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シロの想い、タマの想い  作者: 丸山梓
17/19

過労

 そしてそれからまたたく間に三カ月が過ぎた。


 悠里は相変わらず、実習に、授業に、就職活動にと忙しい毎日を送っていた。雪枝の病状は、低調安定といった感じで、落ち着いている。シロも昼間は寝ており、夜と朝だけかなえにご飯をねだるという生活だ。忙しい悠里には、そんな生活がうらやましかった。


――私も昼間、あんな風に思いっきり寝て寝て寝て寝まくりたいよー。


 久々の休日らしい休日、朝ご飯を食べながら、悠里はシロを見てぼやいていた。さて、歯を磨いて着替えて、国家試験の勉強でもするか、と立ちあがったとき、携帯からメールの受信を知らせる着信音が鳴った。誰からだろうと思い、メールを開いてみると香織からだった。


「悠里ちゃん、元気ですか。私は妊娠高血圧症候群で入院してしまいました。暇なので遊びにきてください。うちの母も暇そうです」


 えー、と悠里は思う。今は九月だから、香織は今、妊娠七カ月くらいのはず。悠里は、朝ご飯の片づけをしているかなえに聞いた。


「ねえ、お母さん、妊娠七カ月で妊娠高血圧症候群ってやばいのかなあ」


 かなえがかつて看護師だったとき、確か産婦人科の外来にいたような気がする。それに悠里を産んだ経験もある。


「うーん、それはまずいかもしれないわねえ。妊娠高血圧症候群って昔の妊娠中毒症でしょ。ちょっと食べすぎちゃったり、塩分の多いものを摂りすぎるとなるのよね。その人はもともと太ってるの」


 悠里は首を横に振った。

「いや、普通か痩せてるくらいだよ。しょっぱい味付けが好きかまでは知らないけど」


 かなえは呟くように言う。

「そうかあ、じゃあ過労かもねえ」

「過労?」

「過労でも妊娠高血圧症候群になるらしいわよ」

「ふーん」


「何が原因で妊娠高血圧症になるかは、ほんとはまだよく分かってないらしいんだけどね。妊娠中期でなっちゃうと重症化しやすいらしいわよ。気をつけないと」


 香織は産休に入るまでは今までと同じように働くと言っていたっけ、と悠里は、この前の香織の言葉を思い出す。それにマンションに訪ねて行ったとき、香織の夫、健吾さんは、香織は仕事が忙しいみたいって言っていた気がする。根が真面目な香織なら、頑張りすぎて過労で倒れてもおかしくない。


「私、その人が入院してる病院、行ってくる」

 悠里は慌てて家を飛び出した。シロも後からついてくる。


「だめだよ。ホスピスじゃなくて普通の病院なんだから」

「わしが、折角、延命の術を使って雪枝さんの命を延ばしたというのに、香織の子に万一のことがあっては困るのじゃ」


 悠里は、困ったなあ、と言いながら、バッグの口を開き、シロを入れてあげた。

 途中、スーパーに寄って、塩豆餅を買い、神社の獅子像にお供えすることも忘れなかった。あの一件以来、悠里は毎日とはいかなかったが、数日おきに来ては、お供えをするのが常になっていた。そういえば、ここにシロと一緒に来るのは初めてだ、と悠里は思う。獅子像の前に立ち、白い紙の上に塩豆餅を置いて、悠里は獅子像に話かける。


「お獅子さま、今日もあなたの大好きなお餅を持ってきましたよー」

「よい心がけです。いつもありがとう。」


 獅子像の目が動いて、悠里のバッグのなかを凝視している。

「どうかしましたか」

「そなた、猫を連れているのですか」

「はあ、そうですけど」


「そやつ、いつもわたしのところに来ては、餅を盗んで去っていくのです。そなたの飼い猫であったとは」


 悠里は、目を吊り上げて、シロの首の後ろをむんずと掴み、獅子像の前に放った。シロは猫らしく回転しながらぴたりと地面に着地する。


「そうなの、シロ」

「そうじゃ。言い訳するようじゃが、お獅子殿は実際には、塩豆餅のエッセンスを召し上がるだけで、餅そのものをお口に入れることはできんのじゃ。カラスに食われる前にわしが食ってやったほうが幸せだろうと思ってだな」

