人間なんて大っキライだ!
「やい待て人間!」
麗らかな午後の安穏に浴する大森林に、荒っぽく削り出された怒声が響き渡る。枝で羽を休めていた鳥たちが、自然の静寂の中に落とされた騒乱の種を怪訝そうに覗き込んだ。
大森林で生きる獣以外に足を踏み入れることのないそこに、さもそこが己のパーソナルスペースだと言わんばかりに鎮座する人間が二人。
いや、正確には三人。男が二人に、年端もいかない幼気な少女が一人。少女は男のうちの一人の腕の中に抱かれてスヤスヤと気持ち良さそうに眠っていた。
少女を抱いている男は切れ長な、どことなく爬虫類を思わせる目をしている。その気がなくてもただ見られただけでも睨まれたと勘違いしてしまいそうである。もっとも、今は本当に睨んでいるだけなのだろうが。
もうひとりの男は二人からはやや離れた位置で直立不動の姿勢を保っていた。黒の全身甲冑に身を包み、一言も発しないまま微動しない姿は異様の一語に尽きる。夜中に出会ったら全力で逃げ出すだろう。
男の腕の中で眠る幼女は、その場にいる男たちとはまた種類が違った。一言で表すならばお人形さんだ。ふわふわの銀髪にラメなのかエクステなのかキラキラしたものが散りばめられていて、ドレスもふんだんにフリルをあしらわれていて華やかだ。陽に晒されたこともないような肌は白磁の輝きを保っていた。
「どういうつもりだこのやろう!」
対して、その場に不釣り合いな三人組の前で踏ん反り返って怒鳴り散らしている人物もいた。
絵本の中から抜け出してきたかのような、誰の目から見ても妖精な生き物である。
大森林に生息する高速陸ガメと呼ばれる生き物の上に仁王立って、憤懣やるかたなしとばかりに興奮気味にわめき散らしていた。
「アタシに恩でも売ったつもりか!?」
妖精が激怒している理由はひとつ。
フラフラと散歩をしていたその妖精が、数人の人間に捕まりそうになっていたところを彼らが助けてくれたからである。彼らというか、黒甲冑の男にだが。
「やい聞いてるのか人間! この――」
最後まで言い切る前に男に捕獲された。小さな体をがっしりと握られていた。
「黙れ蚊トンボ」
怜悧な面立ちを裏切るように、男の声音はひどく低かった。無条件に他人を威圧し従わせることができそうなくらいに。
これがその妖精でなければそれだけでビビって関わらないようにしただろう。だが、興奮した妖精には畏怖よりも優先すべき感情があった。
「ウルトラ超絶プリチーなフラクラさまに向かって蚊トンボとはなんだ! やい訂正しろ人間!」
人間からすれば手乗りサイズの妖精はさぞや小さく感じることだろう。だがしかし、だからと言って蚊トンボと同列に見られることは妖精フラクラのプライドが許さなかった。
百歩譲ってもハチドリである。
男は実に鬱陶しそうに目を細めた。ただそれだけの行為なのに妙に威圧感がある。
もっとも、空気を読まないことに定評があるフラクラにはまったく意味のない行為ではあった。逆に反抗的にムッとするくらいの気概がフラクラにはあった。
「黙れ」
少しも怯まないフラクラを見て面倒臭さが優ったのか、男はそう吐き出して無造作にフラクラを放り捨てた。
「みぎゃ」
軽く放られただけだったが、空中で体勢を整えることができずに待機中の高速陸ガメに激突して潰れた悲鳴を上げた。受け身すら取れなかったので顔面ダイブである。
だがフラクラはそこで痛みに悶えるような性格ではない。
即座に起き上がれば、高速陸ガメの上に仁王立って男に指先を突きつける。
「なにしやがんだ!」
「妖精のくせに飛ばないのか?」
フラクラの抗議の声を無視して男が問う。
途端にフラクラは押し黙った。まるで痛いところを突かれたかのように。
