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大海の生き餌 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と、内容についての記録の一編。


あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。

 おお、こーらくん。着衣水泳、お疲れ様。

 どうだい、結構泳ぎづらかったろう? 濡れて冷たくなった服っていうのは、とたんに人肌が恋しくなるらしくてね。我々の身体に、いっそう強くしがみついてくるわけだ。

 普段はされるがままになって、文句のひとつも言ってこない服たちなのに、冷たさを感じたとたんに、すぐこれだ。実は、なかなか重たい愛を抱えているのかも知れないよ、彼らは。


 ――と、まあ冗談はこれくらいにしておいて。

 実際問題、水の中に放り出された場合、助ける側も助けられる側も、なかなかの負担がかかるものだ。

 濡れるだけでも体力が奪われるし、水の流れに逆らおうとすれば、なおさら疲れがたまる。そうして自重を支える心の弱ったボディというのは、予想外の重荷となって、救助側にのしかかってくるんだ。助けた側まで犠牲になってしまったという、痛ましいケースさえある。

 人を見捨てるのはよろしくないと、我々は道徳として学びながら育つ。だから、それにかなわぬ行動をとる時、抵抗を覚える人がほとんどだろう。

 しかし、溺れそうな人を助けようとするばかりに、厄介な目に遭った事例もある。その話を聞いてみないかい?

 

 私の地元は、今でこそ少しは名を知られた漁港になっているが、昔は細々と漁をしながら、その日の糧を得るのがやっとという生活を、送っていたと聞く。

 それが名を馳せるようになったのは、不定期的に、船のヘリからあふれんばかりの魚が取れる、大漁の時期が訪れるようになったからなんだ。

 それだけならば他の港に対する差別化には至らないんだが、最大の利点は、特に防腐措置を施さなくても、魚の鮮度が保たれる時間が、段違いに長かったらしい。

 炎天下の中、そのままにしておけば、たいていの魚ならば数時間と経たずに、すっかり傷んでしまうだろう。一方、そこで釣れた魚は、内臓を抜かなくても、数日の間。まるで先ほど釣り上げたと錯覚してしまうほど、新鮮さを保っており、実際に食しても問題がなかったとか。

 

 これは遠方より訪れた、商人たちの目に留まった。魚の保存法に苦慮していた彼らは、それらの魚を、海のない山国へ売りにいくことを考えたんだ。

 ほどなく、この商売は大きな利潤を上げることが判明し、多くの商人が港を訪れてお金を落とすことで、じょじょに港は潤い、大きくなっていく。それによって増した名声に応じて、更なる人が訪れる……と、ネズミ算式のごとき勢いだったとか。

 その時の利益が、今日の礎となったわけなのだけど、皆が富める生活に浸り始めた頃、とある事故が、そこで暮らす人たちに、不安の影を落とすようになったんだ。

 

 その事故から生還した漁師の話はこうだ。

 いつもは岸近くで魚を捕まえていた彼とその仲間たちだが、船に載せられる限度以上に獲れすぎて、やむなく逃がしてしまうことが多かったという。

 それをもったいなく思った彼らは、めいめいが金を出し合って、やや大きめの船を買い、仲間二人と共に道具を積み込んで、意気揚々と出発した。

 穏やかな波の上を、追い風に乗ってすべっていく船。沖へ出るにつれて、海はなおその青さを増し、深みと黒みさえも帯び始める。

 普段、漁場にしているところよりも、彼らは更に二里ほど沖に出ていた。船の上からでも、しばしば船体に寄り添うかのように、海面すれすれを泳ぐ魚の群れの姿を捉えることができる。

 ――これはいつも以上の成果を望めそうだ。

 船を止めると、彼ともう一人は投網の準備を始めたが、残る一人は、景気づけに一本釣りをする、と竿と餌の用意をし出した。いつも彼が行っている儀式のようなもので、彼も仲間も止めはしなかったんだ。

 

 しかし、竿を海に投げ込んでから、数秒と経たないうちに。

「うおっ」とうめく声と共に、海面に何かが飛び込む音がした。その源へ目を向けると、船のすぐそばで、わずかに上がった水柱が、海面へと落ち込んでいく姿がかすかに見られる。その脇には、彼がいじっていた竿が浮かんでいた。

 落ちたらしい。そう思って、二人が海面を見回していると、彼は少し離れた水の中から顔を出す。

 様子がおかしかった。泳ぎが達者なはずの彼が、顔を出すのがやっとという状態で、浮き沈みをするばかり。一向に、身体を横向きに寝かせて、泳ぐ体勢に移ろうとしないんだ。

 おぼれているのでは。二人は見て取るや、船を係留する時に使う長いロープを引っ張り出し、帆柱にくくりつけ始める。彼に向かって投げ放ち、手掛かりにせんがためだ。

 くくりつけたロープのもう一方の端を持ち、彼は船べりに足をかける。標的目がけて投げ込もうとしたのだけど、まさにその瞬間で、船上の二人は目を見張った。

 

 魚たちが、おぼれている彼の周りに群がり始める。それだけでなく、どうやら顔を出すのが精いっぱいの彼の身体を押しているらしく、その姿がどんどん遠ざかり、小さくなっていくんだ。

