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シロの想い、タマの想い  作者: 丸山梓
14/19

雪枝の病状

「雪枝さんの容態が悪化しました。担当医によると今夜が山かもしれない、とのことです。勉強も忙しいと思うので、病院に来なくてもいいですが、とりあえず、お知らせだけしておきます。雪枝さんが、悠里ちゃんにはどうしても伝えてほしいとのことだったので」


 そこでメッセージは終わっていた。悠里は慌てて、香織に電話する。ショックだったが、悲しんでいる場合ではない。何回かの呼び出し音の後、香織は出た。


「もしもし、悠里ちゃん? どうしたの?」


 悠里が事情を話すと、電話の向こうで香織が息をのむ様子が伝わってくる。香織はこれからすぐ病院に向かうと言って、電話を切った。悠里は辛い気持ちを抱えながら、なんとか予定通り実習の作業を終え、家路に着いた。そしてシロを連れて家を出る。


――香織さん、まだ妊娠四カ月なのに。まだ逝くのは早いよ。

 電車のシートに座り、悠里が絶望的な気持ちで言うと、シロがバッグの中から語りかける。


――まだ、諦めるのは早いぞ、悠里。

――どういうこと。


 悠里が問いかけると、シロは目をつむったまま言う。


――まあ、聞け。香織と雪枝さんがホスピスで再会したあの日、わしも、雪枝さんに香織の子供が生まれるまで、頑張って生きてほしいと思った。人間は猫の何倍も生きることができる。だから、今までそんなことは考えたこともなかったんじゃがな。しかも人間は生きている間、ずっと入れ替わり立ち替わり、いろんなことに悩み苦しむ。だから早く死んだ方が、いっそ楽じゃろってな気持ちにもなる。香織と雪枝さんが再会するまでは、そんな風に考えておった。でも香織が妊娠したと聞いて、わしは思った。延命もときには必要じゃ、とな。


 悠里は、期待をこめてシロを見た。

――それで。

――うむ。じゃが、延命の術は、わしにとっても足の踏み入れたことのない未知の領域じゃった。いろいろ聞いて回って、やっと術を自在に操れる神様の存在を知り、話を聞きにいったんじゃ。香織と雪枝さんが会って和解した、そのあとすぐじゃな。


 悠里は、あっと思った。シロが二週間ほど行方不明になっていた時期が確かにあった。


――けど、そのときシロにどうしてたか聞いたら、太郎が猫番長と勝負するのを手伝ってたって。

 シロは一瞬、言葉につまる。


――その話、まだ信じておったのか。

――え、ていうことは、ウソだったの?


――そうじゃ、まったくもって、真っ赤な嘘じゃ。してやったりじゃな。ほーほっほ。

――もう、シロの意地悪、どうしてウソつくのよ。


 シロは真剣な顔で言う。


――その神様に約束させられたんじゃ。これは本当に最後の最後、どうしようもなくなったときに用いよ、とな。それまでは誰にも、親近者であっても、話してはならんとな。


 悠里は顔をしかめた。

――そんなに危険な術なの。


――まあ、それもあるが、それ以上に、延命とは人間界でもそうじゃが、自然の摂理に逆らう行為なのじゃよ。この世に生まれたものには、総じて寿命がある。これは神様が決めたことで、逆らってはいけんのじゃ。それでも望むならと、神様はわしに力を授けて下さった。それに、雪枝さんが自らの意志で、どうにか生きながらえる可能性もあると思っての。そしたら、術を使うまでもないから話す必要もあるまい。


 悠里は、シロの言葉に納得した。しかし、延命の術とはどういう術なのだろう。


――具体的にはどうやるの。

――まあ、見ておれ。


 ホスピスに着くと、雪枝の病室には、雪枝の義理の弟夫婦、香織、香織の母が集まっていた。雪枝の義妹が、悠里を病室に迎え入れてくれる。


「まあ、悠里ちゃん、来てくれたのね。ありがとう。私、雪枝さんの義理の妹、塔子です」

「以前、ここで一度お会いしたことがありましたよね。お知らせくださってありがとうございます」


 悠里はぺこりと頭を下げた。

「それで、雪枝さんは」


 雪枝は、ベッドで目を閉じ、酸素マスクをしていた。雪枝は、肩で激しく呼吸しており、とても苦しそうだ。


 ホスピスというだけのことはあり、全身管だらけという状態ではなかった。スパゲティ状態と呼ばれる、沢山の管に繋がれた患者を、悠里はしばしば実習先で目にしていた。しかし、ここでは尊厳のある死を迎えることが何よりも大事なのだ、と悠里は思う。辛いような、悲しいような、でも雪枝さんが望んだ形なのだから、これでいいのだ、という思いもあり、悠里は複雑だった。


