10. < 捜査一課刑事、柴多 行哉(しばた ゆきなり)の事件簿 >
10. < 捜査一課刑事、柴多 行哉の事件簿 >
俺の名前は柴多 行哉。
警視庁捜査一課に勤務して早三十数年。
妻にも先立たれ子供もいない俺にとっては、仕事が人生の全てのようなものだった。
俺がここでしたいのはそんなかっこいい話じゃない。
若かりし日の俺が悪人をばったばったと引っ捕まえる話が聞きたい奴は出直してくるといい。
出直してきたところで俺の口から語れるのは、失敗と失策に塗れた栄光の残り滓みたいなものだけ、なんだけどな。
俺の肩書きは警部だ。
世の中には誤解している奴も多いと思うが、日本警察に“刑事”という役職は存在しない。
私服で捜査にあたる警察官を俗称でそう呼んでいるだけだ。
しかし世界には刑事と呼ばれる人間もたくさん存在している。
だからコロンボさんの存在を根底から疑う必要はない。あいつは正真正銘、本物のデカだ。
そんなわけで俺は警部で刑事なわけだが、ここではあえて刑事であるという設定で話を進めていこうと思う。
設定も何も、本当に刑事なんだから断りを入れる必要も無いのだが。
まあとりあえず聞いてくれ。
長い間この仕事を続けてきたせいか、俺は人の仕出かす大半の事に驚かなくなっていた。
当たり前だよな。
人間は大昔から顔を付き合わせれば戦争しているような生き物だ。
民族浄化を目的とした特定人種の大量虐殺や核兵器を考案するような人の存在こそが、今まで報告されてきたどんな犯罪より恐ろしいのかもしれない。
本当のところ難しいことは俺にもよく分からないし、敢えて考えないようにしている。
とにかく、俺は数少なくない人間を見てきた。
その大多数が何らかの犯罪の容疑者かそれに準ずる何かだった。
俺達本庁の刑事が担当するのは大抵前書きに“凶悪”なんて文字がつく連中ばかりだ。
婦女子連続暴行殺害犯の男。
十年間で三十人近くの女性をその手に掛けた。
被害者にはまだ小学生だった女の子も含まれている。最低の野郎だった。
連続暴力団構成員襲撃犯の青年。
日本から暴力団を排除しようと個別に襲撃を仕掛けた。
確かに考えは正論でもやり方が悪かった。自分が人殺しになっちまったらそれで全てがお終いだ。
老人ホーム壊滅事件を引き起こした女。
介護士だった女は鬱憤の捌け口を老人の殺害に見出した。
六十人近い老人と同僚を食事に混ぜた毒で殺した挙句、建物に火を点けて一帯を焼け野原にしちまった。
これ以外にも目を覆いたくなる悲惨な事件はまだまだ沢山ある。
事件そのものに動じなくなったとは言ったものの、その残虐性・非人道性は変わらない。
幸か不幸か、先述した事件の犯人たちは既に他界している。
この日本という国で未だ存続している死刑制度のおかげだった。
それについての論議はまた別の場所で、他の誰かがやるべきだ。俺に言えることは何も無い。
ただ、こう思うことはある。
少子化を叫ばれる世の中でも赤ん坊は絶えず生まれてくる。
その中にはどう足掻いても世界には馴染めない、異端的な存在もいるのではないか、と。
無論、奴ら自身の責任に変わりは無い。
たとえ生い立ちがどうであれ、犯した罪が軽くなるわけではないというのが俺の見解だ。
けれど、もしも世界が違ったら ―― 奴らのしてきた事も受け入れられるのかもしれない。
男尊女卑が普及している世界だったら、
粛清による正義が認められている世界だったら、
老いていくだけの非力な生命を抹消することが正当化されている世界だったなら ――
それも所詮は過程の中の話だ。