事実、痛いところを突かれていた。
「うっさいわ! 妖精がどいつもこいつも飛べると思ったら大間違いだ! 羽はただの飾りだ文句あっか!?」
そう、フラクラの背には二対の透明な羽が生えているにも関わらず、自力で飛び回ることができなかった。
だからこその高速陸ガメなのだ。ここまで来たのも自力ではなくその高速陸ガメを乗り回してである。名前はチュウタ。フラクラが勝手にそう呼んでいる。
ちなみにフラクラは魔法も使えない。というか一般的な妖精はいずれも魔法は使えない。使えるのは極々少数の才能があり、かつ、努力を怠らなかった一部の妖精だけである。この辺りを勘違いしている人間は多い。
「蚊トンボですらなかったか」
それは最大限の暴言であった。
プチンとフラクラの中のさして頑丈でもない堪忍袋の緒が切れる音がした。
「行けチュウタ! あの生焼けな人間をぺちゃんこにしてやれ!」
「レアに焼かれた覚えはない」
言い間違いを訂正されてフラクラの怒りは頂点に達した。
生意気と生焼け、たったひと文字違うだけのくせに揚げ足をとって嘲笑う男――実際は少しも笑ってはいなかったがフラクラにはそんな些細なことは問題にならない――を睨み返して、フラクラはたったひとつだけの特技を惜しみなく披露することを決めた。
即ち、チュウタによる突撃である。
フラクラは魔法も使えないし自由に飛び回ることもできなかったが、ただひとつだけ他人に自慢できる特技があった。それが動物と連携をとれることだ。
名前を付けた動物から明確な拒絶がない限りはお願いを聞いてくれる、というなんだか微妙な特技ではあったが、特技は特技だ。フラクラ自慢の特技なのだ。これをバカにされたら恐らく発狂するレベルで。
「行けチュウタ!」
「ぼ」
フラクラの声に応えてチュウタが勇ましい――フラクラ基準――声を上げる。
高速陸ガメという種の陸ガメであるチュウタは、高速とか言うわりに少しも高速なところがない。ただパワーだけは大森林一。
そのチュウタのぶちかましをまともに喰らって無事ではいられまい。
――まともに喰らってくれたら。
のそりと立ち上がったチュウタの頭を、それまで会話に参加していなかった黒甲冑の男が足で踏み付ける。チュウタの動きはそれで止まった。
「ああ! なんてことしやがる!」
悲鳴に近い非難の声を上げる。
が、時既に遅し。
チュウタは意気消沈したかのように手足を引っ込め甲羅に閉じ籠ってしまった。
「落ち込んじまったじゃねぇか! チュウタはデリカットなのに!」
「ケントか」
「デリカシー!」
「貴様に足りないものか?」
「デリート!」
「勝手にされていろ」
ぐぬぬと唸るフラクラに男は視線のひとつも向けなかった。
地団駄を踏んだところで状況は少しも変わらない。足の下のチュウタが嫌がるように揺れただけだった。おかげで落ちた。
「うがー!」
「うるさい小蝿」
容赦のない言葉の暴力からフラクラを守ってくれる仲間はこの場にはいない。チュウタは拗ねてしまったし、黒甲冑はまた直立不動に戻ってしまったし、少女はこれだけ騒いでいるのにぐっすり眠ったままだ。
何かを言い返そうとするも、フラクラの語彙力は残念ながら普通以下。目の前の男には勝てないことは明白。その程度の判断力はフラクラにもあった。
だからこその最終手段。
「人間なんか大っキライだ! のたれ死ね!」
大声で喚いた後にその場から泣き去った。
それがフラクラと人間の男たちとのファーストコンタクトだった。
翌朝。
昨日役に立たなかった高速陸ガメのチュウタではなく、噴射式暴発リスと並んで木の実をもごもご食べながら、フラクラは昨日の出来事を噴射式暴発リスのチュウタに愚痴っていた。
