「クレス編」
夕暮れが照らす中、小さな庭で木剣同士がぶつかり合い音を上げた。
「良いぞ、その調子でどんどん押してみろ」
そう言った彼女の自慢の父は、背が高くてがっしりと身体つきの男だった。
彼女が力いっぱい押した時、不意に剣がすり抜け、足払いを受けて彼女は倒れたのだった。しかし、彼女はすぐさま正気に戻る。体を回転させ必殺の突きを三本かわして立ち上がって身構えた。
「良く動いた」
父はそう彼女を褒める。
「父上の本気と言いますか、殺気を感じたので咄嗟に動けました」
彼女はそう答えると、父は笑った。
「まったくお前は贔屓目に見ても可愛い娘だが、男勝りの武芸の感も才も身についてもいる。だが、女で良かったのかもしれないな」
「何故です? 私は父上と一緒にお国のために戦いたいと思っていますのに」
「戦場の死神は気まぐれだ。その死の鎌がお前を捉えることだって有り得る。だからお前がもしも男で兵士を志すと言われれば、私はこうも落ち着いて剣を教えたりはしなかっただろう。兵士以外の生きる道を探すよう願ったはずさ」
兵士として、または分隊長として、長らく戦の中に身を置いてきた父がそう言った。
「さあ、引き上げよう。母さん、今夜の飯は何だい?」
「シチューよ」
家の中から母親の躍る様な声がそう告げた。
「やった、父さんは母さんの作るシチューが大好きだ。戦場で粗食を食べている時なんかによく母さんのシチューが恋しくなったよ」
父は笑いながら言った。
その父が戦場で帰らぬ人となった。
隣国の敵将、戦場の赤鬼と一騎討ちの末、敗れたとのことだった。
彼女は悲しみに暮れそうになったが、ある思いが湧き出し、熱い闘志となって彼女を燃え上がらせた。
長かった髪を短く切った。そして男物の服装を買いに走り、身に着けると鏡の前に立つ。
そこにはもう一人の自分がいた。中性的な顔立ちだったため、男と思われなくも無いだろう。彼女は決意し、母に話した。
「母上」
「あなた、その格好は、髪はどうしちゃったの!?」
彼女の母は驚愕に目を見開いて尋ねた。
「男に見えなくも無いでしょう?」
「え、ええ。見えなくもないわ」
「私は兵士を志します」
「え?」
「父上に代わってお国のために命を懸けたいのです」
母親は未だに見開いていた目を徐々に冷めさせて言った。
「血は争えないのかもしれないわね。あなたは小さなときから剣が大好きだった。腕前だって素人目に見てもなかなかのものよ」
母は話を続けた。
「髪を切ってまで……。そこまでの覚悟があるのなら挑戦してみれば良いわ。新しい名前はもう考えてあるの?」
「それはまだ……」
「そう。それじゃあ、クレスっていう名前はどう? もしも男の子が生まれたらそう名付けようと父さんと考えていたのよ」
「良いですね」
「それじゃ決まりね。兵隊になれる成人の時まで私もあなたのことを一人の男子として扱います。……でも、いつでも女に戻って良いのですからね」
「ありがとうございます、母上」
クレスは言わなかったことがある。男装してまで兵士に志願する本当の理由。それは父を討った戦場の赤鬼に仇討ちを挑むことだった。それを言えば単なる私怨と見なされ、母の反対にあっていたかもしれないと考えたからであった。
クレスはすぐさま武術の私塾の門を叩いた。
そしてメキメキと腕を上達させそこで最強の一角とまでなった。
成人の時が来ると募兵の要項が記された兵舎の前にある看板の前に同じ志を持つ者達と共に並んだ。
兵士に成り立ての頃は身体を限界まで鍛えこまれるのが仕事だった。門番や巡回する警備兵としての職務はそれらが終わってから決められる。
訓練は過酷だったが、剣術だけは教える側も唸るほど、他の者より何歩も秀でていた。
そうして地道に職務を全うした。
二
クレスが兵士になって二年ほど過ぎたあたりだろうか。