 慌ててロープを投げたが、届かない。先ほど目算した距離用に握ったもの。無理もなかった。けれど、事態はそれだけに収まらない。

 投げ込んだロープの先へ、魚たちが集まり出したんだ。その上、餌とかがついている訳でもないのに、次から次へとロープを口にくわえていく。

 思わずロープを引き寄せようとしたけれど、驚いたことに魚たちは一向にロープを離そうとしない。待機していた一人も加わって、二人がかりで挑んでも、状況は変わらない。

 引っ張って、引っ張って、手のひらに血がにじむほどに引っ張って、それでも引っ張り切れず、ついに二人は綱を離してしまう。

 魚たちはというと、変わらず、海に落ちた彼を包囲・護送しつつも、綱をくわえた組も、食らいつき続けるんだ。

 予備の綱はある。しかし、今の状況下では同じことをしても、先駆者の二の舞になる未来が見えた。

 船は魚たちの恐るべきあごの力に、引っ張られ続けている。海に落ちたであろう彼の位置は、もはや海面に浮かぶ、白いあぶく程度でしか視認できなかった。

 もう、どれくらい動いただろうか。晴れていた空も陽がかげり始め、夏だというのに、震えるような底冷えさえしてくる。

 引っ張られる綱を切り離し、早く逃げ出すべきだ。船上の二人の頭が訴え出したものの、落ちた彼を見捨てたくない。魚たちと根競べしてやる、という気持ちもあり、踏ん切りがつかなかったという。

 

 すでに船上の二人は、船の上にもたれかかりながら、魚の行く末と、自分たちの戻るべき方向を見失わないよう、遠くに見える陸地をにらみつけていたんだそうだ。

 衰えない魚たちの疾走の中で、綱を投げた彼は、ふと目に留まったものがある。

 海がますます黒みを増していた。けれども、それは単純に深いところへ赴いたことが、理由とは思えない。

 なぜならその黒は、船体の下から漏れ出すようにして、外側へと広がり出したからだ。

 一秒一秒、その版図を広げつつ、泳いでいる魚たちの下を通って、拉致されている彼の元へと、その身を伸ばしていくんだ。

 何かがいる。とてつもなく大きいものが、この下に。

 引っ張られ続け、進行方向に傾きかけていた船体が、少しずつ持ち直し始める。それどころか、今度は反対方向へとのけぞり出したんだ。

 ほどなく、前方の海が盛り上がった。突如現れた水の山は、その肌、そのすそ野に泳いでいる魚たちを何匹も巻き込みながら、見上げんばかりに、その標高を増していく。

 吸い上げられた水は、いまだ空へと伸び続ける山の一部を。脱落した水は、周囲を押しのける波の一部を、それぞれ成して、遂げていく。

 

 その煽りを受けて、二人を乗せた船の甲板は、たちまち直立を許さぬ急勾配へ。そこに、眼前の水の山から、あたかも風に乗った木の葉のごとき水滴たちが、雨あられと降り注ぐ。

 しずくと言っても、時には彼らの半身近い水玉混じり。それが、壁のように突き立ち始めた船のへりにぶつかって、爆裂四散。無数の飛沫と化して坂を下り、踏ん張る足掛かりを根こそぎ潰していく。

 あえなく滑った二人のうち、綱を投げた彼は、もはや床になりつつある、もう片方のへりに背中を叩きつけられた。

 先ほどまで一緒にいたはずの、片割れの姿はない。海へと投げ出されてしまったのか。

 彼が何かを叫んだかもしれないが、今や鼓膜を独占するのは、降り注ぐ水しぶきの音ばかり。

 傾き続ける船体。降りしきる雨のような海水から、腕で両目を守りながら、そのすき間で彼は見る。

 水の山から、すっかり水が消え失せると、クジラのごとき巨体が空へと飛びあがったんだ。「山」に取り付いてきた幾匹もの魚が、そのままびっしり張り付いて、色とりどりのうろこのようにさえ思えたという。

 しばし、見とれていた彼だが、すぐに怖気が背中を走る。あの飛び上がったクジラが、再び海へと吸い込まれる時、これまで以上の衝撃があるはずだ。それをもらえば、間違いなく転覆する、と。

 留まるか、飛び込むか。どちらが正しいのか逡巡している間にも、クジラはぐんぐん飛び上がり、ついに尾さえも海から離れる。

 ――ああ、もうそれ以上、上がらないでくれ……!

 もはや、心で願うばかり。その姿を、鬱々とした表情で見上げる彼の前で。

 

 クジラの動きが、宙で止まった。

 雨もやみ、よくよく目を凝らしてみると、細い細い金の糸。それが網のようにクジラを取り囲み、自由を奪っていたのだ。そのまますうっと、音もなく上がり続けた金の網。それに絡まれたクジラもまた、身動きできないまま、雲間の奥へと消えて行ってしまう。

 彼はあっけに取られていたが、顔を海水に突っ込まれて我に返った。

 あの二人と共に買った船が、限界を迎えて、水面の下へと沈み出している。彼は船から離れるべく、必死に泳ぎ続けた。

 

 途中から泳いでいた記憶がない、という彼。

 それ以来、船出して帰らぬ人が出るたびに、彼の話が思い出されるんだ。

 異常なほどの鮮度を誇る魚たちは、きっとあのクジラの餌。ここの海は、神様が目をかける生け簀なんじゃないか、とね。



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― 新着の感想 ―
[一言] 引き込まれる面白さがありました。
[良い点] 何とも壮大なスケールの光景でした! 漁師達は金色の網を使った天の漁に、運悪く巻き込まれてしまったのかもしれませんね。 それとも、ある程度の横取りなら恵みとして見過ごしていたけれど、もともと…
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