ちなみにこの噴射式暴発リスも名前はチュウタである。もちろんフラクラが勝手に付けた名前だ。
基本的にフラクラは誰にでもチュウタという名前を付ける。だから大森林には種族違いのチュウタがたくさんいた。
フラクラ以外は呼ばないし、動物とは必ず一匹としか一緒にいないための惨事である。
「ほんっと人間はろくでもねぇのしかいないよな。チュウタも気をつけろよ」
聞いているのかいないのか、チュウタは小さく鳴いただけだった。フラクラはそれだけで満足したようでそれによって怒り出すことはなかった。
良くも悪くも細かいことを気にしないのがフラクラの性格だ。
ただし、昨日のことはかなり根に持っている模様。人間に追いかけ回されて捕まえられそうになっても、人間の仕掛けた罠に引っかかってしまっても、基本的に次の日には忘れてけろっとしているフラクラにしてはそれは珍しいことだった。
「お?」
愚痴を吐き出すだけだった口を止めてフラクラが身を乗り出す。枝から落っこちないようにさりげなくチュウタが足を掴んでいる様子から、よくあることらしいことが窺える。
乗り出していた身を戻し、フラクラは興奮したように鼻息を吹き出してチュウタを振り返った。
「チュウタ! あいつらだ!」
そう言って指差す方向に、獣とは異なる生き物が歩いている姿があった。
昨日出会った人間たちだ。
見えているのかはわからないが、チュウタも鼻をひくつかせてフラクラの興奮に応える。
「よしチュウタ、先回りして罠をしかけてやろう!」
言うや否や善は急げとばかりにチュウタの背に飛び乗る。心得ているとばかりに、チュウタは嫌な顔ひとつも見せずに一声鳴いてから身軽に駆け出した。
向かう先は大森林の中にみっつ存在する湖のうちのひとつ。中でも一番古い湖だった。
人間たちが向かっている方角はそちら。湖以外に目ぼしい場所はないので、そこに向かうのだろうと当たりをつけたのだ。その程度を推測するくらいはフラクラにもできるのである、決してただの頭の弱い妖精ではない。
ショートカットにショートカットを重ねて湖のほとり。
足代わりになってくれたチュウタを労った後に、早速フラクラは罠作りを開始した。
とは言え、フラクラのサイズは手乗り文鳥よりもさらに一回り小さい。人間に対して有効な罠を作ろうとしても、大掛かりなものを短時間で作ることはできなかった。チュウタも協力しないし。
だからフラクラが選んだ罠は最も手軽に作れるものに限られた。
即ち、草を結んで足を引っ掛けるためだけのあれである。
「ひっひっひっ、マヌケにこけやがれ」
手軽に作れると言ってもそれはあくまでも人間基準の話。四苦八苦しながらフラクラが罠をひとつ作り上げる頃には既に人間たちはフラクラが罠を仕掛けている場所まで到達していた。
必然、罠を仕掛けているフラクラは発見される。
せっせと罠をこさえているフラクラを見下ろす人間の男の目は冷ややかだった。昨日と同じくして腕の中に少女を抱いたまま、背後に気づかないフラクラに無情にも足を踏み下ろす。
「みぎゃ!」
当然直前で気づいて避けるなどという芸当ができるはずもないフラクラは見事に踏み潰された。
あまつさえ、男は踏みつけたフラクラをぐりぐりと踏みにじって追い打ちをかけることを忘れなかった。ここで男が笑顔を浮かべていたりすればまだ良かったのかもしれないが、ただただ冷ややかな視線を向けたままその行為を継続している様は見る者には恐怖を抱かせただろう。
もちろんフラクラはその恐怖を抱く一部の側ではない。
「ぬぁにしやがるっ!」
「最近の蚊トンボは人語を喋るのか」
「超絶プリチーなフラクラさまだ!」
