があったのかもしれない。

一つの障害を除けば彼女はそれなり学校へ通うこともできたはずなのに、双子の姉と同じように外出を控え、自宅で専属の家庭教師による指導を受けていた。



結局なにも買わないまま、帰路に着いた。

マンションの前に停まっている黒塗りの外車に気付かなかったのは、食べ物ではなく花のように鑑賞できるものが良いのかを考えていたからだった。


「カイ様」


ふいに名前を呼ばれ、車の方を振り返る。

助手席から黒と白を基調とした正装に身を包んだ男性が降りてきた。

そして白手袋をした手を胸に当て、僕の方へ向かって恭しく礼をする。

「お久しぶりです。お嬢様のめいでお迎えに参りました」

「家を出た僕にお辞儀なんてしなくてもいいですよ、唐沢からさわさん」


唐沢 文生ふみおさんは、父に仕える使用人の筆頭格だった。

身寄りのなかった唐沢さんは僕の母に引き取られ、養育費を援助してもらう傍ら、家事の手伝いなどをして生活することとなった。

彼が高校に進学すると同時に僕が生まれ、忙しかった父と母に代わり随分と面倒を見てもらったことを憶えている。

そして大学を卒業した唐沢さんは、そのまま使用人として雇われることとなったのだ。


「カイ様がどこでお暮らしになろうと、貴方が君島家の理人りひと様とみどり様のご子息である限り、私の立場は変わりません」

唐沢さんはいつものように硬い感じでそう述べた。

しかしその表情は柔らかく慈しみに溢れている。

「本当にお久しぶりです。やはり少し大きくなられましたね」

僕の姿を上から下まで眺めた唐沢さんは、感嘆するように目を細めた。

「唐沢さんは相変わらずお若く見えますね」

「そうでしょうか?」

唐沢さんは右手で耳を触る。

三十も半ばを過ぎているというのに、唐沢さんは大学にいたころとまるで変わりがなかった。

「最近、お嬢様には“年のせいで口うるさくなってきた”と多々言われるのですが、」

「ああ。想像ができます」

いかにも朝陽が言いそうなことだった。



一旦部屋に戻ると、着替えと洗面用具をいつものカバンに放り込んだ。

そして唐沢さんが待つ車に乗り込むと、それは音も無く動き出した。


「さっき、“お嬢様の命で”って仰ってましたけど、」

「はい。朝陽様が、どうせカイ様は約束など憶えていないだろうから、と」

「成る程」

相変わらず、勘が鋭いようだった。

見慣れた黒い車を見た瞬間ときは、てっきり用意周到な父が仕向けてきたのかと思った。

「お嬢様方はカイ様にお会いできることを、それはそれは楽しみにしてらっしゃいますよ」

助手席の唐沢さんは、笑顔でそう言った。

「しかし生憎、理人様は本日会食の予定がございまして、お帰りは深夜になられるかと」

「それは父に聞いています。だから今日にしろと言われましたから」

「…… さようでございますか」

僕と父の仲が冷め切っていることは、家中の誰もが知っていることだった。

そのことについて僕は割り切っていたし、父にいたっては最初から気にもしていない有様だ。

きっと唐沢さんにも思うところはあったのだろうけれど、この人はあくまでも使用人として客観視していた。

「本日はお泊りになられますか?」

漂い始めた重たい空気を払拭するような明るさで、唐沢さんは僕に訊ねた。

「そのほうがきっと朝陽様と夜月様もお喜びになると思いますが」

「一応着替えとかは持ってきてはいるんですけど、まだそこまでは決めてません」

「もういっそのこと、このままお帰りになってはいかがですか?」

何気ない口調ではあったけれど、それが彼の本心であることは分かっていた。


あの日、僕が唐突に家を出ると宣言したとき、一番反対したのは唐沢さんだった。

「これからどこへ行こうというのです」

出て行こうとする僕の肩を掴んだ彼は、今までに見たこともないくらい険しい顔でそう言った。

その手には容易に振り解けないほどの力が込められていた。

「私はあなたのお母様、翠様からあなたやお嬢様のことを託されているのです。目的も行く先もないあなたを、こんな状態で送り出すわけにはいかないのです」

しかし最終的に僕は家を出て、彼はそれを見送ることとなる。

唐沢さんとは生まれたときからまるで兄弟のように密接に過ごしてきた。

僕が去っていく背中を見つめながら、そんな彼は何を想っていたのだろう。


「そういえば、」

ふと、僕は家の誰にも今の住所を明かしたことがないことを思い出した。

さしずめ芽衣子にでも聞いたのだろうか。

「何でしょう?」

「いいえ、別にいいんです」

あえて唐沢さんに聞いてみなかったのは、もしかするとそこに父の存在が絡んでいるかもしれなかったからだ。

父は僕個人に関心を持っていなかったけれど、その動向については一定の監視を怠らなかった。

その理由は世間体を気にした、ひいては自分の評価に繋がるからといったものだった。

だから僕は一般的に裕福な家庭の子供が通うエスカレーター式の学校に通わされ、適度な功績と恥にならないくらいの成績を要求された。

それが嫌になったから家を出たわけではないと思う。

僕にとって勉強とは日々の過程で、学んだことを結果として残すことをさして辛いとは感じていなかった。

家を出て高校を中退すると告げたとき、てっきり父の僕に対する関心は完全に無くなってしまったんだと、どこかで思い込んでいた。

僕が住んでいる場所を特定することなど、父には造作も無いことだっただろう。

では僕がしている事はどうだろう?

