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シロの想い、タマの想い  作者: 丸山梓
18/19

許すということ

 そして二カ月が経った。香織は無事、帝王切開で男の子を出産した。連絡を受けて、悠里は、その週末に病院まで駆けつけた。出産して三日経っていたが、香織はまだ帝王切開したおなかが痛むようだ。ときどき顔を引きつらせながら言う。


「名前はね、健介って付けたの。旦那の健吾から一字もらって健介」

「いい名前ですね。香織さんの名前が入ってないのが残念だけど」

「次、女の子が産まれたらそうするわ。ふふ」


 すやすやと眠る赤ちゃんをガラス越しに見せてもらいながら、悠里は焦って聞いた。


「ところで、いつ退院できそうですか。親子で雪枝さんに会いにいかないと」


 最近では、雪枝はだいぶ弱ってきていた。ベッドに横たわり、寝ていることが多い。


「退院、すぐにでもしたいところなんだけど、あと一週間はかかるかもしれないわね」


 なにしろおなか切っちゃったわけだしね、という香織の言葉を聞いて、悠里はそれはそうだ、香織さんの体だって大事にしなくてはと思う。お産はいつの時代も命がけの行為だ。それを無事終えた香織さんを今はねぎらって休ませてあげないといけない。悠里は、健介の寝顔をもう一度見た。切れ長の目が父親の健吾と瓜二つだった。


 悠里は、毎日祈るような気持ちで過ごした。雪枝の今の状態ではいつまでもつか分からない。

――どうか、健介くんが雪枝さんと会えますように。


 じりじりしながら、待つとどうにかその日はやって来た。退院の日、香織はまだ少しふらつく体で、健吾に支えられながら、タクシーに乗り込んだ。香織の母親は、健介を抱きかかえながら、不安そうに後に続く。


「本当は、産後はあんまり出掛けないほうがいいんだけれど、場合が場合だし、今回はしょうがないわね。帰ったらすぐ横になるのよ、香織」


 香織は子どものように返事をする。

「はーい」


 冷たい風がタクシーに吹き付けてくる。十一月になり、秋もそろそろ終わりといった感じだ。悠里は、最後にタクシーに乗り込んだ。


「あのう、私までご一緒させてもらっちゃって、本当によかったんでしょうか」

 おそるおそる発言した悠里に、香織が目を吊り上げて言う。

「何言ってるのよ。怒るわよ」


 香織の母親も頷いた。

「そうよ、悠里ちゃん、みんなが悠里ちゃんに感謝してるんだから。あなたが見届けないでどうするの」

「そうですか、ならいいんですが」


 悠里は、タクシーの運転手に見つからないよう、こっそりシロを見た。


――シロが自分の寿命を削ってまで、延ばしてくれた雪枝の命だ。間に合うといいんだけど。

 悠里は天に祈るような気持ちで、両手を合わせ目をつぶった。


 病室に着くと、雪枝は目を閉じて眠っていた。巡回してきた看護師によると今、痛み止めを追加したばかりだと言う。


「声をかけてみてください。意識が戻るかもしれません」

 そう言って、看護師は笑顔で去っていく。その言い方がとても丁寧で優しさにあふれていたので悠里はほっとしていた。見舞客を邪魔そうに扱う病院を悠里は今まで何度も目にしていた。面会時間に制限がないこともあるかもしれないが、この病棟では、そう辛い思いをしたことが一度もなかった。


「雪枝さん」


 香織が声をかける。その声は、さきほどとは打って変って、か細く震えていた。


「赤ちゃん、無事生まれました。男の子です。健介って言います。雪枝さん、目を開けて」


 香織の母が一歩前に出て、健介を雪枝に近づけた。

 その時だった。

 雪枝の痩せた腕がゆっくりと持ち上がる。


 悠里は急いで、腕の上にある毛布をめくって腕が上がりやすいようにした。

 雪枝の目が、細く開いた。そして満面の笑顔になる。

 雪枝は、その細い指で、健介の頬に触れた。


 苦しそうな呼吸を繰り返しながらも、ゆっくりと、何度も何度も指が頬を往復する。


 雪枝の口が動いた。しかし声は出ない。

 悠里はその口の動きで、よかった、と言っているように思えた。

 香織は、子供のように大声を上げて泣いていた。


「雪枝さん、私、もっともっと早く雪枝さんを許せばよかった。近くにいたんだから、いつでも会いにいけたのに。ずっとずっとそばにいて、この子が大きくなるのを見ていてよぅ」


 悠里はその言葉を聞いて思った。


――やっぱり香織さんが中野夫妻の家の近くにマンションを買ったのは偶然じゃなかったんだ。無意識かもしれないけど、香織さんはずっと雪枝さんを許したかった。そのためのきっかけがほしかっただけなのかも。


