第一話というか、第三戦の整列、礼
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僕は自分の感情が他人よりも足りない事を、少年期に気付いた。
いや。
思い知った。
幼稚園児の頃。
僕は砂場を使いたくて、そこを独占していた幼児を殴った。すると先生が困惑の表情をつくり、父は僕をがなりたてた。そして、殴られた子は泣いていた。僕には、先生の困惑の理由も父の怒りの理由も相手の涙の理由も理解できなかった。それでも父の反応が一番僕を揺さぶった。嫌だった。これが『嫌』という感情なのかと納得もした。
だからだろうか。
父親を殺すのが最善の選択だと思ってしまったのは。
それがいけない事だとは分かっていた。それでも世の中の決まりなどより、自身の悦楽の方が僕にとっては優先だった。あの時僕が自首しなかったのは、単に『自首』という単語を知らなかったからだろう。そんなに楽な選択肢があるのだと知っていれば、幼いながらに証拠隠滅などしなかっただろうに。もっとも、当時は『証拠隠滅』という単語も知らなかったのだから、ただ「これが見つかるとぼくは逮捕されてしまう」程度の考えしかなかったのだが。
小学生の頃。
自分の不自然に気付いた。徹底的に人付き合いを避け、クラスメイトや先生の動き、仕草、表情を見取り続けた。文字通り『見て、取った』。自分の足りない部分を他人のモノで補った。どのような場合にどう動けばいいか、天文学的確率の心境を全て暗記した。
それができるのが当たり前だと感じていた当時、他の皆も同じように感情を作り出しているのだと思っていた。
結果を言えば。僕は自分のサヴァン的な症状を感知するよりも先に、自分の欠如部分を補ってしまったのだ。
それが間違いだった。それが僕の失敗だった。
それのせいで。
中学校で僕が月見里獏也と出会ったあの時も、僕が母親に精神的に殺されたあの時も、上手くいかなかったのだ。上手に対処できなかったのだ。
サヴァンシンドローム。
幼稚園、小学校の頃の記憶を維持できているのだって、そのせいなのだ。
便利だと思っていた。
これで一人前の人間になれる、そう思った。
周りの人間と同じように性格が手に入る、そうとも思った。
でも。
性格はできていても、人格はできていなかった。
人としてのキャラはできていたのに、人柄は完成していなかった。
いや、もともとそんなもの無かった。
『なんだよ。柄にもない』
あんな簡単な、句読点を入れてもたった十文字の言葉に胸がよじれる思いをしたのも、自らの責任だったのだろう。
でも。
それでも。
奇しくも識乃ちゃんに貰った言葉と字数が重なってしまうのが、とても辛かった。
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――そろそろ、年越しだな。
十二月二十九日の今日、そんなことを思った。
月見里獏也が、笹本カウンセリング事務所を訪れたのには少し驚いた。しかし、識乃ちゃんが彼の顔にピンと来なかった事にはもっと驚いた。
「ちわっーす」
獏也はそんな軽々しさで、いきなり事務所に入ってきた。
僕は普通に勤務していて、識乃ちゃんのせいで半減した仕事場で読書をしていた。本から静かに顔を上げ、獏也の顔を視認した。
「なんだ、獏也か」
そして、再び読書に戻った。
奥から、奥という程広くも無いが、まぁ、奥から識乃ちゃんがやって来て、「お知り合いですか?」と言った。僕は読んでいた文庫本を床へと落とした。
「し、識乃ちゃん? 本気で言ってるの?」
何がですか? と、識乃ちゃんは本当によく分からないといった風に首を傾げた。その間にも獏也は堂々と事務所内に進入してきて、勝手にソファに深々と腰を下ろした。足を組むまではいかなかったものの、なかなかに大きな態度である。なんだろう、獏也は珍しく物を携えているようだ。
鞄。
黒い皮製の鞄。何が入っているのかさっぱり分からないが、中身があまり詰まっていない事だけは見て取れる。というか、右手に鞄を握り締めていた。
「ようよう、お久じゃねえか。いつぶりだ? 一ヶ月? 二ヶ月?」
「うん、そうだね」
答になっていない僕の答えに何故か獏也は満足して、不意に右手の力を抜き、鞄を長い拘束から解いた。そして中からグシャグシャになった灰色の新聞紙を取り出した。それをおもむろに識乃ちゃんに渡し、こういう者です、と社会人らしく名乗った。
『月見里獏也死刑囚、前日午後五時前後に死刑が執行』
丁寧に、写真付きの記事であった。
――成程。日付が寿司屋に行ったあの日だ。
