禁中の鬼
男は鬼退治を命じられた。
男の職は滝口の衛士。
滝口とは清涼殿の東北にある御溝水が滝となって落ちるところを言い、ここに内裏警護の侍の詰め所がある。
そう、鬼の出るところとは宮中であった。
平安京に都が遷され、百余年。その核たる宮城は広大に過ぎ、管理警備する役人の手に余った。築地は崩れ落ち、破れ目から侵入した狐や野犬が棲みつく、物乞いが徘徊する、その程度ならばまだ良いほうで、盗賊の出没や不審火、いつぞやは狂女までもが城門に入り込み、人を襲ったという。
ただし、滝口の警備は御座所近くのほんの一角。
本来これらを取り締まるべきは六衛府の武人であるが、人手も武器も不足し、
「へたなものに手を出すな。怪我でもすれば馬鹿を見る」
諸国から徴収された下役にあって、巡回するのは安全な場所ばかり。事件めいたことが起きようとも見て見ぬふりをした。
素よりとは云え、荒廃を助長させたのは、彼らの怠慢にも一因があったろうに。
――そのつけが滝口にまわってきたか。
だが、よもや鬼までが出没するようになるとは。
しかも、皇妃のおわす後宮に現れたという。
「その鬼は、もとは人間だったのだ」
上役たる蔵人が言うことには―――
半年前、凝華舎の女御が得体の知れない病に倒れた。病気快癒の祈祷のため、名高い阿闍梨が呼ばれたが、美しい女御の姿を一目見た彼は恋に落ちる。
行者は愛しい女のために、病魔退散を一心に祈った。
やがて、効験あってか女御の病気は快癒し、彼は念いを伝えようとした。けれど、女御にきっぱりと撥ねつけられる。
当然であろう。
周りの人々からも諫められた阿闍梨は、現実を受け容れることができなかった。
苦しい片恋に我が身を責めさいなまれ、己れと彼女を阻む身分の壁、戸惑う周囲の人間、ひいては主上や拒絶した女御さえ恨んだ。
阿闍梨は断食の果て、
「この上は、鬼となって祟らん」
呪いの言葉を遺して、死んだ。
果たして、呪い通り鬼として復活した行者は宮中に押し入り、凝華舎の女御を襲った。女御の髪を引き掴み、その体を我物とし、以後、昼となく夜となく媾っているという。
帝を始め殿上人は、恐ろしさの余り近寄ることもできない。日ごろ居丈高な近衛府の役人も及び腰だった。衛府の上臈たちは前例のない事態に不始末でも犯し、栄誉ある役職に瑕がついてはと恐れたのだ。
「そもそも御座所の鬼門(北東)を守るため、この滝口へ詰め所が置かれたというに、鬼の侵入を許したとあれば、滝口の名折れであろう」
滝口の武士は天皇を悪しきものから守る僻邪の役を担っているのだからと――決めつける上司の言葉に、男は、
「そうですか? 別に北東に限らず、鬼だって、入りたいと思えばそこから入るでしょうし、出たいと思えばそこから出るでしょう。第一、凝華舎なら滝口はお門違いじゃないですか。結局、歴史の浅い滝口へ厄介事を押しつける気なんでしょう?」
と喉元まで出かけたが、さすがに後事を考えて口をつぐんだ。
「聞くところによるとおぬし、腕には相当の自信があるようだの」
思わせぶりに言われて男は気付いた。
以前、酒に酔った際、
「俺は本来このようなところにいるべき人間ではない。先祖をたどれば桓武天皇の末裔で、父は鎮守府将軍。今はまだ無位無官だが、いずれ武芸で目をかけられて検非違使の尉(三等官)に――」
と口走ったことがある。
けれど、仲間内の、しかも酒の席での話が上司に伝わるとはいい気がしない。自分をよく思わぬ人間が告げ口でもしたのだろうか。
「どうだ。運試しに承香殿の鬼を退治してみるのは。うまくすれば検非違使庁か衛門府に推挙されるまたとない機会だ」
検非違使は都の非違(犯罪)を取り締まる花形武官。武人であれば誰もが憧れる役職だ。
心動かされた男のようすに、上役は凝華舎へと向かわせた。
「何、お前一人で行かせようというのではない。加勢をつけてやるから」
と言われたが、振り返ってみれば、仲間の衛士たちは随分な距離を隔てて付いてくる。
天子の末裔といえど、男の祖父、高望王が皇族の列を外れ、下総国(千葉県北部・茨城県南部)に下ったのは数十年も前のこと。父は鎮守府将軍にまで出世していたものの、その七光りに預かる前に亡くなった。
父親にも自分にも故郷に多くの兄弟がいたが、板東の僻地で埋もれるのは真っ平だった。故に、己れの武勇を試そうと縁を頼って上京したが、都では臣籍に下った天皇の子孫は掃いて捨てるほど。あまつさえ、東国に土着した皇孫など、すでに忘れられた存在だった。
