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覚醒都市  作者: ムクイ
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02. < 新米刑事、浦美澤 光喜(うらみさわ こうき)の受難 >


02.< 新米刑事、浦美澤うらみさわ 光喜こうきの受難 >





基本的に朝は好きな方だ。


低血圧なんかとは縁のない俺は目覚めも寝起きも爽やかで、どんなに飲んでも次の日はかならず九時前に起きることを心がけていた。

それ以上寝てしまうと、どうも体の調子が悪くなる。

だから二日酔いにくじけそうになる日も牛乳をパックから一気飲みし、体中に渇を入れて出掛けるのがこの仕事についてからの日課だった。

ああ、今日も新しい一日が始まる ……。

昇り始めた白き朝日が俺の瞳に眩しいぜ!

ジャケットを小意気に肩に掛け、警視庁捜査一課 警部補である俺、こと浦美澤 光喜は愛車のロータスエリーゼに乗り込んで、今日も颯爽と事件解決に乗り出すのであった!



…… と、まあ朝から自分で自分を演出する痛々しいオレ。


何故こんな何の特にもならない、むしろ傷が増えるばかりの行為に身を投じているのかというと、見事に通勤ラッシュの渋滞に巻き込まれ、それ以外にやることがないからである。

確かに朝は好きだった。

まだ冷たさを残すアスファルトにさんさんと降り注ぐ日光 … は、もうここ何年もお目にかかっていない。早朝の何ともいえないキリっとした空気、にも縁が無い。

何たってここはコンクリートジャングル・東京なのだ。

まあそういうのは置いといて、だ。

そんな朝からフルスロットルなオレも、延々と続く車の列と目覚めた時に飛び込んでくる女の顔だけは苦手だった。

昨日の晩に肌を触れ合わせた女とモーニングコーヒー、なんていうのはオレの趣味じゃない。

できることなら行為が終わったらすぐに帰って欲しいときもある。

ぶっちゃけ毎回そう思っていた。

男として最低の発言だとは分かってはいるんだが、オレは自分の欲望に正直なんだとか言ってみる。


「…… 何つって」


かれこれ四十分近くも停滞が続いている道路。

拡張した意味があるのかってくらい車の流れに変動がない。

心の広さは太平洋を自負していたさすがのオレも、そろそろ限界なようだ。

「しょうがない、か」

助手席に転がっている赤い簡易設置型回転灯つまりパトカーについてるアレねを手に取ると、窓から腕を伸ばし、それをルーフ部分に取り付ける。

そして内蔵してあるボタンを押して、軽快、とは言いがたいサイレン音を鳴らした。

ついでなので無線機兼拡声器を手にすると

「通勤中の皆様、大変申し訳ないのですが道をお開け下さい。緊急の要請がありました」

なるべく重々しく、かつ感じのよさを前面に押し出した声で宣言する。

すると、前方の車がしょうがねえなあという風に道を開けるために動き出す。

まあ動かないなら動かないで、

「そこの車、道を開けなさい」

なんてお決まりの牽制を現実に実演してみせる楽しみもあるのだが。


そんなオレを、フロントミラーに吊るした都警察のマスコット・ぴぽぱ君が非難するように見ている。

なんだか急に後ろめたくなった。

「おいおいベイビー、そんな顔するなよ」

切羽詰った事件ではなかったにせよ、要請があったのは本当なのだ。

「現場検証は時間との戦いってなんかのテレビドラマでも言ってただろ?」

…… 誰に言い訳をしてるんだろうか、オレは。


とりあえず、ぴぽぱ君は今日も変わらない笑顔を周囲に振りまいていた。





本庁に着く頃には既に九時を回っていた。

予想以上のタイムロス。

やはり日本の渋滞を舐めてはいけない。

ふと思い出したように携帯を取り出して、例の番号へとかけてみた。

発信音が鳴ることはなく「電波の届かないところにあるか、電源を〜」の虚しいアナウンスが耳元で告げられる。


…… あのオッサン、また充電しないまま放置してるな


昔読んだ洋書に出てくる悪魔が、もっともらしい顔で

『渋滞と携帯電話は我々が生み出した最良の地獄だ』

なんて言っていた。

オレはその言葉に少なからず同意せずにはいられなかった。


受付で軽く手を挙げると、座っていた女の子(×二人)が同時に露骨な反応を見せた。

左側にいた髪の長い女の子はこっちが見ていて恥ずかしいくらいに顔を真っ赤にして、口の中だけでおはようございますと呟いた。

対して右側の女子は今風の化粧を施した顔で、挑発的な表情を形作っている。

確か前者がミユキちゃんで、後者がアユミちゃんだったような気がする。

二人とも同じ週のうちに寝たからか、記憶があやふやだった。

ただ、いつもは大人しいミユキ(アユミ?)ちゃんがベッドの中では随分と大胆で、対照的にアユミ(ミユキ?)ちゃんは情事の最中、何故かずっと泣いていた事だけは憶えている。

