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覚醒都市  作者: ムクイ
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13. < それは零れ落ちる 砂 のように、 >


13. < それは零れ落ちる 砂 のように、 >



わたしは笑えていますか?

わたしは生きていますか?


わたしは ―― ここにいますか?






僕は正直驚いていた。


自分が柊木沢さんに付いて行くと言った事。

あの白い少年に再び会いに行くと宣言した事。


何の為に?


瑕那ちゃんのため、だろうか?


僕の中で彼女の存在はそこまで大きくなっていたのだろうか。

少し考えてみる。

結論。

そういうわけでもなかった。

彼女は僕にとって、同じ職場に勤める同僚以外の何者でもない。


自分が薄情なことは分かっている。

けれどそれはもう変えようのない事実だと諦めていた。


では何故?


僕はさらに考える。


けれど答えは見つからない。


ただ明確だったのは、

いずれにせよ僕はあの少年ともう一度向き合わなければいけないということ。

そして ――



箱の蓋が、開きかかっているということだけだった。





「すまん、遅くなった」


柊木沢さんは出て行ってから一時間もしない内に戻ってきた。


その右肩には、黒いスポーツバッグが掛けられている。

横長幅広のそれは、所どころ不思議な形に歪んでいた。

まるで野球バットが大量に詰め込んであるように見えなくもない。

「で、車は調達できたのか?」

「ああ。はい、でも僕じゃなくて二ノ宮さんが、」

「明ちゃんが?」

柊木沢さんは意外そうだった。

「何だよ、結局明ちゃんも心配してんじゃねえか」

「いえ、僕が個人名義で車を借りると、最悪の場合、叶さんにまで迷惑が及ぶかもしれないからという理由らしいです」

「…… なるほどな」

二ノ宮さんは、ただ自分の主人を守っただけ。

叶さんに降りかかるあらゆる不都合を回避するのが彼女の務めなのだ。

「しかしそうだとしても有り難い」

「結果的にはそうなりますね」

たとえそれが間接的だったとしても、僕たちは結局二ノ宮さんの行動に助けられたことになる。


「じゃあ ―― 行くか」


部屋中に広がる出発の合図、


「よし!」

まもるが呼応するように右の拳を左の義手へと叩きつける。

そしてソファーに横たわった瑕那ちゃんに歩み寄ると、そのぐったりと力ない体を抱き上げた。

その様子を、隣に腰掛けた三七三さんが見つめていた。

「…… 大事にしてあげてね」

「当たり前だ。この子はアタシがきっと守るよ」

瑕那ちゃんを腕に抱えつつ、護が力強く頷いた。

三七三さんは立ち上がって青ざめた顔を覗き込む。

「瑕那、」

返事はなかった。

「瑕那、あんた具合がよくなったら、一生あたしの奴隷だからね?」

閉じられていた目蓋が薄っすらと開く。

「覚えておきなさいよ。絶対、忘れないでよ」

声を掛けながら、護の腕に支えられた小さな手を握る。

瑕那ちゃんは弱々しくもそれを握り返していた。


そして僕も立ち上がる。


壁時計が二十二時のチャイムを鳴らしていた。

それはまるで始まりを告げる鐘のようだった。





裏口から表へ出ると、正面玄関の前に一台のワゴン車が停まっていた。

そのフロントガラスには飾り気のないキーリングにつけられた鍵が乗っている。


僕は免許を持っていない。

護は瑕那ちゃんの傍を離れようとしない。

運転は消去法的に柊木沢さんがすることになった。


