12. < 春日部 護(かすかべ まもる)に遺された罪と贖(あがな)いの記録 >
12. < 春日部 護に遺された罪と贖いの日々 >
アタシは父さんが嫌い。
憎くて憎くて、それこそ殺してやりたいほど大嫌いだ。
なのに。
アタシはそれと同じくらい、父さんが ―― 恐かった。
「譲、」
父さんはいつもその名でアタシを呼んだ。
否定したくてもできない。それはアタシにとって戒めでもあったから。
「譲、ちょっとまた必要なデータがあるんだ」
振り返らない背中は告げる。
アタシはすっかり寂れてしまった研究所を見渡した。
かつて父さんが最も輝いていた場所。
“生命の魔術師”、“生物学の異端児”。
学界で名を馳せ、いくつもの画期的な論文を発表し続けた父さん。
ここは父さんが自身の悲願でもある <完全なる人間> の研究に明け暮れ、そしてその生け贄として
―― “本物の譲” を奉げた場所でもあった。
「譲、私はね今度こそ成功するのだよ」
暗く湿った声。
本当は言ってやりたいことが沢山あった。
けれどそれら全ては口を開く度にどこかへ消えて行ってしまう。
「昔の仲間がね、私の研究データを持ち逃げしてしまったんだよ」
奪われたものは取り返さなければ。
父さんは低く笑う。
壊れてしまったように、諦めてしまったかのように。
何が父さんを壊してしまったのだろう。
そもそも初めから壊れていたのかもしれない。
彼の研究が、始める前から終わっていたのと同じように。
「だから、譲 ―― 盗んできてくれるね?」
父さんは振り返らない。
アタシは、左腕を撫でる。
冷たいチタンの感触だけが荒ぶる心を殺してくれた。
** *
「よお。珍しいよな、お前が俺に会いに来るなんて」
水曜日。
アタシは鷹巳の大学に来ていた。
理由はひとつ。
「で、アタシが頼んでおいたこと、ちゃんと片付けておいてくれたんだろうな?」
「…… 開口一番が脅しとかマジありえないんですけど」
と言いつつも、鷹巳はポケットからUSBを取り出し、アタシに投げてよこした。
「ほらよ。それがあれば大抵の電脳に掛かってる防御は看破できると思うぜ」
「“大抵”じゃ駄目だ。全部の電脳に対応させろ」
アタシがUSBを付き返そうとすると、鷹巳が溜め息混じりにそれを制した。
「今度は何だ?ペンタゴンにでも忍び込むのか?」
「そういうことは聞かない約束。で、実際どうなんだ?」
「大丈夫。簡単なプログラムだけど威力は大。政府の電脳防壁を破るよりは楽な仕事だよ」
「上出来」
アタシは鷹巳に礼を言うと、足早にその場を立ち去ろうとした。
「なあ、」
鷹巳の声がする。
が、アタシは止まらずに歩き続けた。
「なあってば!おいっ!」
「…… うるっせえな。追いかけてくんなよ」
アタシは肩に掛かった鷹巳の手を払いのける。
「なあ、まだ泥棒みたいな仕事続けてんのか?」
「だからそれは聞かないって約束だろ」
「だけどさ、芽衣子ちゃんだって心配してるし、それに」
「それに ―― 何だよ」
アタシは目の前にいる幼馴染を見つめた。
その視線に居た堪れなくなったのか、鷹巳が顔を背ける。
「別に、でも危ないことは止めたほうがいいだろ」
「危ないか危なくないかはアタシが決める。お前は何も心配せずに、ここでお勉強にでも励んでいればいいさ」
「…… そうかよ」
アタシは再び歩き出した。
もう鷹巳は追いかけてこなかった。
途中ですれ違った白衣の男が、アタシの顔と鷹巳の姿を交互に見比べていた。
自分でも反吐が出るような言い方だったと思う。
鷹巳は何も悪くない。
アタシが高校に行かずコソ泥の真似事をしている間も、鷹巳は順調に学歴を積んで行った。