どちらもその後の付き合いは今のところない。

同じ職場に勤めているので必然的にほぼ毎日顔を合わせているが、そこはオレ、何とか笑顔で誤魔化している。

ほかにもエレベーターで一緒になった交通課のノリちゃんに軽く迫られ、三階から同乗してきた交通安全部の知らないお姉さまに蟲惑的な視線で熱く見つめられたりもした。

お年頃になってからのオレは、この手の相手に困ることがなかった。

そう言うと随分自信があるように聞こえるだろうが(まあ自信がなかったわけでもないんだけど)、彼女たちも警視総監の祖父と国会議員の父を持つ将来有望なオレに体以上のメリットを期待しているんだろう。

ま、その点は割り切っているのであまり気にはしていない。

何にせよ、携帯のメモリーに電話一本でいつでも駆けつけてくれる女の子の名前が幾つもあるのは、こちらとしても都合がよかった。


逆にオレには同性の友達が少なかった。

高校時代にはそれなりにいたんだが、警察学校に入る頃にはすっかり上辺だけ調子の良いコバンザメみたいな奴らに囲まれていた。

それも無理はなかったと思う。

あそこでは誰もがオレを「総監の孫」としてみていたし、実際にオレもそれをかなり全面的に押し出しているところがあった。

教官にすらおべっかを使われるような環境で、オレはじくじくと腐っていった。

まともに講習を受けなかったにも関わらず、本庁の捜査一課に新任警部補として派遣されることが決まった時の周りの視線の冷たさったらない。

確かに七光りで得たものだったけれど、それだってオレが頼んでもいないのに祖父さんが四方八方に根回しをした結果だ。

あの人は自身のメンツを守りたかっただけで、孫の意見なんかどうでもいいと思っていたんだろう。

兎にも角にも異例中の異例の昇進で本庁に就職することとなったオレは、何事にも期待していなかった。

どうせこのままあらゆる場所で「総監の孫」として腫れ物を触るように扱われ、何もしていないのにあれよあれよと上へと押し上げられ、ジジイになるころにはそれなりの地位まで辿り着いているのだろう、と。



だから就任第一日目で出会ったあのオッサンの衝撃は本気で凄まじいものだった。


忘れもしない記憶の一ページ。

ただの平警部補のオレをわざわざどっかのお偉いさんが出迎えに来たあの日、オレはやっぱりここでも状況は変わらないのか、と多少嘆いたりもしていた。

来賓のように捜査一課本部まで案内され、オレを直接面倒見る立場の人間を紹介されることになった。


それが例のオッサン、こと 柴多しばた 行成ゆきなり 警部である。


初めの印象は、

「オレの目の前にスーツを着た浮浪者が立っている。」

という感じだった。

何かの冗談かと思うほど、ミスマッチな人物だった。

鬼のような忙しさで知られる本庁捜査一課ではあるが、あくせくと働いていた彼らは身なりも小奇麗で、どこか洗練された匂いがしていた。

にも関わらず、である。

下につくように命じられた人物は、シャツは縒れて黄ばみが目立ち、髭は伸び放題、フケの積もり方は粉雪のよう、とまるで汚らしい。

無言で自分のデスクまで付いてくるように指示され、オレは仕方なくその後についていった。

オレが心の中で早くも祖父さんに担当を替えて貰う算段をつけていたことはいうまでもない。

そしてそんなオレに待ち受けていた最初の試練は、

「ここ、整理してくんない?」

彼のデスクの片付けであった。


正直に言おう。

オレは絶句した。

その惨状といったら、ニートの独身男だってこんなに酷くなるまで放置しないだろうっていうくらいの有様。

カップ麺が中身を残したまま緑色のふさふさと異臭を放ち、一体いつから置いてあるのか紙の山は既に富士山級、そして誰に貰ったのであろう観光地のみやげ物がところどころに埃まみれのまま放置されていた。

…… これをオレにどうしろ、と。

「いやな、どうしても見つからない書類の束があってよ。それの提出期限がおとといだったもんで課長にせっつかれてるんだが、俺に言わせりゃ見つからないもんはしょうがないから諦めろって話だ」