今の世の中は狂ってはいたが、どう引っくり返っても奴らの行いは認められるはずが無い。
せめて次に生まれ変わってくるときはもう少しだけこちら側に適応していることを願うばかりだ。
あの少年はどうだったのか。
十五年前の暑い夏の日、俺はあいつと出逢った。
カビと汗の臭いが充満した取調室で何度か言葉を交わし、俺は多少なりともあいつと分かり合えたと思っていた。
それがどう間違ってあんな結果になったのか。
結局、あいつもこの世界では理解されない異端的な存在に過ぎなかったのかもしれない。
真実は闇の中、だ。
それでも俺は思い出さずにはいられない。
あの時、振り返って俺を見たあいつの目。
あいつの顔は笑っていた。
血だらけになって笑いながら、あいつは同時に ―― 泣いていたのだ。
** *
「…… うーむ。」
そんな俺は今、自分のデスクの惨状に首を捻っていた。
どうすればこうも汚くなるのだろうか。
俺はただ、他の連中と同じように仕事をしていただけだというのに。
「まあ、仕方がねえか」
片付ける気もなかったので、なるべく端に寄せて誤魔化した。
そして積み重なっていた新聞記事のコピーを手に取ると、既に何度か目を通しているそれに再びペンを走らせる。
「“江東区に新たな首無し死体”、ね」
捜査権が正式に特捜にうつってから一ヶ月弱。
この捜査一課ではその話題を口にすることすらタブーのようになっていた。
そんな中、同僚のいつにも増して冷たい視線を浴びながら、俺はただ一人事件の経過を追い続けている。
江戸川区の一件に関してはその後も進展はないようだった。
目黒区の事件同様、失われた首は依然発見されないまま。
その行方についてもこれといった手がかりはなく、連日ワイドショーでは犯罪心理学者やプロファイラー達が熱っぽい論議を展開させている。
「もはや神隠し、だな」
俺は新聞の“首”の文字に赤く丸をつけた。
そもそも犯人は何故、被害者の頭を持ち帰る必要があるのだろうか。
世間では犯人はハンニバルのレクター教授よろしく人食家であるという説が有力だった。
「人間の脳みそなんか食べて何になるんだろうなあ。美味しくもなさそうだが」
「…… 少なくとも、オレは柴多さんの脳味噌は食べたいと思いませんけどね」
目の前に某大手ハンバーガーチェーンの袋が降ってくる。
見上げるとうんざりした顔の浦美澤がYシャツの襟を揺らし、風を送り込んでいた。
「お昼、何でもいいって言うんで適当に買ってきましたよ」
「ポテトはLサイズだろうな?」
「コーラもダイエットじゃなくてゼロカロリーにしましたよ」
「うむ、ご苦労」
「…… 何でもいいって言うわりには注文が多いですよね」
嘆く部下を尻目に、俺は袋の中からダブルチーズバーガーを取り出すと無心で齧り付いた。
ネズミの肉だろうがミミズが入っていようが、美味しければそれで良しというのが俺の心情だった。
「で、また例の“首無し”の話について調べているんですか?」
「あん?まあ調べてるってほどでもないけどな」
「もうやめたほうがいいですって」
小声で囁きながら、浦美澤はストローの先端に歯形を立てる。
「部長もそれに関してはやけに神経質ですからね」
確かに部長は苛立っていた。
その苛立ちは一課全体に蔓延し、ここ最近は停滞した梅雨前線のような沈鬱した空気が立ち込めている。
「俺が呼び出されるまであと三日ってとこだな」
「オレは巻き添えを食らうのだけは嫌ですからね」
「なんだよ、“放置という名の黙認”に徹するんじゃなかったのか?」
俺はポテトを頬張った口でもしゃもしゃと呟く。
それについて答えを出すことはなく、浦美澤は真剣な顔で俺を見ていた。
