血戦
将門の父、平良将は下総国と常陸国(茨城県中北部)の南部に広大な領地を持ち、その遺領を長兄が管理していた。その兄が若くして死んだ。遺された弟たちはまだ幼少であったため、父の兄弟は彼らに後見する素振りで近付き、親切ごかしの裏で所領を掠め取ろうとしたのである。
一番上の弟、将平からの手紙で、この事実を知った将門は慌てて故郷へと向かった。
もちろん、桔梗も一緒だ。
――この時期に帰らねばならぬとは。
無位無官のまま故郷に帰ることは将門の矜持を傷つけたが、やむを得なかった。
彼らは東下に海路を使った。
古代の下総と常陸南部には大湖水地帯が拡がり、さらに西部にある将門の故郷は、子飼川(小貝川)と衣川(鬼怒川)が北から南へと流れ下り、一帯には水運が広く発達していた。
彼らは大洋から続く内陸の湖沼へと船を進めた。
碧羅の裾野をはろばろと曳く、名山筑波の嶺を右手に見上げ、やがて船は、ゆるやかな丘陵のかたちに沿って湛う水路をたどり、彼の本拠へと入った。
かつてこの地方は作物の育てにくい湿地で、台地の上も荒涼とした原野が拡がるばかりであった。
しかし、そんな土地を将門の父祖たちは根気よく開拓いたのである。
台地の草原を馬に与え牧とし、低地には稲を植え、稲を植えられぬほど深い泥地には、根や実が食用となる蓮を育てた。
ちょうど、花のころだった。
大振りの葉柄に混じって、水面から突きだした茎の先に淡い紅色の花弁を開かせていた。中心には、名の由来となった蜂巣様の花托を置き、仏の蓮華座とはこれを云うのかと桔梗は得心する。京とて蓮ぐらい咲いていたが、宮中の人工の池のものとは比べものにならない。
蓮の群生は見渡す限り続き、
「まるで極楽浄土のよう」
うっとりと目を細めた。
一行を乗せた船は、蓮見舟となって漂う。
人々の生活を支える作地が美しい風景となり、そのまま浮き世の理想郷として目に映る。
なんて素晴らしいことだろうか。
「将門さま、この土地を決して手放してはだめよ」
「わかっている」
丈高い水草ゆえに、微風にさえ一斉に揺れなびく。
葉の緑に映える淡き紅。
その彩りが香り立つように。
水上の楽園――
将門に寄り添う桔梗に見飽きることはなかった。
桔梗は東国にすぐ馴染んだ。
将門の弟たちは、彼女の姿を一目見るなり、
「兄上、すごい美人を連れてきましたね」
「都暮らしは苦労が多いなんて、いったいどんな苦労をしたって言うんですか」
年長の弟たちは口々に褒めそやし、幼い弟たちは桔梗の美貌に照れながらも、喜びを顔に表した。
「みんな、いい子たちばかりね」
一番下の弟の頭を撫でながら、桔梗は将門に笑顔を向けた。
将門は広大な領地に拠点となる複数の営所を設けた。
本拠となる猿島郡の石井に桔梗を住まわせることにしたが、当の彼女は、巡回に他の営所を泊まり歩く男の行く先々に付いていった。従者として将門の身辺を守るためである。
「将門さまに悪さする奴がいたら、私の霊力でやっつけちゃうから!」
男のそばで、桔梗が若い従者姿となって馬の轡をとる。
撫子丸のころより成長した分、名も『桔梗丸』と改めていた。
将門は草原を駆けめぐる。
胸いっぱいに草いきれを吸い込む。
宮城の衛士と云いながら、京では身分上、乗馬も武器の携帯も制約があった。
不自由だった都での時間を取り戻すように、将門は思う存分馬に鞭あて、全身で風を感じた。
彼の駿馬に付いていけるのは桔梗丸だけだった。
「あれはいったい何者だ」
家臣らが口々に言う。
京から連れてきたというが、
「主の出かけるときに現れて、邸に着くとどこかに行っちまう」
皆、不思議がった。
都時代からの従者は、
「まぁ、うちの殿は、いいお守りを拾った、ということかな」
と、にやにや笑う。