それだけのことだ。
それなのにアタシはあいつに責めるような言葉を吐き捨てる。
顔を合わせればいつもこうだ。鷹巳に心配されると、つい棘のある言葉をぶつけたくなる。
アタシはただ ―― 甘えたいだけなんだ。
結局は解っているから。
“鷹巳はアタシを見限らない”。
どんなにキツいことを言っても、冷たい態度を取っても、鷹巳は決してアタシを責めたりしない。
「…… アタシはずるいな」
重い曇天の空を見上げる。
ねずみ色のそれは、今にも降り出しそうな雰囲気だった。
「―― ごめんな、鷹巳。それでもアタシはやめるわけにはいかないんだ」
前に進むしかない。
それがアタシに残された罪滅ぼしの形だから。
*
父さんに指定された場所は、とあるビルの地下室。
夕方になり、社員が退社して行く。
その数十分後にビル全体の明かりが落ちるのを視認する。
それからさらに一時間ほど待ってから、アタシは乗り込むことにした。
黒いタイトなスウェットスーツの上下と深く被った目出し帽を身につけ、トンファータイプの特殊警棒を装備していた。
もちろん最大の武器は左手の義腕だ。
できることなら下手な小道具など使わずに、この腕だけで片付けたいと思っていた。
正面玄関からの侵入は最初から論外。
夜間とはいえ人の目もあるし、カメラも設置されていた。
無関係な人間をぶちのめすのは極力避けたい。せめてものエゴだ。
アタシは裏口に回りこみ、非常口のひとつである扉の前で止まった。
当たり前のようにカギが掛っている。
しかしそれはオーソドックスなタイプのものだった。
スウェットのポケットからひとつの鍵を取り出すと、アタシは扉の鍵穴に差し込んだ。
しばらくガチャガチャとそれを回し込むと、一拍の間をおいてそれは開かれる。
何も難しいことをしたわけじゃない。少し電脳網で検索すれば、この手の偽開錠ツールはいくらでも手に入った。
建物内部に侵入し、内側から再度鍵をかける。
そしてアタシは扉に小さな圧力センサーを取り付けた。
下で活動中にこちらで動きがあれば、アタシの携帯に直接知らせが入るようになっていた。
ちなみにこれを考案したのはアタシで作ったのは鷹巳だ。なかなかナイスな泥棒七つ道具の一つだった。
「さてと」
暗闇の中、暗視スコープを装着する。
細い廊下が続いた後、立ち入り禁止となっていた非常階段を見つけアタシは下降していく。
どのくらい降りただろうか。
父さんの話では、その施設は大体地下八階あたりに位置しているそうだった。
「この辺りだな」
アタシはそれらしき入り口に当たりを付けて、ハンドルをそっと回した。
幸い、今度の鍵は開いていた。
薄く扉を開いて中の様子を確認する。
明かりは点いていたものの、中から人の気配はしない。
けれど小部屋のようなものが幾つか見受けられたので、これは個別に人の存在を確かめていくしかなかった。
一番嫌なパターンではあったけれど仕方がない。
アタシは一旦暗視ゴーグルを脱ぐと、左腕を構え中に進んで行った。
最初の部屋は何もなかった。
机と椅子だけしか置いてない、勉強部屋のようだった。
そこに潜み、しばらくそのまま様子を見てみるものの、やはり何の反応もない。
後の部屋も同じだった。
トレーニングマシンの置かれた小部屋、簡易キッチンとトイレ、小さな実験室、そして ――
「この部屋か」
一見すると社長室のような部屋。
大きなデスクの上には目的の電脳が置かれていた。
アタシはそれに近づくと素早く起動させる。
パスワードの入力画面になると、鷹巳特製のUSBを差し込んだ。
電脳がそれを認識するとまるで魔法のようにスタート画面が表示された。
「鷹巳、偉い」