怪しい動きを見せていた隣国が挑発するようにして、こちらの領土の奥深くまで踏み込んできた。
すぐさま軍団が組織され、人々に見送られ出陣した。
クレスは剣を主とする歩兵部隊に配属された。前方の槍兵の後ろ二番目の軍団だ。クレスの剣術が評価されてのことだが、クレスは悔しがっていた。最前列の者達が、もしも赤鬼の首を取ってしまったら。そう考える度に落ち着かなかった。
戦端が開かれると、様々な声は重なり合い落雷の様に戦場に轟き、クレスを幾ばくか緊張させた。
「前列交代!」
指揮官の声が響き、槍兵が下がってくる。その後ろを敵軍が追撃してきた。
クレス達はすぐさま前に飛び出て敵を迎え撃った。
凶刃が幾度もクレスを狙った。
クレスは受け止め、自分の体に染みついた通りに剣を放っていた。
クレスの剣は敵の喉元を突き破った。
真っ赤な血が噴き出、彼女の顔に降りかかった。
初めて人を斬り、殺めた。
だが、凶刃は次々クレスを狙ってくるため、感傷に浸っている暇は無かった。
夢中になり、剣を跳ね上げ、受け止め、脇の下を突き刺し、幾度も敵を斬り続けた。
「交代だ」
左肩を同僚に叩かれ、クレスは我に返ると引き下がった。
戦場には騎馬隊の馬の足音の唸りと嘶きが木霊している。
クレスは息を整えながら、鮮血の滴る剣を見詰めていた。
そしてハッとして戦場の赤鬼のことを思い出したが、その頃には勝敗は決していた。
「小隊長殿、戦場の赤鬼は出たのですか?」
「いいや、今回は参戦していなかったようだ。見た目で被害も少なかったのも、そのせいもあるかもしれんな」
赤鬼どころじゃなかった。向かってくる刃と死闘を演じるだけで精一杯だった。
しかし、隣国は事ある度に執拗に領土に踏み込んできていた。
クレスも戦場での経験を重ね、冷静に戦況を見定めることができるようになるまでに成長した。
「赤鬼だ! 赤鬼が現れたぞ!」
何度目かの戦場でようやくその声を聴くことができた。
「赤鬼は一騎討ちを所望している! 誰か出る者はあるか!?」
「私にやらせてください!」
クレスは声を上げたが、部将に叱責を受けた。
「たかだか一歩兵程度が名乗りを上げるとは何事だ! 我が軍に将無しと言うか! 身の程をわきまえよ!」
そうしてこちらの陣営から槍を抱えた騎馬の武将が駆け出してきた。
クレスは見た。前線に突出し、堂々と、いや意気揚々とした態度で馬に跨っている敵将を。全身真っ赤な鎧兜で固められた巨躯、赤鬼の姿を。彼女は歯噛みした。将にまで出世しなければこの剣は何時まで経っても赤鬼に届かない。
こちら側の将が斬られ、戦が始まった。敵の後続が駆け出し赤鬼の身体を覆い隠してしまった。
斬って斬って斬りまくって赤鬼を探り当てるしか、今の自分には手段はない。
クレスは声を上げて敵を迎え撃った。
三
まるで老人のようだが、ふとした手伝いに出向いたところクレスは身体を痛めてしまった。
上官は治療に専念するよう、しばらくの休養を許可した。
今年の新兵達が教官達に扱かれる様子を兵舎で見て過ごすだけだった。その昔の自分達の事を思い出しながら様子を見ていたが、不意に落ち着かなくなった。
身体がうずく。休養中だが、クレスは巡察に、いや、散歩に出た。
町の喧騒を背にクレスは気の向くまま足を巡らせた。
そうして堤防に上った時に、河原の方から、威勢の良い声が木霊するのを聴いて目を向けた。
見れば少年達が木剣で打ち合っていた。
クレスは父とのことを思い出し、多少感傷に浸ったが、興味深く彼らを見ていた。
どうやら負けた方は腕立て伏せをするらしい。ちょっとした軍隊ではないか。それにしてもリーダーと思われる少年が声を上げる度にしっかりとした返事が轟くのを見て更に感心した。
クレスは長期の外泊許可を申請し、実家に戻った。
母は歓迎してくれた。
クレスは療養しながら河原に通い詰めた。堤防の草原に座って少年達の様子を見ていた。
