逆上がりができなかった彼女
荷造りの最中、押し入れから出してきたダンボール箱に入っていた小学校時代のアルバム。
それを見て懐かしさを感じた俺は、荷造りの手を止めて、アルバムを取り出し、中のページをめくっていく。
修学旅行で泊まった旅館で、カメラに向かってピースをする俺と、その隣ではにかむように笑う彼女の写真。
牧場で牛の乳絞り体験をしている最中、悪戯で彼女のほうへ牛の乳を向けている俺の姿を写した写真。
二人で職業体験型のアミューズメントパークで、ピザを作ったときの写真。
写真に写る俺の隣には、いつも彼女の姿があった。
そのどれもが懐かしく、新鮮で、忘れられない大事な思い出だ。
そうしてアルバムのページを進めていくと、ある時を境に、写真に彼女の姿がなくなった。
それにすこしだけ寂しさを感じて、俺は彼女とのはじまりの物語を思い返したのだった。
◇◆◇
彼女のことをハッキリと認識したのは、小学二年のクラス替えで、同じクラスになったときだった。
肩くらいまで伸びた髪に、地味目の顔立ちで、あのときの俺はとくに彼女にたいして、なんの感情も抱いていなかったと思う。
それから二か月くらいした頃だろうか。彼女に「とろ子」というあだ名がつけられたのは。
彼女はなにをしていても、鈍くさくてとろかった。
国語の授業の音読では、読むのが遅く「塚原さん、そこまででいいですよ」と教師から、途中で終わらせられ、マラソンの授業では彼女一人がいつまでたってもゴールできず、彼女がゴールをするまでみんなが待たされた。
そういったことが積み重なった結果、彼女は「とろ子」とクラスの皆に呼ばれ、馬鹿にされはじめたのだ。
当時の俺は、そんなとろ子に対して、すこしムカついていたように思う。
怒られても、馬鹿にされても「えへへ、ごめんなさい」と笑って謝る彼女の姿に「謝るのなら、もっと早くやれよ」や、「どうして笑ってられるんだ」とか、そんなふうに思っていたのを今でも覚えている。
そんな俺が彼女に最初に興味を抱いたのは、クラス替えから三か月ほどが過ぎたときのことだった。その日の鉄棒の授業で彼女は一人、いつまで経っても、逆上がりができなかったのだ。
一日目は彼女以外にも、逆上がりができない子は残っていた。二日目も、まだすこし。三日目には彼女以外の全員が逆上がりができるようになり、結局、鉄棒の授業の間、彼女が逆上がりができるようになることはなかった。
それを見ていた俺は内心、彼女のことを馬鹿にした。「逆上がりもできないのか? みんなはもうできるのに」と。
それからだろうか、それまではどうでもいいと、無視していた彼女のことが気になって、目で追うようになったのは。
もちろん、それは恋だとかそんな理由からではなく、どちらかというと馬鹿にするために、彼女のことを見ていたのだと思う。
例えば、五時間目の授業が始まっても、まだ給食を食べている彼女を見て「いつまで食ってんだよ、馬鹿じゃねーの」といった具合に。
そうして彼女のことを目で追うようになった俺は、授業の合間の休み時間に、彼女がいつも教室を出て、どこかへ行っていることに気づいた。
とろ子が休み時間に、いったいどこでなにをしているのか、気になった俺はこっそりと後をつけた。
教室を出て、廊下を歩き、下駄箱で運動靴に履き替え、そうしてとろ子が向かった先は校庭の鉄棒。
彼女は鉄棒の授業が終わっても、休み時間に一人でずっと逆上がりの練習をしていたのだ。
「地面を蹴るみたいに……」
授業で先生から教えられたことを反芻しながら、彼女は鉄棒を握り、地面を蹴るようにして、逆上がりの練習をしていた。
俺はそれを見ながら「あんなんじゃ、絶対にできるようにはならないだろうな」と心の中で馬鹿にした。
鉄棒を持つ腕が伸びているし、地面を蹴るタイミングがズレていて、うまく蹴れていないのが、はたから見ていてよくわかったからだ。
