27話 悔しさ
「急がないと……」
「俺は悪くねえんだけどな……」
時間は遡って、夜六時。
駅近くを二人の男女が走っていた。
言わずもがな、長谷川祥子と武田武蔵だ。ここ最近のサイクルでは、もう既に集合時間についているのだが──無論、武田武蔵が寝坊しないよう早めに行く習慣をつけたため──今日は祥子がやってしまった。
ので、今全速力で向かっている最中なのだ。
「取りあえず、芽亜ちゃんに連絡しておいて、と……」
遅れる、という趣旨の連絡を入れようとスマホを取り出して──。
「やあ、お二人とも。随分と急いでいるようだが、すまないね。少し時間をくれないだろうか?」
前に人が立っていたことに気づき、足を止めた。
今のご時世じゃ、被っている人がほとんどいないであろうシルクハットを被り、目元には隈がある青年──祥子の目には、不健康者にしか見えないその青年は、一度祥子に向けて微笑んだ。
が、今こんな人に構っている時間はないのだ。そんなわけで、祥子は断りを入れようと口を開きかけて──。
「ああ、残念だなあ。もう、行ってしまうのかい? それはつまらない。うん、すごくつまらないよ。折角、秘密を教えようと思っていたんだけどね……」
「──、え……?」
──読まれた!?
これから言おうとしていた事を先にあちら側に言われ、内心でそう呟いた。確かに、こんな人間と出会って長く語ろうとする人間はいないだろう。が、青年の言った言葉──秘密が、酷く心に響いた。
「君のお姉さん……誰のせいで死んだのか、教えてあげようか?」
「お、ねえちゃん……?」
悪魔の囁きが、耳元で聞こえた。
いや、言葉通り、向かいにいた青年は──祥子の耳付近に立っていた。恐るべき所業──ではあるのだが、もはや祥子の脳はそんなことに意識を割いてはいなかった。
──姉、長谷川諒子の死因。それだけが、今祥子の脳に取り残されていた。
確かに、死因は任務に失敗したため、としか聞かされていない。死体も見ていないし、何があったのかをそもそも知らない。
「おい……祥子! やめろ、そいつの声に耳を傾けるな! 怪しいぞ、そいつ!」
「……と、君の連れは言っているけど……どうかな? 最終的に決めるのは君だ。選択権を与えない程、僕も鬼じゃあない。それに、君は待ち合わせをしているんだろう? 少々長くなるかもしれないから、連絡を入れておかなくていいのかい?」
まどろっこしかった。
確認を取ってくる甘い声が、その時間がもったいないと言うのに。
──そう、彼女にとっての最優先事項は姉の死因を聞くことだけ。それ以外に、何もいらない。それを証明するために、祥子は自らのスマホを地面に落とし、目で訴えた。
──知りたい、と。
それを見た青年は──唇を三日月に歪ませ、シルクハットを取りまるで執事がお嬢様に挨拶するかのようにシルクハットを取った手を前に、足を一歩引いて──。
「お任せあれ。君の望む通りに、僕は君を助けてあげよう」
「てめ、えっ!」
だが、武蔵はそれを許さなかった。
拳を握り、青年に殴りかかろうとして──。
「邪魔だよ、彼女はこれを望んだ。それ以外に、何か必要かな?」
「ご、がぁ……っああああ!!」
──青年はそれすら読んでいたかのように、まるで児戯の如き拳の振り方に哀れみさえ向けて。
次の瞬間、武蔵の腹に容赦ない一撃がめりこみ──体をくの字に曲げた武蔵は痛みを抑えようと声を張り上げ、地面に蹲る。そこに、足蹴り。正確に武蔵の側頭部を捉え──振り切った直後、バットに当たったボールのように吹き飛ばされた。
祥子は虚ろな目で、武蔵が下された場所を眺めて──。
「それでは、話をしよう。長谷川諒子──君の姉が死ぬ要因を作ったのはね、そこらの魔法士なんだ。それも人体実験を繰り返され、意識を失っていた。……既に討ち取られていて、敵は討てない」
「そんな……」
「ああ、──君は、聞いたことがあるかな? 陰陽党に所属し、全てを等しく救い上げる英雄の名を。『愚者』という愚か者の名を。だけど、そいつは君の姉のときには姿を現わしてくれなかったんだよ、酷くじゃないか。全てを助けると銘打っておきながら、君のお姉さんは救わなかった。──なんでだと思う?」
「──?」
「見捨てたんだよ。救うべき人間を見定めたんだ。──許せるか? こんな理不尽がゆるされていいと? いいや、僕は思わない。救われるはずの誰かが救われないなど……あってはならないんだ」
最後だけ語気を強めて、そう言った。
