ふわふわの毛布
どうにか一週間におよぶテストを終え、悠里は一旦自宅に帰るとシロを連れ、香織の住むマンションに向かった。
――今日こそは話を聞いてもらえますように。
悠里は祈るような気持ちだった。
――今日は金曜日だし、香織さんの気持ちにも少し余裕があるといいんだけど。
インターホンを押すと、男性の声がした。
「はい、どちらさまですか」
香織が出るものと思っていた悠里はちょっと面食らう。
――あ、旦那さんかな。そっか、テスト終わってすぐ来ちゃったけど、まだ四時だった。仕事からまだ帰ってきてないんだ。
悠里は、とっさに嘘をついた。良心の呵責で胸が少し痛むが、今はそんなこと言っている場合ではない。
「あ、えっと、香織さんの友達で、悠里って言います。今日は香織さんはまだ?」
「ああ、まだ帰ってきてないんだけど。よかったら上がってよ。すぐ帰ってくると思うから」
「すいません。ありがとうございます」
悠里は、その好意に甘えることにした。
香織とその夫が住む部屋は、とても広々としていて、開放的だった。悠里が通されたリビングは窓も広く、周辺の景色がよく見える。悠里がきょろきょろと観察していると、香織の夫は言った。
「なかなかいい部屋でしょう。香織と見学に来て、すぐ気に入って購入したんだ。あ、僕、川崎健吾って言います。よろしくね。君は」
「あ、はい。杉浦悠里です。看護学生です」
言いながら、悠里は、なぜ香織はこんなに雪枝の住む中野家に近いマンションを買ったのだろう、と思った。心のどこかで、いつか和解する日を夢見ていたのだろうか。
「そう、看護師の卵なんだね。僕はネットで自分の作ったアクセサリーを売る仕事をしててね。ほら、そこのケースに入ってるのがそうなんだけど」
悠里は、健吾が指差したショーケースを覗いてみた。シルバーのリングやネックレス、ブレスレットがところ狭しと並べてある。ごつごつした太いデザインから想像するに男性向けらしい。隣の部屋には、作業台らしき机が見えた。見慣れない工具がたくさん置かれている。
「あのお部屋でいつも作業されてるんですか」
「そう。ここが住居兼仕事場さ。ところで、君、えっと悠里ちゃんだっけ、香織とはどこで知り合ったの」
健吾は、疑うふうもなく自然に聞いてくる。
――うわっ、来た。どうしよう。
悠里は焦りつつも、嘘にならない程度に事情を説明した。
「共通の友達を介してです。その人今、入院してて、一緒にお見舞いに行こうってお誘いしてるんですけど」
「ああ、今忙しいからねえ。なんでも新しく立ち上げたプロジェクトのリーダーになっちゃったらしくて、僕のこともほったらかして、毎日残業さ。下手すると、家まで仕事持ち帰ってきて、やってるよ。でも今日は早く帰ってくると思うよ。金曜は残業しない日って自分で決めてるみたいだから」
そう言いながら、健吾は悠里にお茶を入れてくれた。
――そういえば、香織さんって今はどんな仕事してるんだろ。でも下手なことは言えない。ほんとに友達なのって思われたら困る。
悠里は、聞き役に徹し、言葉を慎重に選んだ。心配しなくても、健吾はなかなかにおしゃべりな方らしい。アクセサリーの作り方、材料、どんな洋服にどんなアクセサリーが似合うか、今後はどんな商品を、どんな客層をターゲットに展開していく予定かを、途切れることなく話すので、悠里はそれに質問したり、相づちを打つだけで良かった。健吾の話を聞いて二時間ほど経過した頃、香織が帰ってきた。
「健吾、ただいまー」
その声を聞いた悠里は一気に緊張する。健吾は軽い調子で言う。
「おう、おかえり。早かったね。お友達が来ているよ」
悠里はがばっとソファから立ち上がって、頭を下げた。
「あら、あなた、また来たの」
香織はふうっとため息をつく。
「いいわ。あなたの熱意は買ってあげる。外で何か食べながらお話しましょ。健吾、悪いけど夕飯はなにか適当に食べてくれる?」
「おう、分かった。気をつけてな」
健吾はひらひらと手を振る。気さくな旦那さんと、バリバリ働くキャリアウーマンの香織さん、なかなかバランスがとれてていいかも、と悠里は思った。
「近くのファミレスでも行きましょ」
香織は言って、悠里を見ずにすたすたと歩き出す。悠里は慌てて後を追った。
マンションから歩いて五分のところにファミレスはあった。香織と向かい合って座ると、香織は珍しく笑顔で言った。
「うちの旦那、話し始めると長いでしょ。よく付き合ったわね」
「はあ。アクセサリーの話をいろいろしてくれました」
「あははは。私なんかもう聞き飽きてるから、適当に相づちを打っておしまいよ」
「そうですよねえ」
と言ってから、悠里はしまったと思い、口を手で覆った。それでは、今聞いてきた健吾の話がいかにもつまらなかったかのようではないか。
香織は笑って手を振る。
「いいのよ、気にしないで」
今日の香織さんは、いつもと違うと悠里は思う。こんな風に楽しくお話もできる人なのだ、と悠里は改めて思った。
ウェイトレスが注文を取りにきたので、香織と悠里は、それぞれに注文した。
料理が来るのを待つ間、悠里はおもむろに切り出した。
