83 逃げるのも悪くない。
スクリーム教は、大昔から南のこの国で信仰されている。なんといっても、聖女が直々に伝えたと言われているくらいだから。
そんな大きな宗教はやはり大きな組織として動いていて、各国に教会があるが、本部はここ、南の国にある。
「………僕はもと、この本部の………猊下の息子でね……。まぁいわゆる、跡取り息子ってやつだった」
来た道のあちこちに、この教えの神様である像があった。そんなところでそこまで立派な立場にいるのは………どれ程の重責なんだろうか。
「他にも候補はいたんだけど………結局、第一候補は僕だったんだよね」
思い出すように遠くを見ながら、ボソリと言った。
「それも良いかな、と思ってた。生きるには何かやんなくちゃいけなくて、それが義務として用意されてたら、やるしかないとも思ってた。だから多分、何もきっかけがなければ、僕は今ここにいただろうね」
「………きっかけが、あったと?」
「そうだね………」
ふぅ、と息をついた。
「………契機というより、変化かな。周りでなにかあったのでなくて、僕が変わった。それはきっと悪いことじゃないけど、認められることじゃない」
「………………だから、逃げた?」
「うん」
公爵は、やっとこちらを見て笑った。イタズラをしてみせた子供のような笑みだった。
「逃げるのも悪くない。それで友人ができて、恋人ができて、家族までできたから」
「どうしてそんなに、うまくいったんでしょうか?」
「運だよ」
冗談めかして笑いながら尋ねると、返ってきたのは拍子抜けするようなものだった。
「…………まるっきり、運頼みさ。でも、若いうちはそれくらいで良い。とくに僕なんか、そのころは守るべきものさえ何もなかったから」
………それはきっと、自分さえも。
口では軽くいうけれど、公爵の半生はきっと壮絶なものだ。
「………そうして守るべきものができてこの地に戻った、ということですか」
「ははは…………なるほど、そう考えれば確かに、大した美談だねぇ」
そんな話をしながら、他国での夜は過ぎていった。