ファイルをひとつずつ開け調べている時間はなかったので、電脳に保存されているデータをそっくりそのままコピーしてしまうことにした。
さすがにそれには十分前後の時間が掛かるようだった。
作業中、アタシは気の抜けた心持ちでそれが終わるのを待った。
父さんはこの場所を“昔の知人”が腕っ節に覚えのある精鋭を集めて作った組織の本部だと言っていた。
だからこちらとしてもそれなりの覚悟を持って侵入してきたというのに、戦闘になるどころか鉢合わせもしなかった。
その上、消灯を忘れていくような間抜けた連中だ。
「…… しかし、そんなところと知っていて娘を送っちゃう父親っていうのも、実際どうかと思うけどね」
アタシは自嘲気味に呟いた。
根底にあるのは信頼や期待なんかじゃないことは百も承知だった。
父さんはアタシだから任せたのではなく、たまたまアタシがいたから任せるのだ。
もしもアタシがここで失敗してもあの人ならば変わりはいくらでも用意できるのだろう。
昔はそれを悲しいとも思っていた。
目の前にいるのに見てくれない現実を嘆いたりもした。
けれど今のアタシの父さんの間にあったのは ―― 多少の哀れみと畏怖の念と幾許かの恩讐。
そして家族としての情だ。
がたん、
ふいに表の方で物が倒れるような音がした。
体を駆け巡る電流にも似た緊張感。
アタシはまず冷静になって、電脳画面を見た。
作業が完全に終了するまであと三分といったところだ。
それまでに相手がこちらに気づかなければ、それで済む。
しかし ――
「その“精鋭”っていうのがどのくらいか、試してみようじゃねえか」
最初から穏便に済ませる気など微塵もない。
端から非合法な組織なのだ。ちょっとくらい暴れても警察沙汰にはならないだろう。
昔からの悪い癖だ。
アタシは今までこの左腕で全てを薙ぎ倒し、道を切り開いてきた。
だからこういう状況に立たされると ―― 血が、滾るのだ。
獣のようにしなやかな足取りで部屋を出る。
小部屋の密集したこのエリアとは隔てられた先にある、デスクとソファーの置かれた表部分。
こちら側からでも人気の無さが感じられたため、隅々まで調べることを怠っていた。
しかし、それならそれであちらから仕掛けてくるチャンスはいくらでもあった筈だ。
それに広い部屋の中からは、殺気が微塵も感じられない。
「……?」
何かがおかしい。
アタシは構えていた左腕を下げ、辺りを見回した。
「―― は、」
吐息の漏れる音。
それはデスクの後ろ側から聞こえてきた。
警戒しながら近づくと、そこに ―― 女の子が倒れていた。
「っおい、大丈夫か?」
ここがどこであるかも忘れ、思わず駆け寄っていた。
中学生くらいだろうか。
細い体をぐったりとデスクの脚に預け、顔は伏せられていて窺えない。
とにかく具合が悪そうなことだけは分かった。
「しっかりしろよ。とりあえず横になったほうがいい」
アタシは目出し帽を脱ぐと、女の子の体に手を掛けた。
見事なほどの白髪がアタシの鼻先をかすめる。
そして反り返ったその女の子の顔を見て、アタシは本当の意味で硬直した。
「、な」
息もつけなかった。
両腕はただ女の子を抱いたまま静止している。
頭の中では分かっていた。
そんなハズはない。
あの子は ―― 譲は、十年以上も前に死んでいる。
けれどそれでも想わない日はなかった。
今、あの子が生きていたらどんな風に成長していただろうか。
きっとアタシのようにやさぐれず、真っ当な人生を歩んでいたことだろう。
そして幼いころから少しも変わらない微笑みで、アタシの怠惰な生活を諫めるのだ。
訪れる事のなかった未来。
奪われてしまった、笑顔。