こうして桔梗は、おおどかな東国の人々に受け容れられていくのである。
数年が経つころには土地土地に安息の空気がただよい始める。
将門の帰東後、伯父たちは良将の遺領から手をひいた。無位無官とはいえ、将門には藤の大臣忠平という大きな後ろ盾がある。後難を恐れてのことだ。
そうなると、将門は桔梗へ、
「これから行く営所に、お前は来なくていい」
石井での留守を命じた。
「どうして?」
などと桔梗も野暮なことは言わない。
地元が落ち着きを見せると、一夫多妻の例にあって、将門は桔梗一人では口淋しくなったのである。
――どこぞの営所近くに佳い女ができたのね。
惚れた男が他の女によそ見をしたとて、桔梗はやきもちなど見せない。男女の性愛が退廃を極めた宮中で育っただけあり。
しかし、さすがに相手の女の素性を知ったときは、耳を疑った。
伯父の一人、下総介(国庁次官)平良兼の娘を邸から盗み出し、豊田郡鎌輪(石井の北)の営所に住まわせたのである。
良兼は上総(千葉県中部)に本拠を置きながら、下総や常陸にも領地を持つ一帯の大領主であるが、
――よりによって良兼の娘だなんて。後の煩いにならなければいいけど。
桔梗は案じたが、すでに将門と良兼の諍いは始まっていた。
将門にすれば、従兄妹同士の気安さから、良兼の娘に興味を持ったのである。だが良兼は、そう取らなかった。
「先の意趣返しに娘に近づいたか。無位無官のくせに、国司の婿として釣り合うとでも思っているのか」
所領争いに関しても、兄弟の常陸大掾の国香と、良兼、良正は前の常陸大掾源護の娘を妻としており、同家の相婿たる兄弟は、血縁と姻縁、二重の絆によって結ばれている。さらに鎮守府将軍という飛び抜けた出世をした良将に対して、彼らは複雑な感情を共有していた。一族の中でも良将の系統は別扱い。故に、彼の遺領に手を出したのである。
将門は、自分と良兼の娘が結ばれれば、一族が円満になると考えていたようだが、甘かった。
良兼は許さず、その時点であきらめれば良いものを、情の濃さゆえに娘を連れ出してしまったのだ。
「子どもでもできれば、伯父上も許してくれるだろう」
またも甘いことを考える。
何事にも鷹揚な人間は相手も同じだと思いがちである。自分が許せば、相手も許すと。
しかし、現実にはさまざまな人間がいる。それを都で散々学んだはずだが、血の絆という期待が将門の目を曇らせてしまったのだろうか。
承平五年(九三五)初春、将門は伯父国香とその舅源護一族との戦いに向かっていた。
国香と護は、ともに新旧常陸の国司であるが、当時の中央政府は崩れかけた律令制の立て直しのために、各国庁の権限を高めようと図った。
その最たるものが、税の取り立ての強化である。
彼らはこれを利用し、常陸国内にあった将門の領地から租税を、さらには土地そのものを取り上げようとしたのだ。
一族の中で孤立している無官の甥を、言わば、彼らはなめてかかったのである。
叔父たちの横暴に、将門は敢然と立ち上がった。
将門軍来る、の報に、国香らは常陸国府の西方、筑波山の南、桜川の前に陣を張り、甥を待ち構えた。
敵軍の接近に兵鼓を打ち、味方の従類、伴類を鼓舞する。
従類とは従属する一族や代々の家来を、伴類は同心する在地領主を云う。
対する将門の従類、伴類も負けじと声を張り上げる。
軍勢を率いる将門のかたわらには、従者姿の桔梗がいた。彼女は馬上の男を見て思った。
――将門さまはここにきて、まだ迷われている。
周囲には決して見せぬが、情の深い男が、肉親との戦いに躊躇せぬはずがない。
しかし、遥かに見る伯父らの軍兵は、将門を打ち負かそうと大いに気勢を上げていた。
「どうしても、戦わねばならぬようだな」
桔梗丸にだけ聞こえる声は、哀調が帯びていた。