なあ?と、何故か同意を求められた。

「…… じゃあ、一から片付けてみればいいじゃないですか」

そんな控えめなオレの指摘を

「俺は片付けられない男なのだ」

自信満々に胸を張り、まあとりあえず頑張ってみてくれや、と自分はさっさとどこかへと行ってしまったのだ。


後々になって誰かから聞いたのだが、柴多という男は捜査一課でもちょっとした問題刑事なのだそうだ。

奔放でいい加減な性格から、下に付く人間が一週間と持たずに悲鳴を上げることでも有名らしい。

しかしその一方で思いもよらない行動や発言が事件解決に繋がることもあり、そこそこ実績もあったので上層部からはオレとは違った意味で扱いを悩まれている存在でもあった。

デスクの整頓から始まったオレと柴多さんの関係は、どういうわけか今でも続いている。

ためしに会話の端々に祖父さんの名前や存在を織り交ぜてみたのだが、状況は一向に改善することはなく、オレは相変わらず彼の助手、というかパシリ的な役割を担っていた。

しかし学んだことがなかったわけでもない。

柴多さんは確かに優秀だった。

三十年弱というキャリアの中で取り逃がした犯人ホシは両手で数えられるほど、というのも納得できる。

捜査一課に就任して早半年、オレはいつの間にかこの仕事に密かな充実感を得ていた。

何よりも、オレを「総監の孫」として見ない柴多さんはなんだか新鮮で、オレはこの柴多 行成という人間に少なからず興味を抱いていたのだった。



「そんなハートフルかつビューティフォーな回想をしたところで何なんですが、」


柴多さんのデスク前に到着した俺は、先週片付けたばかりの机上に真新しい腐海の森が築かれている様を見て、微かな殺意を覚えた。

当の本人といえば週刊誌をアイマスク代わりに、椅子の上でふんぞり返って惰眠を貪っている。

オレは遠慮を捨てることに決めた。

「ちょっと!柴多さん、起きて下さい!事件ですよ、事件!じーけーんっ!」

ばしばしとデスクを叩くと、積みに積まれた書類が傾れを起こし柴多さんを直撃した。

「ふがっ」

週刊誌は巨乳アイドルのグラビアページを開けたまま床に落下。

寝ぼけ眼の上司の顔が露わになる。

「…… ふんが?」

「なんすかそのフランケンみたいな奇声は」

「腐乱犬?」

「怪物くんですよ、ってもうそれはどうでもいいですから!事件なんですってば!」

「おお、そうだった。お前を待っていたんだ」

そう言いつつ立ち上がると、何日も洗っていないであろう頭髪をぼりぼりと掻き毟った。

年頃の女の子が見たら確実に男性不信になりそうな光景だった。

「また首なしが出たんだってな」

「その言い方だとなんか妖怪の名前みたいですけどね。そうですよ、現場は江戸川区ですけど行きますよね?」

「当たり前だ。そのためにここでお前を待ってたんだからな」

「…… ていうか、知ってたんなら先に行って携帯で連絡してくれればよかったものを」

「お前も知っての通り、俺は運転ができない。そして携帯はこの山のどこかで絶賛遭難中だ」

「威張らないで下さい」

「おう」

この状況のどうしようもなさに呆れつつも、オレと柴多さんは連れ立って現場へと向かうことにした。





江戸川区にある住宅地。

比較的裕福な家庭が多いのか、どの家にも綺麗に剪定された庭が在り、外車が停まっている。

その一角、どこにでもありそうな角家が今回の事件の現場だった。

近くの駐車場に車を預け、五百メートルほどを徒歩で移動する。


「あ、見えてきましたよ」


それまでの閑散とした住宅街が嘘のような賑わい。

現場周辺だけ、遠目でも分かるくらいの人で溢れかえっていた。

「ほら、もうこんな人だかりができてますよー」

報道関係者が様々な機材を持って黄色い封鎖テープぎりぎりまで近寄り、押し合うように声を張り上げている。

その後ろに近隣の住人たちの姿もちらほらと見受けられた。

表情には深刻さよりもお祭り騒ぎを楽しむような色が濃い。まあ無理もない話だが、テレビに映りたいがためにわざとうろつく行為はどうかと思ってしまう。

件の家は半分ほどを大きな青いビニールシートで覆われている。

七時のニュースではまだむき出しのままだったことを考えると、マスコミ対策なのだろう。

「完全に出遅れた感じっすね。あ、ていうかあれって遺体じゃないっすか!」

人影の隙間から黒っぽい何かが運び出されていく。

大きさと形状、そして数も五つと被害者の数と一致している。

「やばいっすね。もう少し余裕あるかと思ったんですけど」

「何だお前、死体が見たかったのか?」

「できることなら見たくないですけど、やっぱり現場は発見された状態を確認しておかないと」

「お、言うじゃねえか」

俺の教えが良いからな、と無駄に笑顔な柴多さん。

そんなの常識の範疇でしょうがという言葉を飲み込んで、オレは人の波を掻き分けて前に進んだ。

「すみませーん、警察です。退いて下さい、ていうかもっと下がって!」

オレが半ば必死でマスコミを押さえつける後ろから、柴多さんが暢気な調子で続いた。

この人のこういう余裕加減は是非とも見習いたいものだった。

「露払い、ご苦労」

ぜえぜえと息を切らしたオレの肩を労うように叩くと、自分だけさっさと家の中へと入っていってしまった。

慌てて追いかけるオレはさぞかし間抜けなことだろう。

そんな見っとも無い醜態が全国ネットで放送されないよう、オレは心の中で密かに祈った。



家の中には既に何人かの鑑識官と、見知った一課の刑事の姿もあった。

どうやらこの件を担当しているのはオレたちだけではないらしい。