それが今、アタシの目の前にあった。
「ゆ、ずる?」
ポケットの中で警鐘が鳴っている。
誰かが建物に入ってきたのだ。
でもそんなことすら今はどうでもよかった。
アタシは苦しそうに顔を歪める女の子を胸に抱いた。
ああ、譲がいた。
譲がここにいてくれた。
―― あれは全部夢だったのだ。
*
あの日学校から帰ってくると、いつも出迎えてくれる弟がいなかった。
父さんは研究に夢中でそんな姿に嫌気が差した母さんは出て行った。
だからアタシたちにはお互いしかいなかった。
なのに。
それなのに。
嫌な予感がしていた。
アタシはかばんを放り出すと、父さんの研究所へと急いだ。
そしてそこでアタシは見た。
父さんが譲を、何かの装置に入れようとしているところを。
腕を引かれる譲が嫌がって泣いている光景を。
アタシは走った。
譲はとうとう中に入れられ、扉が閉められつつある。
弟は呆然としていた。
父さんはただ傍観している。
アタシは閉まりつつある扉の隙間に手を入れた。
父さんが驚いて退けようとする。けれどアタシはどかなかった。
鉄の扉がどんどん、どんどん閉じていく。
譲はアタシの手に触れた。
もう扉の隙間は腕が一本入るくらいしか残っていない。
それでもアタシはそれを抜き取ろうとはしなかった。
譲の小さな手がアタシの指にしがみ付いている。
やがてその隙間すらも埋まっていく。
弟の顔が永遠に消えていく。
そして目の前が白くなり、強烈な痛みに意識が飛んだ。
目が覚めると、自分の部屋に寝かされていた。
頭がひどく重たい。
起き上がろうと力を入れると、左腕に違和感を覚えた。
あるべきはずの左腕が、そこになかった。
その瞬間アタシはようやく譲のことを思い出し、這いずる様に研究所へと向かった。
譲の姿はなかった。
装置は稼動している。
父さんはちらりとアタシを振り返ると、再び何かの計算に没頭し始めた。
その様子を見て、アタシは改めて理解した。
父さんは譲を何かの犠牲にしたのだ。
そしてアタシは、怯える譲をそれから守れなかったのだと。
父さんは研究所に篭って何かを育てていた。
それが何なのか知りたくなかったアタシは、気づかないフリをしていた。
そして手に入れたばかりの義腕を使い暴れまわって全てから逃れようとした。
それから父さんはアタシを“譲”と呼ぶようになって、アタシもそれを受け入れた。
父さんはアタシにいろんなことを頼むようになった。
―― 生き返らすのに必要なものなんだよ
父さんはそう言ってアタシを使った。
本当はそれが嘘だと分かっていた。
けれどアタシは敢えて訊ねなかったし、逆らおうともしなかった。
あの子のことを忘れないように。
自分の罪を刻み付けるように。
*
警鐘が鳴り続けている。
アタシは腕の中の女の子を床に横たえた。
その蒼白な顔は、確かに譲と酷似している。
目の前のこの子が何であれ、守らなければいけないと瞬間的に思った。
それからの行動は早かった。
アタシは一旦全ての電気を落とすと、来訪者からは死角となるソファーの影に隠れた。
しばらくすると扉が開く音がした。
足音は二つ。
男の声と、少年のような声。
頭の片隅がひどく落ち着いていた。
それと同時に、心の内は限界までに荒れていた。
―― こいつらがあの子を傷つけているのか
許せなかった。
これ以上、あの子が、譲が傷つけられるのを許すわけにはいかなかった。
来訪者は慣れた足取りで進むと、電気のスイッチを入れた。
アタシが飛び掛ろうとした刹那、
「―― 誰か、いる」
男の方が確かにそう呟いた。
殺気が漏れたとでもいうのだろうか。
声を発した方の男は手にナイフを握っていた。
