誓い
看護専門学校に通う毎日は多忙を極めていたが、悠里は、睡眠時間を極力短くすることで乗り切っていた。
一人でも多くの命を救う看護師になることが、今の悠里の目標だ。悠里が看護師になりたいと思ったのは、悠里が高校生になるまで、かなえが看護師をしていたことが大きい。かなえは毎日、主婦と看護師との両立が大変そうだったが、いつもいきいきしているように悠里には思えた。小学生のころ悠里はかなえに尋ねた。
「ねえ、お母さん、看護師ってどんな仕事? 楽しい?」
かなえは笑って言う。
「おや、悠里は看護師になりたいの? 大変よぉ」
悠里は、かなえに馬鹿にされているようで、じれったくなって言う。
「もう、質問に答えてよー」
かなえは楽しそうに答える。
「うーん、そうだなあ、病気の人のお世話をするの、そして元気になってもらう」
「それが楽しいの?」
「そうよ。元気になってくれたら、もうねえ、疲れを忘れるわね」
「分かった。悠里も看護師になる」
「うーん、それはよく考えてからのがいいと思うけど」
しかし、悠里の気持ちは変わらなかった。高校二年の時には迷わず、進路希望調査票に看護専門学校進学と大きく書いた。かなえは、それを見て言った。
「じゃあ、覚悟を決めることね」
もちろん、分かってるよ、とその時悠里は答え、看護専門学校にも無事入学できたのだが、それからしばらくしてから起きたタマの死が悠里にはこたえた。
ある日突然タマは倒れた。横向きに寝そべったまま荒い息を繰り返していた。急いで動物病院に連れていったがすでに手遅れだという。その翌日タマは亡くなった。タマを飼い始めて、七年目の夏の終わりだった。
「もう少し早く連れて来てくれればねえ」
と言う獣医師の言葉が、悠里の胸に刺さった。
――もっと早く私が異変に気付けば、タマはもう少し長生きできたかもしれない。
悠里はそれから数週間、何も手につかなかった。ただひたすらに自分を責める日々だった。
そして、それは悠里の将来に対する希望すら揺さぶった。看護師になって、もし患者の死と対峙するような場面になったとき、今と同じように落ち込み、無気力な状態になったら、そのとき自分は看護師をそれでも続けていけるだろうか、と悩む日々が続いた。かなえの言う「覚悟」とはこのことだったのだと悟った。
しかし、落ち込んでいたある日、タマの写真を見ながら、悠里は思ったのだった。
――もうあんな悲しい思いはしたくない。助からない命にも、もしかしたら出会うかもしれない。それでもやれることがあるなら全部やって、それからあの世へ送り出してあげたい。
悠里にとっては、雪枝のこともそれは同じだった。
――私にできることはきっと限られている。それでも悔いなくあの世に行くために、私にもできることがあるなら。
雪枝のお見舞いに行った次の週末、悠里は思い切って香織が住んでいたアパートへ行ってみた。少し迷ったが今回シロは置いていくことにした。声をかけようと思ったとき、シロはかなえの膝の上で目を閉じて眠っていたからだ。
そしてかなえもうたた寝していた。シロを起こすとかなえも起こすことになる。シロを連れていくことについて、何か言うかもしれない。説明するのも面倒だ。悠里はそうっと玄関を出た。
香織の住んでいたアポートは、閑静な住宅街の一角にあった。庭のある家が多く、どの家もなかなかに立派だ。ベランダのある方から、香織が住んでいた部屋を見上げてみる。カーテンがかかっていないところを見ると、今は空室らしい。
――勢い込んで来てみたけど、一体どうしたらいいんだろ。
悠里は、ため息をついて、アパート前の道をとぼとぼと歩き出した。風がビューっと吹いてくる。
――うう、寒っ。
悠里が思ったその時だった。
「ああ、その帽子とってー」
中年の女性が、道の向こうから小走りで走ってくる。全身が青みがかっているように悠里には見えた。息も絶え絶え、足も引きずっている。
悠里は慌てて、さきほどの風で飛ばされたらしい帽子に向かって走り出した。昔高校のマラソン大会で、三位になったこともある悠里は、足には自信があった。帽子は風に乗って、コロコロと転がたかと思うと浮き上がり、どんどん飛ばされていく。やっとのことで悠里は木にひっかかった帽子をつかまえた。
