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「ダン編」

 木剣が河原のあちこちでぶつかり合っていた。

 剣を握るのはまだあどけなさの残る少年達だったが、その気迫は大人顔負けのものだった。

 ダンは一際大きな木剣を構え、相手をしている少年と競り合い、力を込めて仰け反らせる。そして体勢を崩した相手の少年の首元に木剣を突き付けた。

「参ったよ、ダン」

 相手の少年は恐れ入った様子でそう言った。

「もっと気合入れろ。腕立て三十だ」

 ダンが叱ると相手の少年は言う通りに腕立て伏せを始めた。

 ダンは周囲を見回した。

 同じように少年達が木剣で打ち合っているが、理想とは程遠く、ダンの目にはどこか心許ない野良集団に見えて仕方がなかった。

「お兄ちゃん」

 振り返ると妹のベレッタが堤防の方を指し示して言った。

「あの人、またいるね」

 ダンの視線の先には堤防の草原に腰を下ろしている暇人がいた。季節は冬、吐く息も白かった。そのため毎度のように黒いコートを羽織っているのがその見物人の特徴だった。

 ダンは舌打ちした。きっとこの狼団の稽古は滑稽な子供の遊びとして見られているのだろう。暇人の暇つぶしにされているのだ。

「お前ら、気合入れろ! 本物の剣だと思え!」

 ダンは堤防の人物から顔を逸らすと団員達を一喝した。兵士を目指す少年達は、団長の声に生真面目な声で応じたので、ダンの溜飲は少しだけ下がったのであった。

 


 二



 大雨落雷大雪、忌引き。理由が無ければ狼団に休みは無かった。

 兵士に取り立てられるよう、あるいは、徴兵の際に頭角を現わせるように、それぞれが目標を持って訓練に励んでいた。

 狼団のリーダーのダンは、団の中でも実質最強でもあり二対一でも負けなかった。

 木製の大剣が相手の二人の剣を遠くまで弾き飛ばした。

「腕立て三十! いや、倍だ!」

 激昂する団長の命令に、二人の少年は姿勢を正して応じると腕立て伏せを始めた。

 団員共はよくやるが、あらゆる面で力不足だ。だけど今の俺なら、俺だけなら大人にだって負けない自信はある。

「お兄ちゃん」

 妹のベレッタが驚いたように言った。

 その視線を先を見ると、あの堤防でいつも見物していた黒いコートの人間がこちらに歩んできていた。

「こんにちは」

 程なくすると相手は声を掛けて来た。柔らかな声音だ。年の程は二十も半ば過ぎたほどだろうか。短い金髪の男だった。が、切れ長の目のある色白で端正な顔つきは女性に見えなくもない。その爽やかさに妹のベレッタが顔を赤くするのをダンは見た。

「何の用だ? 優男」

 ダンが問うと相手はサファイアの様な瞳を柔らかくして言った。

「毎日精が出ますね」

 ダンはその言葉に若干の苛立ちを覚えた。

「アンタみたいに毎日毎日河原を眺めていられるほどの暇人じゃないんだよ、俺達狼団はな」

「狼団というのですか」

「うん、皆、兵士を目指してるの!」

 ベレッタが答えるとダンはその頭に拳骨を落とした。

「痛い!」

「お前は黙ってろ」

 ダンは目の前の男を睨んだ。相手はこちらの眼差しなど飄々と受け流すように朗らかに微笑んでいる。

「君の言う通り、ずっと君達の稽古の様子を見ていました。団として統制は取れてるみたいですね。そこは素晴らしいと思います」

 ダンはこの優男を追い払おうとした。が、先に相手の方が口を開いた。

「唐突ですが私も仲間に入れてもらっていいですか?」

 その言葉にダンはカチンときた。

「俺達を舐めてるだろう?」

「いやいや、そんなことはないです。私もそろそろ身体を動かさなきゃと思いまして」

 驚くことに黒いコートの下から出て来たのは木剣だった。だが、ダンは激怒した。この優男はやはり俺達を、この狼団を舐めている。本物の戦場を軽く見ている。遊び半分の気持ちなのだろう。彼はそう思ったのだった。ダンは自慢の大剣型の木剣を向けた。