 塔子は穏やかに話し出した。

「ついさっき、モルヒネを打ってもらったところよ。最初の頃は、ガンの進行をゆっくりにする抗がん剤や放射線治療をかたくなに拒否していたんだけれど、そうね、三か月くらい前からかしら、急に治療に積極的になって。何かあったのかしらね。私は何も聞いていないのだけれど」


 それを聞いた香織は震える声で言う。

「それ、多分私だわ。私の出産まで生きようと雪枝さんは」


 香織の母親は、香織の背中をやさしく撫でた。


 塔子は続ける。

「治療はかなり辛かったようよ。でも、めげずに続けていたわね」


悠里は、学校で習った知識をどうにか頭の中から引っ張りだしながら言う。

「ステージで言うと今は、何期に当たるんでしょうか」

「ああ、そうね。悠里ちゃんは看護専門学校に通ってるって言ってたわよね。確か今は、Ⅳ期って担当の先生は言ってたわね」

「Ⅳ期」


 その言葉に悠里は衝撃を受けた。最初に雪枝から、病期ステージを聞いたとき、雪枝はⅠA期だから大丈夫だ、と言った。しかし肺がんの進行は、ほかのがんに比べて早いと習った。Ⅳ期は、がんの最終段階だ。肺のほかの場所や、脳、骨、肝臓などにも転移してしまっていることを示す。


 そして、ホスピスは、病気の急激な進行を抑えるために抗がん剤の投与や放射線治療を局所的に行うことはするが、完治させるための積極的な治療はしないところが多い。またホスピスの場合、治療をどこまで受けるかは、医療スタッフと本人で十分に話し合って決められる。雪枝は、肺がんの進行を遅らせるために、一時しのぎではあるが、辛い治療の道を選び、最大限の努力をしたのだろう。


――雪枝さんは、ここまでよく頑張ってきたと思う。でも、もう少し、あとほんの少しだけ、時間がほしい。


 悠里は、強くそう願った。バッグからシロが顔を覗かせた。香織はそれを見て驚く。

「悠里ちゃん、今日も楓を連れて来たの」

「ああ、はい。前来た時、ここは動物持ち込みOKって聞いたので」


 シロは、雪枝の眠るベッドに乗ると、雪枝の枕元まで、歩いていった。

 シロは、悠里に言う。

――ここにいる全員に、雪枝にあと少し、赤ん坊が生まれるまで、生きられるよう祈るように言ってくれ。わしはそのエネルギーを波動にして、雪枝さんにありったけ注ぎ込む。それが神様から習ったやり方じゃ。


 悠里は、シロに言われた通り、病室にいる全員に呼びかけた。

「ここにいるみなさんで、雪枝さんが、あともう少し生きられるよう祈りませんか」


 悠里がそう言うと、香織の母親はそれに同意してくれた。

「そうよ、こんなときこそ祈りね。みんなで祈りましょう」


 香織の母親は目を閉じ、胸の前で指を組んで手を合わせた。すると、香織も雪枝の義弟夫婦もそれに従う。悠里もそれに習った。


――シロ、これでいいかな。

――大丈夫だ。しばらくそうしていてくれ。


 そう言うとシロも、目を閉じた。十分ほど経った頃だろうか。眩しい光を感じて悠里が薄目を開けてみると、雪枝のまぶたがピクリと動いた。そして痩せた腕を上に上げ、悠里の腕をつかむ。


「雪枝さん!」

 雪枝は、もう片方の手でペンを持って動かすような仕草をする。声を出すのが難しいのだ、と悠里は気付き、慌ててバッグからノートとペンを取り出す。ノートの白紙の部分を雪枝の方に向け、右手にペンを持たせた。雪枝は、苦しそうに息をしながら、紙に向かって、ペンを動かした。