何十回目かの時に、彼らは組織としてはなかなか立派に行き届いているが、肝心の剣術の方が問題だと感じた。力だけで操っている。
翌日、クレスはいつも着ている黒のコートの下に木剣を携え、河原へ向かった。
彼らは今日も修練に明け暮れていた。クレスはそんな彼らの方へと歩んで行った。
黒髪の女の子がまずこちらに気付いたようだ。
そうして兄妹なのだろうか、リーダー役の黒髪の少年がこちらを睨んだ。
こちらが挨拶をすると、リーダーの少年は明らかに敵意を剥き出しにして応じた。
「何の用だ優男」
「毎日精が出ますね」
というと、相手は見下すように答えた。
「アンタみたいに毎日毎日河原を眺めていられるほどの暇人じゃないんだよ、俺達狼団はな」
「狼団というのですか」
「うん、皆、兵士を目指してるの!」
少年が少女に拳骨を下ろすの見つつ、彼らが兵士に憧れていることを知り、クレスはかつての自分のことを思い出した。父上のように国を守りたい。だが、この狼団は傍から見ればただの喧嘩集団だった。それではいけない。
「唐突ですが、私も仲間にいれてもらって良いですか?」
そう言うとリーダーの少年は目を怒らせた。
クレスは木剣を取り出した。
「俺が相手をしてやる。俺達がどれだけ本気か、その身で確かめさせてやる」
リーダの少年は言った。
「お前が勝ったら、望み通り狼団に入れてやる。だが、俺が勝った場合は二度とこの近辺に足を運ぶな。それでどうだ?」
怒りの形相を受けてもクレスは彼が可愛いらしく感じた。
勝負が始まると、大型の木剣が次々打ち込まれてきた。クレスはそれを受け止めながら感心した。この膂力は実際大したものだった。だからこそ、技術を学んでほしい。
クレスが易々と木剣を突き出すとそれは相手の左胸に当たっていた。
こうしてクレスは狼団の一員となることになったのだった。
四
狼団の少年達の意志の強さにクレスは感心していた。
誰もが真剣に国のために兵士になりたいと願っているのだ。
そんな様子を見てクレスは昔、自分がそう憧れていたことを思い出し、剣の技術を指導することにした。
「差し出がましいですが」
クレスは団長のダンにそう言い、剣の稽古の見直しを徐々に進めていった。
正直、ダンには嫌われるかと思ったが、団長の少年は何も言わなかった。ただ、ある時、クレスの教えた剣術を全員が一丸となって披露していた時に、彼が笑みを浮かべていたのをクレスは見たのだった。
そのうちにダンの方から指導を仰いでくることも増えた。クレスは彼と仲良くなれて嬉しかった。
クレスは一度兵舎へ戻り、上司に木でできた練習用の槍を借りることに成功した。
狼団のそれぞれがどの隊に配属されるかはわからない。だからこそ、様々な技術を身に着けていて損は無い。
クレスが用意した槍を見て、剣一筋だった狼団は明らかに狼狽する様子を見せた。
恐る恐る槍を手に取り、首を捻りながら突き出す。
「槍の使い方を俺達は知らない。クレス、お前は知っているのか?」
ダンが尋ねたのでクレスは頷いた。
「ええ、知ってますよ」
すると団長の少年は神妙な表情を浮かべて言った。
「教えてくれ」
その様子は静かにクレスの闘志に火を点けた。団長が頼んでいるのだ。知る限りの技術を徹底的に教えてみよう。クレスはそう思ったのだった。
「勿論ですよ。槍が終わったら弓でもやりましょうか」
クレスは槍を指導し、その次には数は無かったが弓矢も教えた。
そんな新たな稽古が始まり団員達は更に意気を高めていった。
クレスは嬉しかった。そうしてある日の夕暮れ、ダンと二人きりになった。
「クレス」
ダンが呼んだ。彼は思い詰めたような顔をしていた。
「あれから……いや、お前に剣で負けてから随分俺も修練してきたつもりだ。もう一度、勝負してくれないか?」