「俺が相手をしてやる。俺達がどれだけ本気か、その身で確かめさせてやる」

「駄目よ、お兄ちゃんがいきなりド素人の相手だなんて! こういう時はまず弱小のトムかジャックからやるべきよ!」

「何だって!?」

「俺達が弱小だと!?」

 ベレッタの言葉に二人の少年が反応したが、ダンが手で制して黙らせた。

「俺がやる。お前が勝ったら、望み通り狼団に入れてやる。だが、俺が勝った場合は二度とこの近辺に足を運ぶな。それでどうだ?」

 ダンは多少凄んで見せたが相手はニコニコして頷いたのだった。

 気に食わねぇ。そう思いつつダンは剣を構えた。

 すると相手もそれに倣った。が、ダンが力いっぱい構えているのに対し、相手はまるで力の無い悠々とした構え方をしていた。

 それでも手加減はしない。ダンは相手を睨みつつそう決めた。

「はい、二人とも見合って見合って」

 妹のベレッタが出しゃばって審判を務めた。

 ダンの怒りの視線と相手の柔らかな双眸が交錯する。

「始め!」

 ダンは踏み込んだ。大薙ぎに払った剣を相手は易々と受け止めた。

「鍛えているだけあって膂力はありますね。私も片腕じゃ支えきれなかったです」

「ちっ」

 ダンは次々打ち込んだ。

 相手は全て受け止めると、僅かな隙から鋭い突きを繰り出した。木剣の先がダンの左胸に当たっていた。

「嘘」

 ベレッタがダンの心境を代弁した。

「え、えっと、勝者、優しそうなお兄さん!」

 歓声は上がらなかったが、代わりに少年達は驚きの声を上げていた。自分達の最強の団長を討ち取ったのだから無理もない。

 まぐれだ。とはダンは口が裂けても言えなかった。団長としてのメンツに関わるからだ。逆に潔く相手を称えるべきなのだろうが、そういう気分にもなれなかった。未だに信じられなかった。

「優しそうなお兄さん、おめでとう! アタシの名前はベレッタ。お兄さんのお名前は?」

「クレスです」

 相手が名乗る。すると、全員の視線が自分に集まるのをダンは感じた。彼は舌打ちして言った。

「今日からこのクレスも俺達の仲間だ」

 ダンが言うと少年達は声を上げて喜んだ。



 三



「団長、差し出がましいようですけど……」

 クレスが狼団に入ってから、この言葉は幾度となく使われてきた。剣の構え方、捌き方、打ち込み方、クレスはあらゆる技術面に置いて助言した。ダンは最初は新参者のくせにと鬱陶しく思ったが、皆が整列し、クレスの言った剣の型を揃って構えるのを見ると、途端に心を打たれたのだった。まさしくこれこそがダンの理想の狼団の形だった。

 ダンはクレスの助言を実行することで、今まで自分達が力でしか剣を振り回していなかったことに気付いた。圧倒的に技術が不足していたのだ。ダンは狼団が成長するのを実感するとともに、クレスにも次第に心を開いたのであった。