やはり傷つけるのか。
その事実にアタシの怒りは最高潮に達した。
そして、
少年の短い叫びの後、男があの子に向かって近づいていくのが見えたとき ――
アタシはその背中に飛び掛っていた。
*
火花が散る。
アタシが繰り出した左腕のタックルに、男は手元のナイフで応対した。
金属と金属がぶつかり合う嫌な音。
男が完全に体を反転させる前に、空いたほうの腕へ警棒を叩き付けた。
「くっ、」
その衝撃に、男が間合いを取って床に崩れる。
しかし男もただ遠ざかっただけではない。
足首からスローインナイフを掴むと、男はアタシの方へと投げつけてきた。
正確な投擲だった。
それは軌道を外れ、カーペットに突き刺さる。
左腕でガードしていた隙に男は体勢を立て直していた。
そして再びナイフで応戦。
斬り付けて来たそれを左腕で受け警棒を振りかざそうとするも、右腕を蹴られた。
結果、警棒はどこかへ飛んでいく。
「これでイーブンだよなあ」
男はひどく嬉しそうな顔をしていた。
凶悪で、最悪な笑顔。
「…… それのどこがイーブンなんだよ」
体中にナイフを仕込んでいるのか、男はさらに新たなナイフを取り出すとそれを両手に構えた。
「お前、誰だよ?」
「誰が答えるか」
「そうかい ――!」
ナイフが煌めき、アタシは左腕を構えた。
視界の外れには常にあの子の姿が映っている。
少年の影が近づいていく。
その横顔に、見覚えがあった。
「余所見しててもいいのかなぁっ!」
ナイフが来ると思った。
しかし男はあえてそれを捨てて、素手でアタシの腹に拳を埋め込んできた。
「がっ」
「まだまだぁ!」
「この、」
アタシは全力を左腕に篭め、男の頭に向けて打ちつけようとした。
しかしそれは寸でのところでかわされ、アタシは男によって床へとねじ伏せられる。
「くそ!離せ、このっ」
「“離せって言われて……”以下省略」
男はうつ伏せになったアタシの体に馬乗りになり、少年の方に声を掛けた。
「カイ ―― とりあえずこっちは片付いた。瑕那はどうだ?」
「駄目です、意識が朦朧としているみたいで」
「カイ、だって?」
まさかとは思っていた。
あいつがこんなところにいる意味が分からない。
しかしカイは至って冷静に立ち上がると、
「僕も、こんなところで護に会うとは思ってもみなかったよ」
アタシの顔を見下ろした。
その言葉に動揺したのは、アタシだけじゃなかった。
「ま、まもるってお前、どこでその名を、それを誰に、いや、何で知ってる?」
「柊木沢さん?」
「…… アタシの名前がどうかしたか?」
「―― へ?」
男はアタシとカイを交互に見ると、急に納得したような顔つきになった。
「何、お前、まもるって名前なの?」
「それがどうした?」
「いやいや、ちょっと親近感」
そう呟いた男はカイにロープを要求し、それでアタシの手を背後で縛った。
ロープが簡単に出てきてしまう辺り、やっぱりここはまともな場所じゃないんだな、と他人事のように思った。
*
「で、お前の目的は?」
柊木沢と呼ばれた男は、アタシの正面に座っている。
女の子はソファーに寝かされ、その隣に付き添うカイは柊木沢に言われて、どこかに電話を掛けていた。
「ていうかお前の知り合いなのな」
「ええ、まあ」
戻ってきたカイが曖昧に呟く。
アタシは小学生の頃から知っているそいつの顔を見た。
顔に出してはいないが、多分混乱していたはずだ。
カイが感情を表に出さなくなったのはいつからだろう。
そういえば、あの誘拐沙汰が起きてからのような気がする。
「なあ ―― カイ、お前何でこんなところにいるんだよ」
アタシは自分への問いかけを無視して、カイに訊ねた。
