狛犬さまとお獅子さま
初めての実習が終わり一週間が過ぎて、悠里がようやくいつもの日常に慣れ始めた頃、塔子から連絡があり、雪枝が、自力で起き上がれるまでに回復したと言う。
シロは相変わらず寝たままだ。最近では、さすがのかなえも心配している。
「せめてお水くらい飲んでくれてもいいのにねえ」
かなえの言葉に、悠里はもっともだと頷く。シロ用の水は毎日交換しているが、一向に減る様子がないのだった。
悠里は学校が休みの日にシロを置いて、雪枝に会いに出かけることにした。
病室に入ると、雪枝は立ち上がって、洗面所で花びんの水を交換しており、そのことがまず悠里を驚かせた。
雪枝は笑顔で言う。
「ちょっと前まで起き上がることも、何か一語でも言葉を発することすら難しかったのに不思議ね。最近ずいぶん、体が楽なのよ。痛み止めを打っているせいも、もちろんあると思うけど」
それを聞いて、悠里はとても嬉しかった。けれどシロのことを考えるとうまく笑えない。
「どうしたの。悠里ちゃん。もしかして、楓はまだよくならないの」
「はい。そうなんです。あれからずっと寝たままで」
「そうなの」
雪枝は何か考え込んでいる様子だ。
悠里は、思い切って聞いてみた。
「あの日、私がこの前シロを連れてここに来たときのこと、雪枝さん覚えてますか」
「もちろんよ」
悠里は、身を乗り出して雪枝に言う。
「あのとき、何が起こったのか、詳しく教えてもらえませんか。シロを救う手掛かりになるかもしれないんです」
「そうねえ、信じてもらえるか分からないんだけど、笑わないで聞いてくれる?」
「もちろんです」
「私はあまりの痛みにモルヒネを打ってもらって寝ていたのね。息をするのもとても苦しくて、もうそろそろあの世に行くときかしらと思ったわ。そしたら、夢のなかに楓が現れて、後ろ足で立ち上がって、両方の前足で、輝く光の玉みたいなものを抱えているのよね。そうそう、楓の後ろには、あなたや香織、義理の弟夫妻もいたわ。あと、知らない女性も一人いたわね」
香織の母親だ、と悠里は思った。
「その光の玉を楓は、私に受け取ってほしいと言うのよ。そんな大事そうなもの、私がもらっちゃってほんとにいいのかしらと思ったんだけど、楓があまりに真剣だから、私は手を伸ばして受け取った。そしたら、その玉、私の胸のなかに入り込んで、すうっと溶けて消えてしまったの。体が急に軽くなったような気がした。そしたら、その瞬間、楓はうつ伏せに、ばたっと倒れた。意識が戻って目を開けたとき、やっぱり枕元で楓が倒れていたものだから、だからペンであんな風に書いたのよ」
悠里は大きく頷きながら言う。
「そうだったんですか」
雪枝は意外そうに言う。
「悠里ちゃんは、私の話、信じてくれるの」
「もちろんです」
悠里は、ほほえんだ。シロはちゃんと仕事をしてくれていた。雪枝さんはもう大丈夫だ、と確信した悠里は、病室を後にした。しかし、シロが目を覚ますためのヒントは、雪枝との会話からは見いだせなかった。
――ああ、もう、どうしたらいいって言うの。
悠里がもどかしい気持ちになりながら、電車の車窓を眺めていた。遠くにスーパーの看板が見えた。そこは、かなえがよく買い物に出かけるスーパーだった。悠里は、思わず、あ、と声を上げていた。
シロが二週間ほど行方不明であったとき、かなえはスーパーの近くでシロらしき姿を見た、と言っていなかったか。もしかすると、その周辺に、シロが延命の術を習った神様がいるのかもしれない。その神様なら、シロが目を覚ます方法を知っているかも、そう考えて悠里は、真っ暗闇のなかから、少し希望の光が見えてきた気がした。
電車を一駅前で降り、悠里はスーパーに向かって歩き出した。駅前には特に店らしい店はなく、狭い道に挟まれて住宅街が延々と続く。しばらく行くと川が流れており、歩行者専用の橋を渡った。左右を見渡すとそこは、川沿いに公園になっている。悠里がかなえにお使いを頼まれてスーパーに行くときは、反対方向から向かうため、この公園には来たことがなかった。
――へえ、この辺ってこんな風になっていたんだあ。