 ある日、ダン達が河原に着くと、既にクレスがいた。その側には材木のような物が山となって積み重ねられていた。

「御機嫌よう、皆さん」

 クレスが言うと団員達もそれぞれ挨拶を返す。

「何だこれは?」

 ダンが問いながら木材の一つを持ち上げた。それは先の丸い木製の長い槍だった。

 槍なんて使ったことが無かった。団員達が軽く狼狽していると、クレスは言った。

「最前線と言えば槍です。皆さんの多くが配属されるのもきっと矢面、槍を扱う最前列の部隊でしょう。差し出がましいかもしれませんが、用意させていただきました」

 団員達は一人一人不慣れな様子で槍を持った。

「槍って初めてだね、お兄ちゃん」

 ベレッタが言ったのでダンも黙っているわけにはいかなかった。

「槍の使い方を俺達は知らない。クレス、お前は知っているのか?」

「ええ、知ってますよ」

 年上の相手はニコニコといつもの笑みを浮かべて応じた。

 ダンは腹をくくって申し出た。

「教えてくれ」

「勿論ですよ。槍が終わったら弓でもやりましょうか」

 こうして新たな訓練が始まった。

 剣に槍に弓、それに格闘術まで、クレスが全て教えてくれた。そして狼団は着実に進化を遂げ、もはや自警団並みの成長を見せていた。

 優美で誇らしい自分の団を見て、ダンはクレスに感謝の念が湧くとともに、もう一つ団長として自分の不甲斐なさを痛感していた。自分が教えていたのはただの我武者羅な喧嘩そのものだった。戦いの技術も無くそのまま戦場に送り出せば誰もが容易く討ち死にしていただろう。無論、この身も含めて……。

 夕暮れになり団員達は帰り、ベレッタも夕食の支度を手伝うために戻って行った。

 残ったのはダンとクレスだけだった。

 ダンには心のわだかまりがあったが、今、急にそれが抑え切れなくなった。

「クレス」

 ダンが声を掛けると年上の団員はこちらを見て微笑んだ。

「何でしょう?」

「あれから……いや、お前に剣で負けてから随分俺も修練してきたつもりだ。もう一度、勝負してくれないか?」

「良いですよ。受けてたちます」

 ダンは愛用の大剣型の木剣を構えた。クレスに教わった型だ。

 クレスも黒いコートの下から大きな木剣を取り出して身構えた。

「言っとくが、手加減なしだ。もし少しでもしたら腕立て千回だ」

「手加減なんてしたら私の方が危いですよ」

 謙遜かどうかは知らなかったが相手はそう答えた。

 相手の出方を見るのが有利だろう。しかし、先手必勝という言葉がある。声を張り上げクレスへ木剣を振るった。

 クレスはそれを受け止めながらも前ほど上手く捌けない様子だった。

 ダンは離れ、次々クレスに嵐のような猛攻を繰り出した。上上右下左、喰らい付く毒蛇の首の如く、ダンは自在に剣を操った。それをクレスも遅れることなく受け止める。

 そして不意に機会は訪れた。河原の石に足を引っかけたクレスが僅かによろめいた。

 ここだ。

 少々卑怯に思われたが、ダンは今まで温存してきた全身全霊の必殺の一撃を、声を張り上げてクレスに振り下ろした。

 木剣同士がぶつかりあったが、勢い余ってダンも体勢を崩した。

 そうしてそのままクレスを押し倒す形となってしまった。

「どうします?」

 重なり合い、そのままの体勢でクレスが尋ねて来た。

 引き分けで良いだろう。

 ダンはそう答えようとしたが、自分の手の中にある柔らかな感触に気付いた。

 それはコートの下にある衣服越しのクレスの胸だった。

 訳が分からなかった。クレスは細い男だ、太り過ぎて胸にだらしない肉がついているわけでもない。では、これは何なのだろうか。ダンは掴んでは離し、掴んでは離した。

「ダン、あなたに隠していたことがあります」

 クレスが言い、ダンは疑問を浮かべながら立ち上がる。

「私は女なんです」

「何だって?」

「私も君達と同じです。この国を守りたいがために兵士を志しました。でも女は兵士にはなれない。それが決まりです。だから性別を偽りました。幸い誰にも気付かれず、兵士を続けることができていますが」

 ダンは相手の告白を呆気に取られながら聴いていた。だが、女と言われれば、途端にその様に見えて来た。金色の髪こそ短いが、細面の端正な顔立ち、切れ長だが優し気な青い瞳。そして胸。