先行した柴多さんがそんな一人に何かを話しかけている。相手の顔が明らかに迷惑そうに歪められているのに、この人は気付いているのだろうか。

しばらくして、オレたち以外の一課の人間は踵を返し撤退して行った。

すれ違う途中で一応頭を下げてはみたものの、真っ向から無視された。

捜査一課の中でオレは既に柴多さんと同じ厄介者として見られているようだった。前途多難である。

「…… 何か感じ悪かったすね」

「そうか?いつもどおりじゃないか?」

それが問題なんですよ、と言いかけたオレは改めて状況を見渡し、口を噤んだ。


徹底的に蹂躙された室内。

破砕と破壊を尽くされ、まるで廃墟のような有様だった。

冷静に考えてみると、オレが今立っているこの場所で五人の人間が殺されているのだ。

所々にこびり付いている凝固した黒い血のせいか、篭もった死の臭いさえ嗅ぎ取れる気がした。


「何ボーっとしてるんだ?色々見ておかないと、って言ってたのは自分だろ?」


不思議そうなその声で現実へと引き戻される。

両手に白い手袋をはめて指紋対策も万全な柴多さんは、部屋の様々な物を手にとって眺めていた。

それに倣うようにオレも部屋の検察を試みる。が、どうも集中できなかった。

「柴多さんは、こういうのって平気なんですか?」

「こういうのっ、て言われてもなぁ。まあ初めは俺もそれなりにビビッてたよ。でもまあもう慣れたな」

そう言って、へらへらと笑った。

俺も慣れる日が来るのだろうか?何だか想像したくなかった。

一瞬脱力しそうになるも、柴多さんの表情を視界に収めることで体の重心を取り戻す。


「それまではとにかく何でもいいから視ろ。全てを視て、目に心に記憶に留めろ。惨殺死体だろうがバラバラ死体だろうが、しっかりと何もかも視納めろ。それが仏さんに対する供養にも繋がるからな」


…… この人は。

「柴多さんって」

「あん?」

「本当に、たまーに、良い事言いますよね」

「そうだろ?分かったら俺を崇めろ!心の師と呼んでくれてもかまわないぞ」

わははと場違いな声を上げて笑ったので、鑑識さん数名からじとりとした視線を投げかけられた。

せっかく漂っていた良い雰囲気が台無しだった。


「で、この状況 …… どう思います?」

気を取り直し、捜査一課の端くれとして改めて先輩に問いかける。


「こんなに綿密な破壊行為、どう考えても一人の犯行だとは思えませんよね?ということは、殺人を担当した人間が一人、家中を荒らしまわった奴らが最低でも三人。まだ鑑識からの公式な発表はないですけど、足跡も数人分発見されたそうじゃないですか。ということはこの事件、例の首なし殺人に関連があると見せかけて行われた強盗殺人!って感じでどうでしょう」


「いや、そりゃないな」

完璧に否定された。

結構自信のある推理だっただけにオレはちょっと、いや大分凹んだ。

そんなオレのブロークンハートを気にする素振りもみせない柴多さんは、先程から何を気にしているのかリビングの中をうろうろと動き回っていた。

そして急にぴたりと止まる。

「さっきあいつらに聞いたんだけどな、」

「はい?ああ、寺島さん達にですか?」

そういえば彼らのひとりがそういう名前だったことを今ごろになって思い出した。

「通報してきたのはこの家の妻らしい。時刻は午前四時ごろ。最初、妻は電話で『夫が、夫が』を連呼したんだそうだ」

「何かと思えばそんなことを聞き出していたんですか?」

いずれは公式発表される情報、しかも同じ課に属しているにも関わらず、一課の人間には自分が握った情報を保守する傾向がある。

しかし、しつこく聞き出そうとする柴多さんの姿勢に負けて、情報の一部を漏らしてしまったのだろう。

げんなりとした面持ちの寺島さんたちを思い出し、オレは少し同情しそうになった。

「まあ聞け、電話越しのオペレーターは錯乱していた妻を落ち着かせようと声をかけた。しばらく悲鳴だか絶叫だかが続いて、今度は夫が電話に出た。その夫は夫婦喧嘩がエスカレートして申し訳ないと平謝りで電話を切ったそうだ。不審に思ったオペレーターが近所に駐在していた警官を向かわせると、」

「一家全員首なし死体、だったわけですか」

「変だと思わないか?」

柴多さんが含みを持たせるように呟いた。

確かに変、というか不自然なのかもしれない。

けれど、

「その電話に出た夫っていうのが犯人だったっていうオチだったら解決するんじゃないですか?」

「じゃあ最初の『夫が、』つうのは何だよ?」

「それは、その …… 旦那さんが殺されて錯乱していた、とか?」

「まあそうかもしれんが、普通旦那を殺すような奴が家に侵入してきたら、まず助けを求めるだろうが」

「だから錯乱してたんですって」

と言いつつも、オレはだんだんとその矛盾に引き込まれていく。


もしも、だ。

仮にオレの家に強盗殺人犯が入ってきたとする。

で、目の前で親父だかお袋を殺される。逃げながらもオレは通報するために受話器をとる。

そして110番が繋がったなら、オレは真っ先状況を説明し、助けを求めるだろう。


「…… 確かに、『夫が、夫が』はないと思いますね」

「わからんぞ?ご乱心だったかもしれん」

「茶化さないで下さいよ。だとしたら、その夫が事件と何か関係あったのかもしれませんね。犯人は夫の知り合いだった、とか」

「案外 ―― 夫が犯人だった、とか …… な」

「はあ?」


じゃあ夫は誰に殺され首を切り落とされたんですか?と反論しようとしたオレの全行動が停止する。


その視線は玄関口にロックオン。


凝視する先に現れたのは一人の女性。

否、一人のとんでもなく美しい女性、だった。



ああ。

この気持ちをどう説明したらいいのだろう?