「いいか、プランはいたってシンプルだ」


柊木沢さんは咥え煙草でハンドルを切る。

「こそこそ回りくどい事はしない。正面玄関から堂々と中へ入る」

「なっ、こんな時間だぞ、“入れてください” “はい、喜んで”なんて展開があるかよ」

「誰が頼むって言ったよ?かばんの中を開けて見ろ」

後部座席の護は、後ろに置かれた柊木沢さんのかばんを持ち上げ、そして驚いたように振り返った。

「重っ!これ何が入ってるんだよ?」

「まあ開けてみろって」

柊木沢さんがにやりと口元を歪めた。

怪訝な顔になりながらも、護は言われたとおりにファスナーを開ける。

そして、

「お前 ―― どこぞのテロリストか?」

そんな言葉が聞こえてきた。


黒いかばんからは細長い銃のようなものやピストル、護が使用したものと同タイプの警棒、そしてどうやら手榴弾グレネードのような物も垣間見えた。


「こんな装備、一体どこから」

「持つべきものは理解のあるパトロンってな」

想像はしていたけれど、やはり叶さんの助力だった。

「お前ら、マジで危ない連中なんだな」

「安心しろ。頭のネジが緩んでるのは俺だけだ」

「…… ハンドルを握っている奴にそんなこと言われて安心できるか」

どうやら護は柊木沢さんとすっかり馴染んでいるようだった。

こんなことを言うと殴られそうなので口にするのはやめておこう。


「で、正面玄関から堂々と入った後はどうする?」

「そりゃあ勿論最上階を目指すだろ」

「どうして?」

「煙と馬鹿と悪の親玉は高いところが好きって言うだろ?」

「それ以外の根拠は?」

「ねえけど」

「お前が馬鹿なんじゃねえの?」

「とにかく上に行ってみるんだよ。それでいなかったら、途中で人質でもとって脅せばいい」

「…… 結局最後は武力行使なんだな」

護は呆れたように天井を見上げた。


「…… うふふ、ふ」


微かに届いた笑い声。

車内にいた全員がそれを振り返る。

二人のやり取りを聞いていた瑕那ちゃんが、楽しそうに肩を揺らしていた。

「お姉さんと柊木沢さん、おもしろい」

「そうか?普通の会話じゃねえの?」

「人質って単語が出てくる会話は十分普通じゃねえよ」

「褒められても困る」

「いや褒めてねえし」

「うふふ、やっぱり、いい ですね」

窓ガラス越しに瑕那ちゃんの顔が映る。

目の下には痛々しい隈が浮かんでいた。

生気のない笑みを浮かべた横顔に、前髪がはらりと落ちた。


「皆さん、私のために ―― 本当にありがとうございます」


湿った声だった。

瑕那ちゃんの頬は外の灯りにきらきらと光っている。

「私が馬鹿だったのに、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」

「とりあえず謝るのも礼を言うのも保留だ」

柊木沢さんがハンドルに顎を乗せる。

「お前は黙って守られとけ。お姫様みたいにな」

「私、お姫様ですか?」

その言葉に瑕那ちゃんが涙を拭った。

「じゃあ、柊木沢さんが王子様ですか?」

「こいつは王子ってガラじゃないだろ。盗賊ってところだな」

「うん。護のほうがよっぽど王子様っぽいね」

僕は同意を示した。

瑕那ちゃんがお姫様で護が王子様、そして柊木沢さんが盗賊なら、僕は一体何だろうか。

せめて観客くらいになれればと思わなくもない。

「そろそろ着くぞ」

車が大通りを左折する。

東京駅付近も人気ひとけは疎らで、このあいだ訪れたときよりも幾分か寂れて見えた。



「盗賊でも、いいですよ」


そんな中、瑕那ちゃんがそっと呟いた。

柊木沢さんは聞こえていないのか、ただ煙草の吸殻を窓の外へと放り投げただけだった。





