05. < 書物の森に住まう者 >
05. < 書物の森に住まう者 >
『 “本” は 完結 した ひとつの 世界
そこには ただ 始まり と 終わり が 有る 』
道 が在った。
真っ直ぐに伸びた道。
圧倒的な暗がりの中に白く際立つ一本の道。
ちょうど人がひとり歩けるくらいの幅を有した細い道。
その道に僕は立っていた。
前を見れば道が続いている。
後ろを振り返ると、途中でそれはぼんやりと闇に同化していた。
つまりは前に進むしかない。
僕は歩き出した。
どこへ行くのか、この先に何があるのか。
それは大して重要なこととは思えなかった。
とりあえず歩く。
一歩ずつ足を交互に動かして体を前に移動させること。
そのことだけに集中する。あとはなにも考えない。
どのくらい進んだのか。
生まれてからずっと歩いていたような疲労感。
なにか言葉にできないモノに突き動かされるように僕は歩いた。
もうこれ以上は少しも先に行けないと思った時 ――
唐突に道が途切れ、
目の前には残ったのは無限に広がる暗闇と、
ひとつの 箱 だった。
人の顔くらいの大きさだろうか。
色は骨のように白く、何の装飾も施されていない。
誰かが置き忘れていったかのように、それは存在している。
蓋はしっかりと閉じられていたものの、左上の角に小さな皹が走っていた。
開けては いけない
何故かそう感じた。
そんな僕の意思に反し、
石のように重かった両足が引き寄せられるように近付いていく。
両腕は箱を掴むように伸ばされ、そして箱もそれを望んでいるように見えた。
が、
指先がほんの僅かに触れた刹那
僕は 落ちていた。
下腹部に強い浮遊感。
掴まる物も、着地する地面もなく、ただ落下していく、体。
周りを見渡せば先ほどの暗闇から一転、そこには様々な 「映像」 があった。
まるで何万もの映画が同時上映されているような光景。
視覚と聴覚が悲鳴を上げる。
それは色彩の拷問。
または音響の責苦。
その全てが世界中にいる僕ではない誰かの人生のひとコマなのだと気付く頃、
僕は光の渦に飲み込まれ、
落下していた体がふわりと宙に浮く。
そこは不思議な空間だった。
空と大地が反転した世界。
僕の足元で白い雲が青い空を流れ、
頭上では森や海や町が落ちることなく続いていた。
ここは、どこだろう。
『 どこでもない、どこか とでも言っておこうか 』
その問いに答えるように、“彼” が現れる。
僕と “彼” は空と大地の境界線で向かい合うように漂っていた。
そういえばここまで間近に そして障害物もなく “彼” の姿を見るのは初めてだった。
今はまだ眠り続けているという “彼” の本体。
柊木沢さんと同年代だろうか。
どこかミケランジェロの彫刻を思わせる完成された肉体だった。
『 お褒めに預かり光栄だよ 』
あまり嬉しくはなさそうだった。
『 どうせ形ばかりの製作を急がれた器 と 寄せ集めの精神の集合体だ 』
その結果が これ ならば、もはや滑稽としか言いようが無い
時々 “彼” はこんな風に分からないことを言う。
作られた肉体。
創られた精神。
“彼” は、ひと ではないのだろうか。
『 それよりも、だ 』
その問いに答えることなく、“彼” は僕を視る。
『 お前 ―― アレ を 揺すったな 』
何の話だろう。
にやりと笑ったその顔は、“彼” が面白いものを見つけたときの顔だった。
『 俺が止めていなければ、お前はあの 箱 を開けていただろうな 』
箱?
あれについて “彼” は何かを知っているのだろうか。
僕は指先の感触を思い出す。
ほんの僅かな接触ではあったけれど、その中は確かに何かが入っていた。
でも ―― 何が?