「怨念を、怨讐を募らせろ。罪を犯した者には断罪を。恨むべき相手には、復讐を。──願うといい。君が願うなら、君に力を授けよう。僕はそのために来た」
「──ころ、す。ころす……?」
「そう、それでいい。──憎い相手は殺すしかない。罪を犯した者は裁かれなければならない。例え、どんな手を使ってでもだ。そこに、躊躇などあってはならない。あるのは、怨念でいい、狂気でいい。──君の姉を見捨てた、『愚者』に裁きを、鉄槌を、下すんだ。君がね」
「ぐ、しゃ……」
「では、始めよう。世界一素晴らしい、最高の復讐劇を。きっと、最高の顔が見れるはずだよ! いろんな感情がない交ぜになった、絶望した顔がね! ──そのための鍵として、君にこれを渡そう」
そう言って、懐から出すのは試験管。かつて、有村栄人が持っていた──魔人化の薬。これを摂取する、あるいは肌から吸収させるだけで、魔法士適性がない者でも、魔人へと昇華することのできる薬。この街で製造され、各地に流出していっているうちの一つを青年が買い上げ、今日までしたためてきた。
──最高のショーを。復讐に塗れ、過去の罪によって押しつぶされる姿を。この世で素晴らしく、尊い光景を。
そのためであれば、青年は地獄にだって堕ちる。
「ほんとはね、この薬は摂取するだけでいい……が、それだけじゃつまらない。どうせなら、ショーは派手にするべきだろう。予期せぬ出来事に、覆らぬ事態……絶望に顔を染め、恐怖の旋律を奏でるにはちょうどいい」
すう、と。青年は試験管を持った手を上げて──。
「では、復讐を始めよう」
その言葉と共に──青年の手が突き立てられた。
「──え……?」
長谷川祥子はいつの間にか自分が地面に倒れていることに驚いた。
過去を遡ってみれば、武蔵と共に集合場所に向かっていた事しか思い出せない。
──思い出せない。なぜ、寝転がっていたのか。そして、なぜ祥子の視界は何かに遮られているかのように暗いのか。
──その答えは、すぐにやってきた。
「が、ごぉ……がっ……」
血が滴った。上から降り注ぐ血の数々が、祥子の頬に服に触れ血の斑紋を作り出していく。
何事かと思い、上を仰いでみれば──。
「──」
息が詰まった。
目の前にある光景。それは──。
何者かの手が、武蔵の腹を貫いている光景だった。口から血を流し、支えを失えば今にでも倒れ込みそうになっている彼に、祥子は何を言えばいいのか全く分からなくなり──。
そして、彼女を誘った青年の甘美な声が聞こえた。
「ああ……これは想定外だな。まさか、いくらなんでもそこまでは。……なんて高を括っていたのが。どうやら仇になったらしい。普通、誰かを助けるために自分が犠牲になるか? ──いるんだよね、そういうのがさ。まるで、『愚者』みたいな人間が」
「あ、なたは……」
「うん、正気に戻っちゃったなあ……これじゃ、最高のショーは見られない。全く、精神阻害の魔法、もうちょっと磨いておくべきだったか。いやあ、これは失敗失敗」
嘘だ。そんなの、嘘だ。
残念ぶっている青年は──しかし、内心ではそんな風に思っていない。
いや、そもそも、この件に関して。青年は残念だとか、嬉しいとか、そんな感情を一切抱いていない。
「だが、これはこれでいい見世物になりそうだ。こちらの少年も、顔に似合わず負の感情を溜めていたみたいだからね……とすれば、君以上に適応率が高そうだ。これなら、期待できそうだ。うん」
変わる。変わる。変わる。変わる変わる変わる変わる変わる変わる変わる変わる──。
武蔵の髪が、爪が、体が。人間から、獣のそれへと変化していく。否、獣などではない。そう、まるで、魔獣のような──。
青年はそれを見届け、その手を抜く。──しかし、血はもはや流れ出ることはなかった。
──自己再生。魔獣の中でも上位の魔獣しか得られない特殊技能。言わずもがな、人が得られるようなものではない。
「醜い、実に醜いよ。だが……それで充分だ。ああ、すこぶるいい……さあ! 獣よ、人の罪を糧とし、全てを喰らいつくすがいい!!」
「aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!」
青年の声に呼応するかのように、武蔵は──否、武蔵であった何者かは雄たけびを上げる。この世に生まれ落ちた、最初の産声を。
目を開けた時、最初に飛び込んできたのは見覚えのない天井だった。
そして、今自分の状況を正しく理解する。
神薙芽亜は今現在、誰かの家のベッドで寝かされている状況だ……!