創世会のビルは、闇と合併してしまったかのような暗黒色だった。



「ここがそのペテン宗教の本部か」


護が忌々しそうにそれを見上げる。

道中、僕は簡単にこれまでの経緯を説明していた。

話が長くなりそうだったので、とりあえず僕たちは叶さんに雇われた何でも屋のようなものだということにしてある。

完全に納得しているわけでもなさそうだったけれど、些細な違いは大した意味を持たないだろう。


「よし、野郎共 ―― 好きな武器を取れよ!」


柊木沢さんはいつにも増して楽しそうだった。

護は瑕那ちゃんを抱えていない右腕に警棒を握っている。

「アタシはこれと左腕だけで十分だ」

「ええー、こんなに持ってきたのに?」

その悲痛な叫びを護は真っ向から無視していた。

「カイ、この子を除いたらお前が一番丸腰なんだ。保険でもいいから、なんか持っとけ」

「サブマシンガンとかどうだ!?ただ引き金を引くだけでいいから楽だぞぅ!ダダダダーって!」

「…… こいつ、キャラ変わってないか?」

「僕も護と同じ警棒でいいです」

「つまらん。大いにつまらん。せめて誰かリボルバーくらい持ってくれっての……」

唇を尖らせながらも、柊木沢さんは僕の方に向けて警棒を投げてよこした。



恐ろしく静かだった。

それまでちらほらと見えていた人影もない。

まるでここだけが、大型消音装置に守られているようだった。


「警備員もいないな」

柊木沢さんはガラス越しに目を細める。

「どうでもいいから早く入ろうぜ」

「おう。待ってろよ、俺が今この新型オートライフルで」

しかし半円型の自動ドアは護が手を触れた瞬間、自然と左右に開かれた。


「…… へえ」


「どうやらお招きいただいてるみたいだね」

「扉を粉々にする手間が省けて良かったじゃねえか」

僕の言葉に護が肩を竦める。

対する柊木沢さんは口にこそ出さなかったものの、些か不満そうだった。

左右の肩に銃をぶら下げた柊木沢さんを筆頭に、護と瑕那ちゃん、その後ろに僕が続く。

薄暗いホールにも誰の姿もなかった。

しかし僕たちが入った瞬間、

「な、」


ガラガラ


激しい機械音がして、入り口には重厚なシャッターが下りていた。


「ったく、見事な手際だな」

「行きは良いよい ―― 帰りは怖い、ってやつか?」

「まったくだ」

無駄にシャッターを蹴り飛ばしていた柊木沢さんは、頭上にあるカメラの一つに中指を突き立てた。

「それにしても、本当にアタシたちが来るのを予測してたとはな。これもその教祖って奴の力なのか?」

「多分ね」

僕は短く肯定する。

「じゃあ、行く先々に様々なトラップが、ってことか?」

「大歓迎じゃねえか」

柊木沢さんはいつの間にはめたのか、黒いフィンガーグラブの両手をぽきぽきと鳴らしている。

「片っ端からぶっ飛ばしてやるよ!」

「…… 血の気の多い奴だな」

意気揚々とエレベーターに向かう柊木沢さんの背中に、自分の事は棚に上げた護が呟いた。

「まあ何にせよ、あんまり時間は無いがな」


瑕那ちゃんは確実に弱っていた。

それが何によるものかは分からなかったけれど、衰弱のペースが異様に速い。

傍観者アウトサイダーズ>本部に居たときはまだ会話もできていたというのに、最早口を開く気力すら残っていないようだった。


「とりあえず、前に進むぞ」


硬い声で促すと、護は先を急いだ。

僕はその後ろ姿を追いかけながら、確実にあの少年の視線を感じていた。




エレベーターは通常通りに作動した。

全員が乗り込んだ後、最上階のパネルを押して扉を閉める。