悠里は興味を引かれて、公園のなかに足を踏み入れた。しばらく歩くとどんどん緑が増えてくる。やがて、地面には光もほとんど射さないほどの、うっそうとした森になった。鳥のさえずりが聞こえる。ふと左を見ると、メインの道と枝分かれして、小さな小道が続いている。そしてその先には鳥居があった。
――鳥居ってことは神社があるってことかな。
悠里は左の小道へと入っていった。鳥居をくぐると、正面には、悠里の予想した通り神社があり、その前には一対の狛犬がいる。悠里はその狛犬をじっと見つめた。石でできたその毛並みは、ぐるぐると渦巻いていて勢いがある。なんともいえない迫力に、悠里は息をのんだ。
――まさかここにシロが来たなんてことはないよね。
悠里は、まさか返事はないと思いだろうと思いながらも、神殿に向かって左側の狛犬に声をかけた。
「狛犬さーん、知ってたら教えてくださーい」
シロだって最初話しかけて来た時は、びっくり仰天したものだ。もしかして、狛犬も何か話してくれるかもしれない。しかし、返事はなく、辺りは静まり返るばかりだった。
――じゃあ、こっちの口が閉じている方の狛犬さんに聞いてみようっと。
悠里は懲りもせず振り返って、再び同じように声をかけた。
「こちらの狛犬さーん、白い猫を見ませんでしたかー」
すると、急に強い風が吹いてきて、脳みそに響き渡るような声がした。
「おぬしは、常識がないな、まったく。おぬしが最初に話しかけたのは、お獅子殿であるぞ。そして、わしが狛犬」
悠里は思わず腰が抜けそうになる。その様子をみて狛犬は言う。
「先に話しかけてきたのは、そちらであろう。そう、驚くこともあるまい」
悠里は慌てて返事をした。
「は、はい」
「古来より、獅子像は神殿に向かって左側、狛犬は右じゃ。それに、お獅子殿に角はないが、狛犬にはある。まあ、時が経つにつれて、両方狛犬になってしまうことが増えてきたんじゃがな。お獅子殿はいつも狛犬と間違えられて機嫌が悪い。わしが代わりに答えてやろう。おぬしが探しておるのは、白い猫であったな」
悠里は必死で言った。
「そうなんです。少し前にこちらに来ませんでしたか」
狛犬は考え込んだ。
「白い猫、はて」
悠里は慌てて付け足した。
「猫と言っても不思議な力を持つ猫で。いろんな力を持ってるんですけど、訳あって延命の術を習いたいと言って、その術を操る神様にお願いに行ったはずなんです」
「そやつが行方不明とな」
「あ、いえ、帰っては来たんですけど、延命の術を使ってからずっと、寝込んでしまって、困ってるんです。白い猫見てなくてもいいです。そういう立派な術を操る神様知りませんか」
「うむ、延命の術を持つ方に、心当たりがないこともない」
「本当ですか」
悠里は身を乗り出した。
「うむ、わしたちが、仕える御祭神さまじゃ。医学の神様と呼ばれ、病気の回復祈願にお参りに来る参拝者も多い。いつもはこの神殿のなかにいらっしゃるんだが」
急に狛犬の声が弱々しくなって、悠里は不安になる。
「えっと、今日はご不在ですか」
「うーむ、困ったなあ」
「御祭神さまは、今日はどちらに」
「うむ、おととい伊勢神宮の定期総会に行ったきり、帰ってきておらんのじゃ。あと一週間もすれば戻ると思うんだが、それでは遅いだろうか」
「うーん」
悠里は、考え込んだ。この神社の神様が、シロのお師匠さまである保証はどこにもない。狛犬もシロを実際に見たわけではない。仮に御祭神さまがシロの師匠であったとして、御祭神さまの帰りを待っている間にもシロはどんどん衰弱していくだろう。かといって、伊勢といえば、ここからずいぶん遠い。さて、どうしたものだろうか。
そんな悠里の様子を見て、狛犬は言う。
「どうやらそれでは遅いようじゃな。よし、分かった。では、お獅子殿にお願いするがよいぞ」
悠里は首を傾げた。
「お獅子さまですか」
狛犬は胸を張って言う。
「そうじゃ。お獅子殿には、人を瞬間移動させる力がある。移動している間、時間は止まっておるから、心配無用じゃ」
悠里はおそるおそる振り返って、獅子像を見た。まだ怒っているだろうか。
狛犬が獅子像に話しかける。
「お獅子殿、お獅子殿、そんなにふてくされなくてもよいではないか。人間の娘が困っておるぞ。一つ、力になってやってくれんかの」
獅子像は微動だにしない。もしかして、狛犬とは話ができるが、獅子とは話ができないのではと、悠里が疑い始めた頃、獅子像は、重い口を開いた。