『 お前は俺と世界を繋ぐ唯一の存在だ。故に知り合いの誼みで助言しよう 』
“彼” が押し殺した声で言う。
これは警告なのだ、と。
『 あれはまさしくパンドラの箱だ。そして残念なことに箱の底には 希望 も無い 』
そんなものがどうして僕の中にあるというのだろう。
『 それは俺が答えるべきことじゃない。何にせよ、今の時点で開ける事はお勧めしない 』
静かに延べ切ると、“彼”は黙った。
これ以上語ることは無い、と体現するように。
『 そろそろ俺はあの棺桶に戻るとしよう 』
しばらくの沈黙の後、“彼”はそう呟いた。
そして大気を泳ぐようにして僕の目の前に立つと、
『 これが例の男の情報だ 』
そう言って、“彼” は僕の額を弾いた。
*
男がいる。
中肉中背、平たい顔、暗い性格。
男 ―― 藤沢 という名の男は毎日をとてもツマラナイと感じていた。
そんな藤沢の人生に転機が訪れる。
気乗りしないまま参加したとある宗教の集い。
そこで藤沢は、人ならざる神々しい生き物との出会いを果たす。
真白い服。
真白い髪。
真白い肌。
直視することすら恐れ多い、光り輝く奇跡の子。
藤沢はそこで生まれ変わった。
天使の一部を体内に取り込み、数多くの肉体的、そして精神的試練を乗り越えることで、彼は人の身でありながらその上に属するモノへと成り代わったのだ。
素晴らしい気分だった。
他者に対する圧倒的な優越感を手に入れた藤沢は、自分の身に起きた変革を広く世の中に浸透させようと、あらゆる場所での布教を開始した。
しかしその行いは決して親切心からではなかった。
それは ―― 選別。
神の徴を享けた信者の中には、肉体的に崩壊を来たすものや、精神的に瓦解する者も多数存在した。
今まで彼を下に見ていた人間がその脆弱な体と虚弱な心ゆえに敗北していく様は、静観する藤沢にさらなる愉悦を与えたのだ。
その中でも稀に 「異端者」 が生まれることがある。
彼らは進化の過程で狂ってしまう。
大抵の者が見境無く暴れ、傷つけ、最悪の行為に走る。
それはあくまで少数にのみ生じる副作用のようなものだ。
にも関わらず、それが世間に露呈することがあれば、彼が崇める主は無粋な下々の者どもに生け捕られ、唯一無二の居場所である彼の宗教自体も断罪されてしまうだろう。
それだけは阻止しなければいけなかった。
幸いなことに、神の子はその「異端者」の存在を感じ取ることができた。
故に藤沢を含む従順な使徒たちは、彼の命を受けると指定の場所へと赴き適切な処理を施した。
主は「異端者」にすら慈悲深き恩恵を与えるために、彼らにその頭部の回収してくるよう命じた。
自らの肉体に生じた異変に神を呪って訴えようとした水商売の女がいた。
彼らはその女の自宅に迎い、わめく体を押さえつけると風呂場でその頭を刈った。
変化に伴う苦痛と混乱から自らの家族を殺めた愚鈍な男がいた。
それは藤沢の同僚だった。
彼らは男を殺害すると、殺人強盗を偽装する為に男を含めた全員の首を切断し家の中を荒らした。
最初に狂った麻薬中毒の青年は彼らが到着する前にその命を絶っていた。
藤沢は警察によって回収・検死された遺体の安置場所に忍び込み、頭部の奪取に成功した。
そして今、新たな 「異端者」 が生まれようとしている。
それはまたしても藤沢がつれてきた同僚の女だった。
気付いているのはまだ彼だけのようだ。
主に知られてしまえば、いくら敬虔な信者である彼といえども罰せられてしまうかもしれない。
怯えた藤沢は女を憑けて廻り、機会を見計らって殺してしまおうと思っていた。
しかしそれは突然現れた黒い男に遮られることとなる ――
*
目の前に知らない天井があった。
一瞬、どこなのか分からなかった。