あのビルで叶さんの指揮下、<傍観者アウトサイダー>の一員として活動している事実を、彼は認識しているのだろうか。


「そろそろ到着しますが、どこかそれまでに寄られておきたい場所などありますか?」

「あ、花屋が近くにあればそこへ」

「かしこまりました」

唐沢さんが指示を出し、運転手がハンドルを切る。

しばらく道なりに進むと、小さいけれど感じのいい個人経営の花屋の前に車をつけた。

「ここに来て何なんですけど、朝陽と夜月の好きな花ってなんですかね」

「そうですね」

少し考えるように唐沢さんが宙を見た。

「夜月様はわかりませんが、朝陽様はダリアなど派手で明るい色の花を好まれますね」

「ありがとうございます。参考になりました」

僕は車を降りると花屋に入り、小さな花束を二つ買った。

「お待たせしました。じゃあ、行きましょう」

僕が告げると、運転手は無言で車を発進させた。





二年振りに帰ってきた家は、出ていった日の夜と何も変わらずそこにあった。


仰々しい鉄の門。

カメラ越しに車の存在を確認すると、それは自動的に開かれた。

緩やかに続く砂利の敷かれた車道脇には、整えられた芝と水の湧き出る小さな噴水が見える。


確認したことはなかったけれど、僕の家は多分、豪邸と呼ばれていい大きさなんだと思う。


五階建てのそれは家というよりは小さな寮のようだった。

ベッドルームの数は二桁。

大きなキッチンには常にメイドやコックがいたし、ダイニングルームは家族が集まる小さなものと父が会議用に使うもの、時々来客を招いて会食を行う広いものと三つもあった。

中央には中庭と温室が、地下にはワインセラーと耐震用のシェルターも完備されている。


正面扉の前で僕と唐沢さんを下ろすと、車は車庫のある裏手へと消えていった。

唐沢さんが艶のあるマホガニーの大きな扉に手を掛けて押し開くと、中から何かが勢いよく飛び出してきた。


「お帰りなさい、お兄様!」


朝陽は伸びた髪をはためかせて、僕の腰元へとしがみ付く。

紫の生地にレースをふんだんにあしらったドレス姿の朝陽は、聞いていたほど病状が悪化しているようには見えなかった。

頬はうっすらと赤く、血色も良いように思える。

「私、待ちきれなくてずっと入り口で待っていたの!本当にお帰りなさい!」

「うん。ただいま」

僕は朝陽の背中をあやすように叩くと玄関口に立っているもう一人に視線を向ける。

顔の輪郭に沿うように揃えられた髪。白く透き通るような肌。

そこには黒いワンピースに身を包んだ夜月が、主のいなくなった車椅子の後ろで所在無さ気に立っていた。

僕が手を振ると、夜月も応えるように振り返した。

「朝陽様、そんなに興奮されますとお体に障ります」

「いいの!今日は大丈夫だもん!唐沢はほんと心配性なんだから!」

「はあ ……」

困った顔の唐沢さんを他所に、朝陽は僕の手を引いてどんどん中へと進んでいく。

「お兄様が帰ってきてくれて、私、ほんとうに嬉しいです!お父様と芽衣子お姉さまに感謝しなくっちゃ!」