ジタバタもがいて足をどかすように無言の要求をするフラクラだったが、男は足をどける様子をまるで見せない。むしろさらにぐりぐりと強く踏みにじりさえした。
「ぬぐぉおぉおおぉぉぉお!」
世間一般の妖精のイメージを平気で打ち砕くような野太い奇声を上げてフラクラがもがく。
血管が浮き出るほどに力んだところで、男は足を上げた。そうするとどうなるかは誰もが予想がつけられるだろう。フラクラ以外は。
打ち出された鉛玉のように勢いよく飛び出したフラクラは、いつの間にか設置されていた石に頭をしたたかに打ち付けて動きを止めた。ピクピクしているので、正確には動きが止まったわけではなかったが。
男はそれをいちべつだけして、さっさと湖に向けて歩き出した。
殺人現場よろしくな状態になっているフラクラにチュウタが近づく。前足で頭を――よりにもよって負傷した頭を――叩くと、そこが起動スイッチだったかのようにフラクラが起き上がった。
「どぅあーーーーー!!」
怒声を上げるフラクラを男は振り返らなかった。
妖精は死の概念を持たない存在だ。その本質は精霊に近い。それを男は知っていた。
「人間くぉのやろう!」
「黙れ蚊トンボ」
「超絶プリチーなフラクラさまだ!」
定番化してきたやり取りをしつつ駆け寄るフラクラを黒甲冑が阻む。湖に到達した男は片手を水に浸けて完全にフラクラに背を向けていた。
眼中にないことに憤るフラクラの体を黒甲冑が掴み上げる。突然の捕縛に声を上げる暇もなく。
「捨てろ」
男の命令に従って黒甲冑は直ちに行動した。
思い切り振りかぶってフラクラを投げ出したのだ。湖に向かって。
尾を引く悲鳴が自然の静寂に浴する湖畔に響き渡る。
着水して湖の底に沈むフラクラが命からがら――死の概念がないので死ぬことはないが息ができないのは普通に苦しいのだ――這い上がってきたときには、男たちの姿はどこにもなくなっていた。
その日からフラクラはストーカーと化した。
チュウタネットワークを駆使して男たちの位置を探し出し、日替わりでチュウタを乗り換え男たちに襲いかかる。
踏まれ、投げられ、蹴られ、埋められ、潰され、伸ばされ、拗られ――全戦全敗という華々しい結果を残すことになってもフラクラは何度も突撃した。
三日目あたりから男の視界に入った途端に黒甲冑に小石で狙撃されるようになった。四日目からは近づいただけでいつの間にか背後に回っていた黒甲冑に捕縛されて木に吊るされるようになった。五日目からは大きめの葉にくるまれて燻されるようになった。六日目になるととうとう探し出すことができなくなった。
まったくもって度し難い人間である。
「せっかく会いに来てやってんのに、感謝の気持ちが足りないんじゃねぇか!?」
「視界に入るな、羽アリ」
「超絶プリチーなフラクラさまだ!」
七日目、探している途中で背後をとられた。
というよりも、たまたま男の目的地がフラクラがやって来た場所と一致しただけだ。男がフラクラを探すはずもなかった。
今日も変わらぬ爬虫類を連想させる怜悧な眼差しでフラクラを冷ややかに見下ろし、腕の中に眠る少女を抱いている。そばには当然ながら黒甲冑が控えていた。
「やい人間! ここは古代遺跡だぞ! なにしにきやがった!」
七日間の間に学んだ先手必勝を思い出し実践する。
ただ罵詈雑言を口にするだけだと相手にしてもらえないので、とっさに現在いる場所を話題にしてみた。深い意味はない。おまけにこの遺跡がなんなのかも知らない。
だが、男にとってはそうではない。フラクラの発言は男の意識を引き寄せるには十分な効果を発揮していた。
「塵芥に等しい貴様の脳みそでは話したところで一筋たりとも理解できまい」