今までオレは愛や恋といったものを妄想だと一蹴し、決して信じようとはせず、女性とは体の繋がりのみを求めて交際してきた。

それが当たり前だと思っていた。

だって考えてもみろよ?愛だの恋だの、そんな不確かな感情をどうやって信じられる?

それならいっそ全てを割り切って考えてしまえばいい。愛や恋に酔っ払いたいなら他でやってくれ。

オレには必要無い。

そう思い込んでいた。


でも今、たった今わかった。


オレは愛も恋もただ知らなかっただけなのだ。


目の前の女性、名前も知らないこの女性。

この人こそがオレに愛を教えてくれる存在なのだっ……!



まるで天から舞い降りた天使のように軽い足取りで近づいてくるオレの運命のひと

セミロングの茶髪を華麗に耳に掛け、少し濡れた黒目の大きな瞳はまっすぐにこちらへと向けられている。

そしてオレの目の前に立つと、熟した林檎のように艶めく赤い唇を品良く綻ばせ、


「わたくし、警視庁特別捜査室から派遣されてきました。緋咲あかさき けいと申します」


そう言って、柴多さんに微笑みかけた。

ああ、それは永久凍土の氷をも溶かす魅惑のスマイル……!

名刺を取り出し柴多さんに渡すその白い手はさしずめ平和を運ぶ白い鳩!

って …… ん?

「柴多刑事の噂はお聞きしておりました。以前から一度お会いできればと思っていました」

んんっ?

ちょ、ちょっと待ってください?

「緋咲……。聞いたことある名前だな。確か、ハーバード出の凄腕が特捜にいるとかっていう話だったが」

「まあ、私ごとき若輩の名を記憶に留めていただけるなんて、ますます光栄ですわ」


…… オレ、アウト・オブ・眼中。


「ん、ああ忘れてた。こっちは浦美澤 光喜。新米のほやほやだが俺の部下だ」

忘れていたというくだりが非常にアレだったが、この際気になんてしない!

ありがとう柴多さんっ!今日だけなら心の師と呼ばせていただいてもかまわない!

「は、はじめまして!オレ、浦美さ」

「お名前は存じています。総監のお孫さんですってね。それよりも ……」

…… 今、オレの中で最大級の寒波が到来しています。

総監の孫扱い、しかも 『それよりも』 の一言で終了。

オレ、もう泣いていいよね?

「―― どういうことですかな?」

そんなラブコメムード(とオレの恋心)は柴多さんの鋭い声に踏み潰される。

「きちんと説明していただかないと、納得できかねますな」


「説明も何も、そのままの意味ですわ。

この件は捜査一課から私たち特捜に委ねられました。ですのでお帰りくださいと申し上げたのですが」


「んな、」

あまりの事に変な奇声を上げてしまった。

が、状況はどうやらそれどころではないらしい。

「ちょ、ちょっと!いきなりそれは強引すぎやしませんか!目黒区の首なしホステス殺害事件はウチの管轄です!模造犯にせよその関係性が少しでもあるかぎり、この件を網羅するのも必須なわけで、」

「ああ。目黒区の一件も捜査権はこちらに譲渡されました」

「はぁあ!?」

ますます納得がいかなかった。

大体、何で特捜が絡んでくるんだ?ていうか特捜って何だよ、微妙にそこんところがわかんねえ!

「お前はちょっと黙れ」

混乱で思考がエキサイトしていたオレを柴多さんが静かに一喝した。

「それは上の決定なんですね」

「ええ。そういうことになりますわね」

「どうして捜査権がそちらに回されたのか、理由もお教えいただないと?」

「捜査の関係上、正式な内容は一切公開されることはありません。ですが……」

オレの天使、もとい緋咲さんは柴多さんがまだ手にしていた名刺をそっと抜き取ると、持参のペンで裏側にすらすらと数字を連ねた。

恋愛初心者のオレにも、それが何を意味するのかは明確だった。

再びそれを柴多さんの手中に戻すと

「プライベートでしたら、考えてもいいですわ」

温暖化に貢献するような笑みを浮かべた。

オレの心がN2地雷並みに撃沈されたことは言うまでもない。

「…… 分かりました。とりあえず、ここは一旦引きましょう」

「ご理解いただけて助かりますわ」

とりあえず柴多さんが何を“分かった”のか気になっていたオレだが、二人の空気を邪魔することも出来ず後ろからすごすごと付いて行くことで精一杯。

「では、また本庁でお会いしましょう」

入り口まで誘導すると、緋咲さんは極上スマイルでそう告げる。

そして、ふとオレの方を見た。

必然的に高鳴る鼓動!