ありがとう。もう大丈夫。


 それを見た塔子は、看護師さんを呼ばなくちゃ、と慌てて病室を飛び出していった。

尚も雪枝のペンの動きは止まらない。


かえでをみてあげて


 悠里が、えっと思って雪枝の枕元を見ると、シロはそこで倒れ、意識を失っていた。


「ちょっと、シロ、シロ! 起きてよ、ねえ」


 悠里は、シロの全身を揺さぶるが、まったく反応がない。悠里はシロを抱き上げ、胸に抱きかかえた。シロの顔を覗きこむ。すうすうと、規則的な寝息が聞こえてくる。


――少し疲れただけなのかな。


 すると、病室に担当医が入ってきた。担当医は、雪枝の胸の心音を聞き、言った。

「原因はよく分かりませんが、持ち直したようですね。奇跡が起きたとしか申し上げられません。」


 担当医は驚きを隠せない様子だ。今日のところは、もう大丈夫でしょう。明日からまた経過をみて行きましょう、と言って部屋を出て行った。


「私たちの祈りが通じたのかもしれないわね」


 香織の母親が明るい声で言うので、張り詰めていたその場の雰囲気も明るくなる。


 塔子も泣きそうになりながら、うんうんと大きく頷いている。

 香織の母親は言う。

「私たち、ここにいてもお邪魔なだけだから、今日はもう帰りましょ。香織も休んだ方がいいし。塔子さん、何かあったらまた連絡くださいますか」


 塔子は頷いていた。連絡先の交換も悠里が来る前にしたようだ。そして香織の母親は、香織のおなかをなでながら、雪枝さんの方に向き直って言う。


「あともう少しで、生まれます。だから苦しいかもしれませんが、もう少し頑張ってください。辛いのにこんな言い方、無責任かもしれませんけど」


 雪枝は、口角を上げて、わずかにほほ笑んだ。そして、悠里に向けて、手を上げて、ゆっくりひらひらとする。悠里も行けということらしい。


「そうだ、私、明日、実習最終日だった。雪枝さん、お大事に。必ずまた来ます」


 シロを抱えたまま、三人で病室を出た。


 悠里は、すたすたと前を歩く香織に聞く。

「香織さん、つわりはもう大丈夫なんですか」

「あ、忘れていたわ。あんなに辛かったのに。お母さん、今日は電車に乗らずタクシーで帰ろう」

「それもそうねえ。悠里ちゃんも一緒に乗ってお行きなさいよ。タクシー代は私が払うから」


 香織はしてやったり、という顔をして言う。

「あ、いいこと聞いちゃった。ほら、お母さんの気が変わる前に乗っちゃお」

「え、あ、はい、いいんでしょうか、すいません」


 病院のタクシー乗り場で待っていると、すぐにタクシーはやって来た。悠里は慎重にシロをバッグの中へしまう。


 そろってタクシーの運転手に行き先を告げて乗り込むと、タクシーは滑らかに動き出す。


 車窓を眺めながら、ポツリと香織が言う。

「どうして雪枝さん、楓が調子悪そうって分かったんだろうね。自分はもっと具合悪いのに」

 

それは悠里にも分からないことだった。

「もっとよくなったら、聞いてみたいですね」

「そうね。あの調子ならきっと持ち直すわよ、きっと」


 香織の母親は、明るく答える。悠里はその存在に感謝した。香織と二人きりだったら、どうしても暗い方へ考えがいってしまっただろう。


 家に帰ってバッグを覗いても、シロはまだ寝息を立てたままだった。悠里はそっと、シロを猫用ベッドへ寝かせた。


 翌朝になってもシロは起きない。それどころか、いびきすらかく有様だ。

 悠里は、いつものようにかなえに問う。


「ねえ、お母さん、どうしたらいいと思う」

「いいんじゃない、たまには。起きたくなったら、自分で起きるわよ」

「そうだけどさあ」


 悠里は心配だった。かなえはあのときのことを知らない。


 シロはあのとき「雪枝に波動を注ぎ込む」と言ったが、その行為がシロに、シロの想像以上の体力を使わせてしまったのではないだろうか。悪い方に考え出すと止まらない。悠里は首を左右に振って、これ以上考えないようにした。


 今日は実習の最終日だった。看護記録の評価をもらい、今回の実習で学んだことを発表し、田代に挨拶する。それは、岩崎との別れも意味するのだ、と悠里は思い、泣きたい気持ちになった。別れがあれば出会いもあるさ、と悠里は自分を励ましながら出掛けた。


 悠里の看護記録を読んだ岩崎は、悠里を見て言う。

「うん。最初に比べればよく書けていると思うよ。看護師は何かを記録する機会が多いから、これからもこの調子で頑張ってね」


 岩崎の笑顔がまぶしかった。

 悠里は、今までのさまざまな思いを振り返りながら、そして岩崎への想いを吹き飛ばすように言った。


「今まで、ご指導本当にありがとうございました」


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