ダンがそう言った。クレスも体調はもう万全だった。暇な巡回より少年達を指導するために長期休暇の残りを使っているようなものだった。しかし、少年達は目に見えて立派に武器を操るようになった。そろそろ自分の役目は終わりにしなければならない。
「良いですよ。受けてたちます」
これを最後の挨拶代わりの決闘にしよう。クレスはそういう思いでダンに応じた。
ダンはクレスの教えた型を隙無く構えていた。クレスは嬉しくなった。ダンが斬りかかかって来た。
木剣同士がぶつかり合うが、クレスはダンの膂力と、身に着けた技を受け感動した。
ダンは次々打ち込んできた。縦横無尽にまるで毒蛇の鎌首の如く、剣が襲ってくる。クレスは嬉しく思いながら苦労してそれらを受け返した。
と、後退していたクレスは河原の石につまずいた。
体勢がよろめく。それを見逃すダンでは無かった。
鋭い一撃が放たれ、どうにか受け止めたがクレスは倒れた。ダンまでよろめいて来て自分の上に倒れた。
「どうします?」
クレスが勝敗の行方を問うとダンは口を開きかけ、そして不思議そうな顔をした。
クレスもダンが何故そのような顔をしたのかすぐにわかった。
胸だ。ダンは呆けた様子でコートで隠してきたクレスの隆起した胸を衣服越しに掴んで離してを繰り返していた。
最後の最後でバレてしまった。
「ダン、あなたに隠していたことがあります」
クレスは悩む少年にそう言った。二人は立ち上がった。
「私は女なんです」
クレスは白状した。
「何だって?」
ダンの驚きようは凄かった。
クレスはとりあえず訳を話した。あくまで表面上の理由だ。
「私も君達と同じです。この国を守りたいがために兵士を志しました。でも女は兵士にはなれない。それが決まりです。だから性別を偽りました。幸い誰にも気付かれず、兵士を続けることができていますが」
ダンは目を瞬かせて口をあんぐり開けていた。だが、正気に戻ったようだった。
「道理で色々詳しいわけだな」
彼はそう言い言葉を続けた。
「大変じゃないのか、男のふりして兵士に混ざるのは?」
クレスは苦笑したが、気遣いの言葉が嬉しかった。
「実を言うと大変です。でも、私の夢は兵士。物心ついた時から君達のように木の剣を振り回してました。私は憧れてました兵士になることに。その思いは段々大きくなってゆき、ダン、あなた方のようにこの国を守る礎になりたいという思いに変わりました」
クレスは一番星の瞬く夜空を見上げて言葉を続けた。可愛いハプニングもあったが言うべき時が来た。
「今まで怪我で療養中でしたが、皆さんのおかげで怪我を治しつつ実戦の感も鈍らせずに済みました。良い機会です。私は明日から職務に復帰することにします」
クレスが見るとダンは生真面目な顔で応じた。
「そうか。頑張れよクレス。それと時々で良い、こっちにも顔を出してくれ。お前が女だってことは誰にも言わない」
「ありがとう、ダン」
クレスは感謝の念を覚えつつ微笑んだ。
五
実際職務に復帰すると、多忙で狼団に顔を出せずにいた。
そんな中、隣国が再び怪しい兆しを見せているという知らせが入り、兵士達は緊張した。
そしてまたしても隣国は侵略を開始してきた。
王都から兵隊達が出陣する。
いつも通り大通りを市民達が激励の声を掛けてくるその間を兵隊達は進んだ。
戦場の原野に着くと、すぐさま隣国が攻撃を開始してきた。ほとんど陣形を整える暇さえなかった。
「迎え撃て!」
将の声が木霊し、クレス達、剣の歩兵隊は敵とぶつかり合った。
剣撃と悲鳴が木霊する。
クレスは同僚達と肩を並べて何人も斬った。
決死の攻防戦だった。
敵の剣先が幾度も鎧を掠る。
こちらの剣が何度も鮮血を浴び宙へ撒き散らす。
肩で息をしている。
その時だった。
競り合っていた相手の脇からもう一人が加勢に現れた。
振り下ろされた剣を弾き返したが、もう一方の首を狙った凶刃は間に合わなかった。
瞬間、熱い痛みが走った。見れば左腕が肘から先が無くなり、血を噴き上げていた。無意識のうちに顔を庇ったらしい。