それからも休み時間になると、彼女は校庭へ出て、逆上がりの練習を繰り返していた。
俺はそれを、ときには遠くから、ときには友達と校庭でドッジボールをしながら、横目で見ていた。
そうして一か月ほど、何度やっても、どれだけ練習しても、まったく上達の気配をみせない彼女の姿を見ていた俺は、いつしか彼女に対して、馬鹿にするのを通り越して、いきどおりを感じるようになっていた。
なぜ上達しないのか、なぜ自分には逆上がりができないのがわからないのか、なぜ諦めないのか、と。
そんなふうに思いながら、逆上がりの練習をしている彼女のことを見ていた俺は、気づけば彼女のもとへと向かっていた。
「そんなんじゃ、いつまでたってもできねーぞ」
「みなと君?」
突然やってきて話しかけた俺に、彼女は驚いて目を丸くする。
「ほら、俺が手本をみせてやるから、よーく見とけよ」
そんな彼女の驚きを無視して、俺は隣の鉄棒で、逆上がりの手本を見せる。
視界がぐるりとまわり、もとに戻る。
それから地面に降りて、彼女のほうを見ると、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
「なっ? 逆上がりっていうのはこうやるんだよ」
「みなと君はすごいね、私は練習しても全然できないのに」
「いいからほら、とろ子もやってみ」
「あ、うん!」
思い返せばこれが、俺ととろ子が初めてまともに交わした会話だった。
それから俺は休み時間いっぱい、彼女の逆上がりの練習に付き合った。
次の日も、そのまた次の日も、俺は彼女の練習に付き合った。
当時はなぜ、自分でもそんなことをしているのかわからなかったが、今ならすこしはわかる気がする。
きっと俺は、できなくてもひたむきに練習する、その姿に憧れを感じていたのだと思う。
小学二年の頃の俺は、なんでもそつなくこなすタイプだった。
学校の勉強も運動も、教われば簡単にできて、つまずいたり壁にぶつかるようなことなんてなかった。
そんな俺だったから、彼女がなにもできないことに対して「なぜこんなに簡単なことができないのか、なぜできないのに笑っていられるのか」と思っていた。
だけど、彼女は自分にできないことをやれるようになろうと、必死で練習をしていた。
皆が遊んでいるはずの休み時間も、ずっと、ずっと練習をしていた。
諦めず、ただ愚直に、練習すればできないことはないのだと信じ、鉄棒へ向かうその姿に、俺は無意識で惹かれ、憧れたのだと思う。
そうして夏休みも過ぎ、二学期になっても、彼女はまだ逆上がりの練習をしていた。
そのときには俺も、ずっと彼女につきっきりで、どうすれば彼女が逆上がりができるか、四六時中そんなことを考えていたように思う。
その頃から俺は、彼女がクラスメイトに馬鹿にされたり、いじめられるたび、彼女のことを庇い、馬鹿にした奴に怒るようになった。
当時の俺は、とろ子が馬鹿にされることが、悔しくて許せなかった。
「あんなにがんばってる奴が、馬鹿にされるなんて、そんなのはおかしい」そんなふうなことを思っていた。
あるとき、授業が終わった直後の休み時間にこんなことがあった。
「とろ子さぁ、いるだけで、みんなが迷惑してるんだから、もう学校に来ないほうがいいんじゃない?」
クラスの女子の一人が、とろ子に向かって嫌味を言ったのだ。
それを見ていた誰もが、嫌味を言った女子に同調するかのように、止めることなく経過を見守った。
とろ子は、とろいし、運動もできなかったが、頭が悪いわけじゃない。
嫌味を言われているっていうことはわかっていたし、まわりの反応にも傷ついていたのだと思う。
それでも自分が悪いのだと、そう言って、バツの悪そうな笑顔で「えへへ、ごめんね」と謝るのだ。
だけど、俺はとろ子が馬鹿にされ、嫌味を言われているのがどうしても我慢できず、とろ子に嫌味を言った女子に怒鳴ってしまった。