それを見て、識乃ちゃんが僕の見たかった反応をしてくれた。
「ん? へ? …………へえぇええぇぇぇえ!?」
殺人者! お化け! 幽霊! と、色々と喚いた後に識乃ちゃんは僕の後ろに退散してきた。
「失礼だな、識乃ちゃん。こいつは僕の旧友の親友だよ」
僕の肩から顔だけ出して獏也を窺う識乃ちゃんに彼を紹介してあげる親切な僕を、獏也は変な目で見ていた。
「三度目の感動的な再会を期待してたのに、何? お前、彼女なんかできてんの?」
「うーん、まぁ」
僕の受け答えに識乃ちゃんは不服だった様だ。滅茶苦茶甲高い声を上げた。
「『うーん、まぁ』? なんですかそれ! トモさんの旧友だか幽霊だか知りませんがね! トモさんは私と愛し合っているんです! この人はあげませんよ!」
獏也を指差し、叫ぶ識乃ちゃん。
――しかし、本気で言っているところが可愛いよな。
とか、そんな事を思った。
「……いくら友でも、男の愛なんざ要らねぇよ。君のなら全然貰ってあげてもいいけどな」
不敵で下品な笑い方をする獏也に、識乃ちゃんはまた体を僕に摺り寄せるのであった。
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ここまで獏也が誰にも気付かれず来れたのには二つ程理由があったようだ。
無論、『誰にも』という言葉は比喩であって、気付いた人間が皆無と言うわけにはいかなかっただろうが。
まず一つ。
これは、識乃ちゃんが気付かなかった理由でもある。
人間の五感の内、一番ヒトが頼るものは間違いなく視覚であろう。だがしかし、人間の感覚器官で一番敏感な部分は『耳』なのだ。つまり聴覚がまず初めに印象を創るのだ。なんにしたって、視覚では零.一のタイムロスが生じる。それが頼れる訳が無い。アニメなんかのキャラの口の動きが適当でも、そのキャラクターが実際に喋っているように見えるのも、そのおかげなのである。
つまるところ。
とどのつまり。
誰も、月見里獏也の顔を覚えていなかった。
どこの誰も、彼を死刑囚だと認識していなかった。
たった、それだけの事だった。
二つ目の理由は、まぁ、この本人の説明を聞こうではないか。
今は昔。ある人、月見里獏也なる人に死なざりける理由を問いければ。
本人曰く。
「いやな、これ本当、マジな話なんだけど。日本ではな? 死刑を執行すればそこで刑終了なんだよ」
「そりゃそうだろ。死刑でその人、死んじゃうんだから」
と申しければ、答えて曰く。
「ところがどっこい! 俺、死ななかったんだよね。呼吸不可能状態で気絶した俺を死んだと思い込んじゃって警察の方々、下ろしちゃったんだよね。んで、死体の様に扱われていた俺は、担架の上で息を吹き返したって訳よ。ぎゃはははは、マジウける」
とのたまいける。
以上、家電量販店での会話。
まぁ。
つまり。
死刑は執り行われたが、未練がましい獏也は死ななかったという事だ。
「まぁ、たかが死刑で死ぬような奴だとは思ってなかったけどね」
「おっ。信用されてんじゃん、俺」
家電量販店でも言った感想に、家電量販店でも言った答えを返してくる獏也の下卑助のようなにやけ顔は、昔のままだった。
あらゆる物語には『殺しても死なない』ようなキャラが多々登場するが、彼のようなケースは珍しいのではないかと思う。もっとも、こいつの場合、『死んでも、死にきれない』と表現する方が正しいように思えるが。
「時に友よ。しっかしお前が『恋人』だとか『愛』だとか、そういうモノを口にするとはな」
「うーん、まぁ」
どこかで聞いたような返事で言葉を濁す僕を識乃ちゃんは睨んだ。ちなみに、今現在、僕と識乃ちゃんも獏也の向かいに座っている。そして識乃ちゃんは、その眉間に皺を寄せた恐い顔を獏也に向けた。
「信じられませんね、そんな荒唐無稽な話。なら、何でテレビとかで報道されないんですか?」
識乃ちゃんはあくまで挑戦的な態度をとっていた。僕は識乃ちゃんの額に触り、皺を伸ばしてあげて、彼女の疑問を解消してあげた。
「そんなの報道されるわけないでしょ? 死刑囚が釈放されたなんて、社会が大混乱に陥るでしょ?」
そう。それが二つ目の理由。
国家側の隠蔽。
これこそ、たったそれだけの話だった。
「まぁ? これで俺も無罪放免ってわけだから。今後ともよろー」
――無罪放免ではないよ、それ。
口に出しても意味をなさなそうなツッコミを心の中で唱えつつ、口では話の方向を変える為の単語を言った。
「それはそうと、なんで何しに来たの?」
「んあ?」
「こないだ家電屋で『きっとこれが最後の邂逅になるわ。んじゃあな』って、邂逅の使い方間違いながら言ってたじゃない。とびっきりの決め顔で」