「―― ねえ、柴多さん」
「何だよ急に。俺はそっちの気はないぞ?」
「どうしていつもそう茶化すんですか!オレだって柴多さんみたいな汚いおっさんに手を出すくらいなら、寺に入って頭丸めますよ!」
「…… 声がでかいぞ、浦美澤」
「あ。」
数名の同僚が驚いて逃げていく。
その口元には下卑た笑いが浮かんでいる。
「あーあ、ありゃ完全に聞こえたな」
「だ、大丈夫ですよ!だって別に内容が内容ですし、オレと柴多さんがどうこう、とか」
「刑事は想像力が命だぞ?さしずめ情事の縺れによる痴話喧嘩か、お前がツンデレだと思われてるだろうよ」
「ツンデレって今時死語でしょうが!ってオレ、怒るところはそこじゃない!」
自分で自分に突っ込みを入れる浦美澤。
何とも器用な奴だった。
「で、改まって何の話だ?」
「ああ、そうだった!柴多さんがこの事件にここまで執着するのって、あの十字製薬のビルで見かけた男のせいじゃないですか?」
ずぶずぶずぶ。
俺の手の中にあるポテトが、ケチャップの海に沈んで行く。
「…… 何の話だ?」
「いやいやいや、図星でしょうがその態度は」
「浦美澤君が何を言おうとしてるのか、おじさんにはまったく分からんなぁ」
コーラの容器と手にとって、ストローから吸い込む。
ずるずると嫌な音が立った。
「柊木沢さん、それ空ですから」
「…… 氷が溶けるのを待ってるんだ」
「じゃあ待ってるついでに聞いてくださいよ」
浦美澤がため息混じりに呟いた。
「あれからオレなりに調べてみましたよ、十五年前の事件についてとかね」
ぐしゃ。
紙の容器が哀れな断末魔と共に潰れていく。
それでもまだ俺はストローから口を離せないでいた。
「オレもすっかり忘れていましたよ。十五年前っていったら“あの事件”で日本中大騒ぎだったじゃないですか?まあオレもまだガキでしたからしょうがないっちゃしょうがないですけどね」
「…… 俺にとっては今もガキみたいなもんだよ」
「どうでもいいですよ、そんなこと。でも事件の存在自体は知ってましたけど、その担当が柴多さんだったってことはオレも知りませんでしたけどね」
沈黙。
同時にそれは肯定でもあった。
「確かにあの事件の犯人が生きていたら、十字で見た似非ジャーナリストの久溜間って男くらいの年でしょうね」
―― 生きていたら
その言葉がオレに突き刺さる。
「例の“花園家惨殺事件”の犯人、花園 衛の死刑は十年前に執行されてますよ」
史上最年少の死刑執行例。
それは日本だけでなく、海外でも大きな反響を呼んだ。
執行日当日、どこかから漏れた情報に刑場は様々な団体が集まって抗議運動を繰り広げていた。
しかしそれは確かにその日、執行されたのだ。
にも関わらず、俺は未だにあいつの死が信じられなかった。
―― 刑事さん、僕はね おかしくなっちゃったんですよ
そう言って笑うあいつの顔が今もこの目に焼きついて、離れない。
*
花園一族。
十八世紀の終わりに突如その姿を現した謎の集団。
一族とはいっても、始めは他人の寄せ集めだったのだろう。
これはあくまでも噂に過ぎないのだが、花園家の人間はかなりえげつない方法でその財を成したそうだ。
暗殺家業に奴隷売買、表にできない商売のほぼ全てを掌っていたといっても過言ではない。
現代においてもその説は濃厚だった。
花園とは主に、花狩と花守という二つの分家で成り立っていた。
代々党首を務める人間はそのどちらからか輩出される。
花狩家の人間が荒事や実務を担当し、花守家が一族の内政や保持を任され、その全てを花園姓の人間が管理する。
何世代にも渡って繰り返されてきたシステムだった。