「体の調子はどうなの?あまり良くないって聞いてるけど」

「新しいお薬が嫌なだけ。別にそれ以外は平気」

短く言うと、朝陽は夜月に声を掛ける。

「ね?夜月もお兄様が帰ってきてくれて、嬉しいわよね?」

夜月は表情を変えないまま、小さく頷いた。


小さい頃、庭で遊んでいた夜月は何かに躓いた拍子で喉に木の枝が刺さり、一命は取り留めたものの、声を出すことができなくなってしまっていた。

機械を使えば喉の微弱な振るえを感知して発声することが可能だったにも関わらず、夜月は人工声帯の移植を初めとした全ての治療を拒否していた。

故に彼女とのコミュニケーションは必然的に手話か筆談になる。

なかなか手話を覚えようとしない夜月は、いつでもスケッチブックを持ち歩き、そこに文字を書き込むことでの意思表示を好んだ。


<お兄さん、おかえりなさい>


黒いペンで記したそれを僕に向けて掲げる。

「うん、ただいま。ああ、これ二人にお土産」

僕は袋から二つの花束を取り出すと、各自に渡した。

結局お店の人に言われるがまま、朝陽には赤いバラとダリアのブーケを、夜月にはそのイメージから宵待草とカスミソウを併せたものにしてもらった。

「わあ!ありがとうございます!」

「……」

朝陽は頬を上気させ、夜月は花束に顔を埋めその匂いを嗅いでいた。



「―― さあさあ、いつまでも入り口に立っていますと風邪を引かれますよ?」

唐沢さんはどこから持ってきたのか二人の肩にブランケットを掛ける。

「続きはお食事を召し上がりながら、ゆっくりとなさればいいじゃないですか」

「それもそうね、お兄様もお腹が空いているでしょう?」

「うん、そうだね」

思い返せば朝ごはんを食べて以来、何も口にしていなかった。

瑕奈ちゃんとのあれこれや図書館での調べ物をしている間に、すっかり忘れていた。

言われて見れば、随分とお腹が減っているような気もする。

「じゃあ、私がお兄様のお隣に座るからね!」

誰とも無く宣言した朝陽は、僕の腕を掴むとダイニングルームのほうへと誘導していく。

その後ろから無人の車椅子を押す唐沢さんと夜月がゆっくりと歩いてきた。





夕食はいつにもまして豪勢なものだった。


豚の香草焼きに白身魚のムニエル、ポテトと根菜のグリルとポルチーニ茸のスープ。

その他にもコールドビーフやさっと茹でた青菜のソテー、色とりどりの料理が次から次へと運ばれてきた。

家を離れてみて初めて分かった。

こういった食卓は普通ではないのだと。


「でね、先生が今度一緒にオペラを見に行きましょうって言うの」


朝陽は食べることよりも、お喋りに夢中な様子だった。

「私、オペラなんて見たこと無いんだけど、面白いのかしら?夏には毎年お父様がクラシックのコンサートに連れて行ってくれるけど同じようなものなのかしら?そうそう、去年はブラームスを聴きに行ったのよ。その前はショパンだったわ。私はどちらかというとショパンのほうが好き。憶えてらっしゃる?前に北海道の別荘に行った時、一緒にショパンの古いレコードを聴いたでしょう?」