「相手がわるいのよ。わるい奴はこらしめなくちゃ」
桔梗丸は明るく笑んでみせる。
男が何か言い返そうと口を開きかけた、そのとき――
女がふだん下ろしている黒髪の、そのうなじのほつれ毛がふわりとそよいだ。
将門軍の背後から、追い風が吹いたのだ。
「神風よ。矢戦にはおあつらえむきの」
「桔梗、お前何かしたな」
妖しから力を借りるなど、聖戦たるべき合戦に賤陋な行いではないかと、将門は眉をひそめたが。
桔梗丸は鼻に皺をよせて、
「私には、自然の力をどうこうする力はまだないわ。でも、今ある力は存分に使わせてもらうわよ。いろいろとね」
ふふんと笑った。
「・・・・・・それに私の霊力が、御身の武勇とどう違うというの? どちらも天から授かったものでしょ。第一、私の霊力を御身が補ってくれたということ忘れたの? 私の力は御身の力。ならば、この合戦に疚しいことは何一つないわ」
何の臆することがあろうかと。
将門は覚悟を決めた。
無冠の武将たる平将門の初陣――
後に一世を風靡する男の嚆矢が放たれた。
川を挟んで対峙する敵味方の軍勢は、互いの岸から征矢の応酬が始まり、青空を蝗の大群のように黒く霞ませた。矢は唸り声を上げ、宙を貫く。空中の一点で角度を変えると、向かう兵士を狙いすました。
盾の陰に収まり切れなかった人馬がばたばたと倒れる。
黒い霞の最も濃い部分は、一塊となって将門めがけ降り注いだ。
桔梗丸は将門の頭上を目に見えぬ傘で覆い、敵の矢を弾き返した。
「南無、妙見大菩薩――― 見よ! 我らが将門様には神仏のご加護がついておるぞ。この度の戦さは勝ったも同然じゃ!」
桔梗丸は大声で呼ばわった。
注視する者は敵味方なく瞠目し、喚き騒いだ。
――菩薩さまのご加護など、俺には鬼一匹倒すくらいがせいぜいだと思うが。
将門は桔梗丸の大言壮語に微苦笑で答えると、馬腹を蹴り、太刀を手に、川向こうから迫る敵勢の中へ突入した。
水飛沫を上げながら川面を乱し、太刀で敵兵を次々に斬り倒す。
頭上には見えざる傘。
流れ矢から将門を守りながら、
「将門さま、こっちよ」
桔梗丸が浅瀬を指し示す。
おかげで馬は流されもせず向こう岸にたどり着く。
それを見た味方の従類伴類も将門に習って川を渡った。
次から次へと押し寄せる将門勢に、敵の伴類は散り散りになって逃げていく。
とも(・・)にあるから伴の字が当てられる伴類。だが、彼らの忠誠心など所詮この程度のものだった。
残された国香らの軍勢は、累代の従類がわずかほど。
――これでは勝負にならぬ。
とばかりに馬の向きを変え、東へと落ち延びていった。
殺し合うことが目的ではない。将門の力が知らしめれば、これで十分だった。
「将門さま、お見事」
見上げる桔梗へ、将門は白い歯を見せた。
初めての戦いだというのに、余裕をもって勝てた喜びがそうさせたのだ。
「合戦の勝利はどちらの力がもたらした? 俺か? お前か?」
桔梗も笑って答える。
「全ては御身のお力じゃないの」
「お前は上手に過ぎるな」
大笑する将門は湧き上がる高揚感に酔いしれ、勝者の現実というものを未だ知らなかった。
戦いの終息を宣言する権利は勝者にない。それは生き残った敗者にこそあるのだ。
将門は初陣を勝利で飾りながら、下総への凱旋後、一息つく間もなく再戦・再々戦を挑まれる。
結果は連戦連勝。
後に、馬を駆ること龍の如く、軍を率いること雲の如くと称えられた彼は、天性の兵であった。
――伯父上もいい加減あきらめればよいものを。
余裕の中にあって叔父一族を適当にあしらっていた将門。
だが遂に、これまでの戦いを見直さなければならぬ事態に陥る。
ある日の戦闘で、敵将、そして伯父である国香を戦死させてしまったのだ。