花園 衛は、その花狩家の息子と花守家の娘との間に生まれた、いわば両家の架け橋のような存在だった。
周りの人間は彼が温厚で聡明な普通の子供であったと述べている。
けれどそれはあくまでも他人の意見だ。
傍から見た印象など、解釈次第でどうにでも変わる。
生憎、通っていた学校の関係者や近所の住人以上の証言は得られなかった。
何故なら花狩家と花守家、そして花園家のほぼ全員が死亡していたからである。
犯人は勿論、件の衛少年だ。
使用人の一人から通報を受けた警察が到着したとき、既に事はどうしようもなく終了していた。
まるでフランスの古城のような本家から巨大な正門に続く長い花道には、事切れた人の死体が野原に咲いたアネモネのように点在していた。
逃げようとしたところを襲撃されたのだろう。
どの遺体にも背後から鈍器、または刃物で刺殺された痕が残されていた。
家の中にはさらなる地獄絵図が待っていた。
窓という窓を閉め切られていた為か、そこら中に血の臭いが充満していた。
真夏の午後ということもあって腐乱速度も速いようだった。
死体の数は減ることなく、至るところに転がっていた。
その姿もメイドや使用人から子供、高そうなスーツを着た男たちやそのボディーガードまでと節操がなかった。
幾度となく殺人現場を見てきた俺も、さすがにあのときは絶句した。
後ろでは若い警察官が次々に吐き戻している音がしていた。
使い物にならなかったので、俺は一人で家の中の捜索にあたった。
途中、大きな円卓を擁した宴会場のような場所で見たことのある顔の死体をいくつか発見した。
それは裏世界や闇商売で名を馳せていた花園一族の中でも頂点に立つ人物達だった。
一族の定期会議の最中に予期せぬ襲撃を受けたのだろう。
―― 対抗組織の差し金、あるいは内部分裂による勢力崩壊。
俺は最上階にある小部屋でその少年を発見するまで、そんなところだろうと思い込んでいた。
初めはその少年も死んでいるのだろうと思っていた。
屋根裏に位置する隔離されたようなその部屋で、少年はベッドに横たわった女に添い寝していた。
体は血に汚れ、足元にはナイフや殺害に使われたと思われるハンマーやバット、おおよそ武器として人を殺傷しうるに値する無数の品々が転がっていた。
俺が銃を構えて近づくと、少年はゆっくりと起き上がって眠そうな顔で俺を見据えた。
その両目は迷惑そうに細められていた。
―― 静かにしていてください、母が寝ているんです
母というのは隣の女のことだろうか。
遠巻きに見ていても、彼女が既に死亡していることは明らかだった。
何にせよ、俺は生きているその少年を保護しようと近寄っていった。
お母さんが寝ているのならそっとしておいてあげよう、それよりもこっちに来て話を聞かせてくれないかな?
そういった類のことを言ったと思う。
すると少年はきょとんとした顔で首を傾げた。
―― 何言ってるんですか?母はもう死んでいますよ
まあ僕が殺したんですけどね
少年は何気ない口調で呟くと、ぴょんとベッドを降りて俺の方へと近づいてきた。
その後、少年は何の抵抗を見せることなく保護された。
事情聴取の際に、彼は自分が家中の人間を殺害したことをあっさりと認めた。
―― 僕ね、おかしくなっちゃったんですよ
何回目かの事情聴取で少年はぽつりと漏らした。
発言の内容のわりに彼の口調は冷静だった。
最初の精神鑑定の結果でも正常だと判断されている。
それでも彼は自分を異常であると宣言した。
―― 母もおかしかったって、おじさんが言ってました。これって遺伝なんでしょうか?