 ダンはどう答えれば良いのか分からなくなった。女は狼団に必要ない。そういう決まりがあるわけでもない。だが、注目すべきは、性別を偽って男として兵士を続けていることだった。

「道理で色々詳しいわけだな」

 ダンはようやくそう口にした。クレスは強かった。それが事実だ。

「大変じゃないのか、男のふりして兵士に混ざるのは?」

「実を言うと大変です。でも、私の夢は兵士。物心ついた時から君達のように木の剣を振り回してました。私は憧れてました兵士になることに。その思いは段々大きくなってゆき、ダン、あなた方のようにこの国を守る礎になりたいという思いに変わりました」

 クレスは一番星の瞬く夜空を見上げて言葉を続けた。

「今まで怪我で療養中でしたが、皆さんのおかげで怪我を治しつつ実戦の感も鈍らせずに済みました。良い機会です。私は明日から職務に復帰することにします」

 クレスはこちらを見た。ダンは応じた。

「そうか。頑張れよクレス。それと時々で良い、こっちにも顔を出してくれ。お前が女だってことは誰にも言わない」

「ありがとう、ダン」

 クレスが微笑んだ。その見慣れたはずの笑顔が自分の胸を貫くのをダンは感じたのだった。



 四



 狼団は堤防を散歩する人々の注目を引くようになっていた。

 少年達が、まるで大人の兵士さながらのまとまりの良さを見せ、猛稽古に励んでいる。

 団員達も力をつけ、技術を磨き、もはや過去の様にダンの独壇場というわけにもいかなくなった。

 クレスが見たらどう思うだろうか。あの柔らかな笑顔と、今だ手の中に残る胸の感触を思い出していた。あの日からどうにも変だった。クレスのことばかり考えるようになった。胸も熱くなり鼓動も早くなる。無性にクレスの声が聴きたかった。

 ダンは堤防を振り返った。幾人かの見物人の中にクレスらしき人物は見当たらない。

 彼女は今頃どうしているのだろうか。ダンはそんなことを考えていた。

「クレス来ないね。最近どうしちゃったんだろう」

 妹のベレッタが心配そうにそう言ったが、ダンは何も言ってやることができなかった。

 他の団員達もクレスの教えの成果に感激していたためか、その姿が無いことに毎回落胆した様子だった。だが、クレスの教えは皆が既に身体に馴染んでいたし、新参も馴染ませる様に努力させた。クレスの教え通りやれば強い兵士にはなれる。狼団はダンのその考えの下、毎日修練を繰り返した。



 五



 まことしやかな噂が流れていた。

 隣国が国境を侵したというものだった。

 そして噂が本当だったことを誰もが知ることとなった。

 その日は狼団も訓練を遅らせた。王城から続く大通りに左右に人々が分かれ、列を作っていた。ダンもその中の一人だった。

 程なくして武装した騎兵部隊が通りの向こうから姿を見せた。歓声が上がる。

 そんな中、ダンは血眼になってクレスの姿を探した。だが兵隊達は鎧兜で身を固めている。歩む騎兵の中にも、その後に続く長槍を掲げる歩兵の中にもクレスの姿を見付けることはできなかった。