起き上がろうと触れた革の感触で、ようやく自分が<傍観者>本部に来ていたことを思い出す。
“彼” に接触された後の記憶がない。
どうやら気を失ってしまった僕はソファーに寝かされていた。
運んでくれたのは柊木沢さんだろうか。
お礼を言わなければと心に留めていると、
「よお。やっとお目覚めか」
奥の部屋から柊木沢さん本人が出てきた。
その顔は眠そうで、それと同じくらい疲れて見えた。
「すいません、何か運んでいただいたみたいで」
「いいや。それにしてもお前って随分軽いのな」
呆れながら、柊木沢さんは持ってきたパイプ椅子を僕の前で広げ、背もたれの部分に抱きつく形で座った。
「お前さ、前にも言ってたけどアイツに意識乗っ取られてる間のことって何も憶えてないんだよな?」
「はい」
「―― 瑕奈に何をしたのか、もか?」
「何かしたんですか?」
「ああ、いや。お前が悪いわけじゃないのは分かってるんだけどさ」
柊木沢さんは困ったなあと項垂れる。
その様子を見るとやはり僕、いや “彼” が何かを仕出かしたことは明らかだった。
“彼” は何事においても容赦がない。
たとえ瑕奈ちゃんが僕の知人だと分かっていても、それは変わらないだろう。
だとすると、
「瑕奈ちゃんは大丈夫なんですか?」
「今は大分落ち着いたよ。とりあえず一人で家に帰れるくらいにはな」
「そうですか」
「でもまあ、そういうわけだから、あいつが変な態度取っても気にするなよ。あいつにも一応お前とアイツが違うことは説明したんだが、」
「いいですよ。別に」
前にもこんなことがあった。
中学最後の冬、よく僕に絡んできた同級生に金をせびられた事があった。
―― お前んちってお金持ちジャン?
バタフライナイフをちらつかせ、彼はそう言った。
僕が断り去ろうとする前に “彼” が表層に現れ、同級生からナイフを奪い取り、その精神を汚染した。
その一件は父によって完膚なきまでに鎮圧され、関係者には多額の慰謝料を払って口止めが成された。
しかしその後も噂は広がり、僕の周りからは芽衣子たちを除いた友達が消えていった。
「いずれは瑕奈ちゃんにも知られてしまう事だったわけですし、これでよかったんじゃないかと思います」
「…… 全然よくねーだろ」
柊木沢さんはため息を吐いた。
「でもそれもお前とあいつの問題だ。俺がとやかく言ったところでどうなるってもんでもねえしな」
それよりも、と柊木沢さんは壁時計を見上げた。
短針は九と十の間を指している。
「これって、まだ朝ってわけじゃないですよね」
「ああ。夜の九時半だ」
すると僕は十二時間以上も眠っていたことになる。
「それだけ疲れてたってことなんだろ。で、時間も時間だし申し訳ないんだが、お前が起きたら詳細を話しに来いって明ちゃんが」
「そうですね。僕も忘れないうちに話しておきたいですし」
僕は泥のような体を持ち上げる。
両足がとてつもなく重い。
夢の中での疲労が、現実にも反映されているかのようだった。
「…… そうですか 」
二ノ宮さんは呟く。
僕は彼女の自室に備え付けてある椅子に腰掛けている。
“彼” から譲り受けた藤沢という男の情報を話し終えると、二ノ宮さんは改めて僕に訊ねた。
「では例の一家殺害事件は、被害者の一人だと思われていた男性の犯行で、その宗教団体が彼の行いによって自らの正当性が揺るがされることを危惧したが為に、殺された……と」
「多分そういうことなんじゃないかと思います」
「それで、その教祖は何の目的で“異端者”と呼ばれる人物たちの頭部を収集していたのですか?」
「さあ。理由までは知らされていなかったみたいです」
「成程。」
二ノ宮さんは全てを書き留めると、分かりましたと頷いた。