そしてそれは何の抵抗もなく緩やかな上昇を始める。


「あーどうしよー、こんな重装備で来たのに結局使いませんでしたってなったら」

「それならそれでいいじゃねえか?それよりアタシが心配なのは、頂上に着いたら警察がずらっと並んでるとか、狙撃手に狙い打たれるとかそういうことだ」

「そんなことになってこそ俺の出番だろうがっ!」

「何でそんなに楽しそうなんだ、お前は」


そんな二人の会話を、僕はエレベーターの後ろに寄りかかって聞いていた。

胸が鈍く痛む。

まるで鉛の塊りを飲み込んだような気分だった。

耳元で血脈が遠い潮騒のような音を立てて流れていく。


ふと半透明な鉄の壁に、“彼” の姿が映っていた。


『 気をつけたほうがいい 』


それは、


『 ―― 来るぞ 』


短い警告だった。



がく、ん



エレベーターは二十三階で唐突に止まった。


衝動で、柊木沢さんと護は前倒しに傾く。

それとタイミングを合わせるように、扉が開かれた。


「護、柊木沢さんっ」


転がり出た二人は素早く形勢を立て直した。

柊木沢さんは銃を構えつつ、護は瑕那ちゃんの頭部を庇いながら立ち上がる。

が、


「…… 何だお前ら」


暗がりの中に人集だかりが出来ていた。

白い病院着を着込んだような彼らは、エレベーターの周りを取り囲むように隙間無く並んでいた。


虚ろで澱んだ瞳だった。

ぼんやりと浮かび上がった顔に表情はない。

誰もが唇を細やかに震わせて、何かを口走っている。



「異端者」「異端者」

「異端者」「異端だ」「異端者だ」


「異端は排除」「異端は排除」「異端は排除」

「異端」「異端」「異端」「異端」

「排除」「排除」


「排除」「排除」「異端排除」「異端」「異端」「排除」



その呟きはやがて輪唱のように僕たちを包み、

そして ――


「排除排除異端排除 ―― 排除!」


人の波は唐突に襲い掛かってきた。



「―― くそっ!」


柊木沢さんが退路を確保しようと、手当たり次第に銃身で殴りつける。

しかし、いくら掻き分けても人は次から次へと現れた。

そこにはかるく三百人を超える数の人が、互いを気遣う様子も見せず、ただ柊木沢さんたちに向かってその両腕を伸ばしていた。

「っ、扉が、」

エレベーターが自動的に閉まっていく。

いくら“開”のボタンを押しても、まったく反応がなかった。


「柊木沢さん!護っ!」


どういうわけか黒い人集りは、僕の方にだけ近づいて来ようとしなかった。


『 あいつが会いたがっているのは、お前だけのようだな 』


“彼” の声がする。


でもそんなことでは意味がなかった。

瑕那ちゃんを連れて行かなければ、多分彼女は ――



「―― カイ!」


死体に集る蛆虫を思わせる人の山の中で、護が声を張り上げる。


「カイ、受け取れっ!」


護は左腕を思い切り振りかぶって、人々の頭上から僕に向けて瑕那ちゃんの体を投げつけた。

「っ ――!」

飛来してきた体を正面から抱きとめる。

背骨は軋み、腕は悲鳴を上げ、喉は圧迫されたけれど、瑕那ちゃんに掛かる負担は緩和できた。

もはや二人が滑り込めるほどの隙間は残っていなかった。

僕は扉の間に両手をかけ、力を篭めて押し広げようとする。

「行けっ!」

柊木沢さんが叫んだ。

まるでゾンビのように徘徊する人々は、その矛先を僕たちに向けようとしていた。

あの少年にとって“異物”となる瑕那ちゃんを取り込んだからだろうか。

迫ってくる人の背中を、渦の中から這い出してきた護が蹴り飛ばす。

「早く行けっ!お前が ――」

その先は扉の向こう側に消えた。