「貴方は、」

「は、はい!」

「お祖父様にでも聞かれてみては如何ですか?色々とご存知だと思いますよ」

「・・・・・・」

魂が抜けるというのはきっとこういうことを注すのだろう。

意気消沈しているオレを他所に、何故か柴多さんは緋咲さんに貰った名刺を頭上で掲げていた。

そして、


「 あまり調子に乗らないほうがいいですよ ―― お嬢さん 」


笑顔で言い放つと、背を向けて歩き出してしまった。

…… 何だろう。

軽い口調だったにも関わらず、あの柴多さんが今まで見た中で一番恐かった。

振り返ることもなく進んでいく上司の背中と、(恐らくは)初恋の人とをしばし見比べていたオレは、緋咲 慧さんのきょとんとした顔を脳裏に焼き付けると、断腸の想いでその場を後にした。



「―― 面白い人」


だから彼女が呟いたその言葉も、残念ながらオレの耳に届くことはなかったのだ。





** *





「ちょっと柴多さん!待ってくださいよ!」


もはや競歩のレベルで歩く上司に向かってオレは叫んだ。

渾身のそれが届いたのか、柴多さんはおお、と呟いてその歩みを止める。

「すまんな、年甲斐も無い姿を見せちまった」

「そんなもんは毎日見てますよ」

「うるせーよ」

荒い息で悪態を吐くオレを叩く柴多さんは、いつもと変わらないように見えた。

それがオレを何となく安心させる。

「でも何なんですか、急に宣戦布告してみたり。こう言っちゃなんですが、あんなのキャラじゃないでしょうに」

「んーそうなんだが、堪え切れなかったんだ。ああいう人間がオレは好かん」

「ええ、そうですか?オレは好きですよ。超タイプです」

「あれは毒婦だ。お前には向かんよ」

珍しく苦い顔で諭されたオレは、ますます惨めな気持ちになってしまう。

「どうせオレなんか守備範囲でもないですよ。緋咲さんが好きなのは、多分、ロマンスグレーの似合うおじさまタイプですって」

「ああん?それで何故俺を見る?」

「この人は……」

あの熱い視線にまったく気付かなかったとでもいうのだろうか。


確かにフケや汚れに埋もれてはいたけれど、身なりを整え、というか清潔を心がけたら、柴多さんはその手のおじさま好きにはかなり美味しい容姿をしていた。

偏った食生活での中年太りも奇跡的になく、尖った顎と少し扱けた頬は全体的にシャープな印象だ。

何よりその両瞳にはオレのような若輩者が決して手に入れることのできない、時間と経験のみによって構築される影があった。

生まれ持った素材の良さを活かしさえすれば、柴多さんは十分緋咲さんに見合う男になるだろう。

って、あれ?

オレってば何が悲しくて恋敵の良いところ挙げちゃってんの?


「…… さっきからなんだ?そんな熱い眼で俺を見るなよ、照れるだろ?」

「柴多さん、今度すごいカリスマ美容師と天才スタイリスト紹介しますよ。それで身なりをきちんとしたら、どっかのクラブでも行きましょう。柴多さんならすぐにもってもてですよ」

「勘弁しろって」

オレが半ば自虐的に放った科白に柴多さんが苦笑する。

「俺はな、母ちゃん一筋って決めてるんだ」

「って、柴多さんの奥さんは ……」

その後の言葉に詰まった。

柴多さんの奥さんは、かれこれ十年以上も前に病死していると聞いている。だから彼には子供もいない。

これからの人生、まだまだ謳歌する価値はあるというのに、たった一人の女性を想い続けることで終えようというのだろうか。

それを美しいと言えるほど、オレはまだ大人じゃなかった。

「なんだよ、そんなにあの女がいいのか?」

オレの沈黙を勝手に勘違いした柴多さんは、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。

うわ、なんだかとっても敗北感!

しかし柴多さんが同情したように呟いた次の一言 ――


「まあ俺には使い道もないし、これはお前にやるよ」


とオレに向かって緋咲さんの名刺を差し出したことで、先ほどまでのマイナスポイントが一気に回復。

そして、

「マジで!?いいんすかっ!」

オレは再び浮上する。浦美澤 光喜、完全復活!