 健吾がそっと、香織の肩に手を置いた。

 悠里は、その様子を傍から見ていて、溢れる涙をこらえることができなかった。そしてこの場に立ち合うことができて本当によかったと思った。


 香織の母親が、悠里にハンカチを渡してくれる。悠里は、頭を下げて受け取った。


 雪枝は、ふっと力が抜けたように腕を下ろし、目を閉じた。規則正しい呼吸が、静かに始まる。悠里たちは静かに部屋を出た。


 雪枝は、香織がその男の子を連れて病院に来たその三日後に亡くなった。塔子から悠里が聞いたところによると末期の肺がんの患者にしては静かな、安らかな最期だったという。香織が健介を産んだタイミングは、本当にギリギリだったのだ。悠里は、間に合って本当によかったと心から思った。


 雪枝の葬儀は、中野のおじさんの弟夫婦により、しめやかに行われた。立派な祭壇の中央には、雪枝のほほ笑む写真がある。そしてその両サイドには色とりどりの見事な花々が生けてあった。そういえば、義理の弟夫婦は二人でお花屋さんをやってるって言ってたっけ、と悠里は思い出す。花が何よりも好きだった雪枝さんもきっとこの様子を喜んでいるだろうと悠里には自然に思えた。


 悠里が辺りを見回すと香織はもう式場に来ていた。二人でお焼香の列に並び、それが終わると悠里と香織は参列に訪れた人の列をぼんやりと眺めていた。会社を経営していたせいもあるだろうが、ずい分沢山の人が来ている。するとその時、香織に駆けよって来る一人の中年の男性がいた。


 悠里が誰だろう、と首を傾げていると、香織が隣ではっとしたのが分かった。その男性は決死の表情を浮かべ香織に話かけてくる。


「あの、私、佐伯です。あのときはすみませんでした。謝っても許してもらえるはずないのは分かってます。あれからずっと罪悪感に悩まされながら生きてきました。私があんなことしなければ、相馬さんは仕事を辞めなくてすんだのに。本当に申し訳ないことをしました」


 男性は、その場で土下座しようとするので、香織は辺りを見回し、止める。ここまでのやりとりで、悠里はやっと佐伯とは何者かを理解した。雪枝の会社から現金を盗んだ男だ。


「そのことなら、もういいです。もう忘れました。私もいろいろありましたが、結婚して子供を産んで、なんとかやってます。だからもう佐伯さんも、ご自分を責めないで、これからの人生を楽しく生きてください」


 香織は努めて笑顔で明るく言う。


 悠里は、香織のこれまでの心の葛藤を思うと涙が出た。長年雪枝を許せなかった香織が、今は、雪枝はおろか、雪枝との不和の原因を作ったその人まで許そうとしている。


――香織さん、カッコいいです。


 悠里は心のなかで、香織に思い切り大きな拍手を送った。柏木が何度も頭を下げながら、ほっとした様子で背を向け去っていくのを見送ると、香織は急に悠里のほうに向き直った。


「悠里ちゃんが私を説得しようと何度もマンションに来てくれたとき、エントランスで悠里ちゃんは言ったわね、『私にも許せない人がいます』って」


 悠里はあっと思った。美咲にひどい仕打ちをした竹内のことだ。悠里が両手で口を押さえると、香織は笑った。


「ふふふ。その人の話、今度私にも聞かせてくれない? 私今度のことで思ったの。心の荷物は少ないほうが生きるのが楽だなって。憎しみや怒りは、必ず生きていく上でその人の心の重しになるからないほうがいい。悠里ちゃんに教わったことの一つね」

「いえ、私は何にも」


 香織は、雪枝さんとの再会を通じて自力で正面から自分のなかの憎しみと向き合い、勝利したのだ。

香織は続けて言う。


「私は悠里ちゃんのおかげでぎりぎり間に合ったけど、世の中には間に合わないことも沢山あるのよね、きっと」


 雪枝の死のことを香織は言っているのだと、悠里はとっさに思った。死がなにものにも代え難く重いのは、きっとそういうことなのだろう。悠里は、一つの難題をクリアした香織になら分かってもらえそうだと思った。


「はい、じゃあ今度、話しますね。覚悟はいいですか。私の話も長いですよ。旦那さん並みに」


 あはは、それは困るわ、簡潔にお願いと言って笑う香織に笑い返しながら、悠里は心の中でこっそりと思った。


――私もいつか、竹内先生の長所やいい思い出を思い出して、先生のしたことを許せるようになるだろうか。

 それは悠里にはまだまだ遠い道のりに思えた。



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