「朝陽様、お魚も召し上がってください」

僕が答える前に、唐沢が口を出した。

そんな彼を朝陽がじろりと睨み付ける。

「だって、お魚は骨があるもの。喉に引っかかったら痛いじゃない」

「骨ならシェフが丁寧に取り除いていますよ。残っているのは噛み砕けるくらいの小骨です」

「噛み砕く、だなんて。下品だわ」

「少しは夜月様を見習ってください」

僕の向かい側に座った夜月は、皿に載せられたものを淡々と食している。

「ねえ夜月、私、にんじん要らないからあげるわね」

唐沢の注意が削がれたほんの一瞬の隙を見て、朝陽がオレンジ色の欠片を夜月の皿に移し変えた。

対する夜月は嫌がる素振りも見せず、ただフォークを突き刺してそれを口へと運んでいく。

「あなたって、本当に何でも食べるのねぇ」

そんな夜月を感心するように眺めて、朝陽が漏らした。



食後の紅茶が終わるまで朝陽は休むことなく喋り続け、夜月は黙々と全てを飲み込んでいった。


彼女たちがお風呂に入るというので、僕は自分の寝室へと戻ってみることにした。

「カイ様が出て行かれてから定期的にお掃除をする以外、何も手をつけていませんから」

唐沢さんがそう言っていたように、扉の向こう側に広がっていたのはあの日とまるで変わらない状景だった。

夜闇に浮かび上がるシルエット。

一人用にしては大きすぎるベッド。

貰ったまま一度も使うことの無かった望遠鏡。

勉強机やその椅子の位置にいたるまでの何もかもが、まるでタイムスリップしてきたかのように同じだった。

ぴんと張られたシーツの上に腰掛けて、ぐるりと辺りを見回してみる。

生まれてからの十数年をここで過ごしてきたという実感がなかった。

僕は部屋と廊下を隔てている扉に目をやる。

昔はこの扉をひどく強固に感じたものだった。


小さい頃、恐い夢を見たことがあった。

その中で僕はひとりぼっちだった。

いつものように唐沢さんが起こしに来ない。

不思議に思い部屋を出て歩いてみると、家の中には誰もいなくなっていた。

恐ろしくなって家を飛び出すと、街の中にも人の姿はなく、僕は世界中でたった一人になってしまったのだと途方に暮れていた。

そんなとき、後ろから誰かの声がして ――


「カイ様。」


こんこんとノックの音がして、唐沢さんが頭を覗かせた。

そして、

「どうされたのですか?こんな真っ暗闇の中で」

そう言って、明かりを点けた。

「そういえばカイ様は前にもこんな暗がりの中で泣いていましたね」

「僕が、ですか?」

「はい。小さい頃、そうですね、あれは三歳くらいでしょうか。一之瀬様のお嬢様が初めて遊びにいらした日のことです」

「―― ああ。」



その日のことならば、よく憶えている。


父の学生時代からの友人である一之瀬 樹雄みきおには、僕と同じ年の子供がいた。

樹雄さんのことは何度か見かけたことがあったけれど、その子供である芽衣子に出会ったのは、あの夏の日は初めてだった。

―― カイ、これが一之瀬のお嬢さんだ

そう紹介された女の子は父親の足元に隠れ、じっとこちらを窺っていた。

最初はただ人見知りなのだと思っていた。

父と樹雄さんは何か大切な話をしなければならなかったので、僕と芽衣子は僕の部屋で一緒に遊んで待っていることになった。

大人は子供ならば誰でもすぐに仲良くなれると思い込んでいる節がある。

子供といえど個人の意思と自我を持つ生き物だ。

彼らが思い込んでいたほど、僕達は無邪気で柔らかい存在ではないのだ。


寝室の扉が閉まった途端、芽衣子の態度が豹変した。


―― あたしね、もうすぐ死ぬの


その子の放った言葉の意味が、よく理解できなかった。

芽衣子は僕のベッドに断りも無く這い上がると、ぴょんぴょんと飛び跳ねながらそう言った。

―― もうカラダがもたないんですって。だからあたしは死ぬの

当時の僕にとって、死という概念は宇宙と同じくらい遠い存在だった。

今でもその意味についてきちんと考えたことがあるかと聞かれれば、無いと応えざるを得ない。

とくに子供と死を結びつけることが幼い僕には難しかった。

多分、僕はそれは何かの間違いなんじゃないかと芽衣子に訊ねたんだと思う。


―― だっておとうさまとおかあさまがそう言ってるの、きいちゃったんだもの。それにね、


何でもないように呟くと、芽衣子はベッドを降りて僕の方に近づいてきた。


―― あたし、ときどき 血 をはくのよ


得意気にそう言った芽衣子は、僕の目の前でごほごほと咳をし始めた。

どのくらい続いただろうか。

急に喉の奥からひゅうひゅうという音がして、辛そうな声と共に芽衣子は少量の血をその手の中に吐き出した。

―― ね、ほら?

まるで自慢するように見せびらかすと、彼女はその血を僕の頬に擦り付けた。


―― ねえ、死ぬのってこわいと思う?