クレスは痛みに悲鳴と怒りの声を上げて相手の剣を弾き飛ばし、大薙ぎで次々首を刎ねた。
「クレス、大丈夫か!?」
同僚が叫んだ。
「お前は先に退け、出血を止めねば死んでしまうぞ!」
分隊長が言ったがクレスは頭を振った。
「戦います!」
「馬鹿を言うな、邪魔だというんだ! 退け! 無駄死にするな!」
赤鬼を斃すまでは死ねない。クレスは分隊長の言葉に従って戦場の後方へ引き上げた。
六
クレスは再び療養の休暇を出された。
兵舎では同僚達がクレスに会う度、憐みの視線を向けてくる。
声も掛けられたがクレスはうんざりし、巡回に出た。いや、巡回という名目で狼団に会いに行きたかったのだ。
狼団の皆はどうしているだろうか。この姿を見て兵士を志すのを止めてしまうだろうか。いや、狼団にそんな弱い意志を持った者はいない。だが、動揺はさせてしまうだろう。
ダンなら遅くまで素振りをしているだろうか。
クレスは無性にダンに会いたくなった。夕暮れ前を狙って外に出る。
堤防についた時には丁度夕暮れになっていた。
誰もいないだろうか、茜色に染まる河原を見渡していると、一人素振りをしている影を見付けた。きっとダンだろう。
クレスは歩み寄って行った。そうして近付いて行く度、少年の身体が更に成長したことを感じ取った。良い身体つきになった。クレスは父のことを思い出していた。
「団長」
「クレス!」
クレスが声を掛けるとダンは素振りを止めてこちらに駆け付けて来た。
ちょっと見ない間に精悍な顔つきになった。少年の成長は早いものだとクレスは感じた。
「無事だったか」
その心配と歓喜の声の後、ダンは驚いたようにこちらの左袖を見ていた。
「気付いてしまいましたか。今回に限っては無事というわけにもいかなかったのです。左腕を失いました」
クレスは苦笑した。が、その時ダンがクレスの身体に抱き付いてきた。
クレスは突然の事に驚きながらも、少年の温もりを感じ取った。
「クレス、もう良い、お前は戦うな」
ダンは抱き締めながらそう言った。
「俺が必ず兵士になって、お前の分も国のために戦ってやる。だからもうこれ以上、戦うのは止めてくれ」
ダンは言葉を続けた。
「あと二年。あと二年待てば、俺も成人になれる。その時まで待っててくれ。そうすれば、俺達は結婚できる」
結婚。クレスは少年が自分に恋心を抱いていたことに気付いたのだった。その真っ直ぐなダンらしい言葉に胸を打たれつつも、クレスは応じた。
「私達は大分年の差がありますよ。ダン、あなたにはきっと他に良い方がいるはずです」
「何歳離れてたって、お前は俺の好きなクレスだ。好きなんだ。それに変わりは無い!」
クレスの言葉を遮ってダンは声を上げた。
途端に目の前の少年、自分を大きな体で力強く抱きしめるダンが愛しく感じた。恋だ。二十八。この年になって初めて恋をした。
だが、クレスは自分を見失わなかった。自分には使命がある。それを自分を愛してくれるダンには話さなければならないだろう。だから右腕を彼の背に回して受け入れることはできなかった。
「ありがとう、ダン。あなたの熱い告白を私は忘れません。しかし、今、私は兵隊を辞めるわけにはいかないのです。なので、まだあなたの思いに応えることはできません」
ダンは静かに尋ねて来た。
「片手で兵士をやるのか?」
「片腕でも剣は充分扱えます」
クレスはきっぱりと応じた。
「お前がそこまで戦う理由、何でか訊いても良いか?」
ダンのその言葉に、クレスは目を閉じた。
大好きだった父の姿が、そしてその父が無言の帰宅をしたことを思い出す。クレスは目を開けて微笑んだ。
「仇討ちです。私の父の」
クレスは言うと話し始めた。
「父も兵隊でした。ですが、私が十四の時、名のある敵将に討たれました。戦場の赤鬼、知ってますか?」
ダンは頷いた。