少年は自分の母親が父親を殺害した事、それを親戚一同が隠蔽し、母親はあの屋根裏部屋で幽閉されていた事などを語った。
その証言通り、彼の父親らしき人物の遺体が地下室から発見された。
―― だから何か全部がどうでもよくなっちゃって、みんな殺しちゃいました
その笑顔には幼さが前面に押し出されていた。
無理もない。
たった数時間で百名近くの人間を殺したと供述する少年は、まだ十三歳。
被害者の中にはその手の状況に場慣れした手勢もいたはずだ。
まかり間違ってもこんな年端もいかない子供に易々と殺されるわけがない。
しかしその後実施された少年の身体能力テストで、俺を含む目撃者全員がそれを認めざるを得ない状況に陥ることとなった。
簡単な筋力測定や基礎運動能力を調べた結果、少年はごく一般的な能力を有していることが分かった。
ただ後日行われた模擬戦闘で、少年は訓練された兵を相手に武器も無く圧勝し、それでも戦闘をやめなかったことから数人の大人に取り押さえられる事態にまで発展した。
介入があると、少年はすぐに兵士から手を離し大人しくなった。
しかし介抱を担当した医師の証言によると、あと数秒遅ければ男の首は折れていただろうとの話だった。
―― なんかこう、スイッチが入ると駄目なんですよね
これも狂ってるからでしょうか、血のせいでしょうかと少年は俺に訊ねた。
問われたところで俺に答えが見つかるわけもなかった。
少年には何人もの弁護士とカウンセラーがついた。
彼らは少年の更生こそが人類の威信を賭けた最後の可能性とでも言わんばかりに、日夜を問わず連日のように少年の元へと通いつめた。
俺としても、できることならこの前途有望な少年が自らの過ちに気付き、いつの日か再び自分の人生を歩んで欲しいと切に願っていた。
そして少年も俺に興味を持ったのか、自発的に謁見を望んだ。
―― ねえ刑事さん、僕はもう一度やり直せるでしょうか?
そんなある日、少年は俺にぽつりと溢した。
季節を跨ぎ、十三歳だった少年もひとつ歳を重ねていた。
あの日とまるで変わらない澄んだ瞳で聞かれた俺は力強くそれを肯定した。
君ならできる。
過ちを認め罪を償って、君が奪った人たちの人生まで生きるんだ。
俺がそう諭すと、
―― 刑事さんは優しいですね
そして、有難うございますと述べた。
それから数週間後、少年は遠い田舎の隔離養護施設のような場所に移されることとなった。
精神の安定を認められ、自傷や他傷に走ることもないことからの決定だった。
その場所で少年は他の問題を抱えた子供たちと一緒に学び、生活を共にしていく事となるのだ。
俺は彼の門出を喜んだ。
そんな少年の名前も姿も知らない世論は、人殺しに甘すぎるとその決定を痛烈に批判した。
正直、後に俺自身もそれを強く感じることとなった。
少年は過ちを認める気も、罪を償う気も ―― そして生きる気さえもなかったのだ。
少年が養護施設へ出発した早朝のことだった。
前の晩からの仕事がやっと片付いた俺は、ひさしぶりの眠りを貪っていた為に少年の見送りには立ち会えなかった。
八時過ぎ、一本の電話が鳴る。
いつまでたっても鳴り止むことの無いそれを仕方が無く取り上げると、俺は向こう側から告げられた事実に一瞬で眠気を吹き飛ばされる。
少年が輸送車の中で担当官を殺し、輸送車の外で一般人数名を殺して今も逃亡している。
俺は現場へと急行した。
たどり着く頃には既に少年は無数の機動隊に銃を突きつけられ、手を挙げて静止しているところだった。
そんな中、少年が俺の視線に気付く。
全身血まみれな姿は、まるで初めて出逢った時のようで不思議な既視感を覚えた。
―― やっぱり無理でした
少年はそう言って、笑う。
可笑しそうに笑って、そして一方で泣いていた。
―― 僕はどうやら本当に、おかしいみたいなんです
合図があった。
機動隊の一人が麻酔弾を打ち込む。
そして、少年の細い体はゆっくりと後ろ向きに倒れた。
それから幾多の審問の後、少年が十七歳の夏、死刑判決が言い渡された。
日本の法律を覆してまでの判決だった。
少年の手によって作り出された死者の数は三桁に達し、悪逆な所業に反省の色もなく、更生は永遠に望めないだろうというのが端的な理由だった。