動けなくなっていた僕に、彼女はそう聞いた。

頬の血はみるみるうちに凝固していく。


―― 死んだらさ、あたし、あなたにあいにきてあげる


唐突に言われ、僕は戸惑った。

死んだ後とはすなわち幽霊ではないか、と。

―― そうね、ぜったい来るわ。それでこんどはあなたをつれていくのよ

そう勝ち誇ったように宣言すると、芽衣子は僕を突き飛ばして勝手に部屋を後にした。


それから唐沢さんがやってくるまで、僕は一人で怯えていた。

父に見送りに出てくるよう言われ、玄関で芽衣子の姿を見たときもそれは変わらなかった。

当の芽衣子といえば、最初に見かけたときのように父親の足元でじっとこちらを見つめているだけだった。


そのときのことを、僕は唐沢さんを含め、誰にも打ち明けることはなかった。


その後、就学した僕らは同じクラスで再会を果たすことになる。

あんなに死んでしまうんだと連呼していた芽衣子は、弱々しくはあったけれど血を吐いたりはしなかった。

それどころか、僕の家での出来事も忘れてしまっているようだった。

―― まるで違う人のようだ

それが僕の抱いた再会の第一印象だった。



「あの日以来、私はあなたに“ねえ、おばけっているの?死んだら人はおばけになるの?”と、それはもうしつこく聞かれましたよ」

「そうでしたっけ?」

確かに芽衣子に言われたことを気にしていた時期はあった。

寝ている間にやってくるんじゃないかと、眠るのを拒んでいたことも憶えている。

「それで唐沢さんは僕になんて答えたんですか?」

「さあ、どうだったでしょうね」

唐沢さんはやんわりと微笑んだ。

「でも翠様はたしか、こう言っていましたね。

“おばけなんて恐くない、本当に恐いのは死んだ人じゃなく、あなたの隣で生きている人たちだよ”、と」

「…… それは、あまり子供向けな回答ではありませんね」

「翠様はそういうお人でしたから」


一瞬、唐沢さんが遠い目をしてどこかを見つめた。

母はどういった経緯で唐沢さんを引き取ることになったのだろう。

何故彼を自分の養子にはせず、養育費を援助するだけの関係を保ち続けたのだろうか。

それは誰にも聞くことの出来ない問いの一つだった。


「もうすぐお嬢様たちがおやすみになられるお時間です。その前に会いに来て欲しいと仰っておられましたよ」

「そうですか」


立ち上がると、唐沢さんが扉を開けた。

僕がその向こう側に消えてしまうと彼は部屋の明かりを落とし、再び静寂の訪れたその部屋を後にした。





「お兄様、明日のご予定は何かありますの?」


ベッドに寝転んだ朝陽が期待を篭めて僕に訊ねる。


「ああ。ごめん、仕事があるんだ」

「そう ……。お仕事、なの」

声を落とした朝陽は、お父様と同じねと小さく呟いた。

「最近のお父様はいつにもまして凄く忙しそうなのよ。テレビに出たり、どこかの偉い人と会議があったり、ちっと私に会いにきてくれないの。だから私はいつも一人ぼっち」

「夜月がいるから一人じゃないだろ?」

僕は横で本を読んでいる夜月を見た。

この二人は今でも同じ部屋の同じベッドで寝ている。

「夜月は私の半分だもの。もう一人私がいたところで、それは一人と同じだわ」

「そういうものなのかな」

「そういうものなんです」


双子という存在について、当たり前だが一人で生まれてきた僕にはよく分からなかった。

似ていない双子もいれば、似ている双子もいる。

この二人は容姿的には髪の長さや服装の違いを除けばそっくりだったにも関わらず、性格的な面ではまるで正反対だった。

明るく社交的な朝陽と、静かで内向的な夜月。

まさしく太陽と月のような関係だった。


「では、代わりに私が眠るまで手を握っていてくれますか?」


「いいよ」

僕は差し出された手を握った。

風呂上りだからなのか、朝陽が子供だからなのか、それは不自然なほど温かかった。

「お兄様は毎日なにをして過ごしているの?」

「そうだね、書類を作ったり調べ物をしたり、今日は杉並にある大きな図書館に行ってきたよ」

「まあ!そこにあるステンドグラスがとても綺麗だって、ピアノの先生が仰ってましたわ。お兄様もそれをご覧になって?」

「それは見なかったな」

代わりに僕はそこにある全ての本の内容を記憶しているという人物の話しをした。

しかし何の疑いも無くそれを信じた僕とは違い、彼女はそれについて懐疑的だった。

「そもそも、どうしてその本が歴史の書棚にあったんですか?」

朝陽は僕の方を見て首を傾げた。

