表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シロの想い、タマの想い  作者: 丸山梓
4/19

香織

 手術が終わったとの連絡を受けて、悠里は雪枝の入院先の病院へ向かった。病室を訪ねると、雪枝は本を読んでいた。悠里に気付くと顔をあげて、にっこりとほほ笑む。


「まあ、来てくれたの」

「はい、どんなご様子かと思って」


 悠里は雪枝の胸の辺りをじっと見た。悠里の目に映るその色は、手術前とさして変化がなかった。相変わらず灰色のままだ。おかしいな、と悠里は思う。


――もしかして、手術は成功しなかったってことなの。

 悠里は両方の目をぐりぐりこすってみた。やっぱり灰色で間違いない。


 悠里はおそるおそる聞いてみた。

「手術は無事に終わったんですよね」


 雪枝は首を左右に振る。

「病巣のあるところを開いてみたんだけれど、全部は取り切れなかったみたいね」

 雪枝は落ち着いた口調で、穏やかに言う。


「そんな」悠里はショックを受けた。

「先生が予想していた以上に進行してたみたい。もう長くは生きられないかもしれない」


 雪枝は笑って続けた。

「悠里ちゃん、そんな顔しないで。私はもう十分生きたわ。好きなこともさせてもらったし。自分の人生に満足してる」


 悠里は雪枝にかける言葉が見つからなかった。そのとき悠里のバッグがごそごそと動いて、シロが顔を出した。


「まあ、楓もいたのね」

 雪枝が驚く一方で、シロは悠里の顔をじっと見つめる。

「雪枝さんに、最後にしたいことはないか聞いてみてくれ」

それを聞いた悠里の心は激しく揺れ動いた。


「えー、やだよ。どうして私がそんなこと。シロももうダメだって思うってこと。うそでしょ。勘弁してよ」


 もうそれは、雪枝に初めて会ったときから悠里もうすうす感じていたことだった。けれど手術がうまくいかなかったからと言ってそれを正面から認めるのは、あまりに酷なことだ。悠里は困った顔をしたが、それでもシロは、悠里から目をそらさない。


「頼む」

 そんな二人の様子を見ていた雪枝は笑って言う。


「あなたたちを見ていると不思議ね。旦那と楓のやりとりと思い出すわ。まるで秘密のお話でもしているようね、ふふふ」


 悠里は覚悟を決めて、雪枝に言った。

「あの、とても言いにくいんですけど、それに私、雪枝さんには、長生きしてほしいって本当に思ってるんですけど」

「何かしら」

「最後にやっておきたいことはないですか、いえ、私、あのう」


 一気に早口で言ってしまってから、悠里は後悔した。それを見た雪枝は笑っている。

「あなたの言いたいこと、よく分かるわよ。だいじょうぶ。ありがとうね」


そして、窓の外をぼんやり眺めながら雪枝は何か考えている様子だ。


「私、シロ、いや楓ちゃんに会えて、とても感謝してます。毎日とても楽しいんです。もし中野さん夫妻が楓ちゃんを、大切に育ててくれなかったら、こんな風にシロ、いえ楓と同じ時間を過ごすことはできなかったと思うんです。飼い猫のタマが死んで、すごく寂しい思いしてたとこだったし。だから雪枝さん、私にできることがあれば何でもおっしゃってください」


 悠里は必死に今の自分の気持ちを伝えようとした。シロに頼まれたからではなく、自分の意志で、今、雪枝さんに何かしてあげたいと思った。なぜか分からないが、雪枝には、何かしてあげたいと思わせるやさしいオーラが流れているようだと悠里は思う。


 六十数年、毎日人のために一生懸命生きてきたその人柄が年輪のようになって、周囲の人間にそうした想いを抱かせるのかもしれない。


「あなたはほんとにいい子ね、悠里ちゃん。シロの面倒をみていたのはほとんど主人だし、こんなことを頼んでいいのか迷うのだけど」


一呼吸おいてから、雪枝は悠里を見て言った。

「昔のことでどうしても気になっていることがあるの。香織のことなんだけれど」

 雪枝の話はこうだった。


 中野夫妻は、つい最近まで事務用品の卸しの会社を経営していた。中野夫妻のほかに従業員が数人の小さな会社だった。雪枝の夫が社長で、雪枝は経理を担当していた。経理の仕事はなかなかに忙しく、経理補助として新人を雇うことにした。


 そのときに入ってきたのが、相馬香織だ。香織はまだ若く、いつも明るく職場を盛り上げてくれた。中野夫妻も香織を気に入り、時には自宅に招くなど、家族のような付き合いが始まった。香織は仕事も要領よくてきぱきとこなした。


 任される仕事もだんだんと増えていき、数年後には、雪枝以上に会社の業務や経理を把握するようになっていた。ところがある日、帳簿を雪枝がチェックしていると、三十万円ほどの使途不明金が見つかった。会社で誰より会社の経理に精通しているのは香織であったから、当然疑いは香織へと向かった。


 香織は、関与を否定し、誰の仕業か分からないと言った。しかし中野夫妻は、特に雪枝は、香織を追求し、その責任を問うた。香織は、潔く辞表を出して会社を去った。金額が少額であったため、警察に訴えることはしなかった。


 一年後、良心の呵責に耐えかねた別の従業員が、自分がやりましたと罪を認めた。パチンコに夢中になった結果、生活費に困り、会社に夜忍びこんで、現金を盗んだという。雪枝は香織に謝りたいと思ったが、住所も変わっており、とうとう香織に謝ることができないまま、今日まで来てしまった。