今日の柴多さんはさしずめ救世主。

その双肩に降り積もるフケさえも、天から与えられたマナのように……見えなくも、ない。かもしれない。

「せいぜい有効利用するんだな」

柴多さんが苦笑した。

「で、これからなんだが、俺は十字製薬の本社に行ってみようと思う」

「え?そりゃまたなんで?」

唐突に飛び出したメジャーな名前に、オレは歓喜の踊りを中断して柴多さんに問う。

「いやな、被害者が勤めてたっつうだけで、その、何となくなんだが」

「やっぱりこの件から手を引く気はないんですね」

「表向きは引くさ。だが、とりあえず誰かに警告されるまでは暗躍してみるのも悪くはない。が、」

「ああ。オレのことならいいですよ」

一応この人の中にも遠慮という感情はあるらしい。

それだけでもオレにとっては大きな発見だった。

「今日だけは柴多さんの行きたいところに行ってあげますよ。でも、今日だけですからね?後は放置という名の黙認ですからね」

「すまない、恩に着る」


素直に感謝された。

これまた珍しい光景に、今日は雨の予報だったかな、と空を仰ぐ。

相変わらず灰色の雲は切れ間もなくゆっくりと、しかし確実にオレたちの頭上を流れていた。





都内随一のオフィス街にある十字製薬本社ビルは、その外見からは中に新・東京ドーム一個分の研究設備を要しているとは到底思えなかった。

どこから聞きつけたのか、ここでもマスコミ関係者が入り口周辺をうろついている。

数は江戸川区の非ではなかったものの、社員や研究職員にしてみればさぞかし邪魔なことだろう。


「警視庁 捜査一課の者です。昨晩の事件のことで少し中を見させてもらいたいのですが」


自動扉の前にいる厳つい警備員に、電子警察手帳をかざして見せた。

英国衛兵水準の無表情に、一瞬ここにも特捜の手が回っているのかとも思ったが、どうやら取り越し苦労だったようだ。

オレとしてはここに緋咲さんがいらしてくださってもまったく問題は無いのだが、柴多さん的にその展開はいただけないだろう。

しばらく睨めっこを継続した後、警備員は無言で道を譲った。

「最初からこうしてくれればいいものを。ねえ、柴多さん?」

いきなり社員たちに聞き込みするのもまずいので、とりあえず受け付けで被害者の同僚、または上司にあたる人物に取り次いでもらおうというプランだった。

いつ特捜がやってくるかもわからないので、迅速な行動と的確な要求力が問われる任務だ。

こんなことならもうちょっと髪の毛とかセットしてくるんだったな、と自惚れた後悔。


も、束の間。


「・・・・・・」


入り口を入った途端、柴多さんが凍りついた。

「ちょっと、どうしたんですか?マジであんま時間ないですよ?」

体を揺さぶっても、眼前で手を振っても、まるで反応無し。

今日は異常事態のオンパレードなのか?


しょうがないので柴多さんの視線の先を追うと、受付に行き着いた。

本庁よりもモダンで洗練されたデザインのホールの中央に座する、一風変わった造りの受付だった。

そこにはデパートガールのような可愛らしい制服に身を包んだ女の子が三人、と、受付のテーブルに寄りかかるようにして男が一人、立っている。

どうやら彼女たちの視線は男の一挙一動に釘付けなようだった。


確かに男は非常に完成されたルックスを擁していた。

すらりとした長身は嫌でも目を惹き、その体は細いというよりも引き締まっているという印象の方が強い。

男らしい目元にすっきりとした鼻筋。無造作に束ねられた黒髪はワイルドで、全体的に野性味あふれる雰囲気をさらに彩っている。

黒いタイトなシャツに、鈍い光沢を放つ黒いパンツ。

恐らくブランド物ではなく、それどころかやたらカラーチョイスが豊富なことで有名な某店で買ったような代物であったにも関わらず、男の魅力は最大限に引き出されていた。

こういう男は何を着せても似合ってしまうから羨ましい。ちょっと無理をしてでもアルマーニを心がけているオレの努力が馬鹿みたいに思えてくる。


…… 今日のオレはやたらと自分以外の男を褒めなければいけない運命らしい。


「って、柴多さん!どこに行くんですか!」


そんな意地悪すぎる星のめぐり合わせを呪っているオレを差し置いて、柴多さんがその男目掛けて突進するかの速さで近寄って行く。

まったく、予期せぬ奇行に振り回されるこちらの身にもなってほしい。

文句の一つでも言ってやろうと後を追うと、柴多さん、いきなり尋問を開始していた。

さっきのプランはどこへ行った!