よく見てみると、緑色の帽子でツバがくるっとまあるくカーブしていて、なんとも可愛らしい帽子だった。カーブしたところには革製の薔薇のブローチが付いていて、それもまた可愛い。帽子の内側にマジックで、遠藤と小さく書いてあるのが見えた。やっとのことで悠里に追いついた女性に渡す。息を切らしながら、その女性は言う。
「はあはあ、助かった。ありがとう。この帽子は母親の大事な形見でね。無くすわけにはいかないものなんだよ。それにしても、あんた足が速いねえ。いくつなの?」
「二十歳です」
悠里が答えると、女性は笑って言う。
「まあ。若いんだね。いいわねえ。おばさんも若い時は走れたんだけど、今はとてもとても。毎日、体が重くて。若いんだから今を大切にしなさいよ。年をとるのなんてあっと言う間よ」
そう言って歩き出そうとする女性を見送りながら、悠里はとっさに思った。聞くだけ聞いてみよう、と。
「あ、あの、すいません、遠藤さんはこの辺にお住まいですか」
「ええ、そうよ。なんで、私の名前、あ、帽子に書いてあったっけ」
帽子を見てすぐに納得した様子の女性に、悠里はおそるおそる聞いてみる。
「じゃあ、あのぅ、あのアパートに住んでた相馬香織さんってご存知ありませんか。今はもう引っ越しちゃって住んでないみたいなんですけど」
悠里は香織の住んでいたアパートを指差した。
「さあ、知らないねえ。親切にしてもらったから、なんかお礼でもしたいとこなんだけど。そうだ、あのアパートの向かいの家に合田さんが住んでるから聞いてみな。あの人がこの辺りの区長様だからね。」
じゃあ、ありがとね、と言って女性は歩き出そうとする。重い体を引きずり引きずりといった様子だ。その姿がなんとも辛そうで、悠里は思わず声をかけた。
「あの、お体どこか、悪いんですか」
女性は振り向いて言った。
「ああ、なんだかいつも全身がだるいんだよ。でも熱があるわけじゃないし、原因不明なんだよね、医者に行っても年のせいですって笑われそうでさ」
悠里は、あははと笑う女性の体を凝視した。すると、全身青いが、みぞおちの右側の辺りがやけに青くみえる。人体の臓器の位置は一年のときに習っていた。悠里は言った。
「肝臓かもしれないですね、肝臓を患うと全身だるくなるそうですよ」
――ウィルス性肝炎? 脂肪肝? 黒くはないから、がんとかではなさそう。でも間違っていたらいけないから、これ以上言うのはやめとこう。
思えば、雪枝の肺は、かなり暗めの灰色ではなかっただろうか、そう考えて悠里は思わず首を横に振った。暗いことを考えるのは、今はよそう。
「変な子だね、あんた。医者でも目指してるの?」
女性はけげんな顔をする。
「いえ、私、看護師の卵です」
悠里がいうと謎でも解けたかのように女性はほっとした顔をした。
「なあんだ、そうか。帽子拾ってもらって、そんなことまで悪いね。今度医者に行ってみるよ」
「こちらこそ、ありがとうございました」
悠里は頭を下げて、女性が教えてくれた家へ向かった。
――アパートの向かいの家って言ってたっけ。ええと、ここかな。
アパートの前に戻ると、向かいには二軒の住宅らしい建物があった。右側の家には、合田という表札が出ている。おそるおそる悠里は、その家のチャイムを鳴らした。しばらくすると鍵が開く音がして、ドアが開いた。七十代ぐらいの老人が姿を見せる。
「なにか」
すでに頭皮に髪はなく、その表情は堅くいかめしい。目の下には大きな隈があり、より一層、合田の印象を怖いものにしていた。悠里はその迫力に圧倒されながら、一気にしゃべった。
「あ、はい。すみません。向かいのアパートに以前住んでいた相馬香織さんという方を探しているんですが」
「知らんな」
合田の言葉は短く、そして冷たかった。悠里は自信を失いながらも、必死で言葉を絞り出した。
「あの、さきほど遠藤さんという女性の方に、あなたがこの地区の区長さんだと伺ったもので」
そのとき、電話が鳴った。合田の後ろから呼び出し音が響いてくる。
「ちょっと失礼」
合田は振り向くと居間らしき部屋へと入っていく。悠里は改めて玄関の様子を眺めた。大きな鯉の絵が、玄関正面の壁に掛けられており、それが玄関からの光を受けて、キラキラと輝いて見えた。水彩ではなく、油絵なのだろう。絵の具の厚く塗ってあるところでは、その分、光と影の陰影が大きくなる。
――とってもきれいな絵。
悠里が絵に見とれていると、合田が戻ってきた。