「メア。起きました?」
「音々……そっか、私負けて……」
そして、ようやく自分の失態を思い出したところだった。
外套を身に纏った暗殺者。メアでは届かない程の実力を持った人間に立ち向かおうとして──全く及ばなかったのだ。まるで、数日前の戦闘のように。打つ手は見切られ、無力感に打ちひしがれていたあの時のように。
──この数日間、少しは強くなれたと思っていた。
微々たるもの、とはいえ、一歩進んでいるのが分かって嬉しくて楽しかった。
──そんな風に自らの力を過信した結果がこれだ。結局、何も変わっていなかった。助けるために踏み込んだのに、一蹴され何もできなかった。
もはや怒りを通り越して、自らの不甲斐なさに呆れすら浮き上がってくる。
「メア。──飲み物。うちの冷蔵庫にはミルクティーしかなくてね。それでもいい?」
「──っ。あ、ありがとうございます……」
俯き、無力に打ちひしがれていた時に──唐突に、上から声がかけられた。
神代優。メアの師匠。彼は両手に持っていたカップの片方をメアに差し出してくる。
もしも、今この瞬間に優がいなければきっと、無様に惨めに泣いていただろう。ある意味で言えば、最も恥ずかしい瞬間を見られずに済んだわけだ。
ともかく、優にみっともない姿を見せるわけにはいかないので、落ち着こうとひとまず優から渡されたカップを口にして──。
「あまっ!?」
「え!? な、嘘だろう!? 確かに砂糖入れたけども……でも、それ俺が飲むときと同じぐらいの甘さだけど!?」
「優さん……甘党にもほどがありますよ。というか、それ私でも甘いですから今度は何もしないで、普通の状態で渡してください」
「ごめん……。そうか……この甘さがいいのは俺だけなのね……」
目の前で行われるやり取りに、思わずメアも笑うしかなかった。しかし、不思議なことに、先ほどまでの張り詰めた雰囲気は消えてなくなっていた。
それを見た優は、近くにあった椅子に腰を下ろして、メアに状況の説明を求めてくる。
「いつも通り、長谷川さんや武田くんと一緒に見回りをしようとして……それで、遅いから先に始めようってところで……外套を纏った誰かに襲われて、白神さんを……」
「そうか……くそ、あいつ一体なにをしようとしているんだ……全くもって何をしようとしているのか、見えてこない……大体、桃華を連れ去ってなんのメリットがあるんだ。白神家を敵に回すような馬鹿な真似を、魔法士が……」
「優さん。まさか」
「──ああ……ようやく、見えてきた。天城からもたらされた情報、そして今の……とすれば、今この街には二つの陰謀が存在している……か。まあ、その決戦については明日だろう。今は、他にやるべきことがあるからね」
メアを置いて、話を進めていく二人に、今度こそメアは周回遅れだと言うことを自覚せざるを得なかった。そう、優の言葉──二つの陰謀。そう、メアが遭遇した別の陰謀が渦巻いている。そんなこと、考えもしなかったのだから。
こんなところでも、自らの至らなさを自覚しなければならないとは──。
「メア。思いつめる必要はありません。相手は、それこそ優さんですら一度敗北していますから。メアでは……」
「天城、少し……」
「優、さん……?」
落ち込むメアを見て、慰めの言葉を尽くそうとする天城に──しかし、優はそれを制止させた。そして、彼はメアの目を見て──。
「メア……悔しいか?」
「──くや、しいです……」
悔しい。物凄く、悔しい。どうしようもなく、悔しい。悔しくて悔しくて仕方がない。
何もできなかった自分が、及ばなかった自分が。
「なら、大丈夫だ」
「え……?」
思わず、震える声でそう聞き返した。
「悔しがるってことは……それはつまり最善を出した結果、ということ。全力を出さずに負けたら、そもそも悔しいなんていう感情は湧いてこないからね」
確かに、全力を尽くした。全身全霊で戦おうとした。
だから、悔しい。当然の帰結だ。
本気を出したことのない人間には、悔しさなんて分からない。
「確かに、今のメアはお世辞にも強いとは言えない。素人に毛が生えたぐらいだ。──でも、それでも、圧倒的な強者を相手になんとかしようとした。最善を尽くせた……これってさ、重要な事なんだよ」
「──じゅう、ような……こと」
「よく、オリンピックに出場する人でいるじゃないか。悔しさをバネにして、メダルを取ったって人……あれと同じだよ。死ぬような練習を繰り返して、最善を尽くして、それでも届かなかったからこそ悔しいって感じるんだ」
例えば、トーマス・エジソンはこう言った。失敗は成功の母だと。失敗を分析し、次にやるときは以前の失敗よりも成功に近づく。決して、失敗というものがダメではないのだ。
「──」
「メア。別に、及ばなかったのは恥じゃない。むしろ、それは称賛されるべき行為だ。なにもできない、っていうのは、ある場面を目にして何もしないってこと。それこそ、恥じるべき行為だ」
「──」
「だから、誇れ。及ばなかったことを。悔しさを感じたことを。だって、それは一歩踏み出したと言うことなんだから」
「──っ」
「受け入れろ、悔しさを。そして、バネにすればいい。──大丈夫、君はもっと強くなれる。悔しさを飲み込んで、内に秘めて、そうして前に進んでいけばいい。そうすれば、必ず強くなれる。だからさ、泣いてもいい。泣いてもいいんだよ。情けなくたっていい。無様でも、惨めでも、どんな姿だっていい。自分を受け入れるんだ。弱い自分を」
「ぅ……ぁ……あああ……!」
視界が霞む。情けなさが、悔しさが、抑え込んでいた感情が、曝け出される。だけど、それを彼は笑わないし、馬鹿にはしない。ただ、包み込んでくれる。
「悔しい……悔しい! 悔しいです、優先輩……!」
「絶対に、忘れないでくれ。悔しさを、無力感を。──きっと、その先に、君の求める強さがある」
そんな風に、涙を流して──時間は過ぎていくのだった。