「警視庁捜査一課、刑事の柴多です。失礼ですが、お名前とご職業は?」

「自分、ですか?自分は ―― こういう者です」

見掛け同様、脳に直接響くような甘い低音。

男は余裕の微笑を浮かべると、ズボンのポケットを漁り、皺のよった名刺を一枚取り出した。

「『週間メモリーズ ライター・久溜間くるま とおる』 ……記者さん、ですか?」

「はい。今回の事件について少し書いてみようかと思っていましてね。ちなみにこちらは新人で見習い中の弟子、みたいなもんです」

そう言われて横を見ると、まだ青年と呼ぶには幼すぎる空気をまとった少年が、ちんまりとそこに存在していた。

こちらの方は目の前の男に比べるとインパクトに欠ける。

比較対象が規定外なだけで決して見られないわけではないのだが、何と云うか、どこにいても空気と一体化して馴染んでしまうような印象だった。

「報道関係の方はあちらで入館を規制されているようですが、どうやってここまで?」

柴多さんの狙いはあくまでもこの久溜間とかいう優男で、こちらの少年はどうでもいいらしかった。

なんだかそれも可哀想だったので、オレは少年に向けてこっそり手を振って見せた。

少年は心なしか少しだけ首を傾いだようだった。

「ああ、実は先ほど知り合った親切なご婦人に入れてもらったんですよ」

そう言って男は遠巻きにこちらを窺っていた女性に軽く会釈をして見せた。

対して女性の方はというと、両腕に抱えていた書類をばさばさと床に落として見せるという露骨な動揺を示している。


…… 成程。

オレは瞬間、悟った。

この男はオレと同じタイプの人間だ、と。


「で、刑事さんたちもやはり同じ理由で?」

「はい?あ、あのまあそういうことになりますかね」

柴多さんが久溜間さんを凝視したまま再び沈黙状態になってしまったので、しかたがなくオレが応対する。

「しかし記者さんも大変ですねぇ。週刊誌なんか、毎日が戦場でしょう?」

「いやいやいや。捜査一課の刑事さんに比べたらそんな。まあそりゃあ脱稿の日なんかは死に物狂いですけどね」

「はぁ〜。尊敬しますよ。こう見えてもオレ、中学のころまでは小説家になりたかったんですよ」

「お、刑事さん、実は文才があったりして?そういう人ならウチに是非来てほしいですねえ」

「あっはっは」



「―― 十五年前、」


唐突に柴多さんが低く呟いた。

「“十五年前” と聞いて、何か思い出すことは?」

「…… いや、特には。そのころまだ自分は中学生でしたからね。義務教育に甘んじていましたよ」

「では、ご出身は?卒業されたのはどちらの中学?」

「ちょ、ちょっと柴多さん!」

これ以上はさすがに行き過ぎだった。

何を思っての行動だったかは知らないが、事件とは何の関係もない(と思われる)質問を、やはりどう見ても無関係な一般人に強いるのは令状が無い限り無理がある。

受付嬢は全員呆然と二人のやり取りに目を瞬かせていた。

濃度を増していく空気の中、助手というか弟子のような少年だけがさきほどと変わらない様子だった。

久溜間さんはやんわりと拒絶を含んだ口調で、慎重に言葉をかさねる。


「―― 刑事さん、誰と勘違いしてるのか知りませんが、自分はこんなところで職質を受けるようなことは今のところ何もしていませんよ。

それでもまだその先をお続けになるというのなら、然るべき手続きを踏んでからにしてくださいや」


至極もっともな言い分だった。

「柴多さん、どうしちゃったんですか?」

オレは耳元で囁いた。

「この男、何か怪しいところでもありますか?見たところ、普通のライターみたいですけど。何なら後で確認してみましょうか?」

「…… いや、いい」

今度は急速に塞ぎ込んでしまった柴多さんは、

「すまなかったな ―― 忘れてくれ」

ロクに久溜間さんの顔も見ないまま、ふらふらと歩いて行ってしまった。

「な、すいませんホント。何かオレにもよく分からないんですが、もういいみたいなんで!ほんとすいません!」

「別にアナタが謝ることじゃないですよ。楽しいお話もできたことですし、それでいいですよ」

「…… すみません」

その後、頭を数回下げてオレは外に出た。


驚いたことに柴多さんの姿は既になかった。

「あ、ありえねえ……」

あのオッサン、オレに面倒なこと全て押し付けてバックれやがった。

しかし有り得ないと思う反面、さっきの柴多さんの異常な行動を思うと憤慨するというよりも心配になった。

「たしか、さっき“十五年前”って言ってたよな?」

どうやらそれがキーワードらしい。

オレなんかまだ小学生だった時代の話だ。

調べてみようかなとジャケットを漁ると、ひらりと白い紙が舞い落ちてきた。

「お!そうだった、そうだった!」

この状況ですっかり忘れていたけれど、オレは柴多さんから授かった女神様の連絡先があるのだ。

懸案事項は多々有ったにせよ、オレの中の絶対的優先順位は明らかに決まっている。


「…… せいぜい有効利用させていただきますよ、柴多さん」


そう願掛けするように名刺を握り締めながら、きっと明日にはいつもどおりの柴多さんに戻っているだろうとオレは高をくくっていた。



しかしそれは大幅な誤算だった。

後にオレは『週間メモリーズ』の本社に問い合わせてみることになるのだが、過去にも現在にも“久溜間 透”という人物は在社していないことが判明する。

もちろん電話帳にも、もっと確率の高い電脳網にも載っていなかった。

つまりアレは偽名ということになり、出来合いの名刺も調子のよい会話も、全てが虚像だったということだ。


まあそれはいいとして、だ。


オレはその日のうちに緋咲 慧さんの個人的なナンバーにダイアルをして、再び彼女の美声を拝聴した。

その後はどうなったかって?

それはご想像にお任せしたい。


一つ言えるのは ―― オレもそろそろ自分の立ち位置を定めなきゃなって事。



たった一人の女に運命を変えられてしまうなんて、あの朝のオレは当然ながら思ってもいなかったんだ。










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