「父は私にとって師であり憧れでした。しかし、戦場でその赤鬼に討たれた。私はその時から誓ったのです。赤鬼を討つまでは、父の仇を討つまでは女を捨てて男になると。ですから、ダン、あなたの愛に今は応じるわけにはいかないのです」
「返事は分かった」
ダンは思いを呑み込むかのようにしてそう答えた。そして激励してくれた。
「クレス、慎重にな」
「ええ、心得ます、ダン」
七
救護用に設けられた戦場の一角にクレスは足を運んでいた。
その中に見つけてしまったのだ。ダンの姿を。
腹部を貫かれていた。もう処置も諦められている。
横たわり、既に死んだように目を閉じるダンに向かってクレスは必死に呼び掛けた。
ダンが目を覚ます。彼は咳き込んだ。
そしてこちらの名前を呼んだ。
「クレス」
自分は愚かしいことしてしまった。気が付かせるだなんて、ダンがただ苦しむだけではないか。
「喋らないでください!」
クレスは言ったが、ダンはそれを無視して口を開いた。
「赤鬼は強い。お前でも無理だ」
「赤鬼と戦ったんですか!?」
クレスは驚愕し声を上げた。クレスは己を責めた。ダンはきっと自分のために赤鬼に勝負を挑んだのだろう。
「ああ。奴は強い。片腕一本で勝てる程、甘い相手じゃない」
ダンの目の光りが弱弱しくなってゆく。それでもダンはしっかりした口調で言った。
「全部忘れてくれ」
「何を、何をです?」
「俺のことを。俺が愛してるってことを」
クレスは強く頭を振った。
「いいえ、忘れません。私は絶対にあなたを、あの熱い言葉を生涯決して忘れません」
だが、ダンは声を上げて言った。
「忘れろ。そして探せ、お前自身の新しい幸せを。もう女に戻れ。自由になれ。復讐なんて忘れて、いつまでも優しく微笑んでいてくれ、クレス」
クレスは戸惑った。それがダンの最後の頼み、願いなのだ。だが、クレスは答えた。
「いいえ、ダン、私は忘れません。あなたのことを、あなたが私に言った言葉を! 私があなたの仇を討ちます! 必ず!」
ダンの呼吸がか細くなり、それが徐々に弱まってゆく。そしてその音さえも聴こえなくなった。
ダンは息を引き取った。彼はもうここにはいない。逝ってしまったのだ神のもとへ。
クレスは嗚咽をこらえて彼の亡骸に誓った。必ず仇を討つと。
八
再び戦が始まった。
歩兵隊は真っ直ぐに進軍し敵とぶつかりあった。
剣と剣が煌めくと共に断末魔の声が轟く。
クレスも片手剣を振るい力闘した。
彼女が剣を振るう度、敵兵は倒れ、鎧で固められた肉壁は薄れてゆく。
斥候の報告だが、この敵の最前列を指揮しているのは赤鬼だという。その言葉がクレスを普段以上に勇猛果敢に駆り立てた。
そうして彼女が敵の壁を突き破った瞬間、前方に巨大な剣を提げた真っ赤な鎧戦士の姿が見えた。
戦場の赤鬼に違いなかった。
「あ、赤鬼だ!」
味方から戦慄する声が上がるが、クレスはつかつかと赤鬼に目掛けて進んで行った。
「片腕で我に挑むか」
赤鬼はそう言うと剣を向けた。
「来るが良い、勇敢なる兵よ。我が相手になろうぞ」
クレスは駆けた。
剣を振り下ろす。赤鬼はそれを得物で受け止める。
クレスはすぐ離れた。
赤鬼は巨大な剣をまるで木の棒の如く振るい応戦してきた。
これを片腕で受け止めるわけにはいかない。
鋭い風の音を纏った一撃一撃を避け、クレスは鋭く反撃に出た。
ダンのためにも勝たねばならない。
クレスの一撃は赤鬼の手の甲に傷を刻んだ。
「久々に己が血を見たわ」
赤鬼は嬉しそうに言い不敵に笑った。
クレスは攻め立てた。縦横無尽に。
「この攻め方、覚えがあるぞ。いつぞやの若者と同じだ」
こちらの刃を次々受け止めながら赤鬼が言った。
「そしてお主の剣からは憎しみも感じる。お主はあの時の若者の師か」
クレスは無言で攻め続ける。
「応えずとも剣を受ければ感じる。見事我を討ち斃し、弟子の仇討ちを成就させてみよ!」