「創世会については私の方で調べておきます。貴方もお疲れでしょうから、週末は休息をとってください」
「ありがとうございます」
僕は立ち上がった。
「―― もう一つだけ、」
ちょうどドアノブに手を掛けたところで引き止められる。
振り返るといつもなら相手の目を真っ直ぐに捉えて話す二ノ宮さんが、珍しく顔を背けていた。
そして、
「彼は …… 『終児』は、私のことについて何か言っていましたか?」
と、躊躇がちに聞いてきた。
「いいえ。以前、叶さんはどうしているかと言われたことはありますが」
「そう、ですか」
あなたも “彼” をご存知なんですかと僕が口に出す前に、
「呼び止めたりして申し訳ありませんでした。おやすみなさい」
と言われてしまったので、僕も同じように返して部屋を後にした。
*
その後の二日間は眠って過ごした。
ひたすら眠り、昼前に少しだけ起床してまた眠る。
護が買って来てくれた惣菜のおかげで、空腹を憶えることはなかった。
その間、何度かあの箱の夢を見たような気がした。
けれど触ろうと近付いていくところで唐突に目が覚めた。
左上の皹が徐々に大きくなっていることだけが気に掛かった。
週が明けて、僕はいつものように出勤した。
「やほー!また少し痩せたんじゃない?」
三七三さんは僕の顔を見るなり、羨ましいわねと抱きついてきた。
その腕の中に捕まっている僕を瑕奈ちゃんが遠巻きにじっと見ていた。
が、
「っひ、」
僕の視線に気付くと、すぐにどこかへと隠れてしまった。
三七三さんが僕の額に手を添える。
「…… ごめんなさいね。まだあなたの事が恐いみたい」
「三七三さんは恐くないんですか?」
「全然!って言いたいところだけど、まあちょっとはねぇ」
でもね、と三七三さんが微笑む。
「あたし、ドMだから大抵のことは快感になっちゃうのよねん」
「はあ」
ばちんとウインクを決められた。
僕と入れ替わるように柊木沢さんが休暇をとっていた。
十字製薬本社に潜入する前から疲れていたようだったので、良い機会だと思う。
それから数日、
瑕奈ちゃんは明らかに僕を避けている様子だった。
一度だけ謝るために近づくと、
「…… 別に先輩のせいじゃないってわかってますから」
と小さく呟いて、けれど目を合わせようとはしなかった。
「これは深刻ね」
そんな僕たちを見ていた三七三さんが腕を組む。
「何か状況を打破する切っ掛けが必要だわ。何か、何か非日常的なイベントが」
「やっぱり成り行きに任せるしかないんじゃないですか?」
「そんな悠長なことじゃ駄目よ!青春という限られた時間を欝で根暗な思想に費やしたくはないでしょう?」
「はあ」
ぶつぶつと何かを考え込んでいた三七三さんは突然、
「ひらめいたっ!」
と飛び上がって叫んだ。
そして三七三さんの思いつきは、その次の日に実行されることとなる。
*
「 お使いを頼みたいの。 」
僕と瑕奈ちゃんを招集した三七三さんは、並んで座る僕たちの前を指差した。
「ちょっと必要な資料があるから、それを新国立電脳図書館で借りてきてもらいたいの」
国立新電脳図書館とは五年前に杉並区にて設立された、世界最大級の図書館だった。
千代田区の国立国会図書館と違っていたのはその利用システムが電脳端末を介していること、日本国内の書籍は愚か世界中のありとあらゆる本が集められている点がある。
「そんなの、電脳網で探してくださいよう」
「もう探したわ。で、なかったの。だから頼んでいるの。お分かり?」
「あうう」
三七三さんの有無を言わさぬ口調に、瑕奈ちゃんが小さくなる。
そしてちらりとこっちを見て、慌てて視線を外した。
「で、でもそれなら私が一人で行ってきますから」
「バカ言ってるんじゃないわよ。あんたが一人で出かけたら迷子になるでしょうが」
「うっ」