「ここがどんなところなのか、知ってるのか?」
「少なくとも護よりは知っているつもりだよ」
「ここが父さんの研究を盗んだ ―― MIZUHAシステムの概念を横取りした奴のアジトってこともか?」
「なんだ、その何とかシステムって?」
柊木沢がぽかんとアタシを見ている。
カイもわずかに首を傾げているだけだった。
どうやらそれについて、ここにいる奴らは何も知らされていないようだった。
しかし ――
「…… みずは、ちゃん?」
意外な事に部屋の中でただ一人、その女の子だけがアタシの言葉に薄く目を開いた。
「みずはちゃんを、知っているんですか?」
「瑕那ちゃん、動かないほうがいいよ」
青ざめた女の子の顔の中で頬だけが紅潮していく。
「教えてください、みずはちゃんは ―― 私の妹、はどこ、ですか?」
「…… 妹、?」
その単語に、アタシは全てを理解した。
目の前のこの子が、譲に似ている理由を。
「…… そうか、お前が父さんの研究、か」
「え?」
「アタシは、春日部 秀の娘だ」
「―― あ、」
アタシの推測どおり、その名前を忘れているはずがなかった。
瑕那、という名の女の子の表情が、見る見るうちに翳っていく。
唇が小刻みに戦慄いていた。
「あ、ああ、じゃあ私は ――」
「貴女が春日部博士の娘さんですか」
エレベーターの到着音。
それと共に現れた二つの影。
ひとつはスーツに眼鏡の女、もう一人は深刻な顔をした長身の女だった。
「瑕那っ」
「三七三、さん」
長身の女は瑕那に近寄って、その額に手を当てた。
「どうしてこんな、髪もこんな色に ……」
「ごめんなさい。私、その」
「そんなことよりも、春日部さんのお嬢さんに“尋問”する必要がありますね」
「…… “そんなことよりも”?」
尋問という言葉の不穏性よりも、目の前の少女の体調すらも軽んじる女の発言が信じられなかった。
「お前、その子の知り合いなんだろ。だったら少しは、」
「侵入者に発言の権利はありません。春日部博士の命で来たというのなら、尚更です」
「あんたは、父さんを知ってるんだな」
女は答えなかった。
多分、知っているのだろう。
まだ幾分か正常だった父さんを。
政府の一部と五大財閥が展開していた研究に召集されていた頃の父さんは、母さんともうまくいっていた。
「あんたは、<アルファ・プロジェクト>の関係者か?」
「―― 何のことでしょうか」
「とぼけるなよ。父さんはどうして解雇された?研究は、うまく行っていたんじゃないのか?」
「そんなこと、今はどうでもいいでしょ!」
三七三と呼ばれた長身の女が叫んだ。
「それよりも瑕那、あんた一体どうして、」
「私 ―― あの後、創世会に行ったんです」
瑕那がぽつりと漏らした言葉に三七三の顔色が明らかに変わった。
アタシには意味の分からなかったが、それはどうやら部屋中に沈黙を広げるほどの威力を持っていたようだ。
「―― どうしてそんなことを、」
しばらくして、三七三が小さく呟いた。
その呆然とした顔を前に、瑕那が乾いた笑顔を零す。
「私、馬鹿ですよね。危ないって分かってたのに」
「じゃあ何故、」
「―― フツウが嫌になったんですよ」
瑕那は依然と辛そうな顔をしていたが、口調は淡々としていた。
そして弱った体を無理やりに奮い起こす。
まるで痛みを押し殺すように。
感情を殺いでしまったかのように。
同じだ、と思った。
譲を失ったあのときのアタシと同じ。
「ここに通っていると時々、自分の平凡さがどうしようもなく嫌になることがあるんです。皆それぞれ特別な能力を持ってるのに私だけどうして、って」
「それは、でも」