「別に私が助ける義理はないでしょう。狛犬、お前が頼まれたのだから、お前が自分の力でなんとかせよ」
悠里は、獅子像の冷たい話しぶりに心が折れそうになりながら、なんとか言葉をひねりだして言う。
「お獅子さま、さきほどは狛犬さまと間違えてしまい、大変申し訳ありませんでした。私は悠里と言います。私の友達の具合が悪くて、とても困っているんです。お力添えをどうかお願いできないでしょうか。もし、お力を貸していただけたら、毎日、お獅子さまのお好きなものをお供えに参ります。お獅子さまは、何が好物でいらっしゃいますか」
慣れない敬語を、急に多用したものだから、頭が少しおかしくなりそうになりながらも、悠里は必死で言い募った。
しばらく沈黙が流れた。
「私は、塩豆餅が好きです」
獅子像がぽつりと言うので、悠里はあやうく聞き逃すところだった。
「は? えっと、しお、まめ、もち、ですか」
慌てて聞き返すと、獅子像は至極真面目に答える。それが悠里には返って面白かった。
「そうです。大福のように、なかに餡が入っているのは、好きではありません。やわらかい餅状のものが好きなのです」
笑いをこらえながら、悠里は言った。
「はい、ではお獅子さまが大好きな塩豆餅を、毎日お供えいたします。」
獅子像は、その強面の顔で、にっこりとほほ笑んだように悠里には見えた。
「そなたの望み叶えましょう」
獅子像が言うが早いか、悠里は自分の体が少し地面から浮きあがるのを感じた。
そして次の瞬間、ふっと目の前の景色が変わっていた。悠里は、そのまま、すとんと地面に足をついた。
そこは悠里の想像をはるかに超える世界だった。辺りは一面真っ白で何もない。本当に何もないのだろうか、悠里がきょろきょろと辺りを見回していると、遠くから、シャンシャンと鈴の音のようなものが聞こえてきた。そして、その音はだんだんと近くなる。悠里は下手に動き回らない方がいいと思い、目を閉じ、じっとしていた。
「お獅子がわしに送りつけてきおった人間とは、お前か」
声が聞こえたので、そうっと目を開けるが、目の前には誰もいなかった。悠里は、不思議に思って辺りを見回してみる。やはり誰もいない。
「聞いておる。答えよ」
どうやら声だけ聞こえるらしい。悠里は、背筋を伸ばし、答えた。
「はい。おっしゃり通りです。お獅子さまにお力をお借りして、ここまでやって参りました」
「お前の要求は何だ」
悠里は、これまでの経緯を初めから説明した。
「ふむ、あの猫、ついにあの術を使いおったか。御身が危険だから、やめておけとあれほど忠告したものを。しかし、使ってしまったものは仕方ない。その術の恩恵を受けた者の代わりに、その猫の寿命が縮まるだけのこと」
寿命が縮まる、確かに聞こえたその言葉に、悠里は、愕然とする。延命の術がそれほど危険なものだとは。
「やつにも伝えておいたはずじゃ。人間を一年長生きさせようと思えば、猫の六年分を消費する。そやつは半年でいいと言ったが、半年でも三年だ。その猫はもう高齢だった。その術を用いれば、御身は滅びる、それでもよいか、と。」
シロは、あのとき、雪枝のために祈ってくれと言った。しかし祈りだけでは不十分だったのだ。祈りをエネルギーに変換するため、シロは自分の三年分の寿命をすり減らした。そしてシロは、その事実を知っていた。
「シロはそのとき何て言ってましたか」
「その時はその時で仕方がないと言った。だから授けた。それだけじゃ。もう私にできることはない」
悠里は絶望的な気持ちになった。しばらく考えたあと、勇気を振りしぼって言った。
「あの、じゃあ、私の寿命、半年分をシロにあげたいです。そしたら、あと三年は、生きられるようになるんでしょう」
「愚かな。なぜそこまで、あの猫がこの世に留まることを望むのだ。われらにとって、猫の一生も人の一生も一瞬のこと。まばたきをする間に終わってしまう。なぜ、お前たちが寿命というものにそれほどまでに執着するのか、分からんな」
「神様にとってはそうかもしれません。でも私たちは今このときを生きてるんです。先のことなんてどうでもいい。今が一番大切なんです」