 ダンは落ち着かなかった。そして嫌な考えが脳裏を過ぎった。もしも、クレスがこの戦で死んでしまったら――。

 彼は神に祈った。クレスに御加護があるようにと。少年にはそうすることしかできなかった。

 長い長い兵隊達の列の見送りが終わると 人々は不安げな顔で国の将来のことを話し合っていた。

 ダンは結局、木剣を取りに家に戻って、一足先に河原で素振りを始めた。

 振るう度に、微笑みを浮かべたクレスが褒めてくれたことを思い出す。自分が木剣を振るえば振るうほどクレスに神が加護を与えてくれるような気がした。

 ダンは懸命に木剣を振るった。

 やがて集まった団員達に自由に練習するように告げ、彼は素振りを続けた。



 六



 戦勝の報告が齎されると、人々は再び大通りの左右に並び、帰還してくる兵士達に向かって歓迎と労いの言葉を口々に述べて称賛した。

 だが、ダンは落ち着かなかった。戦に勝ったのは良いが、クレスはどうなったのだろうか。彼はとてつもない不安に駆られ、人々の間から兵隊の一人一人を見てクレスの姿を探した。しかし、武装している兵隊達はやはり皆同じに見え、またしてもクレスを探すことはできなかった。

 そしてクレスも狼団に顔を見せることはなかった。だが、狼団はやはり忠実に彼女の教えを守り修練に打ち込み続けた。

 その日、狼団は槍の修練をしていた。横並びになった槍兵達が指揮官のダンの声の下、一斉に長槍を繰り出すのだ。クレスに教わった槍の基本的な攻撃方法だった。

「息をぴったり合わせろ!」

 ダンは槍兵に扮した少年達の背後で台に立ち指示と檄を飛ばした。

 そうして修練が終わった。

 妹のベレッタも少年達も既に帰っていた。夕暮れが川を染める中、ダンは残って素振りをしていた。

 もしかしたらクレスが姿を見せてくれるかもしれない。少年は俄かにそう思い木剣を振るい続けた。

「団長」

 夢中で素振りをしていると見知った声が聴こえた。

 ダンが振り返るとそこにはクレスがいた。季節は回って再び冬だ。あの黒いコートを着ている。相手は歩んできた。

「クレス!」

 ダンも駆け寄った。

 相変わらずの美しい顔が微笑みを見せていた。

「無事だったか」

 そう言ってダンは気付いた。コートの左袖がゆらゆら揺れていることに……。ダンの背筋を寒気が通り過ぎた。

「気付いてしまいましたか。今回に限っては無事というわけにもいかなかったのです。左腕を失いました」

 彼女は苦笑いを浮かべた。が、ダンはクレスの身体に飛ぶように強く抱き付いた。

「クレス、もう良い、お前は戦うな」

 ダンは相手を抱き締めながらそう言った。

「俺が必ず兵士になって、お前の分も国のために戦ってやる。だからもうこれ以上、戦うのは止めてくれ」

 ダンは言葉を続けた。

「あと二年。あと二年待てば、俺も成人になれる。その時まで待っててくれ。そうすれば、俺達は結婚できる」

 ダンは思いを吐露した。クレスが何と答えるか不安があったが、返事はすぐに来た。

「私達は大分年の差がありますよ。ダン、あなたにはきっと他に良い方がいるはずです」

「何歳離れてたって、お前は俺の好きなクレスだ。好きなんだ。それに変わりは無い!」

 クレスの言葉を半ば遮ってダンは言った。

「ありがとう、ダン。あなたの熱い告白を私は忘れません。しかし、今、私は兵隊を辞めるわけにはいかないのです。なので、まだあなたの思いに応えることはできません」

 ダンは絶望はしなかった。クレスの何時になく神妙な顔に相手が言っていることが本気なのだと察することができたからだ。

「片手で兵士をやるのか?」

「片腕でも剣は充分扱えます」

 クレスはきっぱりと応じた。

「お前がそこまで戦う理由、何でか訊いても良いか?」

 ダンのその言葉に、クレスの目が閉じられた。

 たかが俺如きが触れる内容じゃなかったのかもしれないと、ダンは、今になって後悔したが、クレスは目を開けて微笑んだ。

「仇討ちです。私の父の」

 クレスは話し始めた。

「父も兵隊でした。ですが、私が十四の時、名のある敵将に討たれました。戦場の赤鬼、知ってますか?」

 ダンは頷いた。戦場の赤鬼とは隣国最強の戦士のことだった。一つの戦場で千人を斬ったとも噂されている。周辺国にとっては畏怖と恐怖を覚える名前だった。

「父は私にとって師であり憧れでした。しかし、戦場でその赤鬼に討たれた。私はその時から誓ったのです。赤鬼を討つまでは、父の仇を討つまでは女を捨てて男になると。ですから、ダン、あなたの愛に今は応じるわけにはいかないのです」