「だーかーら!二人仲良くお手々繋いでいってらっしゃい!」
「ううー」
瑕奈ちゃんが涙目で唸った。
「……」
「……」
そして現在に至る。
僕と瑕奈ちゃんは微妙な距離を保ちつつ、荻窪駅周辺を歩いていた。
地図を持った僕の数歩後ろを瑕奈ちゃんがついてくる。
「ここから少し歩くみたいだよ」
「あ、はい」
「バスも出てるみたいだけど、それに乗る?」
「平気です」
必要最低限な会話だけが交わされていく。
三七三さんには申し訳なかったけれど、とても手を繋いで歩けるような雰囲気ではなかった。
「…… 先輩は、」
五分ほど無言で歩いていただろうか。
突然、瑕奈ちゃんが立ち止まる。
そして
「先輩は、恐くないんですか?」
震える声で訊ねられた。
「私は凄く、すごく恐かったです。先輩が、あ、先輩じゃなくてあの、“あの人”が近づいてきて私の中を覗きこんだ時、とても普通じゃいられなかった。もしも私の中にあんなものがいたとしたら、多分」
―― 死にたくなっちゃいますよ
瑕奈ちゃんはオレンジ色のパーカーの裾を握った。
「先輩は、平気なんですか?」
「…… どうなんだろう」
あまりよく考えたことがなかった。
僕が “彼” の存在に気付いたのは中学に入って間もない頃。
家の洗面台で顔を洗っているときだった。
水に映った自分がゆらゆらと変わり、知らない誰かがそこにいた。
背後を見回しても誰もいない。
『 よお ―― どうやらお前とは波長が合うみたいだな 』
脳に直接聞こえてきた声に、僕は目の前の存在が一般的常識からかけ離れていることを覚った。
『 まあ俺にはお前しかいない。そういうわけで、たまに体を貸してもらうことになるぞ 』
一方的に告げられて、僕たちの奇妙な関係が始まった。
「“彼”が僕自身に危害を加えることはないんだ。だから、時々意識がなくなったり、ちょっと体が疲れたりする以外は不便には思わないかな」
「でも、周りの人に迷惑がかかるじゃないですか。それって必然的に先輩にも、」
「そうだね。それで友達がいなくなったりしたことはあったな」
気味が悪いと囁かれたり、後ろ指を差されたり。
芽衣子や護や鷹巳がそれに気付いていなかったわけがない。
それでも彼らが僕の元から離れていかなかったのは何故なのだろう。
「それじゃあ ―― いいことなんか、何もないじゃないですか」
瑕奈ちゃんが拳を握り締める。
「体を勝手に使われて、意識を乗っ取られて、ぼろぼろに疲れて、その上友達もなくして …… そんなの」
―― 先輩が可哀想です
「瑕奈ちゃん」
「ふぐっ、だ、だって可哀想ですもん!そんな、そんな意地悪ですよ!」
大粒の涙をはらはらと零しながら、瑕奈ちゃんがしゃくりあげる。
たまたま通りかかった散歩中の老人が僕のことをじろりと睨みつけた。
「あ、ごごめんなさい!別に先輩に泣かされたわけじゃないのに!」
それに気がついた瑕奈ちゃんがパーカーの袖で顔を擦った。
「瑕奈ちゃん」
「は、はい?」
「ありがとう」
「へ?な何で、ですか?」
「何でだろう」
「はぁ ……」
つい口から出ていた。
本当は泣いて謝るべきは僕なのだろう。
けれど、どんなに頑張っても僕の目からは涙が出なかった。
「代わりに泣いてくれたから、かな」
「よくわかんないですけど ……」
首を捻っていた瑕奈ちゃんは、しかし急に真剣な顔つきになった。
「ほんとに私、よく分からないですけど決めました」
そう言うと、それまで保っていた距離を徐々に縮め、僕の隣に立った。
「私は先輩を嫌いになりません。“あの人”のことは今も恐いですけど、だからって先輩を恐いと思うことはやめにします。先輩は私と一緒に人生ゲームをやってくれた人です。先輩は ―― 優しい人、です」
そして、えへへと恥ずかしそうに笑った。