「そこまで申すならよかろう。お前にも延命の術を授けてやろう。ただし、一つ覚えて帰りなさい。世の中には輪廻転生という言葉がある。人はこの世に生まれては死に、生まれては死に、を無限に繰り返す。そのなかで自分の魂を磨くのだ。何度も何度も生まれてきては飽きるほど磨く。今回は、悠里、お前さんの熱意を買って助けよう。けれど、この世には、自分の意志ではどうにもならないことも多い。それも魂を磨くための避けて通れない試練だ。どうにも辛い時は、来世があると思いなさい」
声が遠くに消え去っていく。悠里は再び自分の体が浮き上がるのを感じた。そして、ぴたっと足が地面に着いたとき、悠里は、獅子像と狛犬の間に立っていた。
「うわ」
急に元いた場所に戻ってきたので、悠里は驚いてバランスを崩し尻もちをついてしまう。
「おやおや、大丈夫かい」
狛犬が心配そうに声をかけてくる。悠里は、えへへ、と恥ずかしさをごまかすように笑って立ちあがり、獅子像に向き合った。
「ありがとうございました」
獅子像は、お礼を言われて、まんざらでもなさそうに言う。
「どうやら、首尾よくいったようですね。ほら、そなたの右手に」
「え」
悠里は驚いて、自分の右手をそっと開いてみた。そこには、小さな小さな、強く輝く光の玉があった。シロが、雪枝を救った時の光と同じ色をしている、と悠里は思う。
「帰って早速やってみます。本当にありがとうございました」
悠里はそう言って、二体の像に頭を下げ、自宅に向かって駆けだした。
遠くから、獅子像の声が聞こえた。
「塩豆餅を忘れないでくださいよー」
悠里は、くすりと笑い、元気よく返事をした。
「はーい」
家に帰ると、悠里は一目散で、シロに駆け寄った。そして流しに向かって料理をしているかなえに声をかける。
「ねえ、お母さん、お願いがあるんだけど」
「うん? なあに」
「今日ね、シロに効くおまじないを習ってきたの。ほんとに効くかは分かんないけど、試しにやってみたいんだ。協力してくれる?」
「おまじない? それで悠里の気が済むならいいわよ。今やるの? ふうん。まあ、やってみましょ」
かなえは相変わらず、のんびりした口調で言う。悠里は、なんの疑いも抱かない、素直な母親に感謝しつつ、シロの前に自分、その後ろにかなえという順番で並んで正座してもらった。
「そしたら、お母さん、一緒に祈って。シロが良くなりますようにって」
かなえは、いたって気楽な調子で言う。
「はいはい」
悠里は、呆れながら言う。
「もう真剣に祈ってよ。あ、それで目をつぶってて。しっかりね」
振り返って、かなえが本当に目をつぶっているか確認してから、悠里はポケットから御祭神さまにもらった、輝く光の玉に強く祈りをこめた。そして、眠っているシロの背中にそっと乗せる。光の玉は、その瞬間にまばゆいまでの強烈な光を放って、シロの体に吸い込まれていった。どうだろうか。悠里は息をひそめて、じっとシロを観察した。
しばらくして、かなえが言う。
「もう目を開いてもいいかしらね」
「ああ、うん、いいよ。これでおまじないは完了なんだけど」
シロは相変わらず、目を覚まさない。規則正しい寝息が聞こえるだけだ。
かなえは、悠里のおまじないを信じたのか、そうでないのか、のんびりと言う。
「すぐには効果出ないんじゃなあい」
「それもそうだね」
悠里が頷くと、かなえは流しへと戻っていった。
そのとき、シロの前足がピクリと動いたのを悠里は見逃さなかった。それから、シロはゆっくり起き上がり、猫らしく両方の前足を顔より前の位置にもっていくと、うーん、と伸びをする。
悠里は思わず大声を出していた。
「シロ! シロ、起きたの」
かなえが駆けよって来る。
「まあ、シロちゃん」
かなえは驚いて、それから声も出ないようだ。
シロは照れ臭そうに、後ろ足で顎をぽりぽりとかく。
それから、悠里に向き直るとぺこりと頭を下げた。
「すまなかったな。お前の半年分の寿命、わしが」
「いいの、いいの」
悠里は、シロを抱き上げると、やさしく頭をなでた。
そして、シロを覗きこんでいるかなえに言った。
「お母さん、明日買い物行く? なら、塩豆餅買って来て。あ、餡の入ってる大福はだめだよ。それに後で焼くこと前提のかたいのもだめ。最初からやわらかいやつね」
かなえは不思議そうな顔をしてから、頷いた。
「いいけど、悠里、そんな渋いお茶菓子、いつから好きになったの」