申し合わせたようにエレベーターが上昇を再開する。


銃声が、聞こえたような気がした。





「瑕那ちゃん、大丈夫?」


エレベーターの明かりの下、瑕那ちゃんは両足を投げ出したまま、ぴくりとも動かない。


「瑕那ちゃん、聞こえる?」


返事はなかった。

僕はしゃがみ込んでその口元に手を当てる。

確かに呼吸はしていたけれど、それは虫の息だった。

だらりと伸ばされた手首を掴む。やはり脈拍も弱く、そして頼りない。



僕は瑕那ちゃんの横に腰を落とした。


階下に残してきた二人の事を想う。

多分、彼らなら大丈夫だろう。

柊木沢さんや護が何かに圧倒される姿なんて想像もできなかった。


問題は僕たちの方だ。

エレベーターは三十階を順調に通過し、四十階を昇り始めている。

最上階は五十五階。

これから僕はあの少年に会うことになるだろう。

そしてどうにか話をつけて瑕那ちゃんを元に戻してもらうか、それと同様の処置を施してもらうしかない。

それは、とてつもなく途方も無い話だと思った。


『 そう思うのなら、俺と代われ 』


“彼” が境界線越しに手を差し伸べていた。


『 俺がその救世主気取りの奴を何とかしてやろう 』


一瞬だけ躊躇ためらって、僕は首を振った。

それでは駄目なのだ。

“彼” のやり方では、根本的な問題が解決しない。

何故なら “彼” は瑕那ちゃんのことなど、どうでもいいと認識していたからだ。


『 相変わらず頭の固い奴だな ―― どうなっても知らんからな 』


そう言うと “彼” は、煙のように消えてしまった。



がく、ん



「っ、」


再びの衝撃。


電光板は四十九階を指している。

僕は立ち上がって幾つかのボタンを押してみた。


「まさか」


はっとして扉を見た。

しかしそれが開く気配はない。

そのかわり、動き出すこともなかった。



どれだけそこに停滞していたのだろう。


生憎、時間を確認できるものは持ち合わせていなかった。

瑕那ちゃんの口からひゅうひゅうと、細い呼吸の音が漏れていた。

その額に手を翳してみる。

湿った素肌は、驚くほど冷たかった。


「せん、ぱ い?」


瑕那ちゃんが濁った視線をこちらに向ける。


そして弱々しい仕草で、僕の手を取った。


途端、

瑕那ちゃんの輪郭が歪む。

僕の内から掌を通して何かが注ぎ込まれるのを感じた。


これは僕の所業ではない、

恐らくは ――



「先輩、私ね ―― 結局、柊木沢さんに言えませんでした」


瑕那ちゃんは、不自然に血色の良くなった顔で残念そうに呟いた。


「あーあ、あんなにお洒落も頑張って、勉強もしたのにな」

「瑕那、ちゃん」

「でもね、不思議と後悔はないんですよ」


何を言おうとしているのだろうか。


目の前の瑕那ちゃんは、まるでいつもと変わらない。

それが、それこそが今は有り得ないくらい異質だった。


「私、ちょっとの間でしたけど、結構いろんなことがわかるようになってたんです。私の体のこととか、三七三さんのやってることとか。

あ、あといつもより体も軽かったんです。

本当は内緒にしてたんですけど、いつもどこか気だるくて、お腹に違和感がある感じだったんですよ。でもそれもなくって、私、ああ健康なんだな、って。本当に少しの間でしたけど私、どこか特別でした。だから、」


瑕那ちゃんは天井を仰ぐ。

まるで全ての物を愛しむような眼差しで。


「だから後悔とかはないです。楽しい人生でした。特にここ最近は、先輩や三七三さんや柊木沢さんに出会えて、とても、とても楽しかったです。悪いことが全部帳消しになってしまうような、そんな日々でした」