「瑕奈ちゃん」
「はい」
「こういう場合、仲直りのしるしに手を繋いだほうがいいのかな」
「それは小学生みたいなんで遠慮したいです。けど、握手ならいいと思います」
「そうだね」
僕と瑕奈ちゃんはお互いの手を短く握った。
「でも瑕奈ちゃんなら頑張れば小学生に見えないこともないよ」
「…… それは言わなくても良かったです」
栗毛の頭ががっくりと項垂れた。
*
新国立電脳図書館の外観は写真で見るよりもずっと大きく見えた。
そして、
「わあっ!すごい綺麗です!」
内部に入った瑕奈ちゃんが、そこが図書館であることも忘れて叫ぶ。
正面玄関は旧大英博物館図書館をイメージして造られていた。
高く天井まで聳えた木製の書棚には隙間なく古書が並べられ、味わいのあるオークの床と相俟ってノスタルジックな雰囲気を醸しだしている。
入り口に立った警備員のわざとらしい咳に、瑕奈ちゃんは慌ててその場を離れた。
ここでは本格的に検索・閲覧を開始する前に、名前等の個人情報を登録する必要がある。
僕は自分の本名を入力して、司書の女性からバーコードリーダーと記録用USB端末を借り、説明を受ける。
「まずは貸し出したい本を電脳で検索するか、ご自分の足でお探しください。見つかったら電脳で検索した場合、そのままUSBを差込み情報を取り込んでください。借りたい本自体を見つけた場合は一度背表紙に貼ってあるバーコードを読み取った後、バーコードリーダーを電脳に接続しUSBにダウンロードしてください」
本は特別閲覧室に置いてあるもの以外は館内で自由に手にとって閲覧できること、
USBの貸し出し期間は二週間、記録されている情報は自宅の電脳に接続することで閲覧することができるが情報を所有することはできないこと、そしてUSBを不正改造して情報を保持しようとした場合や紛失した際は警察に連絡が及ぶことを聞かされた。
「こ、こんなに小さな物、私だったら絶対失くしちゃいますよ」
「USBにはGPS機能もついておりますので、一度ご連絡さえいただければ大抵の場合見つけることができますよ」
うろたえる瑕奈ちゃんを見て、司書の女性はくすくすと笑った。
「とりあえず、三七三さんに頼まれた本は後で電脳検索するとして、」
瑕奈ちゃんは興味深そうに辺りを見回していた。
「私、実は図書館て初めて来たんですよ。ちょっと色々見たいんですけど、いいですか?」
「別に構わないよ」
「えへへー」
瑕奈はひょこひょこと本棚のほうへと行ってしまった。
「さて、と」
そんな彼女の背中を見送りながら、僕は電脳で検索を開始することにした。
三七三さんが必要としていた本は十冊。
どれもが細胞学や染色体についての現代的見解など、生物学的なものが多かった。
三十分もするとそれら全ての書籍を入手することができた。
「意外と早く済んだな」
僕は軽く肩を叩くと、瑕奈ちゃんを探すために立ち上がった。
世界最大級と自負するだけあって、一般的の図書館の何倍も広かった。
本棚と本棚の間を縫うように歩いて瑕奈ちゃんの姿を探す。
途中、世界史などの歴史を扱っているセクションで、ふと足を止めた。
そこには車椅子の少年がいた。
品のよい柄のセーターとコーデュロイのズボンをはいた少年は、彼が手を伸ばしても届かないであろう高さの本をじっと見つめている。
「あの、とりましょうか?」
反応はなかった。
しばらく待って、もしかすると聞こえなかったのかもしれないともう一度声を掛けようとすると
「大丈夫です」
少年は僕へ、柔らかく微笑んだ。
「もう読み終わりましたから」
「え?」
「暗記しているんです、全部」
少年は車椅子を動かして僕の前にやって来る。
「それはあの本の内容を、ということですか?」