「失礼した。この地区では、ここ数年、災害発生時やいざというときのために、地域助け合いシートというのを作っておってな。ほれ、例えば大きな地震が起きたときに、誰がどこにどんな家族構成で住んでおって、一人暮らしなら、誰に連絡すればいいのか分かったほうが、いざというとき慌てんで住むだろう。まあ、そのほかにもいろいろと記載項目はあるんだが」
「ああ、はい」
悠里は適当に返事をしながら、どうしてそんな話になったのだろうと心のなかで首を傾げた。それにさきほどとはうって変って、親切になった合田の変わりようも気になる。合田は、目が点になった悠里に構わず話を続けた。
「あんたが探しとる人の分も、もしかしたらあるかもしれんよ」
悠里はあっと思った。思わず笑顔になる。合田はそっけなく言う。
「もっとも提出は任意だったから、その人が律儀に出してくれていればの話になるがの。その、相馬さんだったか、その人は何年前までここに住んでたか分かるか」
悠里は、必死に雪枝の説明を思い出して答えた。
「あ、えっと、確か五年くらい前です」
「となると、ちょうど助け合いシートを始めたころだな。ちょっと待ってろ」
合田はそういうとまた居間へ戻っていき、ファイルをもって戻ってきた。
「ほら、ここにあるかどうか見てみな」
「あの、どうしてそんなに親切にして下さるんですか」
合田は頭を掻きながら、答えた。
「さっきの電話、遠藤のばあさんからでな。若い子がそのうち訪ねてくるから、助けてやってくれって頼まれたんだよ。遠藤のばあさんとうちの妻は、昔から仲が良くて。遠藤のばあさんをないがしろにすっと後が怖えから。そんなこと言っても知らんもんは知らんと言ったら、助け合いシートがあるでしょ、だと。がはは、そんなもん、すっかり忘れておったわ、はは」
大きな口を開けて豪快に笑う合田を見て、悠里は思った。
――最初は怖い人かと思ったけど、なんだ、親しみやすい人じゃない。それにしても、このおじさんを怖がらせるあのおばさん、遠藤さんってすごい。感謝だわぁ。
悠里は、合田から渡されたファイルをめくっていった。名字であいうえお順になっているらしい。
「相馬、相馬と……あった!」
香織は律儀にもすべての項目について記入していた。周辺地域のお年寄りや子供を一時的に預かる、もしくは面倒をみることはできるか、との質問には、はいのところに○がついている。
他人にこんなにしてあげることのできる人は、きっといい人に違いない、と悠里は勝手に想像した。緊急連絡先には、相馬哲郎という名前と他県だが住所、電話番号も書いてある。おそらく香織の実家だろうと思われた。
「ありがとう、おじさん」
悠里が深く頭を下げると、合田はぶっきらぼうに、おう、と言い、奥に戻ってその紙をコピーして、悠里に渡してくれた。
「あんたを信じてるけど、この情報おれが漏らしたって言わないでくれよな」
悠里は慌てて言う。
「あ、はい。もちろんです」
「よろしくな。個人情報漏えいで訴えられちまう。ところで、どうしてこの人を探してるんだい」
悠里が事情を話すと、合田はふんふんと頷いて、言った。
「うまいこと二人をひき合わせられるといいな。幸運を祈ってるよ」
「はい。ありがとうございます」
玄関を出ようとしたところで、ふと悠里は思った。振り返って合田に言う。
「不眠にはくるみがいいらしいですよってもう知ってたらごめんなさい」
「え、なんで俺が長年不眠に悩んでるって分かったんだい?」
合田の目の下の隈、頭全体がぼやっと灰色に見えること、ほかに色がかかって見えるところがないことから、悠里は総合的に判断していた。
「なんとなくです。くるみには必須アミノ酸のトリプトファンが含まれていて、快眠のために必要なセロトニンの分泌を促す効果があるそうです」
「そうか、遠藤のばあさんも少し変った子だよって言ってたけど、ほんとだな。あんた名前はなんて言うんだい」
悠里が明るく答えると、合田は笑顔で見送る。
「悠里か、気をつけてな」
「はい、それじゃあ」
悠里は家路に着く前に、病院に向かった。雪枝に今日のことを報告しようと思ったのだった。病室の前まで来るとそうっとスライド式のドアを開けてみた。雪枝は静かな寝息を立てて眠っていた。胸の辺りは相変わらず、暗い灰色だ。心なしか前回より暗い色になってきているようにさえ思える。
――必ず、香織さんを見つけ出してみせます。
そっとドアを閉めながら、悠里は心に誓った。