執務室
嘘のようだが、あたりまえのように平穏な日々が続いた。姫も、ジスも、国王や大臣たちも何事も無いように振舞っている。あたしはまだ何もしちゃいない。
それは、以前あたしが王宮にいたころと余り変わらない、のんびりとした雰囲気。だがしかし―――
まさか、姫が仕事をしている姿を見ることになるとは思わなかった。
明るい執務室。王宮らしく、調度品は豪奢で厚いじゅうたんを敷き詰めたるため足音が立たない。静かな部屋。その中央にある大きな木の机。
今姫は机に向かい、国の各所から届けられる書簡に目を通している。書簡は束ねられ机の隅に置かれている。
あたしが知っている姫は、周囲に甘やかされ、我儘いっぱいで、勉強が嫌いで、しょっちゅう王宮を抜け出して遊びまわっていたお転婆だった。王宮を走り回っていた姫と、今真剣な顔で机に向かっている姫と、同一人物であるとはとても思えない。あのまま姫が育っていれば、とんでもない放蕩娘になっていただろうが、周囲はうまく姫を教育したのだろう。どうしたら、あの姫がこうなるのか…教育書でも出版すればベストセラーになるに違いない…と感心してしまう。
時折女官を呼び、資料や書籍を持ってくるよう、また不要になった資料を片付けるように言いつける。女官がそのたびに部屋を出入りするが、厚いじゅうたんのお陰で足音が立たない。部屋の音といえば、姫が便箋に走りらせるペンの音くらいだ。
カタリ、と姫がペンを置いた。丁寧に便箋を封筒の中に収め、封ろうを垂らす。封ろうにスタンプを押し、そばに控えていた女官に封筒を渡した。
「姫さま、一休みなされませ」
絶妙のタイミングで侍女のマリサがお茶を運んできた。マリサはいつもお茶のタイミングを外さない。
「そうね。ちょうどお茶が欲しかったわ」
その声が合図となり、控えていた女官が一礼して執務室を出て行く。彼女たちは休憩が終わるまで入ってこない。部屋にはあたしと姫とマリサの3人と、お茶のいい香りが残された。
「いい香りね、今日のお茶は何かしら?」
「ノーミから献上された今年の茶でございますよ」
姫の目がやや見開かれ、一瞬の後うれしそうに細められた。
「そう。ノーミの」
ノーミからの、今年のアガリはほとんど無いとジスは言っていた。だとすると、このお茶は数少ない例外なのだろう。
マリサがテーブルに3人分のお茶とお菓子を並べ、真っ先に茶器に手を伸ばす。しかし、それを姫が制した。
「マリサ、今日は毒見はいらないわ」
「しかし姫さま」
「いいのよ。このお茶はまず私が味わいたいのよ」
マリサと姫は数秒間無言で見つめあい、マリサが折れた。
「失礼いたしました」
姫が微笑んで茶器に手を伸ばした。ゆったりとした動作で顔を近づけ、湯気に鼻を入れ、香りを堪能し、口をつけた。
「いい香りね…でも、味は…そうねぇ…」
形の良い眉がやや寄せられる。
「でも、これが今のノーミの精一杯なのよね。みなさんも、どうぞ」
姫に勧められ、あたしも茶器を手に取った。きれいな紅茶色からは、香ばしい香りが立ち上る。しかし、お茶を口に入れてあたしは姫の言わんとすることが良くわかった。どこと無く口当たりが渋く、甘味があまり感じられない。焙じてもいないのに、焙煎したような風味すらある。
「独特の味わいですね」
マリサが評する。そうね、と姫が頷いた。
「お茶はね、土が肥えていないとおいしくないのだそうよ。もちろん、醸す職人の腕もあるんでしょうけど。領主(私)の腕の見せ所なのでしょうね」
姫が焼菓子に手を伸ばす。
「失礼いたします」
突然部屋の外から声がした。そのまま返答も待たず、女官が部屋に入ってくる。
「入室の許可は出していませんよ、姫さまはただいまお休み中です」
マリサが立ち上がり、女官に厳しく言い放つ。女官は申し訳なさそうにあごを引いた。姫は表情を変えずに女官に一瞥をくれると、お茶を口に含んだ。
「お休み中、ご無礼申し上げます」
「どうしたと言うのです」
尊大な態度でマリサが女官を問いただす。
「ただ今フランシスの使者が、王都に到着したとの先触れが参りました。慶事にて、吉日を待ち王宮入りするとの事。
国王陛下は使者を迎える宴の準備をするよう命じられました」
「なんと…」
マリサが言葉を無くす。マリサも、女官もそれっきり何も言わない。
姫はお茶を持ったまま、表情も変えずに器を見つめている。
「おさがり」
はい、と短く返事をして女官はさっさと退出した。
「さて。そういうわけだからセイラス。採寸しなくてはね」
姫が満面の笑みでこちらを見る。その顔には見覚えがある。何か面白いいたずらを思いついたときに見せていた。
非常にいやな予感がした。