「そんな私に創世会の人は、“変われる方法”を教えてくれたんです。私、あのとき体験会であったこと、全部は言ってなかったんです。あの日、あの箱の中で私は ―― 教祖様と会ったんです」
再び訪れる沈黙。
「それで私、変わってみようって。私も ―― 皆みたいに特別になれたらって、思って、創世会に入信して、教祖様の一部を、受け入れたんです」
「じゃあ、」
重苦しい静けさを払い除けるように、柊木沢が立ち上がる。
「その教祖の野郎のところにいけばなんとかなるんだな。そうだな、三七三」
「え、急にそんなこと言われても ……。多分ドクターに診断してもらったほうがいいわ」
「―― 無駄ですよ」
瑕那が硬い声で宣言した。
「もう、無理なんです。だからドクターは呼ばないで下さい」
「だってそんな」
「お医者さんは、もう沢山なんですよ」
「瑕那、あんた ……」
悲鳴のように零された言葉の意味。
それにはきっと、父さんが深く関わっているのだろう。
「無理なんですよ、もう」
瑕那は自分自身をも納得させるように繰り返す。
「その教祖様にも言われました。私の体は多分耐えられないだろうって。十中八九、死んでしまうって最初に告げられました。でも私、それでもいいって言ったんです。だって私、」
―― どうせ死んじゃいますから 。
「きず、な」
「いいんですよ、三七三さん。私、気づいてましたから。この体に溜まった“毒”の量は、もう手遅れなんだろうなって」
「毒ってなんだ?」
柊木沢が声を荒げ、そして三七三を見た。
「お前、そのことについて知ってたのか?」
「…… ええ。知っていたわ。叶に教えられていたもの、瑕那は幼少期に大量の、ありとあらゆる毒薬を使って、人体実験をされていた、と」
―― 人体実験。
薄々は気づいていた。
あの薄暗い地下室で父が何を“飼っている”かも、そしてそれらを使って何をしているかということも。
それでもアタシは見ないフリを徹底した。
また失うのが怖かったから。
次は自分だと思っていたから ――
「…… マジかよ」
さすがにその事実には柊木沢も絶句しているようだった。
放心状態で椅子に座り込み、片手で頭を抱えている。
三七三は強く唇を噛み、例の女はただ全てを静観しているだけ。
そんな中、カイだけはずっと瑕那を見つめていた。
「あの、お姉さん?」
ふいに声を掛けられ、アタシは顔を上げた。
「その、こんなときに言われても何だとは思うのですが ―― ごめんなさい」
突然の謝罪にアタシだけではなく、その場にいた全員の視線が瑕那に集まる。
「私は、お姉さんの弟さんを“サンプル”にして生み出されたんですよね?」
「…… 知ってたのか?」
「お父さん、あ、春日部博士がいつも言ってましたから。いつもいつも私たちに、言ってましたから」
アタシは、何も応えられなかった。
父さんが譲について憶えていたことよりも、
彼女が語られたような酷い虐待を受けていたにも関わらず、あの男を、“父” と呼んだ事が
―― それがたまらなく辛かった。
「…… 何で、」
「はい?」
「何でお前が謝るんだよ?謝るのは父さんや、お前を助けようとしなかったアタシだろ?」
「でも、私は」
「お前は悪くないんだよ!」
叫んでいた。
叫ぶことしか、できなかった。
この子は、瑕那の世界には父さんしかいなかった。
だからどんな責め苦を受けても慕い続け、頼ることしかできなかった。
それなのに、父さんはこの子や、この子と一緒に生まれてきた子供たちに譲の死の責務までを押し付けようとしたのだ。
誰がこの子を解放してあげられるのだろう?
死に掛けの小さな体を抱きしめて、守ってあげられるというのだろう?