もっとも、だからと言って男がその話に乗ってくるかと言えばそうなるはずもない。フラクラが阿呆の子だと十二分に理解しているからこその暴言を吐いて、立ち塞がっているつもりのフラクラを踏みつけ遺跡の奥へと足を進めた。
黒甲冑もそれに続く。フラクラを踏むことも忘れない。男の命令なのだ。
「まーちーやーがーれー!」
踏まれても挫けないフラクラは瓦礫の下に隠れていた逆走ネズミのチュウタに乗って男を追いかける。特に男も阻止はしなかった。珍しく。
遺跡は随分と古いものだった。大森林にはこの他にも遺跡があるのだが、その中でも一際その遺跡は古い。
もちろんそんなことをフラクラが知るわけもなかった。興味がないことにはとことん無関心、というか無知。興味があることも深く知ろうとしないというなんともアレな性格のフラクラである。
それでもその遺跡がただの遺跡ではないと感じるものがあった。どこか薄ら寒い。
「うげぇ、なんか淀んでねぇかここ」
「旧世界の亡霊が棲み着いているからだ」
「ぬえ!?」
誰にともなく呟いた独り言に男が応える。それ自体が大事件だったが、男の発言内容もまたフラクラにとっては大事件だった。
チュウタに指示して黒甲冑の体を駆け登る。不思議と黒甲冑は抵抗しなかった。
目線が近くなったことで――と言ってもそもそも大きさが違うので目線が合うことはないが――まじまじと男の顔を観察する。無駄に端正に整った顔立ちは見る者が見たら見惚れることだろう。爬虫類を思わせる眼差しでなければという注釈はつくものの。
そして当然ながらフラクラは見惚れるような側ではない。せいぜいがバランスが取れてるなと感心するくらいである。そもそも人間は妖精とは異なる種族、見分けるのもフラクラには困難だった。男のことも爬虫類みたいな目をしていなければ、二度目以降に見つけることなどできなかっただろう。
だからフラクラが近場から男の顔を観察したのも、その顔に見惚れるためではなく先ほどの発言の本気度を推し量るためだった。
「おい人間。教えておいてやるけどな、亡霊なんてこの世には存在しないぞ。妖精が言うんだ、絶対だ」
冷ややかな男の視線がフラクラを見返す。冴え冴えとした双眸の煌めきが一瞬だけ獲物を狙うそれに塗り変わった。
反射的にチュウタが身を引く。反動でフラクラは落ちた。黒甲冑の肩の上から。
「ふぎゃ」
脳天から落下して身悶える。
慌ててチュウタが黒甲冑から降りてきたものの、それ以外の人間連中は一ミリも助けに動かなかった。
「心配ぐらいしろよ!」
怒鳴りながら不満を訴えると、応えるように黒甲冑がフラクラの体を掴み上げた。
もはや慣れたもの。黒甲冑がフラクラを掴み上げるときは大抵が投げ捨てられるときである。
衝撃に備えて身構える。
が、いくら待っても投げ捨てられることはなかった。
「ならこちらもひとつ教えてやる」
「なんだ?」
「貴様の言う通り、霊魂は残らない。だか、悪意は残る」
口を尖らせる。確かにそれは否定できなかった。
逆に付け加えるならば、人間の残した悪意ならばなおさらいつまでも残り続けるだろうということくらいだ。
「旧世界がなぜ滅んだか知っているか?」
珍しいことは続く。なんと男から話を振ってきたではないか。これは事件だった。大事件だ。
今までの苦労が遂に実を結んだのか、それとも古代遺跡という場所がそうさせたのか、なにはともあれ普通に会話ができることはすごいことだった。
ならばフラクラがすべきことはひとつ。会話が切られないような受け答えをすることだ。
「厄災があったからだろ? 人間どもはその歴史を抹消したつもりだろうが」
「蛇が出たからだ」
「あ?」
思考が停止する。口を挟んできた男の言っていることがまったく、理解の範疇を超えていた。