「きっとその方はお兄様のような人をからかって楽しんでいるのよ。きっとそうだわ」

「“僕みたいな”って?」

「純朴で人を疑うことを知らない、簡単に騙されやすそうな良い人のことです」

何だかあまり褒められているような気がしなかった。


しばらくすると朝陽に瞳が潤み始めた。

食後に飲む薬の副作用ですぐ眠くなってしまうのだ。

何度も欠伸を押し殺すものの、とうとう目蓋の重さに負けてしまいその目を閉じた。

起こさないようゆっくりと手を離すと、すやすやと寝息を立てるその体から離れる。

そして朝陽側のベッドサイドランプを消すと、灯かりを受けてぼんやりと浮かび上がる夜月の顔を見た。

「まだ眠くないの?」

夜月は無言で頷く。

読んでいた本を脇に置くと、彼女は僕を呼び寄せた。

「何を読んでいるの?」

備え付けの椅子に座って、僕は夜月のほうを覗き込んだ。

見たことの無い文字だった。その本の題名すら僕には読むことができない。

「何語?」

<ロシア語>

「そうなんだ」

スケッチブックのページを見て、僕は納得する。

「どうしてロシア語なの?」

<昔観た映画のお医者さんがロシア人だったから>

「ふうん」

微妙に答えになっていない文章をすらすらと走らせながら、夜月は首を縦に振る。



夜月は朝陽の前ではあまり僕と話しをしようとしない。

朝陽が極端に嫉妬深いことも理由のひとつとしてあったのだろう。

しかし普段抑えている分、一度書き出すと止まらなくなる時もある。

昔、そうやって“会話”をしている途中でスケッチブックのページがなくなってしまい、唐沢さんが慌てて新しいものを買いに行ったこともあった。

一度誰かが書いてはすぐ消せる小さなホワイトボードのようなものを買ってきたとき、夜月はそれに触ろうともせず、頑としてスケッチブックを手放さなかった。

彼女いわく、<自分が書いたことは全て残したい>のだそうだ。

現に今までの使用済みスケッチブックは全て大切に保管されている。


<お花、ありがとうございます。とても綺麗です>

<宵待草は別名を月見草とも言うんですよ?知ってました?>

<オペラについてどう思いますか?お兄さんは観たことがありますか?>

<私はどちらかというとブラームスのほうが好きです。ショパンはどこか疲れてしまうもの>


そんなやり取りが続いた後、


<お兄さん、お母さんの話をしてください>


唐突に綴られたそれに僕は彼女の顔を見た。

夜月は何かと母の話を聞きたがった。

「僕が知っていることはもう全て話したと思うよ」

<では、もう一度聞かせてください>

そう頼まれてしまったので、僕は微かに残る母の思い出を手繰り寄せ、回想を始めた。





母は聡明な人だった。


その振る舞いは知的で、いつも何かの研究に没頭していた。

それは父も関わっていたものらしい。

大掛かりな設備を必要としていた為、父も母も家にいることが少なかった。

生まれたときから既にそんな状態だったので、僕は大して彼らを恋しいとは思わなかった。

僕は唐沢さんを筆頭とする使用人の方々に十分すぎるほどの面倒を見てもらっていたし、一人で何かをしながら時間を潰すことに楽しみを見出せる子供だったのだ。


たまに帰ってくると、母は僕を呼んで何をしていたのかを聞きたがった。


母はいつもラフな格好で床に座り、僕を膝の上に乗せる。

彼女からはいつも知らない薬品の匂いと煙草の残り香がした。


「それで?今日は何をしていたの?」


僕は庭で蟻の行列を追いかけて転んだこと、みみずが干からびると焦げた様に黒くなると発見したことなどを話して聞かせた。

母はいつもうんうんと頷いて、たまに内緒にしてねと隠れて煙草を吸った。

煙草を吸う女は嫌いだと父が顔を顰める為である。

「でもさ、人は誰だって何かに依存しなきゃ生きていけないものよ。あたしの場合、それが煙草だっただけ」

そういって彼女は美味しそうに煙を吐いた。

その一服は大抵唐沢さんに見つかってしまうので、母が小さくなって叱られる様子を何度も見かけたことがある。

逆に僕が母に何をしていたのかを訊ねると、彼女はいつも曖昧な口調で、

「新世界の礎の試作」

とか

「人についての可能性の模索、あるいは研究」

と子供にはまるで分からな言葉を並べて僕を魅了した。



聡明であると同時に、母は美しい人だった。


彼女の実年齢がいくつだったのかは分からない。

けれど彼女には子供を生んだとはまるで思えない、少女のような無邪気さがあった。