「はい。正確にはあの本だけじゃなく、この図書館にある全部の本ですけど」
「そうなんですか」
納得した僕に少年は意外そうな顔をした。
「随分あっさり信じてくれるんですね」
「別に嘘を吐く理由なんてないと思ったから」
「理由なんてなくても、人は嘘を吐くものですよ」
「じゃあ嘘だったんですか?」
「いいえ」
証明してみせましょう、と少年は僕に何でもいいから本をとるように促した。
僕は後ろを振り返る。
歴史書に雑じって、何故か村上春樹の<スプートニクの恋人>が置かれていた。
目についたそれを棚から抜き取った。
「じゃあ、適当なページ数と行数を言ってください」
言われたとおり、僕はパラパラとそれを捲った。
たまたま開いた箇所に変わった女性の名前があった。
「188ページ、14行目」
少年は目を閉じる。
そして、
「“ミュウはオレンジをむき終えると、ナイフの刃をナプキンでていねいに拭いた。「ところであなたはすみれのご両親に会ったことはある?」”」
すらすらと暗唱してみせた。
「このミュウっていうのは彼女の名前なんだろうか」
「司書としては、読む前に答えを教えるような無粋な真似はしたくないですね」
「“司書”?」
「ええ、僕はここの司書をしております。梧桐 志記です。どうぞよろしく」
「よろしく」
僕は瑕奈ちゃんよりも細い手を握った。
「ちなみに僕、いくつくらいに見えます?」
「中学生くらいかな、と」
「そうですか」
梧桐さんは苦笑した。
「まあ正確に言えば僕は普通の司書とは少し違うんですけどね」
「そうなんですか」
「ええ。僕の仕事はここにある本を全て記録してしまうことなんです」
そう言って、梧桐さんはどこまでも続く本の列を眺めた。
「記録し、記憶し、想い留める事 ―― それが僕に課された唯一の仕事ですから」
それが一体誰によって命じられたことなのか。
何故か僕はそれを聞くことができなかった。
「じゃあ、もしも本がなくなってしまったり、この図書館が燃えてしまったりしても、梧桐さんがいれば安心ですね」
かわりに呟いた言葉に、梧桐さんは呆気にとられた表情になった。
が、それも束の間
「…… あなたって意外と大胆なことをいうんですね」
「そうでしょうか」
上から下までまじまじと眺められた。
「ああ、先輩!いたいた!」
どたどたと大きな足音を立てて、瑕奈ちゃんが走ってきた。
「図書館では走らないでくださいね」
「はひぃ、すいません……」
梧桐さんに注意された瑕奈ちゃんはしかし彼の姿を見ると、ん?と首を傾げた。
「先輩のお知り合いですか?」
「うん。今、知り合ったところ」
「こんにちは」
「は、はい!こんにちは」
瑕奈ちゃんが勢いをつけて頭を下げる。
「では、出会ったばかりで残念なのですが、僕はもう行きますね」
梧桐さんは腕時計を見ると、そう告げた。
「また本を借りにいらしたときは是非お声をかけてください。僕はいつでもいますから」
「はい。必ず」
「では」
車椅子のボタンを押すと、彼は絨毯の床を滑るように消えて行った。
*
梧桐さんと別れてから、僕たちも図書館を後にした。
「さっきの子、“いつもいる”って言ってましたね。小学生なのに真面目ですねー」
私とは大違いです、と瑕奈ちゃんが感心する。
「そうだね」
僕は梧桐さんが司書であること、どうやらあの膨大な数の書籍を全て暗記しているらしいことを伝えようか迷って、結局やめることにした。
特に理由もなかったけれど、質問を返されると面倒だった。
しかし思えば僕は確かに彼の言っていたことを鵜呑みにしすぎているのかもしれない。
「このUSB、返却は二週間後の水曜日ですね」
「そうだね」
と同意しつつ、僕は瑕奈ちゃんが放った言葉のどこかが気になっていた。
…… 水曜日?
