第19話
年が経とうとしていた。夏休みは新幹線のごとくあっという間に過ぎ去っていき、秋がすぐそこまで迎えに来ていた。衣替えで白一色になっていた制服も、紺色がまばらになってきたころだ。亨は一学期の頃、ほぼ毎日図書室へと赴き、生徒会長との日々を過ごしていた。夏休みに入ると、生徒会長も勉強に本腰を入れ始めて、一緒に話す機会はかなり減った。生徒会長と会うことを楽しみにしていた亨は、誰よりも夏休みの終わりを切望していた。
始業式が終わるとすぐ、亨は胸を躍らせながら図書室へといった。いつも開いていたはずの図書室は鳴りを潜めていて、中に人の気配は全くなかった。生徒会長が遅れることは一学期にも多々あったため、亨は図書室の前で待つことにした。しかし、いつまで経っても生徒会長が図書室に表れることはなかった。陽もすっかり落ちて、部活動生も帰路に着き始める時刻になって、亨も帰宅することにした。
結局始業式から一週間たっても生徒会長は図書室に姿を現さなかった、三年生の校舎にいって生徒会長の居場所を尋ねてみたところ、どうやら学校にも来ていないようだった。家に行ってみようとも考えたけれど、亨は生徒会長の家のことなど何も知らなかった。亨はただひたすらに、放課後図書室の前で生徒会長を待っていた。
すると始業式から十日ほど経った頃、放課後の図書室に生徒会長がやってきた。
「先輩」
「やあ。もしかして始業式の日から毎日ここにいたのかい?」
「はい、放課後が僕の唯一の楽しみですから」
「はは、殊勝なことだね」
生徒会長の顔は、とてもやつれていた。ほほの肉が削げ落ちて、身体も以前よりやせ細っているようだった。空気の抜けた風船のようにしおれている。
「先輩、大丈夫ですか? 顔色があんまり優れないようですけど。それに、痩せました?」
生徒会長は弱々しい手つきで図書室の扉を開けると、今にも消え入りそうな微笑を亨に向けた。
「そうかな、そんなに変わってないよ。それより、ごめんね。ずっとここにきてあげられなくて」
「僕は別に、大丈夫ですけど……」
以前の明朗とした生徒会長の姿はそこにはまったくなかった。ただただ、憔悴していた。
図書室に入ると、本の匂いが鼻腔をついて、懐古する。
「なんだかひと月来ないだけでだいぶ懐かしく思えますね」
「そうだね、あの頃はまだ……」
生徒会長はいつものカウンターに腰を下ろし、項垂れている。
「先輩、もしよかったら話を聞かせてくれませんか。なにか、あったんですよね? 僕なら、先輩の力になりますよ」
すると、生徒会長は乾いた微笑を亨に向けた。
「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ。わがままボタンはまだ持っているかい?」
「はい、特に使ってないですけど、まだあります」
「僕はわがままボタンはこの世にあってはいけないものだと、考えていたんだ。君はどう思う?」
「僕は、存在していても、特段問題はないと思っています」
生徒会長は亨の返答を聞いて、カウンターから腰を上げ、窓の方へと歩み寄った。窓を開けると突風が吹いて、生徒会長の髪がなびく。
「今は蓮見くんが羨ましく思える。なんでも忘れることが出来るって言うのは、君が思っているよりずっと素晴らしいことなんだ」
生徒会長が亨の方へ身を翻すと、双眸が滲んでいた。生徒会長はそのまま亨の元に歩み寄り、優しく抱き寄せ、強く抱きしめた。
「君は僕みたいになってはいけないよ」
亨は何が起こっているのか、理解することが出来なかった。ただ黙って生徒会長の話を聞いていることしかできなかった。生徒会長は亨から離れると、ポケットの中を弄り始めた。ポケットから手を出すと、その手には薄い丸型のガラス瓶が握られていた。
「今日は、これを君に渡そうと思ってね。ドライフラワーって言うんだ。花を乾燥させてあるんだ。ちゃんと管理すれば、かなり長くもつみたいだよ」
生徒会長はドライフラワーの入った瓶を亨に手渡した。
「これは、何の花なんですか?」
「これはね、勿忘草って言うんだ。花言葉は、私を忘れないで。この花言葉にはエピソードがあってね、ドナウ川の岸辺に咲いていたこの花を、とある騎士が恋人のために採ろうとして誤って川に落ちて、その時に恋人にこの勿忘草を投げて「私を忘れないで」と言い残したそうだよ。まあ僕と君は恋人ではないけど」
亨は一層、生徒会長のことが気が気でなかった。
「先輩は、僕が先輩のことを忘れると思っているんですか?」
「君が不変的であればあるほど、僕のことは忘れるよ。だから、これは僕のわがままだよ。もしそうなったときが来ても、忘れないでくれっていう、僕のわがまま」
「絶対に先輩のことは忘れません! 誓ってもいいです。先輩にわがままボタンのこと話して、初めて、誰かに頼ってもいいんだって思えたんです。先輩は僕を変えてくれた恩人で、尊敬できる人で、学年の垣根を超えた友達です!」
亨が熱を込めて生徒会長に訴えかけても、生徒会長の曇りかかった表情は一向に晴れない。
「もしかして先輩、あの記憶帳の中の言葉の意味が分かったんですか?」
ほんの一瞬、生徒会長の顔の筋肉がピクリと動いた。
「やっぱり、わかったんですね。教えて下さい、あの言葉の意味は何なんですか!」
生徒会長が呼吸を整えるように大きく息を吐いた。
「僕からは言えない。これは、君が自ら答えに辿り着かなくちゃいけないんだ」
生徒会長はカウンターの上に置いてあった図書室の鍵を手に取り、出入り口の方へと向かう。
「今日はもう終わりだ。明日からは僕も忙しくなるだろうから、ここには来れない」
生徒会長に何をいっても、この人の心を動かせることは出来ない、そう直感した。生徒会長の中には決して揺らぐことない確固たる考えがあった。亨はそれ以上声を掛けることが出来ず、為す術もなく図書室を後にした。
生徒会長は一言も発することはなかった。
亨は、鍵を閉める生徒会長を眺めていた。その背中はあまりにも弱々しく、なんとも頼りないものだった。一学期の頃の充実していた放課後を思い出して、涙が出そうになった。泣いたところでなにかが変わるわけでもないのに。
鍵を閉め終えると、生徒会長は一瞥もくれず、階段を下りて行った。
窓からS差し込む夕陽に当てられ。一学期の頃の生徒会長と過ごした日々が次々に想起される。唯一、心を許したと思っていた生徒会長に、わけもよくわからずつっけんどんにされ、悲しくて仕方がなかった。
しばらく立ち尽くしていると、手洗い場の水道から水がぽつりぽつり、滴り落ちる音が耳朶に触れた。
亨は、一人ぼっちになったんだと、痛感した。
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