その反面はっとするほど洗練された美しさを見せることもあり、社交界での彼女は注目の的だった。


研究の合間、父と母は彼の仕事の関係で様々なパーティーに出席する機会があった。


いつもの格好からイブニングドレスに着替え、軽く化粧を施した母の姿は子供の目から見てもどきどきするほど妖艶だった。

「じゃあ行って来るからね。帰りは遅くなるから、ちゃんと寝ておくんだよ」

そういって抱きしめてくれた母の体からいつもは嗅いだことのない香水の匂いを嗅ぎ取って、これは知らない人なんじゃないかと不安になったりもした。



父は母を愛していたのだろうか。


表面上では仲が良さそうに見えていた。

けれどそれは子供の視点からの話だ。

両親には仲良くいてほしいと思う願望も含まれていただろう。


母は妹産んだ後、その病院からいなくなった。


唐沢さんの話だと母は病院着のまま家に戻って荷物をまとめ、彼に子供たちを頼むと言い残すとそのまま消えてしまったのだそうだ。

原因は今でも分からない。

母がいなくなった後も、父の態度は変わらなかった。

いや正確に言えば、彼はさらに家へと戻らなくなり、辛うじて存在していた僕との会話も無いに等しいレベルまで減少した。

今思えば、彼は母の失踪の理由を僕に見出していたのではないだろうか。

それならあの冷たい視線の訳も納得できる。



六歳だったあの日。

僕の人生から母はいなくなった。


寂しいと思ったこともあったのかもしれない。

けれど“母の不在”は僕の中でその他多くの謎として、ただ心の奥に集約されていった。





僕が話し終える頃には、夜月も眠っていた。


その腕の中からスケッチブックを抜き取ると、その体に毛布を掛けて電気を消した。


「お嬢様方はおやすみになられましたか?」


部屋の外には唐沢さんが待っていた。

「ええ。夜月も今、寝付いたところです」

「ご苦労様でした」

唐沢さんは小声で僕を労った。


「どうなさいますか?お泊りになられますか?」

「いや、やっぱり帰ろうと思います」

「…… この家はあなたにとってそんなに居心地が悪いものなのですか?」

訊ねられて、僕はどうなんだろうと思う。


この家は快適だ。

居心地が悪いどころか食事の心配はしなくてもいいし、そのほかの面倒も全て世話してもらえる。

けれど、この家に僕の居場所はなかった。

そう言えばきっと唐沢さんは否定するだろうけれど、どんなに言葉を尽くされてもその気持ちは覆りそうにもない。

いつからそう感じていたのだろうか。

多分、一番最初から。

自我が芽生えてからすぐ僕はそれを悟ったのだろう。

幼い頃はここしか帰る場所がなかった。けれど今は自分ひとりでもなんとかやっていけている。


あの日、この家を飛び出した理由が今になってようやく分かったような気がした。



「やはりお父様のことですか?」

唐沢さんは静かに呟いた。

「確かに理人様はあなたに対して冷たい態度をお取りになるかもしれませんが、それは決して愛情が欠損しているからではないと思います。ですから、」

「―― 別にそういうわけじゃないんですよ」

僕は続けようとする唐沢さんをやんわりと制した。

「ただ仕事もありますし、それに明日の朝になれば妹たちも別れるのが辛くなるかもしれません」

「そう、ですか」

まだ心から納得している様子ではなかったけれど、唐沢さんは背筋を伸ばして一礼する。

「出すぎたことを申し上げました。お許しください」

「だからそういうの、いい加減にやめません?」

僕が苦笑して言うと、

「親しき仲にも礼儀あり、です」

と彼もつられて笑った。





「私がお見送りできるのはここまでになります」


玄関口で唐沢さんは残念そうにそう言った。

「車は用意させました。自宅までお送りできなくて申し訳ございません」

「いえ、十分ですよ」

彼はこれから帰ってくる父を出迎えなければならないのだろう。

実質上の主人は父なのだから、それはしょうがないことだ。

「今日は有難うございました。シェフの方にもとても美味しい料理でしたとお伝えください」

「かしこまりました」


車が到着し、中に僕が乗り込むのを見届けると

「カイ様。あなたが何とお思いになろうと、ここはあなたの家なのです。お帰りになりたくなったらいつでもご連絡下さい。何処に居ようとお迎えに上がります」

唐沢さんは真剣な口調でそう言った。

それに対し、

「じゃあ、今の仕事をクビになったら考えてみますよ」