「返事は分かった」

 ダンはそう言うのが精いっぱいだった。あの戦場の赤鬼の命を狙っているとは思わなかった。

「クレス、慎重にな」

「ええ、心得ます、ダン」



 七



 それから二年の間、ダンは修練に励んだ。その間に隣国とのいざこざも幾度もあり、その度に肝を冷やした。クレスのことが心配だった。早く成人して兵士になりたい。彼は焦りを覚えつつ技を磨いていった。

 打倒赤鬼。

 クレスは片腕だ。赤鬼のことは噂で判断するしかないが、正直、勝てないだろう。ならば、クレスの分も自分がやる。赤鬼を討って、その時こそ、もう一度、クレスに愛を告白するのだ。

 そうして彼が待ち望んでいた成人の時が来た。

 募兵を記された兵舎の看板の前には長蛇の列ができていた。殆どがダンと同じ成人を迎えた若者達だった。狼団の面々もいたが、一緒の隊に配属されることはなかった。

 兵舎でダンはあえてクレスを探そうとは思わなかった。

 彼女に会うのは赤鬼を討ってからだ。

 元々の思いとその思いとが、過酷で時に理不尽な訓練に、文句も弱音の一つも言わず、耐えれられた理由だった。

 そして、待ちに待った初陣の時が来た。

 ダンは鎧兜を身に着け、剣を提げる。そうして兵隊の列に加わり、大通りを今度は自分が人々に祝福される側となって行進していった。



 八



 最初は行儀よく弓兵の援護もありながら順々に騎兵隊、歩兵隊が繰り出されたが、空が俄かに暗くなり始め、近くで雷鳴が鳴り響く頃にはお互い動ける兵士も数を減らした上、指揮系統も乱れが生じ、乱戦状態に入った。

 あちこちで決死の戦端が開かれている。

 ダンはこれは好機だと思った。土砂降りの中、彼は余計な戦いを幾度も避けて赤鬼を探しに回った。

 今回は戦場には出てきていないのだろうか。

 と、ダンの目指す先で恐ろしい光景が広がった。

 十人以上もいた兵隊の首が一斉に空へ飛んで、血煙を上げた体がヨロヨロと倒れる。そこに真っ赤な鎧に身を包んだ敵兵の姿が見えた瞬間、ダンは緊張を覚えつつも、興奮した。クレスに奴はやらせない。片腕で勝てるわけがない。俺が斃すんだ。

 ダンは泥濘となった大地を真っ直ぐ赤鬼の方へと歩んで行った。

 赤鬼は大きな体躯の持ち主で、巨大な剣を持っていた。

 ダンが剣を向けると赤鬼は言った。

「青二才、貴様の首に価値はない、見逃してやる故、もっと修練を積んでからワシに挑め」

 雷鳴が轟くとダンは剣を構えた。

「俺の首に価値は無くても、お前の首には最高に価値があるんだよ」

「手柄に目が眩んでその若い命を落とすか」

 赤鬼が大上段に剣を持ち上げて構える。

 それだけで迫力があった。

 コイツの首を持って帰ればクレスはどれだけ喜んでくれるだろうか。

 先手必勝!