弁護団の懇願も虚しく、少年はその判決を受け入れた。
少年が輸送車を脱走した後、俺はこの一件から外された。
上は俺を責めていたのではなく、むしろ俺の精神状態を考慮しての判断だった。
あれについては忘れなさい。
上司にそう説得され、同僚にも心配されていた俺は忘却を試みた。
しかし表面上では忘れた振りをしていても、それは唐突に甦っては俺を苛めた。
何がいけなかったのだろうか。
俺にできることが他にもあったんじゃないか、少年からのサインを見逃していたのではないか。
今となっては分からなかった。
俺は精神科医でも児童心理学者でもない。
それでも俺は人間だ。そしてあの少年も、周りが何と言おうとも人間だった。
人同士ならばいつかは分かり合えると思っていた若かりし日の俺の心は、その一件でぼっきりと折られてしまった。
担当を外された晩は妻が死んだ夜よりも酒を飲み、一人孤独に涙したものだった。
それから一年後の秋、
俺がようやく回復の兆しを見せ始めた頃
批判と非難の嵐の中で少年の刑は執行された ――
*
「俺さ、遺体を見せてくれって頼んだんだよ」
「…… は?」
「死刑が終わってから刑場に行って、開示の要求してみたんだよ」
「聞くまでもないですが、一応聞きます。それで?」
「見せてもらえなかった」
「やっぱり」
当たり前である。
そんな事は俺だって赴く前から分かっていた。
しかし自分の目で見るまでは納得ができなかった。
俺の中であの少年の笑顔と死体の二つは重なり合うことの無い概念だった。
「でも刑は執行されたんでしょう?新聞とかニュースでもばんばんやってましたし」
「そうなんだよなぁ」
「仮に、ですよ?もしも仮にその死刑囚が何らかの形で生き延びていたとしても、世の中に一般人として紛れ込むことは不可能に近いですよ」
「そうなんだけどさぁ」
「そうなんですよっ!」
浦美澤は終わらせるように吐き捨てて、机をばんと叩いた。
「だから、あの久溜間って男は全然違う赤の他人です。名前と身分を偽っていたのは謎ですが、ただそれだけの話です。本当にもう忘れてくださいよ!」
「そうかもなぁ」
「そうですよ!」
俺としても特に確証があったわけじゃない。
ただ横顔が何となく少年に重なっただけだ。
忘れていたあの事件を記憶の底から呼び起こされて、混乱していただけなのかもしれない。
しかし、
「―― それはそれ、これはこれ、だ」
俺は立ち上がった。
「確かに十五年前の話は忘れる。今頃後悔したところで全てが遅いからな。が、だからといって首なしの一件に関わることをやめるわけじゃない」
「はあっ!?て、どこに行くんですか!?」
「ちょっと野暮用。出掛けるから付いて来るなよ」
「お、オレはどうしたらいいんですか!?」
「んー俺のデスクの整理でもしといてくれ」
「またですかー!」
浦美澤の悲痛な叫びをその場に残し、俺は捜査一課を後にした。
*
「…… あいつを信用していないわけじゃないが、な」
下降するエレベーターの中で俺は思う。
浦美澤の影にはどうしてもその祖父、警視庁総監の威光が付いて回った。
あいつを連れ立って下手に動けばその分圧力が掛かるのも早いだろう。
総監は孫の経歴に汚点が付くことをみすみす見逃すような人間ではなかった。
「だったら俺じゃなくて、他にもっと優秀な奴がいるだろうに」
それは上の命令を素直に聞くという意味での“優秀”だ。
そう。
総監は捜査一課のようなある意味汚い仕事を請け負う下っ端などではなく、もっと官僚コースを狙える特捜のようなエリート部署に孫を送り込めばいいのだ。
しかし彼が敢えて選択したのは捜査一課、そして直属の担当は俺。
「たたき上げでの昇格なんて面倒な手段を取るがない」
とすると、必然的に他の詮索をしてしまうのである。
「―― まあ、俺ごときを総監のお孫様が直々に監視、っていうのも突拍子もない話だがな」
俺は地上階に到着したエレベーターを出て誰ともなく呟いた。
「ていうか、既に自意識過剰なレベルだな」
わっはっはと笑う俺を見て、受付嬢の一人が露骨に嫌な顔をした。
…… やれやれ、最近の若い子は礼儀を知らないのだろうか?