「俺には、分からないけどな」
静かに落とされる声。
「柊木沢、さん?」
「お前の生い立ちがどうで、体の状態とか毒とか、そういうことは全然分からんけどな。瑕那、」
そして困惑する瑕那に近づき真正面から見据えると、その体を片手で引き寄せた。
「 それでも俺は、お前に ―― 生きていてほしいと思うよ 」
「っ ――!」
瑕那がその顔をシャツの胸板に押し付ける。
そして、静かに泣き始めた。
想いが溢れ出したように、ただ肩を震わせ泣いていた。
「というわけで、俺はこいつを連れて創世会本部に殴り込みをかけます。異議のある人は?」
「当たり前です」
それまで冷たい蝋人形のようだった厳しく女が言い放つ。
「それがどれだけ無謀なことかお分かりですか?それに教祖は“異端者”と成り得る者の存在を感知することができるという話ですよ?もしも彼が瑕那さんを“異端者”であると看做していたら、貴方がたが向かって来るということも事前に把握できるという意味を持つのです。ですから、」
「僕は行きますよ」
「な、」
予期せぬ人物からの反撃に、女は口を噤む。
カイはいつになく真っ直ぐな視線で瑕那と柊木沢を見ていた。
「僕もあの日、教祖と会っています。どういう原理なのか、それが本当だったのか分からなかったので今まで黙っていました」
「貴方は ……」
「でも、一回遭遇している分、それなり対処できます。それに “彼” も、興味を抱いているようですから」
「じゃあ、それで決まりだな」
柊木沢は腕を組んでストレッチをしている。
「俺は一旦家に戻って準備してくる。その間に三七三は瑕那について、カイは車を手配しろ」
それから、と柊木沢はまた黙り込んでしまった女の方へと向き直った。
「明ちゃんはこの件を叶のじいさんに伝えてくれても構わない。これは俺の独断だから罰するなら俺を、ってな」
「…… 止めても聞かないのでしょう?」
「勿論」
「了解しました。それなりの事後責任は負って貰います」
そう事務的に言い残すと踵を返し、アタシが作業を途中で放り出してきた部屋に入って扉を閉めた。
「さて、準備に取り掛かりますか」
柊木沢の言葉を合図にそれぞれが動き始める。
「アタシも ―― アタシも、連れて行ってくれ」
思わず声を上げていた。
「アタシもその何たら会に行かせてくれ!きっと役に立つから!」
「どうしてだ?」
「それは、」
アタシは土気色の顔に汗を浮かべる瑕那を見た。
その視線は微弱ながらもこちらの方へ向けられている。
それだけで、心を決めるには十分だった。
「アタシはもうアタシの“家族”を ―― アタシの 妹 を傷つけさせるわけにはいかない」
だからこの手で守るのだ。
二度と後悔しないように、もう逃げたりしなくていいように。
これは罪滅ぼしでも贖罪でもない ―― アタシ自身の覚悟だ。
「おねえ、さん」
アタシは不安そうに揺れる瞳にそっと微笑む。
「心配すんな。こう見えてアタシ、結構強いから」
「…… ありがとうございます」
「―― “結構”じゃなくて、“かなり”だろ?」
拘束が解かれる。
自由になったアタシの肩を柊木沢が馴れ馴れしく抱いた。
「勝手に触んなよ」
「俺さ、お前と遊んでて久しぶりに楽しかったんだよなー。よく見たら顔も好みだし、仲良くしようぜ」
「全力で断る」
アタシの立場はさしずめ捕虜ってところだろう。
あの陰険そうな眼鏡女が“尋問”を諦めるとは思えなかった。
しかし今は考えないことにする。
「ということでカイ、しばし共闘になるな」
「うん。でも、芽衣子には言えないね」
「そりゃそうだ」
そう言ってアタシは笑った。
アタシは今、あの子の為に動こうとしている。
それが何故か不思議なほど心地良かった。
過去を忘れるわけじゃない。
けれど、いつまでも引き摺られるわけにもいかない。
それら全てを抱擁し大切な者を護れるような ―― そんな強い人間になりたいとアタシは切に願った。
今度こそ、間違ってしまわないように。