 ダンは駆けた。

 鉄と鉄がぶつかり合う。

 赤鬼の膂力は凄まじいものだった。手に痺れが走る。

 こいつは相手が悪いんじゃないか。一瞬、ダンの内なる声がそう囁いた。ダンはその声を無視し剣を打ち込んだ。

「想像以上に良い太刀筋だ」

 赤鬼が驚くように言った。

「だが、修羅の剣で無ければ我は斃せぬぞ! 経験を積め、若者! 今は我が前から去れ! そして技を磨き宿敵となれ!」

 競り合うと剣越しに赤鬼が言った。

「なめるなよ、ジジイ!」

 ダンは離れ、すかさず打ち込んだ。

「お前の未熟な命に興味はない」

「俺は本気だ!」

 ダンは大薙ぎに剣を放った。剣先が赤鬼の兜にぶつかり転がっていった。

「今の一撃……憎しみの太刀か。ワシに個人的な因縁があるようだな」

「ようやくわかったか、デッカイじいさんよ。お前が俺に興味はなくとも、俺は本気でお前の首を取りに来たんだ!」

 ダンは駆けた。

「ならば、ワシも全力で相手をしよう」

 剣と剣がぶつかり合う。ダンはすかさずあらゆる方向から剣を振るい、突き出した。

「振るうこと毒蛇の如し。その若さにして惜しいほど見事だが!」

 赤鬼は全て受け止めると、今度は逆に剣で応酬してきた。

 風の唸りを上げる鉄塊のような剣をダンは受け止め、避け、後退を余儀なくされた。

 力の差が違い過ぎる。

 今度の内なる声をダンは無視することができなかった。

 俺では、赤鬼に勝てない。あれだけ修練を積んだのに!

 逃げるか? 逃げたら、クレスがこいつの命を狙うだろう。

 それは駄目だ!

 ダンは踏み止まり、覚悟の一撃を放った。

 赤鬼の剣がぶつかり、その瞬間、ダンの剣は半ばから圧し折れた。

「さらばだ、若者!」

 突き出された剣が鎧を突き破り背中に抜けるのをダンは感じた。

 彼は泥の中に倒れた。



 九



「ダン! ダン!」

 自分の名を呼ぶ声でダンは目を開いた。

 そこにはずっと会いたかった人がいた。この手で抱きしめたい。しかし、彼の両腕はうんともすんとも言わなかった。

「ク……」

 彼女の名前を呼ぼうとした瞬間、彼は咳き込んだ。その飛沫が彼女の白い顔にかかってしまった。それは血だった。そして思い出した。赤鬼に致命的な一撃を受けたことを。だが、不思議だった。痛みが無いのだ。むしろ、心地よい気分だった。

「クレス」

「喋らないでください!」

 クレスが言ったが、ダンはそれを無視して伝えた。

「赤鬼は強い。お前でも無理だ」

「赤鬼と戦ったんですか!?」

 クレスは驚愕に目を見開いて声を上げた。

「ああ。奴は強い。片腕一本で勝てる程、甘い相手じゃない」

 視界がぼやけて来た。愛する人の顔をいつまでも見ていたかったが、ダンは悟っていた。自分は今、避けられない死の沼地に足を踏み入れていることを。だから沈みきる前に伝えなければならないことを告げた。

「全部忘れてくれ」

「何を、何をです?」

「俺のことを。俺が愛してるってことを」

「いいえ、忘れません。私は絶対にあなたを、あの熱い言葉を生涯決して忘れません」

「忘れろ。そして探せ、お前自身の新しい幸せを。もう女に戻れ。自由になれ。復讐なんて忘れて、いつまでも優しく微笑んでいてくれ、クレス」

「いいえ、ダン、私は忘れません。あなたのことを、あなたが私に言った言葉を! 私があなたの仇を討ちます! 必ず!」

 もうダンには言い返す力も残っていなかった。死の沼地という素晴らしく優しいまどろみの世界に身を任せ、たゆたい沈んでゆく。だが沈みきる瞬間、最後の気力を振り絞り彼は願った。

 神よ、彼女に、俺に与えられるはずだった分の御加護を与えたまえ――。

 そうしてダンは暗い世界へと落ちていった。

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