「あの、コント・ドゥ・シャンボールって知ってますか」
水を飲む香織の手が止まった。
「誰からその話を?」
と言ったきりしばらく沈黙が続く。香織は悠里の目を見て、話し出した。
「うちの母のところまで行ったようだから、雪枝さんの友達のところにでも行って聞いたかのかしら。ほんとあなたってすごいわね。他人のためになぜそこまで頑張れるの」
「いえ、私はただ」
悠里は言いかけてやめた。
――シロに聞いただけなんです、とは言えない。
そんな悠里の様子を気にかけず、香織は続ける。
「あなた、悠里さんだったわね、あなたが最初にうちに訪ねてきたときから、雪枝さんのこと、少しずつ考えるようになったわ。ずっと記憶にふたをして思い出さないようにしていたのだけど」
それを聞いて悠里は、なんだか申し訳なく思った。
――私、香織さんの心に貼った絆創膏を、無理やり剥がすようなことしてたんだ。
香織はそんな悠里の様子に構わず続けた。
「そうね、雪枝さんは今でも嫌いよ。とても憎いわ。だって私は無実なのに。中野夫妻が大好きで、ずっとうまくやってきていたのに。なのに」
香織は今にも泣き出しそうな顔をしていた。それを見た悠里も泣きそうになる。
「でもね、恩も感じているの。就職活動うまくいってないときに採用してくれた人たちだし。私が今の仕事ができるのも、中野夫妻の会社で、経理を一から教えてもらえたおかげだって」
香織の頬に一筋の涙が伝った。香織さんには、香織さんなりの苦労があったのだろうと悠里は思った。悠里は雪枝が、香織は最後には会社のこと全てを把握するまでになったと言っていたことを思い出した。それはもちろん、香織さんが優秀だったこともあるだろうが、そこに至るまでには相当な苦労があったに違いない。
「大変な努力をされたんですね」
悠里が言うと、香織は首を横に振る。
「そうでもないわ」
料理が運ばれてきた。香織は目の前に置かれたコーンスープを一口飲んでから言う。
「コント・ドゥ・シャンボールはね、知ってるかもしれないけど、薔薇の品種よ。オールドローズで、外側は淡いピンク色だけど、中心に向かって色が濃くなるの。大きな花弁で、とてもいい香りがする」
香織はうっとりとしながら話す。その様子はとても楽しげだ。
悠里はじれったくなって聞いた。
「でもそれと、お二人とどんな関係が?」
香織は笑う。笑うととても綺麗な表情になる。悠里は改めて思った。
「そうね。それを話さないと分からないわね。私は薔薇がとても好きなの。もうどうしようもなく。あの会社で働き始めてすぐのころ、その話をしたらね、雪枝さんが、うちの庭に空いているところがあるから、じゃあ、育ててみようかしらっていうのよ。いえいえ、そんな悪いですって言ったんだけど、雪枝さんは私も興味があるからって。それで一番最初に栽培を始めたのが」
「コント・ドゥ・シャンボールだったんですね」
「ふふふ。そうなの。薔薇の栽培は予想していたことだけど、とても難しくて、虫がついたり、台風が来たりするたびに、もうだめなんじゃないか、もう枯れちゃうって二人で心配したものよ」
悠里はなるほどと思った。雪枝と共に薔薇の世話をするために、香織は、雪枝の家に足しげく通った。コント・ドゥ・シャンボールは、雪枝さんと香織さんの仲を深めるきっかけを作った花だったのだ。
「私たちの心配をよそに毎年見事に大輪の花が咲いてくれて。せっかく咲いた花なのに雪枝さんは、最初に咲いた一本を切って私にくれたわ。アパートに飾りなさいって。うれしかったな、そのとき」
香織は、昔を懐かしむように遠くを見た。悠里はそれを見て、ふわふわの毛布にくるまれているような、今まで経験したことのない暖かな気持ちになった。
香織はさらに続ける。
「私、薔薇も嬉しかったけれど、雪枝さんの気持ちが嬉しかったのね、きっと。だからこそ現金の紛失を責められたことが悔しかった。今まで当然のように受け取ってきた夫妻の愛情が、突然うそみたいに、偽物みたいに思えて辛かったわ。だけどあの薔薇の花、きれいだったわね」
香織は、出てきたミートソーススパゲッティをフォークで器用に巻いて、大事そうに口に運んで咀嚼した。まるで雪枝との思い出をかみしめるように。ゆっくり飲みこんでから香織は言う。
「いいわ。会いましょう。雪枝さんに。ありがとね、悠里ちゃん」
「いいえ。私は何も」
悠里はバッグのなかを覗いて、心の中で呟いた。
――シロ、ありがと。
悠里は思い出していた。シロの見せてくれたバーベキューの映像のバックにあった、咲き乱れる花。あれはみんな薔薇だった。さまざまな色合いの薔薇のなかに、淡いピンク色だが、中心に向かうにつれて色が濃くなる大輪の花も確かにあった。あの花こそ、コント・ドゥ・シャンボールだったのだ。
シロの呟きが聞こえる。
――今回はわしの出番、まったくなかったの。ついてきて損したわい。
悠里は笑って、こっそりシロの頭をなでた。香織は言う。
「ほら、パスタが冷めるわよ。私おごるから沢山食べてって」
そう言われて初めて悠里は、香織の話に夢中になって、出てきたカルボナーラをまだ一口も食べていないことに気付いた。