ここは警視庁本部だというのにその髪は明るい色に染まり、化粧の度合いもきつかった。
「そういえば、」
俺はふとあの特捜所属のいけすかない女捜査官の事を思い出した。
赤々しい唇の目立つ整った容姿をしていたものの、体全体から隠しようも無い毒婦の香が滲み出ていた。
あんな外面に見事なくらい騙されていた浦美澤は俺からしてみればまだまだといったところだろう。
名刺を渡してから早数週間が過ぎたが、その後の進展はあったのだろうか。
「確かあの女、名前はなんつったかな。えっとアカオギ?いやアカイシ、アカニシ ……」
「―― 緋咲さん、」
「おお、そうそう。アカサキだ」
ぱちんと指を鳴らすと、俺は思い出させてくれた誰かさんに心ばかりの感謝をしようと目を向ける。
見れば数メートル離れた場所に暗い顔をした中年の男が立っていた。
それはどう贔屓目に捉えても警察関係者には見えなかった。
裾の汚れたコートを羽織った姿には傍観しているこちらが暑苦しさを感じた。
「…… 金さん、こちらの方には来ないようにとあれほど、」
俺はとっさに観葉植物の陰に隠れた。
さきほどと同じ受付嬢が眉を顰めて、俺から距離をとった。
一昨日風呂に入ったばかりなのでそう臭くもないはずなのだが、あ、いや一昨昨日だったかな?
とにかく俺は特捜の緋咲と金と呼ばれた男の姿を眺めていた。
緋咲は不自然でない程度に辺りを窺っているが、俺は見つからなかったようだった。
そして男を促すと、ロビーの一角にある比較的目立たない位置へと移動して行った。
それを確認すると、俺は背広の内側からボロボロになった携帯電話を取り出した。
今日はちゃんと充電もできている。
そして慣れない操作の果てに浦美澤の番号を呼び出した。
『…… もしもし、こちら腐海の森です。ユパさまですか?』
「誰だそれは?」
『何でもないですよ。で、野暮用は終わりましたか?』
「いや、これからだ」
電話越しに浦美澤の長い溜め息が聞こえてきた。
『で、そんなお忙しい柴多さんは俺に何の御用ですか?』
「いやお前に耳寄りな情報をご提供しようと思ってな」
『嘘くせー』
「信じる者は救われるぜ?お前の大好きなアカサキさんが一階のロビーで男と密会中だ」
『…… マジっすか』
「おうよ。で、物は相談なんだがお前、今から一階まで降りてきてあの女を張れ」
『はい?』
「ついでに会話の内容も軽く探っとけ、それで後で俺に報告しろ。以上だ」
『ちょ、』
俺は浦美澤の返事も待たずに一方的な会話を終えた。
万が一、緋咲に気付かれてもあいつならうまくやるだろう。
俺と違ってあいつはなかなか見られる容姿をしていた。
「まるで若い頃の俺を思い出すようですな、うんうん」
携帯電話に着けたストラップのぴぽぱ君(東京警察公式マスコット)に向かって頷く俺を見て、受付嬢はいよいよ嫌悪を露にする。
「―― さて、情報収集といきますか」
警察内部では何も聴き出せそうも無い。
それどころか、これ以上動き回ると色々と不味かった。
従って俺はこんなときの為の奥の手を発動させることにする。
「持つべきものは腕利きのクラッカー、じゃないハッカーだよなぁ」
本庁を出た俺は馴染みの酒場・<夜想曲>へと歩を進めた。