「うっせ。ほっとけ」
獏也は苦そうな顔をした。横を見ると識乃ちゃんは隣で静かにしていた。彼女は僕との距離感を上手く掴むことに成功したようで、僕が第三者と話しているときは静かにしてくれるようになっていた。
――僕の事をよく理解してるな。可愛い奴め。
自分でも少し馬鹿馬鹿しいと思ったが、周りからの見た目はそれ以上だったらしい。
「何をにやけてるんですか?」
「何、にやってんだよ」
「「気持ち悪い」」
さっきまであんなに険悪な雰囲気だった二人がハモった。僕に対する二人の感想が素敵なハーモニーを生んだのだ。これはもう、僕が二人を繋ぐ架け橋になったと言っても過言ではないだろう。
……いや、それは過言か。
「しっかしそうだな。……、『なんで』って言われたらこう答えるしかないわな。」
何故か一息ついて、獏也は言った。
「金が無い。家を閉め出された。住む場所も食う物も着る物も無い。どうか! 助けてくれ」
――…………。
何か大事な事を言うのかと思って、獏也の台詞の前後に一行空けてやった事を本気で後悔した。更に言えば、まともな返事を瞬時に言えない僕を情けなく思った。
「トモさんトモさん」
と、識乃ちゃんが獏也には届かなさそうな小さな声で、僕に耳打ちをした。黙って耳を近づけてあげると、続きを口にした。
「あの人、ホントに警官殺しの、狂気の殺人犯ですか? 私には、ただの職の見つけられない残念な社会の敗北者にしか見えないのですが」
「僕にもそうにしか見えない」
冗談めかして答えてはみたものの、実際に七割ほど正解している気がする。
しかしその会話を獏也は全て聞こえていたようだ。
「『警官殺し』か。んなように呼ばれたこともあったなぁ。んまぁでも、それも昔の話だし、今は残念な社会のごみで間違いないな」
「開き直るな、というか、『ごみ』とまでは言ってない」
そう訂正してから、考察する。
――しかし、助けてくれとはとはどういう事なんだろう。普通に金をあげればいいのかな。いや、でも職が無いとなると急場しのぎにしかならないか。ん? こいつは何を求めているんだろう。
「結局、どうして欲しいの?」
「ここに住まわせてくれ」
「「は?」」
今度は僕と識乃ちゃんがハモった。そして、
――やっぱり、恋人同士のハーモニーはそん所そこらの輩には負ける気がしないな。
みたいな事を思った。
「いや、だめだ。働かざる者、食うべからず。礼儀のない者、居候になるべからず」
「そこのお嬢ちゃんだって、まともな収入があるわけじゃないんだろ?」
何を!? と識乃ちゃんが漫画のような反応をしたのが少し面白かった。
「私はちゃんとアルバイトをして稼いでいます! トモさんが居ますし。それに仕送りもありますから」
「識乃ちゃん、最後の要らなかったな」
僕は肩をすくめて、項垂れた。ちなみに彼女の最近は、本当に働いている。以前までは携帯代に消えていっていた実家からの仕送りも、今では全てを貯金にまわす程の余裕があるぐらいにまでなっていた。なんとも立派な事ではないか。そのきっかけが僕との出会いなのだとすれば、こんなに誇らしい事はないだろう。
「俺も頑張って働くからさ」
「履歴書にどう書くんだよ。備考欄に『以前、死刑を執行された経験有り』みたいなことが書いてる履歴書で一次試験に合格するような会社を、少なくとも僕は知らないのだけれども」
「う……」
そこで助け舟を出したのは、意外にも識乃ちゃんであった。
「私、今までいろんなバイトやってきましたけど。学歴とか要らないバイト、幾つか知ってますよ? 例えば……、中野土建有限会社とか、ほら、駅前にあるクレープ屋とか」
「識乃ちゃん、土建で働いた事あるの?」
「はい」
ん? と言った顔で頷くあたり、何がおかしいのか分からないのだろう。そうだ、そんなに経験豊富ならば。
「識乃ちゃん、メイドカフェとかで働いた事ある?」
できるだけ軽く、冗談である事を前面に押し出した語り口調で問うてみた。
「無いですけど」
「だよね。当たり前だよね、ははは」
――無かったのか……
何故か、かなり残念な気がした。
しかしそうか。軽いバイトならできなくも無いな。名前は何とか同姓同名でいけるとして、歩合制の土建とかなら相当な額を取れるんじゃないか。
「でも、なんでウチに住むんだよ」
「いいじゃないか、気にすんなって。迷惑かけねぇからさ、良いだろ?」
パシンと掌と掌を合わせて、「一生のお願いだから」と言う獏也の姿がとても懐かしかった。こいつなら信用できるな、と思えてしまった。そして、昔のように答えてやった。
「お前の人生、二百七十三回目だよ?」