卒業
そのお葬式の帰り道、さぞ悲しく、つらい気持ちになるだろうと思っていた悠里は、意外にも晴れ晴れした気分でいることに驚いていた。もちろん、悲しいことは悲しい、喪失感も確かにある。けれどはやり、なんだかやけにすっきりした気持ちの方が強いのだ。
「すべてやるべきことをやってから見送ることができるとな、人は案外悲しくならんもんなんじゃよ」
シロは悠里を諭すように言う。延命の術で雪枝の病状が一旦回復し、また悪化していく途中で、悠里は人間にとって死とは、見送る側にとっては絶望であり、逝く側にとっては救いであると思った。
けれど実際見送る立場になって思うことは、確かに絶望もあるけどそれだけじゃないんだなあ、ということだった。シロの言う通り、やるべきことをやったという実感があるからだろうか。
「シロは猫なのに人の気持ちが分かるんだね」
「ふん、当たり前じゃ。わしを誰だと思っておる」
「はいはい」
「お前さん、猫という生き物を馬鹿にしておるな。猫の歴史は古いのじゃぞ。そもそもの始まりは、今から九千五百年前のキプロス島じゃ。古代エジプトでも猫はねずみ番として珍重され……」
シロのうんちくは延々と続く。
悠里は、その声を聞きながら、電車のシートですうすうと寝息を立てていた。
夢のなかでたまを見た。たまは四角の座布団の上で丸くなって寝ている。
「たま、たま。私だよ」
悠里はたまを起こそうと声をかけるが、たまは静かにおなかを上下させるだけだ。
悠里は、その様子からたまは本当に自分の手の届かない場所へ行ってしまったのだと悟った。もはや絶望も悲しみもなく、その事実だけが胸にすとんと落ちた感じがしていた。
悠里は、シロや雪枝さんと会えたのは、たまのおかげということを思い出した。
――たま、ありがとう。おかげでいい経験ができたよ。
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そして、桜の花が東京でも咲いたと報じられる頃、悠里は、美咲とともに看護師の国家試験に合格した。四月から看護師としての社会人一年目が始まる。すでに就職先も決まっていた。それは雪枝の亡くなった、あの緩和ケア病棟が併設された総合病院だった。
雪枝のお見舞いに足繁く通っていた頃、悠里はたまたま病院の掲示板に、新卒看護師募集のポスターを見つけた。何度も通ううちに、病院の雰囲気も、いかにも病院といった感じではなく、患者がリラックスできるような空気になるよう努力している姿勢が素晴らしいと感じていたし、医療スタッフの雪枝さんに対する態度も親身で良いと感じていた悠里は、早速応募書類を送った。
ほかにもいくつか病院を回り、面接も受けたが、悠里は最終的に、内定をもらったこの病院に決めたのだった。最初の配属先は、産婦人科だと聞いて、悠里は親子二代で産婦人科だと驚いた。そして香織の妊娠、出産をずっと見て来たので、きっと妊婦さんたちのお役に立てるだろうと確信していた。
どんな経験がどこで役に立つか、本当に分からないものだと思う。もちろん、在宅看護の仕事も諦めたわけではない。経験を積んでいつかは、訪問看護ステーションで働いてみたいと思いは今もある。
悠里は思うのだった。
――きっと、いつかチャンスは来る。その時まで、今はただ今できることを頑張りたい。
美咲は眼科専門の個人病院に就職を決めたらしい。
「眼科って、意外と手術が多いんだって。あたしで勤まるかなー」
と美咲は言うが、努力家の美咲ならきっと大丈夫、と悠里は思う。美咲は、勉強が苦手という意識があるので、いつも人一倍努力してみんなに追いつこうとするのを、悠里は一番よく知っていた。
かなえと行雄に合格を報告した後、悠里は二階の自分の部屋でシロに言った。それは、以前から考えていたことだった。
「ねえ、シロ、私、シロにもらったこの能力、そろそろシロに返したいんだけど」
シロは意外そうに首を傾げた。
「なぜじゃ」
悠里は、この一年で本当にいろいろなことがあったと、振り返る。この能力のあかげで、良いことも悪いことも沢山あった。香織の母親の便秘を直してあげられたのは良かったけれど、雪枝の胸の色がどんどん悪くなっていくのは、見ていてとても辛かった。実習先での田代へのケアの失敗もある。
そして、看護師の国家試験に受かって思ったのだった。これからは自分の力で道を切り開いていきたいと。その時、頼りにすべきなのは、自分で学んだ知識と経験だけだ。能力は一人前になるための補助輪のようなものである気がする。知識も経験ももちろんまだ足りないが、補助輪に甘えていたら、身に付くものも身に付かなくなる。そろそろ補助輪からも卒業しなくては、と悠里は思うのだった。
「もうこの能力に頼らないでやっていきたいと思うから。いや、きっとやっていけるって思うから」
「うむ、よかろう」
シロは目を閉じた。
部屋の窓から、暖かな光が降り注いてくる。
悠里は、四月からの新しい生活に胸をふくらませていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。