「分をわきまえることを知らず、矜恃だけは人一倍強い東夷め、ちと懲らしめてやろう」
そう嘯く人々の顔が浮かんだ。
父祖の官位に見合った身分を、と願う己れを、周囲の人間は、
――持て余していたのか・・・・・・
有官無官が混在する滝口にあって、自分は同じ衛士として対等と思ってつき合っていたが、他の者はそうではなかったらしい。
――俺は体の言い当て馬か。
自分一人にようすを伺わせ、鬼の出方を待つ。運悪く鬼の反撃にあっても犠牲は一人。東国生まれの父なし児に斟酌はない。
天皇の御座所たる清涼殿の北、飛香舎前を過ぎ、男は凝華舎へ向かった。
悪鬼退散のため陰陽師が呪法を修し、僧侶が祈祷を行なったそうが、効き目はなかったという。
――宮廷の人たちは何かあると拝んでばっかりだ。
そういえば、数日前より邪気払いの鳴弦を常になく命じられた。
――ろくな説明もなかったが、こういう事情であったか。
男は植栽伝いに身を隠しながら、広縁越しに局を伺った。
内は凄まじい有様だった。御簾は破れ、几帳は倒され、昼の日差しが届かぬ薄暗い房の奥で蠢くものがある。
身の丈七尺ほどの体躯にまとうものはなく、代ってごつごつと瘤のように盛り上がった背中の筋肉。腹の下には組み敷かれた女の姿があった。
「おぞましい・・・・・・。あれが世に聞く鬼というものか」
休みなく上下に動作する巨体に、
――俺への懲らしめというには、随分と手強そうな相手だ。下手をすれば命はないぞ。
それとも怯えて逃げ帰ってくるのを期待しているのか。
男の左手には弓、右手には矢。鎧はなく職服である藍摺りの褐衣に胡簶を負い、腰には黒鞘の太刀を帯びていた。
体を前へ。沓をぐっと踏み出す。
――検非違使庁への推挙を・・・・・・
決して効を焦ったわけではない。
しかし、油断しきった鬼の背を見て、今ならやれると思った。
弓に矢をつがえ、矢壺を定める。
鬼の背中、双の貝殻骨の合間に―――
ビュッと矢を放つ。
狙いは違わなかった。
しかし、鬼の肉を貫くはずだった矢は、あっさりとその皮膚にはじき返された。
――何という鋼の躰。
男は目を見開いた。
快楽を邪魔された鬼は動きを止め、ゆっくりと振り向いた。
怒りに燃える瞳は、薄闇の中で脂を浮かせたようにぎらついていた。
鬼は男と目が合うと、瞬間、女を躰から引きはがし、
巨体に似合わぬ疾さで跳び上がり、広縁の欄干を蹴って男へ襲いかかった。
男は直ぐさま二の矢を継いだが、またもやはじき返され、目の前の鬼を見上げるようにして対峙した。
日の光に露わになった赤銅色の肌。口には刃のように長く鋭い歯が並び、そこからだらだらと涎を流していた。
――これが聖者のなれの果てか。
呆然となったが、それも一瞬のこと。男は真横に跳躍した。
植栽を盾に遮ろうとしたが、鬼はいとも容易く庭木を引き抜き、男目がけて振り下ろした。
男は弓矢を捨て、再び真横に跳躍した。太刀を引き抜き、
「南無、妙見大菩薩」
そう口の中で唱えながら、刃に素早く舌を這わせた。
庭木をこん棒のように振り回す鬼の巨体。その側面へ回り込む。
鬼の躰がこちらへ向くより先に、振りかぶった太刀で鬼の脇腹を斬り裂く。そのまま背後に回り込み、己太刀を構え直す。
「南無、妙見大菩薩」
もう一度唱える。
背中の真ん中を、心の臓を狙う。身体ごと跳び込んで、太刀を突き入れる。
腕にしっかりとした手応えがあった。矢では容易く弾き返された鬼の身体に、男の太刀が深々と貫いていた。刃は鍔口近くまで沈み、男の半身は鬼の身体に頬から肩、腰に至るまで密着し、男と鬼の身体は刃を通して一体となっていた。
鬼が藻掻きながら倒れかかる。肉に噛まれた太刀を掠われぬよう柄をぐっと握り締め、堪えた。
自然、鬼が地面に倒れ着いたとき、太刀は剥き身となる。それを持ち返し、鬼の首めがけて振りかぶった。
「――――・・・・・・」
断頭の血飛沫が、魔獣の咆吼めいて男の体に降り注いだ。
それから男は右手に太刀を下げ、左手に鬼の首を高々と掲げると、大声で呼ばわった。
「皆の者、ご覧じろっ。前鎮守府将軍平良将が息、将門! 鬼の首討ち取ったりっ」
鮮やかな血の色で真っ赤に染まった身体、白目だけをギラギラと輝かせる男に、誰もが畏怖の念を抱いた。近寄りがたいほどの・・・・・・
畏怖? いやむしろ忌避と言っていい。その傍で息絶える鬼よりもなお恐ろしい、人の姿をしたもう一人の鬼だと・・・・・・
だが男はそれを知らず、血まみれの顔をほころばせ、周囲を見渡した。