「おい! とろ子に謝れ!」
そうして怒鳴る俺を、とろ子が困ったような顔で「みなと君、いいから、私が悪いの」と止める。
それをみた女子は「なにそれ、シラケる」と言い残し教室を出ていき、ほかのクラスメイト達も蜘蛛の子を散らすように、その場から離れていった。
それ以来、俺もクラスで孤立するようになり、とろ子と二人でいる時間が増えた。
それから時は過ぎ、秋の終わり頃、とろ子はとうとう、逆上がりをすることに成功した。
キッカケは先生からもらったアドバイスだ。
どうすれば、とろ子が逆上がりができるようになるのか、ずっと考えながら、とろ子の練習を見ていた俺は、自分達だけではどうにもならないと考え、先生に「どうすれば、とろ子が逆上がりができるようになるのか」アドバイスを貰いに行った。
先生は、ずっと俺がとろ子と逆上がりの練習をしていたことを知っていたのか「ようやく教えを請いにきたか」というような様子で、俺に逆上がりのコツを教えてくれた。
そうして先生に教えてもらったコツを一つずつ、とろ子に見本を見せながら教えていき、二人で練習を重ねた結果、逆上がりの授業から半年以上をかけて、ついに逆上がりができたのだ。
「もうすこし、もうすこしだ! がんばれ!」
お腹を鉄棒に当て、あとほんのすこしだけ足をあげられれば、あとは流れに任せて、逆上がりができるところまできていた。
俺は横で、何度もとろ子を応援する。
そうして数度、鉄棒を握り、地面を蹴ったとろ子の足が上がり、くるりとまわる。
「できた……」
信じられないものをみたかというように、鉄棒から降りたとろ子は、呆然とそう呟いた。
これまでずっとつきっきりで、練習を見ていた俺も、まるで自分がやったかのように、胸に達成感や満足感が湧いてきているのを感じた。
「やった! やったな、とろ子!」
お湯が沸騰していくように、どんどんと、俺ととろ子の胸に、いろいろな感情が湧き出てきて、しばらく見つめ合った後、感極まって二人でその場で抱き合った。
「ありがとう、みなと君、ありがとう」
とろ子の泣き顔を見たのは、このときが初めてだった。
それまで、クラスメイトにどんなことを言われても泣かなかった彼女が、逆上がりができたことで涙を見せたのだ。
俺はそんなとろ子の姿をみて、なぜだか涙が止まらなかった。
「みなと君がいなかったら、私、きっと諦めてたと思う」
「なに言ってんだよ、俺がいなくても、とろ子はきっとできたよ」
「ううん、そんなことない。ありがとう、ありがとう、みなと君」
◇◆◇
あれから俺ととろ子はずっと二人で同じときを過ごした。
中学校時代、高校時代、大学時代、すべてのアルバムに挟まれた写真に写る俺の隣には、いつも彼女がいる。
そうして小学校時代のアルバムのページを、昔を懐かしみながらめくっていると、別の部屋で荷造りしていた彼女が、俺の後ろへやってきて、覗き込んできた。
「あ、それ小学生のときの写真? なつかしーね」
小学生のときには肩くらいまでだった髪は、時を経て腰のあたりまで伸び、地味だった顔立ちは成長して、目鼻立ちのスッキリした美人になった。
「荷造りしてたら、見つけてさ」
「そっか、初めて会ってからもう十五年くらい経つんだ」
「あのときはお前とこんな関係になるなんて、まさか思ってもみなかった」
「えー、そうなの? 私はあのとき、こうなったらいいなぁって思ってたよ?」
彼女の言葉に、背中にむず痒いものが走り、気恥ずかしくなった俺は、開いていたアルバムを閉じてダンボールに戻す。
「あ、ひどい! せっかくだから一緒に見ようよ」
そんな俺に、彼女はそう言って、ダンボールからさっき戻したアルバムを取り出して、俺の前に広げた。
「はぁ……わかった、わかった。それじゃ、一緒に見るか、とろ子」
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