怪訝な顔をするフラクラを見下ろして、男は一度だけ面白がるように喉の奥でくつくつと笑った。いつも笑いもせずにフラクラを虐げてきた男の、それは初めて聞いた笑い声と言ってもいい。
「捨ててこい」
「御意に」
呆気に取られているうちに男の命令に従って黒甲冑が踵を返す。
黒甲冑が言葉を発することも初めてだったので、フラクラは二重に驚いた。予想以上に陰気で重低音な声だった。
抵抗したところで逃げられるはずもないので、仕方なく黒甲冑に運ばれながら男を振り返る。既にこちらへの興味をなくして遺跡の奥へと向かっていく男の背中が、最後にフラクラが見た男の姿だった。
「だーかーらー! 邪魔すんな!!」
大森林の中にあるフラクラの巣――妖精は基本的に群れないため集落というものがない――に怒声が響き渡る。
巣の中で我が物顔で寛いでいたスズメのチュウタが迷惑そうにちらりと視線を寄越したが、すぐに諦めたように視線を逸らした。
「邪魔じゃないわよ! あなたが無茶なこと言ってるから止めてあげてるんじゃない!」
「うっさいわ! あたしの勝手だろ!」
言い争いをしているのは、フラクラとはまた違った外見をした妖精だった。全体的にもこもこしていて暑苦しそうだ。羽はあるが、そこももこもこ着込んでいるため彼女もまた飛べない妖精のひとりなのだろう。
妖精はフラクラよりも愛嬌のある顔を歪ませて、必死にフラクラを止めようとしていた。
「ダメよフーちゃん。人間の里なんて危険よ。フーちゃん、ここ最近だけでも53回も人間に捕まりかけてるのよ?」
「53回も逃げ切ったあたしスゴイじゃん」
「みんなが助けてくれたからじゃない」
ピシャリと言われてもフラクラの辞書には反省という二字は登録されていないし、これからも永久に登録されることはない。
すべての荷物を詰め込んだ――とは言っても換えの服が二枚だ――ショルダーバッグを肩に提げ、フラクラは妖精の静止も聞かずに寛ぎまくっているチュウタに乗り込んだ。チュウタが若干迷惑そうな顔をしたが、スズメのチュウタはいつもそうである。そしてフラクラはそれを気にしない性格である。
「じゃ。もう戻ってくることないと思うけど」
「待ってったら、フーちゃんってば」
巣の前に立って両手を広げる妖精をチュウタがくちばしでつつくも、妖精も必死なのだろうその程度で怯むことはなかった。
「だいたいフーちゃん人間嫌いだったでしょ? いつから好きになったの?」
「なに言ってんだ。もちろん今でも人間なんか大っキライだ」
「じゃあなんで?」
その質問を待ってましたとばかりにフラクラは大きく胸を張った。
「生焼けな人間に復讐するためだ!」
どーん、と効果音を背負って――比喩表現ではなく本当に背負って――フラクラは堂々と言い放った。効果音がうるさかったのか、チュウタがパタパタと翼を羽ばたかせる。おかげで妖精がよろめいて巣の出口から身を引いた。
今だとばかりに飛び立ったチュウタはぐんぐんと高度を上げてものの数秒でフラクラの巣を小さな点にしてしまう。
意気揚々とフラクラは息を吸った。
「行くぞチュウタ! 突撃ーー!!」
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同時刻、大森林と外界の境目にて。
進めていた歩を止め今しがた抜けてきたばかりの大森林を男は振り返る。
「どうしたの?」
その彼に、随行していたひとりの少女が鈴を転がすような声で尋ねた。小首を傾げたせいで豊かに伸びた長い髪がしゃらりと音を鳴らした。
「…………これから少々騒々しくなりそうだ」
「そうなの?」
ああ、短く答えて男は踵を返す。
少女は不思議そうに一度だけ大森林を振り返り、それから男を小走りで追いかけていった。