――伯父上を死に追い込むことまでは考えていなかった。
戦場での生死は運不運。致し方のないこととはいえ、その事実は将門を苛んだ。
しかし、一方で、将門には統率者としての責任があった。
「今までのやり方が手ぬるかったからこそ、相手に付け入る隙を与えてしまったのです」
「徹底的に叩き潰す。それが平和への近道なのです」
家臣らに説かれ、将門も承知した。
後顧の憂いを経つべく、国香らの領地、筑波、真壁、新治の三郡(いずれも常陸南西部、将門の本拠に近い)の邸や倉庫を焼かせた。今年の種籾の入った米倉にまで及んだのは、農業の生産力を落とすことで領民を飢えさせ、兵力の挽回を妨げるためだった。
過酷なまでの敗者への制裁。
これも平一族の争いを終わらせるためと、自分に言い聞かせて。
戦いの終決は生き残った敗者に――…
この場合、それは国香の嫡子のことである。
嫡子の名前は平貞盛。
そう、将門が国香と本気でぶつかりたくなかったのは、貞盛の父親だったからだ。
――あいつはどう思っている?
将門の従兄にして親友だった男は、都で出世し、右馬寮の丞(三等官)となっていた。
将門はかつて味合ったことのない胸苦しさを覚えた。
――あいつと争うなど、俺にはできぬ。
貞盛だって、そう思っているに違いない。
しかし、父親を殺された怒りや悲しみは計り知れず、彼の思いを確かめようと、弔いのため帰郷していた貞盛へ使者を送った。
従弟にして親友たる将門からの弁明の書状。
貞盛もこのようなかたちで彼の近況を知ることになるとは想像もしなかった。
彼は、父親の行い、将門の性分、源護一族との関係を熟慮して、返事をしたためた。
「叔父上の遺領に手を出した父にこそ問題があったんだ。それに戦いの中で命を落とすのはやむを得ないこと。そう思って私は将門を恨まないことにする」
と伝え、また、決着のついた戦いを蒸し返したくないとも。
彼の言葉に、将門は焼却した籾殻の補填に自領の農作物を送り、貞盛が喪に服している間、生活に困らぬよう配慮した。
周囲の目もあり、今はまだ顔を合わすことはできない。
だが、親友同士だった彼らは互いに相手を思いやった。
――将門、よほど父の死を後悔しているのだな。
――貞盛、この程度で俺の気が済むと思ってくれるな。ほとぼりが冷めたら、俺にできることは何でもするから。
将門も貞盛も苦しい胸のうちながら、双方が矛を収める方向にむかい始めていた。
しかし、これを不服とする者がいた。
源護である。
彼は先の合戦で息子を三人も亡くし、これを戦場の運不運とは片づけられなかった。
護は婿の良正に泣きつき、将門の成敗を依頼した。
同年十月、良正は甥を討とうと彼の本拠に向かった。だが、待ち構えていた将門は呆気なく追い返してしまう。
「――御身は強すぎるわ。私の出番がないじゃないの」
桔梗にそう言われるほどである。
今度は良正が、国香亡き後、一族の長となった良兼に泣きつく番であった。
ちょうど良兼も、己れの庭先で威勢を振るう甥を目障りに思っていたところである。
舅護からも頼られ、良兼は娘の婿である将門の征伐を決意し、さらに、もう一人の甥貞盛を仲間に引き入れようとした。
「お前は自分の父親を殺されて、その相手と仲良くしようとするのか。父の供養に奴を討とうと思わんのか。まったく、これが血を分けた甥だと思うと、情けなくて涙が出る」
貞盛の思慮深さは、鄙では優柔不断と映ってしまうのだ。
いくら説得されても、将門の成敗など彼の本意ではない。けれど、硬化した叔父たちの前で否やは言えなかった。
――一度は許すと言っておきながら、これでは将門を裏切ったことになる。
そう思いながら、貞盛はずるずると伯父たちの陣営に引きづり込まれていくのである。