「どうして」


どうして今。

何故、僕に。


そんなことを言うのだろう。


それではまるで。

これではまるで。


「先輩、私 ―― 幸せでしたよ?」


囁いて、

微笑んで、

そして僕の頬にそっと触れる。


「だから、もういいんです」

「―― 瑕那ちゃん」



「もう、いい んです よ 。  」



だらり、と。


伸ばされた瑕那ちゃんの腕が、だらりと力なく垂れた。

「瑕那、ちゃん?」

僕はその硬くなった体を揺すった。

エレベーターが再び動き出していた。


僕は “彼” を探す。

しかしその姿はどこにも見えない。


「さっきのは君だろう?」


僕は声にする必要の無い問いを口にしていた。


「君が、瑕那ちゃんに何かをしたんだろう?」



『 最後の別れをさせてやろうと思ってな 』



“彼” は僕の中から答えた。

反論を組み立てる前に浮上が止まり、目の前の扉が開いた。




そこはガラス張りの部屋だった。


小さな家がすっぽりと入ってしまうほどの広さ。

高い天井。どこまでも続く冷たい床。

そして一番奥には玉座のような椅子が一脚。

窓から注ぎ込む夜景の光の他に、それらを照らし出すものはなかった。


「ようこそ」


薄暗がりの中からあの少年と、そして見覚えのある女性が歩いてきた。

例の体験会で最初の語り部を務めた女性だった。

あの時とは違い、ブルーグレーのスカートスーツと眼鏡を着用している。

「いつまでその中にいるのですか?どうぞ、お入りください」


両足に力が入らない。

僕は瑕那ちゃんの体を引きずるように持ち上げながら、冷え切ったガラスの鋭さを靴越しに感じた。

少年との距離は二十メートルほどだろうか。

目線は僕の方が高いというのに、壇上から見下ろされているような気分だった。


肩で支えていた瑕那ちゃんの体をゆっくりと床へ横たえた。

だらり、と抵抗の無い小さな体。


「それ も連れて来たんですね」


感情なく吐き捨てられた言葉。

少年が瑕那ちゃんに意識を割いていたのは、ほんの刹那のことだった。

「またお会いできると思っていましたよ」

僕に注がれる微笑みは対照的に、春の日差しを思わせる暖かさ。

それを横目で見ていた女性が、ほんの僅かに眉を顰めた。

「―― アカサキ」

「…… はい」

「あなたは先に出ていてください。ここからは彼とわたしだけの話ですから」

「それは、」

名を呼ばれた女性は少年に問いかけるような視線を投げかける。

しかし少しの間を置いた後、

「…… 分かりました。外で待たせていただきます」

一礼をまじえ呟くと、僕の横を足早に通り過ぎ、エレベーターの中に消えていった。



「さて、これでやっと二人きりになれましたね」


少年は誘うように手招いた。

それを、僕は拒絶する。


「まだ瑕那ちゃんが、ここにいます」


僕の言葉に少年は困ったように首を傾げる。

そして、瑕那ちゃんを真っ直ぐに指差した。



「だってそれ ―― もう死んでいますから」



瑕那ちゃんは動かなかった。

僕も、動けなかった。


硬直。


瑕那ちゃんは、

瑕那ちゃんが ―― 死んで いた。


まるで眠っているかのように安らかな表情だった。


「そんなことよりも、わたしはあなたに会いたかった」


いつのまにか少年が目の前まで迫っていた。

そして腕を広げる。

息子を受け入れる父親のように。

僕はその状況下でも、まだ動けずにいた。

眼球は凍りついたように瑕那ちゃんを視界に捕らえ続けている。


「わたしは、あなたの 中 が見たかった」


少年の腕が僕の背中に回される。

それは柔らかくて、温かかった。


少しずつ、


少しずつ、少年が僕の中を覗き込む。


生温かい水が体の隅々に滲み渡っていくような感覚。

毛穴という毛穴が開かれ、過去から未来までをも監視されているような錯覚。


それは何かを探している。

なにか。

それは ―― 箱 を、探している。


体がぴくりと抵抗を試みる。

けれど、全てがもう、遅い。



「ありましたね」



少年は嬉しそうに呟く。


いつの間にか僕は彼と同じ場所にいた。

ここは、多分 ―― 僕の中。

少年はその手の中にあの小さな箱を抱いている。


改めて見ると、それはずいぶんとボロボロになっていた。



ぴきぴき


ぴきぴき、と


亀裂の走る音がまるで胎動のよう。



―― ドウシタノ ?


いつかの声が聞こえてきた。


それは僕の中に響いているようだ。

しかし少年は気づかない。

少年は、その白い箱に夢中だった。

振って、触って、撫でて、齧って ―― それは本来の姿同様、まるで子供のようだった。



アケラレテ シマウヨ?


カレハ、アレヲ アケヨウ ト シテイル



僕にはどうすることもできなかった。


胸が、痛い。

ただ、痛い。



「  」 ガ オワッテ


「  」 ガ ハジマル



少年の手が、箱の蓋に掛かる。


捻じ曲がる概念。

閉じられる精神。

湧き上がる感情。


祝詞のような言葉。

流れ行く幾千ものイメージ。

凶暴な闇。

誰かの叫ぶ声。

光。

光の渦。

光、  光、  光 の 渦。




『 だから言った筈だ。 代わっておけ、とな 』




そして僕の意識は、


唐突に


  強引に


 “彼” によって


奪われ








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