と応えた僕に、唐沢さんは笑顔でそっとドアを閉めた。



夜の道を静かに走る車内で、僕は小さい頃に見たあの夢の中の人について考えていた。


彼女 ―― そうそれは確かに女性だった。

誰もいない街。

たった一人の僕を彼女は見下ろして、右手でどこかを指差したのだ。


ふと唐突に、それが果たして夢の話だったのかどうかが曖昧になってきた。


僕はどこかで本当に彼女と会ったのではないだろうか。

だとしたら、一体どこで。

どうして忘れているのだろう。



窓の外では雨が降り始めている。


すれ違った車の中に、父の影を見たような気がした。





** *





カイ様と入れ違いになる形で、理人様の車が門を潜った。


「おかえりなさいませ」

「ああ」


車から降りてきた理人様は、連日お帰りが深夜であったにも関わらず、あまり疲れた様子もなかった。

彼のジャケットとブリーフケースを受け取って、中へと先導する。

夜の空気に雨の匂いが混じっている。

どこかで降り始めたのかもしれない。


「三浦大臣との会食はいかがでしたか?」

「相変わらずだったよ」

ネクタイを解きながら、理人様は何でもない風にそう呟いた。

「文部科学省の連中は何も気付いていない。試しにいくつか鎌をかけてみたが、引っかかりもしなかった。あれは演技ではなくただの無知によるものだ」

「そうですか」

「それはそうと、アレが帰ってきたのだろう」

「…… はい」

私は理人様のこういう口調があまり好きにはなれなかった。

彼はどうしてカイ様に対してだけこういう態度をお取りになるのだろう。

「朝陽と夜月はどうしていた?」

「二人ともお喜びになられていましたよ。二年ぶりのご対面でしたから」

「そうか。ならばアレにもまだ価値があるというものだ」

そう言って理人様は私が用意したウイスキーに口をつける。

「…… ご子息のご様子はお聞きになられないのですか?」

思わず口から出ていた。

慌てて取り繕おうとすると、彼は気にした様子も見せず

「アレの顔はこの間、電脳越しに見ているからな」

と答えた。



お着替えになられるというので、私は外に出て明日の為のスーツを取りに衣裳部屋へと赴いた。

お届けしようとノックをすると、向こう側から返事がなかった。

「理人、様?」

失礼を承知で扉を開けると、そこに彼の姿は無い。

奥のバスルームには張られたばかりのお湯がバスタブの中で湯気を立てている。

不審に思い書斎の方を見ると、机の下の秘密戸が開いていた。


「…… またあそこですか」


私はスーツをそこに置くと、その扉の奥へと入っていった。


この場所の存在を知っているのは理人様と私以外には、建築に携わったものと、ここで“保管”されているものの製造者しか知らないはずだ。

勿論、ご家族であるカイ様やその妹君たちも気付いていない。

もし知っていたとしたら、到底平常ではいられなかっただろう。


「理人様」


白いガウンを羽織っただけの背中に声をかける。

ゆっくりと振り返った彼の顔はとても満ち足りていた。


「文生、分かっているとは思うが、お前の最優先事項は朝陽と夜月の成長を見守ることだ」

「…… はい」

「“あれ等”の経験や感情はいつか 彼女 が目覚めるときのために必要なのだからな」


そう言って、うっとりとそれを眺めた。



それは人間を収めたタンクだった。


その“少女”は胎児のように背を丸め膝を抱き、そこに漂っている。

時折、夢を見るようにその両眼が瞬いた。

唇からは小さな気泡が立ち上っている。


「ああ、君こそが完璧だ ―― 真昼まひる



真昼と呼ばれた少女。


朝陽様と夜月様に瓜二つな容姿を持った彼女。


理人様が一体何の目的で彼女を培養しているのかは分からなかった。

私は、それを聞くことが恐ろしかったのだ。


いつか彼女が目覚める時 ――


そのとき理人様は、朝陽様と夜月様をどうするお積もりなのだろうか、と。






この小説もようやく四分の一まできました。


名前ばかりが増え、伏線に接ぐ伏線のオンパレードで僕自身も全て回収できるか心配です。

専門的な話(電脳技術etc.)にも触れていますが、あれは僕の無い知識を総動員させた結果です。非常に残念な結果ですが、これもひとつのエンターテイメントと思い目を瞑っていただけると幸いです。



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