神風
同二月十四日。
将門のもとに残された兵はわずか四百ばかりとなった。
「大丈夫ですって。俺らの新皇、将門さまが負けるはずないじゃないですか!」
玄明の言葉はすでに虚妄であった。
だが彼だけではない。
誰もが敗北を認めようとしなかった。将門たちには投降も撤退もなかった。
すでに朝廷軍が数万もの兵を引き連れて、板東へ迫っているというのに。
あるのは、目先の戦いだけであり、その先に何があるのか考えようともしなかった。
思考の遮断――
「精一杯戦えば勝てますって!」
合戦の勝敗とはそんなものではない。
けれど、皆、将門の命令に従い、黙々と北山を背に陣を張る。
一方、貞盛らの討伐軍は、連日の戦いで負傷した兵を除いても、なお意気軒昂な兵が三千余り。
これにどうして勝てると思うのか。
それでも彼らはあるはずもない奇跡を待った。
『神風』を。
春先、この地域では突風が吹き荒れる。
風は南から吹くかと思えば北から、東からと思えば西から、といった具合で矢筋が定まらない。
それは敵とても同じ。
両軍向かい合いながら数刻を経ても、戦闘は始まらなかった。
互いに風待ちとなるなか、ふいに風伯の力が弛んだ。それから将門勢の背を力強く押すように風が吹く。
安定した追い風。
「天は我らに味方したぞ!」
未申の刻(午後三時)、将門軍から夥しい数の矢が放たれる。
矢戦で少しでも多くの敵兵を仕留めようと。
風はますます強まった。
土埃が舞い上がり、将門軍の盾は前へ、討伐軍の盾は後ろへ、音高く倒れる。盾が盾の役を失い、敵の前陣は矢の襲来を怖れ、後ろへと逃げ出した。当然、後陣との混乱を引き起こし、それは全体へ拡がっていく。
――捲土重来! 南無、妙見大菩薩!
将門は手勢の全てを率い、敵陣へ迫った。
逃げる討伐軍、攻める将門勢。
彼らの反撃が始まった。
桔梗は戦場の上空にいた。人の目に映らなくとも。
将門と別れてから二月と経っていない。だがそれが、二年、二十年の歳月のように思えた。この間、己れが将門なしでは生きていけないことを確かめただけだった。
今さら将門のそばへは戻れなかった。将門の中にどれほど自分の居場所が残されているか、知るのが恐ろしくて。
しかし、男の命運は尽きかけていた。
万に一つの可能性さえない戦いへ、その身を捧げるように挑もうとしていた。
もはや傍観などできない。
――私の力は将門さまの力。将門さまの命は私の命。
桔梗は戦場に駆けつけたのだ。
突風吹き荒れる中、手をつかねる軍勢の頭上で、全身の霊力を振り絞って風向きを制した。
自然の力を屈服させ、意のまま操るということ。初めての行為に息が上がる。
足元では将門の快進撃が始まっていた。
気を緩めれば、すぐに風本来の力に負け、よろめく。
己れの霊力を振りしぼる桔梗の髪は、敵軍の方向へ流れていた。
だが、その髪の先がふと揺らめき、次の瞬間、一斉に後方へと乱れなびいた。
桔梗は正面の空を見た。
青い鱗光をきらめかせ、長大な体をくねらせて、やってくる。
狐女ですら初めて目にした、霊獣たちの王。
――青龍・・・・・・ やっぱり、そうだったのね。
秀郷の護法神は桔梗を前に対峙した。
将門勢は討伐軍を追い散らした。
馬上から太刀を振るい、敵兵を討ち取ること八十余人。
これを見て、秀郷・貞盛の伴類の多くは逃げ去った。
彼らもまた、烏合の衆であったとの証しである。
貞盛は風下から逃れるように、射手を率いて側面に向かった。
秀郷のもとに残ったのは、彼の精鋭三百のみ。
――だが、これで十分だ。
秀郷は彼らを前線に出すことなく、後方でようすを伺っていた。十倍する数の敵へ、全力で戦う将門勢に、疲れが出てくるのを待っていたのだ。
――それまで伴類どもを存分に追い廻してくれ。
将門ほどの華々しさはない。だが、戦いにかけては、彼の倍以上の経歴とそこから得た知恵があった。
いつかの襲撃を思い出す。
将門ばかりが敵を相手に戦い、従類らはむしろ将門に守られていた。
それは戦場でも同じだった。
将門の驍勇を頼みに軍勢が進み、戦況が決定する。逆に云えば、将門には用兵の能力がなかったのである。
『将門どのは気合いの入り方が違うな』
あの言葉は、己れの若いころそのままの彼を、遠回しに揶揄したものであった。
――真っ直ぐなばかりでは駄目なのだよ。将門どの。
秀郷は経験に裏打ちされた老練さで、自軍を勝利に導こうとしていた。
「――まだだ、まだだ」
恐れを知らぬ猛者らが血気に逸るのを抑え、彼が待っていたものは、もう一つ。
吹き飛ばされて雲一つない空を見上げる。
――来た!