「あ。」
思い出した。
水曜日は ―― 今日は、僕が父に家へ帰ると約束させられた日だ。
「どうしたんですか、先輩」
「ごめん瑕奈ちゃん。実は今日、実家に帰らなきゃいけないんだ」
「え、お家に何かあったんですか?」
「いやそういうわけじゃないんだけど、妹が会いたがっててね」
「妹さんがいるんですか!」
初耳です、と瑕奈ちゃんが顔を近づけてきた。
「妹さん、可愛いですか?」
「うん。そうだね。可愛いと思うよ」
「そうですか!」
瑕奈ちゃんはなんだか嬉しそうだった。
「じゃあ、このUSBは私が責任もって三七三さんにお届けしますねっ!」
結局調べてくれたのは全部先輩ですけど、と瑕奈ちゃんが舌を出す。
「ごめんね。一人で帰れるよね?」
「なっ!当たり前です!私だってもう十六歳ですよ?」
瑕奈ちゃんは赤い顔で抗議すると、
「じゃ、また明日です!」
手を振って、下校帰りの学生が賑わう大通りを駆け抜けて行った。
「さて、」
実家に帰るなら、一度家に着替えを取りに戻らなければならない。
「お土産とか買っていったほうがいいのかな」
僕はケーキの箱を大事そうに抱える子供を見て、ふと思った。
―― 箱、か
“彼” は 今は開けないほうがいい、と言っていた。
それは同時にいつか開けなければいけない時がくることを示唆している。
僕が、箱を開けるとき。
そのときが来たら僕もパンドラのように 後悔 することになるのだろうか ――
** *
外はすっかり暗くなっている。
閉館時間は三十分前に過ぎていた。
帰り支度をする司書たちのお喋りも小さくなっていき、図書館には僕だけが残される。
僕には帰るべき場所がない。
この図書館こそが僕の家であり ―― 僕のための 牢獄 でもあった。
特別閲覧室の奥に、僕の部屋はあった。
誰もいない図書館は足元の非常灯に照らされている場所以外、暗闇に包まれている。
見る人が見れば恐いといって泣き出しそうな光景ではあったが、僕にとってこの闇の中にいるときが一日のうちで一番安らげる時間だった。
閲覧室の施錠を解く。
すぐ横にはこの図書館の名物となりつつある、巨大ステンドグラスがあった。
それは外の街灯を浴びて絨毯に色とりどりの模様を描いていた。
外の世界。
僕が窓の向こう側にしか眺めることが許されない、遠い場所。
「 ―― それはお前の思い込みだろう 」
僕を見透かすように響く声。
ステンドグラスの前に長い影が伸びている。
さっきまでは確かに僕だけだったはず ――
「ああ、貴女でしたか」
混乱しかけた頭が冴えていく。
“彼女” ならば、入り口のないこの場所に突然現れても不思議ではなかった。
黒々と伸びた髪。
それは “彼女” の脹脛まで伸び、まるで外套のよう。
漆黒のセーラー服に赤いスカーフだけが鮮やかに浮かび上がる。
美しいと形容するにはあまりにも整いすぎて恐ろしさすら感じさせる美貌。
「何か、僕に御用ですか?」
そんなある種の芸術品のような “彼女” に問いかける。
「閉館時間はとっくに過ぎているんですけどね」
「 お前、 あいつ に会っただろう 」
そう言って、“彼女” は 持ち合わせていた林檎を齧った。
あいつ、とは誰の事を指しているのだろう。
「 とぼけるな。お前は確かに あいつ に会って、言葉も交わしていたぞ 」
今日一日を振り返る。
朝、司書たちに挨拶をして、歴史書を上の段から下の段まで読み返して、それから、そして ――
「あの少年、ですか?」
<スプートニクの恋人>を選んだ彼。
僕が告げた全てをいとも簡単に信じて疑わなかった少年。
そうかと思えば突然とんでもない事を言い出したりして、と確かに面白いとは思ったものの
まさか、彼が ――
「 面白かったのか、 あいつ は 」
“彼女” は手の中にある林檎をしゃくしゃくと咀嚼していく。
林檎、というのはまさしく “彼女” に相応しい。
永遠の園で、イブ が アダム に食べさせた禁断の果実。
「 それは 私への当てつけのつもりか 」
突き刺さる氷の視線。
途端に呼吸が苦しくなり、僕はセーターの胸元を掴んだ。
「 ―― まあ、いい 」
本当のことだからな。
そう言って “彼女” は虫を払うように手を振った。
胸の高まりは収まり、僕の呼吸は正常へと戻る。
「 だが、私もいつまでも膠着状態を続けているわけではない 」
そろそろ動くぞ、と “彼女” は僕を見た。
「 私だけではない。 あいつ も 奴 も、そして ―― 世界 も、 だ 」
最後に “彼女” は林檎の芯を口の中に放り込んで、バリバリと噛み砕いた。
…… それも実に “彼女” らしい。
< 始まり の 終わり > ―― 凡ての根源たる、この 『 始津子 』 には 。