 話を聞き終わった悠里は言った。

「雪枝さんは、とても優しくて、とても真面目なんですね」

 もう何年も昔のことだ。忘れてしまってもおかしくないのに、と悠里は思う。


「そんなことないわ。私は香織を疑って首にしたのよ」

雪枝は必死に首を振った。

「あのとき、もっとよく調べればよかった。全員にもっとよく話を聞くべきだったのよ」

「ほら、そういうとこが真面目」


 雪枝と悠里は顔を見合わせて笑った。しかし雪枝の表情はすぐにふっと曇る。

「香織が去ったあとの会社は、灯火が消えたように静かだったわ。香織が遊びにきてくれないから、うちのなかもしーんとして寂しかった」

 

雪枝ははあ、とため息をついた。


「会社はその後も順調に業績を伸ばしたし、私たちもそれなりの生活ができたわ。夫婦でいろんなとこに旅行にも行けたし。後悔といえばそれだけね」


悠里はシロを見た。シロも頷いている。


「分かりました、雪枝さん。私たち頑張って香織さんを探します」

 悠里はきっぱりと言った。学校も忙しいが、きっとなんとかなるだろう。

 雪枝は、首を傾げた。


「あら、私たちなの」

「はい、シロと私です」

「ふふふ。あなた達本当に仲がいいのね、もしできそうならでいいの。無理はしないでね、約束よ」


「はい。ここは私たちに任せて、雪枝さんは病気を治すことに専念してくださいね」

「あら、看護師さんみたいなこと言うわね」

「はい、看護師の卵ですから」

 悠里は笑顔で雪枝に敬礼してみせた。


 帰り道、バッグのなかからシロは悠里に言った。


「すまんな、巻きこんで」

 悠里は首を横に振った。


「私、雪枝さん好きだもん。何かできることがあるならしてあげたいよ」

「……感謝する」


シロの声は、悠里が聞き取れるか聞き取れないかくらいの小さな小さな声だった。そんなシロを見て悠里は少しからかってみたくなった。


「今、なんて言ったの?聞こえなかったー。もう一回言って」

「なんでもないわい」


 ガタン、ゴトンと電車は揺れる。

 シロはしばらく黙っていたが、突然不思議なことを言い出した。


「その時の映像を見せてやろう。目をつむっておれ」


 悠里は、訳が分からなかったが、シロの言う通りにした。


 すると、頭のなかで、スクリーンを見るように一つの映像が広がった。机と椅子、書類の置かれた棚などが広がる一角で、雪枝と香織が机に向かって作業をしている。香織は、悠里の見ている方からは背を向けており、顔はよく見えない。


「香織、ちょっと話があるんだけど」


 雪枝が深刻な顔で香織に話かけると、香織は顔を上げて雪枝を見る。


「はい、何でしょうか」

「昨日、現金を数えたら、三十万円足りないのよ。なにか心当たりはない?」

 

香織は慌てて、近くの棚に帳簿を取りに行き、広げた。

「三十万円……いいえ、記録もないし、分かりません」

「正直に言ってもらっていいのよ」

「え、正直に?」


 香織はさっぱり訳が分からないという顔をする。

「何か急な出費があって金庫から、一時的に」


 雪枝が慎重に言葉を選んでいると、香織はそれを遮って言う。

「私が盗ったって言うんですか」

 その口調は激しく、悲痛だった。


「証拠はないのよ。でも私とあなたしか金庫を開けられる人間はいないでしょう」

「そうかもしれません。でも私はやってません。私を疑うなんてひどい」


 香織はそのまま、事務所を飛び出した。雪枝は呟く。

「私だって、考えたくもないわ。そんなこと」


 そこで一旦、映像は途切れた。また違う映像が、悠里の頭に流れる。


一人の男が、香織の机を漁っている。夜らしく、辺りは暗い。懐中電灯の明かりだけが頼りだ。ノートと、クリップでそのノートに付けられている鍵を持ち出す。男はノートを見ながら、金庫のダイアルを回す。


 カチ、カチ、という音が辺りに響いていた。男はよし、と呟き、鍵を差し込んだ。金庫は鈍い音をさせて開いた。男は中にある分厚い封筒から、一部を取り出し、金庫を閉め、鍵とノートを香織の机に戻した。そのとき、みゃーんという声がして、男は驚いた様子で、辺りを見回す。


「なんだ、猫か」

 男は呟くと、そのまま事務所を後にした。


 映像はここで途切れた。

 悠里は首を傾げ、シロに尋ねる。

「シロはよく、中野夫妻の経営する会社に出入りしてたの?」

 シロは得意げに答える。

「そうじゃ、わしは看板猫じゃった。訪問客にもずいぶんと人気があったんじゃぞ」


 悠里は、怪しい、と思った。

「でも、夜までいるなんてこともあったの」

「ああ、事務所には、わし用のおやつが常備してあっての。夜中に忍び込んで、それにありつくのが日課だったんじゃ」

 悪びれずに言うシロに、悠里はとどめを刺した。


「それって、その男と同罪じゃない」

「何を言う。あれはわしのためのもんじゃ。わしがいつ食おうとわしの勝手じゃ」


 シロはオホンと咳をしてから言う。


「とにかく、わしもこの目でしかと見たからの。香織が無実なのは本当なんじゃ。どうか二人をひき合わせてやってくれ」


 悠里はふうと息を吐くと、雪枝からもらった従業員名簿に目を通した。作成日は一年前だ。合わせて十名くらいの住所と名前、電話番号が乗っている。そこに相馬香織の名前もあった。


――雪枝さんが連絡をとろうとしたときには、香織さんの住所は、もう変わってしまっていたって言ってたから、この住所に行っても香織さんはいないわけだよね。でも近所に住んでる人たちなら何か知っているかも。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