 シロの声は段々と小さくなっていく。罪の意識も少しはあるらしい。


「まあ、いいではないか。お獅子殿」

そう声をかけて来たのは、狛犬だった。


「そこの猫がいうことも、存外外れてはおらぬ。それに悠里が間を置かず供えてくれるから、だいぶおいしくいただけたのではないかの、お獅子殿」


「そうでした。そろそろよいかなと思っていたのですよ。悠里殿」

「えっと、よいかなとおっしゃいますと?」


 獅子像は穏かな声で言う。

「そろそろ満腹です。そなたの気持ちも十分に伝わりました。もうお餅は要りません。でもたまには顔を見せに来てくださいね」


 もう要らないと聞いて、悠里はしゅんとした。

「そうなんですか。なんだかさみしいです」


 シロは調子に乗って言う。

「わしも餅が食えなくなって、さびしいぞ」


 悠里はそんなシロの頭をげんこつでこつんと叩いた。

「もとはといえば、シロ、あんたを助けるのを手伝ってもらったお礼に始めたことなんだからね」

「そうじゃったのか」


 それを聞いて悠里は、あ、と思う。

――そうだ、ここの御祭神さまに助けてもらったことは話したけど、お獅子さまのことは話してないんだった。


 いやでも、それにしてもと悠里は思い、シロに向き直る。

「そうだよ。それにお獅子さまに一言くらい声をかけてから、持っていきなさいよね」


 獅子像と狛犬に一礼してから、尚も言い争いを続け、去っていく一人と一匹を見送りながら、狛犬は呟いた。


「はて、あの白い猫、以前にもここで見たような気がするんだが、いつのことじゃったかの、お獅子殿?」

 獅子像は呆れたように言う。


「それは、あの猫が、御祭神さまに、人間の命を救いたいとお願いに来た時ではないのですか」


「いやいや、それもあったかもしれないが、それよりもちっとばかし昔のことじゃ。うーん、思い出せんのう」


 狛犬と獅子像はそのまま口を閉じた。その一方で神社の本殿からは、御祭神さまの呟きが漏れていた。

「あやつら、わしのことをすっかり忘れておるな。まあ、幸せならそれでよいが」


香織の入院している病院は、香織のマンションのすぐ近くにあった。緊急の場合にも、すぐ駆けつけられるようにしたのだろう。病室に入ると、そこは四人部屋で、香織は窓側の一番奥にいた。


 香織は悠里に気付くと、寝たまま笑顔で手を振った。だが、その顔は、すいぶんとむくんでいた。妊娠高血圧症候群の典型的な症状だと悠里は、母性看護学で勉強したことを思い出しながら、思う。


「ありがと、来てくれたのね」

「いえいえ。慌ててきたので、なんにもお見舞いとか持ってこなかったんですけど」


「いいのよ。管理入院で、食事制限、水分制限が徹底してるの。何か持ってきてもらっても、母のおなかに入るだけよ」


 そう言って香織は笑う。

 悠里は香織に言った。

「お仕事、頑張り過ぎちゃったんじゃないですか。元看護師の母に聞いたら、この病気、過労でもなるって」


 香織はいたずらがばれてしまった子供のように笑う。

「ははは。そうね、ちょっとやりすぎたと自分でも思うわ。今の仕事も経理で、ちょうどシステムの入れ替え時期だったの。私はプロジェクトリーダーで抜けるわけにはいかなかった。ちょうどこの九月が上半期決算の締日で、それまでになんとか新しいシステムを軌道に乗せたいと焦っていたのね。家のことは母がいたから、なんとかなるかと思ったんだけど。ちょっとまずったわねえ」


 悠里は心配になりながら聞く。中核として働く香織が抜けたら、会社としてもかなり困るのではないだろうか。


「それで、お仕事のほうは」

「サブリーダーにお願いしてきたわ。彼の方が私なんかより優秀だから、きっとなんとかなるでしょ。中途半端に投げ出してきちゃったから、すごく悔しいけど仕方ない。一旦、この妊娠高血圧症候群になっちゃうと、帝王切開で産むまで入院らしいし」


 香織はため息をつきながら言う。

「ああ、産休まであと一カ月だったのに、悔しいわあ」


 悠里は、香織をいさめるように言う。

「大事にしなくちゃだめですよ。雪枝さんも無事の出産を心待ちにしてます」

「そうね。最近、雪枝さんには会った?」


「はい。よくシロを連れて面会に行ってます。最近はまた痛み止めを使うことが増えてきてるみたいですけど、病状は安定してます」


 香織はほっとした表情を見せる。

「そう、よかった」

 悠里は、香織の状態がもっと知りたくなった。


「今、何週になるんですか」

「今は、二十八週で、ちょうど妊娠八カ月に入ったところ。順調にいけば三十七週に入ったら、帝王切開って言われてるわ。だからあと二カ月は、こうしてないとだめってわけ。そんなに脂っぽい食事って好きじゃなかったんだけど、なんだか揚げ物が恋しくて」


 妊娠はおめでたいことだけれど、いいことばかりではないらしい。しかし、悠里は香織を励ますつもりで言った。


「もう少しの辛抱ですね。無事生まれてきてくれれば、あとは」

「それがそうでもないらしいのよ。産後もおっぱいをつまらせないように、高カロリーな食べ物は避けたほうがいいんですって」


 香織はやれやれという顔をする。悠里は、香織に心から同情した。

「お母さんになるって大変なんですね」

「ほんとにそうね。世の中のお母さんたちってほんとにいろんなこと我慢して頑張ってるのよね。私もこれくらいで弱音吐いてないで頑張らなくちゃ」


 悠里は頷いた。

 香織が入院してから、悠里は、雪枝と香織、どちらかのお見舞いに毎週末、交互に行くようにした。二人の病状が本当に心配だったということもあるが、自分の勉強にもなるし、二人の顔を見ると、国家試験の勉強、病院実習の辛さも忘れられた。


 それに加えて、香織のお見舞いに来ては、病気の経過やその医療的処置を聞くことは、産婦人科に実習に行ったときに、とても役立った。世の中に無駄なことはない、というけれど、本当だと悠里は思う。人のためと思って、一心不乱にやったことが、結果として自分のためになっている、そんなことが生きているとしばしば起こる。それは決して偶然ではないように悠里には思えるのだった。


 あるとき、香織は言った。

「ごめんね、悠里ちゃん。私あのとき、悠里ちゃんの力になるって約束したのに、こうやって悠里ちゃんにはまめにお見舞いに来てもらって、勇気づけてもらってばかりで」


 悠里は首を振って、笑顔で答える。

「何言ってるんですか。私はこうして、実例を勉強させてもらってるんですよ。とても助かってます」

 それを聞いた香織は、笑って言った。

「まあ、じゃあ私は練習台ね。ふふふ。いいわよ、いくらでも勉強して」


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