風の向きが変わった。
追い風が秀郷の背中を押す。
「今だ! 矢を射よ! 将門を狙え!」
秀郷の号令に、精兵たちの弓からいっせいに矢が放たれた。
このとき彼は自軍の勝利を確信した。
――将門どの、我らが手を組むことができたのなら、さぞや大事を為し得ただろう。
敵将を惜しみさえした。
矢の雨は将門の上にも容赦なく襲いかかった。
と、思うと、途中突風に煽られ、征箭は将門を避けるかのように向きを変えた。
――いるのか? 桔梗。
天に問いかける。
男に女の姿は見えない。
その彼へ、流れ矢が向かい来、危ういところを太刀で叩き落とす。
――恋々(れんれん)とすなっ。桔梗などいなくとも、これまでも勝ってきたではないか。
未練をかなぐり捨てるように。
急ぎ馬首を巡らし、風下から退こうとした。
ここでまた、風が向きを変えた、と思う間もなく、風は手綱を失った悍馬のように荒れ狂った。
もはや風上も風下もない。
互いに弓箭の戦いを捨て、太刀や手鉾を手に男たちはぶつかり合った。
――将門は無敵だ。
それを証明するかのように、男は秀郷の手勢に躍りかかった。これまでの返礼とばかりに血の旋風を巻き起こす。
秀郷の精鋭もさすがにたじろぐ。
「迷うな! 将門とて神仏ではない。人が人を倒せぬことなどあろうはずがない!」
兵は、秀郷の言葉に鼓舞され、将門の方へ体を向き直した。
将門は聞き覚えのある声に、秀郷の姿を探した。
「秀郷! 新皇たる将門が自ら戦っているに、そなたは高みの見物かっ。そなたは、いつか俺に真の武勇を見せると言っていたな、今がそのときではないのか!」
大声で叫ぶ将門に、秀郷はかつての心友へ大きくうなずいてみせた。
馬腹を蹴ると、太刀を燦めかせて将門に迫る。
将門もそれに応えて馬を疾駆させる。
兵は敵も味方も道を開いた。
二人の男の距離があとわずかとなった。と、突然将門の馬が何かに驚いたように足を止めた。
ふいに、風がやんだ。
これを、側面の貞盛は見逃さなかった。
「今だ! 射よ!」
彼の号令に、弓兵の弦から矢が放たれる。
己が守りたる者のため、霊獣たちの戦いはとうに始まっていた。
敵の矢衾から男を庇い、返す力で、相手の頭上へ矢を降り注がせる狐女。
風を巻き起こし、その矢を地面に叩きつける青龍。
急風の乱序は、彼らの戦いが起こしたものだった。
人間たちの目に映ることのない虚空でも、地上と同様熾烈な戦いが繰り広げられていたのである。
だが、
青龍と白狐。
力の差は歴然だった。
遥かな年を経た青龍に、桔梗など赤子同然。適うはずはない。
それでも、
――自分が負ければ、将門さまは・・・・・・
すでに人型を捨て、桔梗は命を懸けて青龍に向かっていった。
死なばとも、と思う一方、一縷の望みを捨てず。
狐女は飛びかかって、青龍の頸に噛みついた。龍は大きく顎を開けた。しかし、そこから発せられたのは、叫号でなく、気の波動。透明な膜を振るわせるように。
人の耳には捕らえられぬ空気の震えを敏感な馬だけが受け取った。
寸秒、風がやんだ。
桔梗はふっと目だけを動かし、地上の男を探した。
降り注ぐ数多の矢。
その一つが将門の体を貫く。
将門は鞍から落ち、殺到した秀郷の従類に捕らえられた。
将門は、地面に身体を押しつけられ、埃に塗れた。
無様な姿となりながら、それでもグッと顔を上げ、近寄る秀郷の顔を見上げる。
秀郷は兵に命じて、将門の上体を起こさせると、何か語りかけた。将門も何か言い返したようであったが、それも二言三言。
秀郷は太刀を振り上げると一気に振り下ろした。
――将門さま!
上空から将門の最期を見た桔梗は、歯牙を青龍から離し、
「おのれ、秀郷!」
憎き秀郷に飛びかかろうとした。
瞬間、白獣の体は地面に叩きつけられる。
歯を食い縛り、中空を見上げれば悠然と浮かぶ聖獣の姿があった。
天と地で睨み合う青龍と白狐。
しかし、もう全てが終わった。
南無、妙見大菩薩・・・・・・
――そうよ、狐が龍に勝てるはずもなし。
桔梗と将門が信奉した妙見菩薩の騎獣は青龍であるとされていた。
その龍を敵に廻したために、菩薩の加護は将門から秀郷へと流れてしまったのか。
満身創痍となりながら、狐女は喉を振り絞る。
「私を殺して! 将門さまを失った私に、生きる意味はないの!」
しかし、青龍は狐を黙って見下ろすだけだ。
無言のまま首を巡らすと、夕焼けの茜色の空へと去って行った。
狐は力尽き、そのまま動かなくなった。
将門のところへ貞盛が到着したのは、彼の首が落ちる瞬間だった。
貞盛は息をするのも忘れ、馬から下りた。
それから、ゆっくりと歩み寄って跪き、やわらに手を差し延べる。
「何の今さらと、お前は言うか」
京で別れて十余年。故郷の地でかけた最初の、そして最後の言葉だった。