赤鬼が剣で弾き返した。クレスは素早く剣を引いた。赤鬼の剣が追ってくる。
それを全て紙一重で避けて、反撃に移る。露出している手の甲を狙い続け戦力を半減させる。それがクレスの狙いだった。
赤鬼の手から血が飛び散った。
「やりおる!」
赤鬼は称賛すると剣を大きく旋回させた。
無防備になった。
クレスは避けると、素早く踏み込み赤鬼の喉元目掛けて必殺の剣を突き刺そうとした。
しかし、赤鬼の振るった刃は矢のように戻り、クレスの胴を鎧ごと切り裂いた。
吹き飛ばされると同時に、激しい痛みが身体を襲う。打ち砕かれた鎧の下で血が奔流の如く流れ出るのを感じ取った。傷は深く気力までもが失われてゆく。大地に突っ伏したくなったが、クレスは最後の力を振り絞り、立ち上がり決死の跳躍を踏み剣を振り下ろした。
その一撃を赤鬼は受け止め袈裟切りに剣を振り下ろした。
クレスは新たな致命傷を受けてよろめいて倒れた。
「お主は良くやった」
クレスは気付いた。赤鬼の鉄塊のような剣にヒビが入っていたのだ。
いける、私なら赤鬼に勝てる。
ダン、見ていて下さい。
しかし右腕は動かなかった。既に切り裂かれた肩と共に彼女の身体から剝ぎ取られていた。
「さらばだ。見事な一太刀だったぞ」
赤鬼は去って行った。
クレスは地に伏していた。もはや満身創痍を通り越していた。彼女の負った傷口という傷口から血が溢れ出て赤い溜まりとなった。もう動くことはできなかった。
「ダン……。私は、あなたの仇を討てなかった……」
死が自分を蝕み始める。それは最初は冷たく凍えるものだったが、ふと温かくなった。
九
光りが彼女を包んでいた。
「クレス」
軽く驚いていると光りの中から声がした。忘れもしない。クレスにとって最も愛する青年の声だった。
「ダン?」
「そうだ」
光りの中にダンがいた。そして彼は自分を抱き締めていた。
「ダン、迎えに来てくれたのですね」
「ああ」
おぼろげな光りに包まれた黒髪の青年は仏頂面でそう答えた。
クレスは悪戯心が湧き、その顔を指でなぞると青年は目を開いて戸惑っていた。
「うふふ」
クレスは相手の可愛らしい表情の変化に思わず微笑みを漏らした。
「からかうな」
ダンが言う。
「だって私はあなたが笑った顔が見たいんですもの」
クレスが言うとダンは困った様に自分の頭の後ろを掻いた。
「あなたが来たということは、私は死んだと言うことですね」
「そういうことになる」
ダンは表情を気遣わし気にして続けた。
「見てたぜ。惜しかったな。奴の手を狙い続けたのも良かったが、片腕であの剣に亀裂を入れるとは思わなかった」
「そうですね、もう一息でした。でも後悔はしてません。こうしてあなたとまた出会えたんですから」
クレスが言うとダンは頷いた。
「そうだな」
「そうですよ。さぁ、連れて行ってください。私をあの世までエスコートして下さるのでしょう?」
「分かってるよ。そのために来たんだからな」
ダンに手を繋がれると透き通った己の身体がふわりと浮き上がった。すると短いはずだった彼女の髪が長くなって翻り、身体は輝くばかりの光りのドレスに包まれた。
クレスが驚いているとダンが言った。
「似合ってるぜ」
「ありがとう」
クレスは恥ずかしさを覚えながらそう答えた。本当は鏡で自分の姿を見たかったが、ダンが似合ってると言ってくれたことを信じることにした。
「なぁ、クレス」
ダンがこちらを見下ろした。
「何ですか?」
「やっぱり、お前が好きだ」
その真っ直ぐに向けられた黒い瞳に向かってクレスは微笑み抱き付いた。
瞬間、二人を祝福するかのように幾つもの光りの欠片が周囲に飛び散った。
「私もです、ダン。あなたを愛しています。それと私の本当の名前は――」
そしてどこまでもどこまで彼の温もりを感じながら、彼女は空の中へ消えていったのであった。
最後まで御付き合い下さり、本当にありがとうございました。